(5)
ひやりと額に冷たい空気が触れ、結月は意識を取り戻した。
閉じた瞼の暗い世界。少年と女性の会話が、耳に届く。
「……母さんが霊体だって、最初にちゃんと教えないから。それで驚いたんだよ、きっと」
「漣くんだって、結月ちゃんのこと、怖い顔で睨んでいたじゃないの。きっと怖かったんだわ」
言い合う二人の声には聞き覚えがあった。天方家の、閑子と漣だ。つい先ほども、このように言い合っていたことを思い出す。
二人を宥めたのは、男性の低い声だった。
「二人とも、落ち着きなさい」
柔らかな声は静かに響き、聞き覚えは無いのに、不思議と気持ちが落ち着く。
いったい誰なのだろう。結月は重い瞼をゆっくりと開いた。
「あっ!結月ちゃん、気が付いたのね」
ぼんやりとした視界に映ったのは、覗き込んでくる閑子の白い顔だ。
数度瞬きをして視界がはっきりとしてくれば、彼女が心底申し訳なさげに眉尻を下げているのがわかった。
「驚かせてしまって、本当にごめんなさい。具合はどう?気分は?」
閑子は結月の傍らに膝をついて座っている。
結月は、応接間のソファーに寝かされていた。身体の上には毛布が掛けられている。
廊下で貧血を起こし倒れた結月を運び、介抱してくれていたのだろう。ひんやりとした空気――閑子の透けるように白い指が、結月の額にそっと触れていた。
「大丈夫です……すみません、こんな、ご迷惑をかけて……」
「迷惑だなんてとんでもない!結月ちゃんが謝ることじゃないわ」
閑子は首を横に振って、「漣くん、お白湯を」と後ろに声を掛ける。
閑子の後ろ、テーブルの近くには学生服姿の少年――漣がいた。手に持ったお盆には、小ぶりの湯飲みが乗っている。
学生帽を取った彼の、短い前髪の下の眉がわずかに顰められている。
「飲める?……というより、起きられる?」
素っ気なく尋ねられ、結月は慌てて起き上がろうとした。
だが、急に起きたことでふらついてしまい、その肩を漣がすかさず支えてくれる。盆をテーブルに置いた漣は、結月が座るのを手伝いながら、少し怒った口調で言う。
「無理に起きろなんて言ってない」
「……すみません」
結月が反射的に謝ると、漣は眉間の皺を深くしただけだった。
怒らせてしまった、と委縮する結月を庇い、閑子が漣を軽く睨んだ。
「もう、女の子には優しくしなさいって、いつも言っているでしょう?」
漣は軽く肩を竦めただけで、白湯の入った湯飲みを結月に渡すと、さっさと離れてしまう。閑子は不満げであったが、結月は「ありがとうございます」と漣に頭を下げた。
結月が湯飲みに口を付ければ、程よく冷めた白湯が喉を通り、冷えていた身体に温もりを与える。
ほっと息を零す結月であったが、そこで、自分に向けられる視線に気づく。
顔を上げれば、テーブルを挟んだ向かいのソファーに、和装の男性が座っていた。
茶色がかった緑色の長着に、深緑色の羽織を着ている。
歳は三十半ばくらいだろうか。少し長めの黒い前髪を横に流した彼は、美丈夫と例えるしかない、怜悧な美貌を持つ男性だ。切れ長の目、人形のように整った顔立ちは、漣とよく似ていた。
だが、成熟した大人の落ち着きを携え、静かな眼差しや軽く笑んだ薄い唇が、冷たさよりも穏やかさを、見るものに印象付ける。
結月と目が合えば、男性が微笑んだ。
「初めまして。私は天方涼という者だ。この家の戸主だよ」
「あっ……はじめまして!私、若佐結月と申しますっ」
結月は急いで頭を下げた。
彼が、天方涼。
閑子の夫で、漣の父で……この家の、主人。
結月の雇い主になるかもしれない人だ。
身を縮こませて畏まる結月に対し、涼は静かに声を掛ける。
「話は閑子と漣からあらかた聞いたよ。来てもらって早々、大変な目に遭わせてしまって、申し訳なかった」
「い、いえっ、そんな滅相もありません!」
首を横に振る結月に涼は苦笑し、やがてその笑みを消してじっと見つめてきた。
「……君は、“見える”人なんだね」
「っ……それは……」
「ああ、そんなに怖がらなくていい。私も、君と同じように見えているから」
「え……?」
目を瞠る結月に、涼は事もなげに「すでに知っていると思うけど、漣もね」と付け加える。
結月は困惑した。
自分と同じような力を持つ人に――しかも同時に二人も――会うなんて、思いもしなかったからだ。
今まで、七年間暮らした村だけでなく、その前に母と一緒に各地を旅回りしていた時にでさえ、同じように見える人には滅多に会わなかった。
見えていたとしても、こうやって堂々と宣言する人はいなかった。結月と同じように怯えて混乱し、母に相談をしに来る人がいたくらいだ。
普通の人には見えない、幽霊の閑子。
彼女を母さんと呼び、普通に話しかける漣。
見えないものを見ることを厭わず、当たり前のように語る涼。
……天方家の人々は、いったい何者なのだろうか。
疑問を抱き混乱する結月に、涼は少し身を乗り出して話しかけてくる。
「まさか、閑子が見える子が来るとは思っていなかったよ。……若佐結月くん。もし良ければ、家で働いてもらえないだろうか?」
「え?」
涼の申し出に、結月は一瞬固まった。
いや、確かに、元々自分はこの家で女中として働くために来たのだが、改めて聞かれると戸惑う。まさかこんな事態になるとは思っていなかったのだ。
返答に詰まる結月の目の前に閑子がずいっと顔を寄せてくる。
「わっ」
「お願い、結月ちゃん。今まで来た子、みんなすぐに辞めてしまって、本当に困っていたの。家の中は汚くなっていくし、洗濯物は溜まっていく一方で皺だらけのままだし」
「あ、あの……」
「せっかくの自慢の台所も使ってもらえないし。私、庭の世話くらいしかできなくて。涼さんと漣くんが、このままじゃ飢え死にしちゃうわ」
切実な目で訴えてくる閑子に、後ろにいた漣が溜息をつく。
「大げさなこと言わないでよ。米くらいは僕でも炊ける」
「いつも半分焦がすじゃないの。おかずも作れないし、毎日毎食、ご飯に味噌や漬物を乗せるだけなのはどうかと思うわ」
「たまにトーストも食べているよ。だいたい、母さんのせいだろ。今までの人たち、散々脅かして追い出したくせに」
「そんな、脅かしてなんかいないわ!手伝おうと思っただけよ」
「それが悪かったんだ。普通の人は驚くに決まってる」
「うっ……で、でも、私だけのせいじゃないもの。そもそも、この家自体いろいろ……」
「はい、そこまで」
漣と閑子の言い合いを遮り、涼が今までの経緯を簡単に説明してくれた。




