(4)
結月は、普通の人に見えないものが見える。
それは、三日前に亡くなったはずの者であったり、床に伏せて起きられないはずの者であったり。
すでに朽ち果てて消え失せた建物だったり、合戦があったとされる空き地に残る血だまりだったり。
時には、雀が喋るのを聞いたり、魚が宙をぷかぷかと浮くのを見たりすることだってある。
この妙な力は、母譲りのものだ。
各地を旅して回っていた結月の母は、梓巫女と呼ばれる者であった。イタコやイチコと呼ばれるときもある。神社には属さずに各地を渡り歩き、口寄せや託宣、呪術を行う巫女のことだ。
そんな母の力を結月は受け継いでおり、幼い頃からいろいろなものが見えたし、聞こえた。
見えるものは、怖いものが多かった。
それらは、虚ろなのにじっとりとした視線で結月を見てきた。何かを訴えるように、全てを怨むように。
声を掛けられたり、追い掛けられたりすることはしょっちゅうで、とても怖かった。幼い結月は泣き、逃げ惑った。
母がいた頃はそれらを追い払ってくれたり、結月に身を守るすべを教えてくれたりしたから良かった。しかし、母が死んでからは、結月を守ってくれる者も、理解してくれる者もいなくなった。
野宮家に引き取られてからは、母の言いつけを守って、できるだけそれらを見ぬよう聞かぬようにしたが、やはり怖い思いはたくさんした。いきなり悲鳴を上げ、顔を青ざめさせて逃げ出す結月を、周囲は怪訝な目で見てきたものだ。
野宮家に居づらかったのも、そのせいだ。
母が梓巫女であることは村の人間には知られていたので、結月の特異性も知られることになった。同じ年ごろの子供達からはからかわれたり、遠巻きにされたりした。
野宮家の旦那様や奥様は、そんな結月を家に置いてくれてはいたが、村の者にあまり良く思われていなかったのを知っている。使用人の噂話や、お使いに出たときに感じる視線は、好意的なものではなかった。
それでも、親を亡くし帰る場所もない結月を追い出すことまではしなかったから、あの村で生きていけたのだ。
だから、村から出ることがあれば、この力を隠そうと結月は決めた。力のことを知られたら、きっとそこに居られなくなるから。
――そう決めたのに、こんなに早く知られるなんて。
血の気の引いた頬や首筋に鳥肌が立つ。胸元で握った掌に冷や汗が滲んだ。
あまりの緊張で気持ちが悪くなり、結月は強い目眩に襲われる。
閑子が、普通の人の目には見えないもの……『幽霊』だなんて、結月は全く気付かなかった。
朗らかで明るく、暗い影なんて少しもない閑子。
こんなに陽気な幽霊は初めてだ。彼女が幽霊であることが、まだ信じられない。
だが、背中に当てられている手の感触が無いことや、異様に早い身のこなし。足音がしないこと。そして、透けて浮いた足先。
それらは、閑子が生きた人間でないことを示していた。
「……あら、結月ちゃん、どうしたの?大丈夫?顔色が悪いわ」
心配そうな閑子の声が聞こえるが、結月は答えることができない。
目の前の少年、この家の者に力のことを知られるのを恐れたからだ。だが、先ほどの会話で、すでに気づかれているかもしれない。
どうすれば、と俯く結月の傍らでは、閑子がぷんぷんと怒ったように言う。
「もうっ、漣くん!竹刀なんか持って、結月ちゃんに何をしたの?怖がっているじゃないの。女の子を怖がらせちゃ駄目でしょ!」
「……怖がらせているのは母さんの方じゃないの?」
腰に手を当てて怒る閑子に対し、少年の冷静な声が返される。
「だいたい、父さんや僕が居ないときに、なんで勝手に他人を家にあげるの。父さんからまた怒られるよ」
「だって、新しい子がやっと来てくれたのよ。追い返したりしたら失礼じゃない」
「どこかで待ってもらえばいいだろ。近くに喫茶店もあるんだし。……彼女、見えるだけじゃなくて、声も聞こえているんだろ?」
「ええ!ええ、そうなの、こんな子が家に来てくれるなんて、嬉しくって、つい……あ、そうそう、それにね、私のこと奥様って呼んでくれたのよ!」
うふふ、いいでしょ、と閑子が頬を染めて笑む。
少年は、「奥様って柄じゃないでしょ」と冷たく返す。
そこでようやく結月は気付いた。少年が、普通に閑子と会話していることに。
結月がはっとして見やれば、少年は閑子に向き合って、厳しい表情を浮かべていた。
「母さん。自分が霊体だってこと、ちゃんと自覚してよ。いくら見てくれたからって、相手がどんな人間かもわからないのに。気軽に声を掛けたらいけないよ」
「だって……感じの良さそうな子だったんだもの……」
しゅん、と閑子が肩を落とす。しかし少年は表情を緩めない。
声を掛けづらい状況ではあったが、結月は思い切って「あの」と声を掛ける。
すると、閑子と少年が同時に振り向く。二人に見つめられた結月はたじろぎながら、乾いた声で尋ねた。
「あの……奥様は、その……幽霊なのですか?」
「ええ、そうなの」
あっさりと答えた閑子が、照れたように笑う。照れるところじゃないでしょ、と少年は呆れ顔だ。
結月は、今度は少年を見やった。少年もまた、切れ長の目で結月を見てくる。観察するような、冷たい色を伴う目だった。
「……あなたは、奥様のことが見えているのですか?」
恐る恐るの結月の問いに、少年は『何をいまさら』というように眉を顰める。
「聞かなくても解るでしょ」
「そ、そうです、ね……」
答えながら、結月は目の前が徐々に暗くなるのを感じた。
張りつめていた糸が、ぷつりと切れたように。
極限に達した緊張が呆気なく解けたことで、結月の身体から力が抜けた。ぐらぐらと視界が揺れ、やばいと思う前に膝の力が抜ける。
「……えっ、ちょっと、貴女!?」
「結月ちゃん!?」
少年と閑子の焦った声を聞きながら、結月は廊下に崩れ落ちた。