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『どうか、天方先生にお渡し下さい――』


 青ざめ怯えた様子の女性。綺麗な寄木細工の箱。

 家の門を通った時、ぱきんと音が鳴る。箱が開いている。

 箱の中は空だった。右足にちくりと何かが刺さる。

 赤黒い小さな虫。地を這うそれは、蜈蚣むかでのようだ。

 見慣れた玄関ポーチが、揺れて、回転して――





「っ……」


 今しがた見えた映像。

 あれがきっと、閑子が呪詛に掛かった時のものだ。呪詛の正体は蜈蚣なのだろうか。

 呪詛の手がかりを掴んだのはいいが、これからどうすればいいのだろう。

 開いた襖の向こう、客間は赤黒いもやに覆われていた。靄の中に見えるのは、横たわる二人の人影――漣と結月だ。傍らには涼も座っている。

 あちら側が、きっと現実の世界……結月と漣の身体がある場所なのだ。

 結月の周りを覆う一段と濃い霞が、少しずつ漣に移っていた。この靄は呪詛なのか。

 漣に呪詛を移らせてはいけない。結月が客間に踏み込もうとした時、ふと、黒い靄の一部が晴れていることに気づいた。

 ぽかりと空いた中心にあるのは、結月の身体の枕元にある小さな弓だ。ぼやけた世界の中で、それだけが明確な輪郭を持っていた。


 ――母さんの、梓弓。


『結月、これは“おまじない”よ』


 幼い結月を膝に乗せながら、母が弓を弾く。


『弦を鳴らす音は、悪いものを追い払うの」


 懐かしい声が聞こえる。

 いつの間にか、白い着物の女性が結月の枕元に立っていた。ほっそりとした手で弓を拾い上げる。

 閑子ではない。女性は長い黒髪を降ろし、優しげな風貌をしていた。

 よく知った顔だ。自分と似た顔立ち――否、結月が彼女に似ているのだ。

 結月を見て微笑んだ後、女性はすっと表情を改める。あれは、神事の時の顔だ。

 

「この弦の音が、あなたを守るわ」


 細い指が弦を引く。きりきりと引き絞り、狙うのは靄の中心だ。


「ひゆみよいむね、こともちらちね、しきるゆいとは、そはたまくめか――」


 強く澄んだ声と共に、女性は――結月の母は、弦を離す。

 びぃん、と弦の高い音がした。さらに笛のような音が響いて、靄が吹き飛ぶ。直後、何かの悲鳴が聞こえて――。


 そこで結月の目の前は真っ暗になった。




***




 息を吸った途端、肺が痛んで噎せた。

 まるで深い水底から上がってきた時のように息苦しくて、身体が重い。強い眩暈に襲われて、視界が回った。自分が今どこにいるのかわからなくなる。何とか息を吸う結月の視界に影がかかった。


「結月ちゃん、大丈夫!?」

「……おく、さま……」


 閑子だ。幽体の閑子が、結月の顔を覗き込んでいる。同じく、傍らに座った涼も不安げにこちらを見下ろしていた。

 呼吸が少し落ち着いてようやく眩暈が治まった後、辺りを見回した。自分が客間の一角、白い布の上に寝かされていることを知る。隣には、同じように漣が寝かされていた。右手が、彼の左手と繋がれている。手首には何か文字を書かれた布が巻かれて固定されていた。

 そうだ、呪詛を移すと言っていた。早く離さなくてはと手を動かすと、結月の動きで気づいたのか、涼が布を解いた。


「……すまなかった、結月くん。私は君を利用して……」


 謝罪する涼に結月は小さく首を横に振った後、口を開く。


「……母の、弓が……」

「……ああ」


 涼が、膝に置いたものを差し出した。梓弓だ。弓に張っていた弦が真っ二つに切れて、ぼろぼろになっている。

 涼は静かに話し始めた。


 ――結月が目覚める少し前のことだ。

 枕元に置かれた弓が、急に震え始めた。

 弦はぶるぶると震える。そうして、ひときわ激しく高い音が鳴った。さらには、ひょうっと笛のような音が聞こえた直後、弦がひとりでに切れたのだという。


「……」


 もはや偶然ではないだろう。結月が見た夢の中でも、母が弦を鳴らしていた。

 その際に母が唱えていた言葉を涼に伝えると、はっと表情を変える。


「ひふみ祓詞はらえことばに似ているが……たしか、蟇目ひきめ神事で使われる神言だよ」


 蟇目神事は、魔を除き圧伏する神事だ。

 鏑矢を用い、矢じりの後ろに着ける鏑に穴を数か所開けておき、射ることで穴に風が入って鳴音を発する。その音が魔を祓う霊力があり、さらには弦も鳴らす――鳴弦をすることで相乗効果がある。

 『蟇目』と呼ぶのは、鏑の部分が蟇蛙ひきがえるの目に似ているからとも、響き目が転訛てんかしたものともいわれている。蟇目の矢が飛んでいく音が蟇蛙の鳴く声によく似ており、蟇蛙は夜でも虫を捕らえることができるという神秘的な要素が結びついて、この神事ができたそうだ。


 そのせいか、と涼は呟いた。


「呪詛のほとんどが、あの弦の音の後に消えたんだよ」


 鳴弦の後、清浄な気が室内の邪気を吹き飛ばした。

 確かに、結月の手を覆っていた赤黒い文字は消えている。だが、漣の手に移った分の呪詛はまだ残っているようだ。手の甲が染まっている。

 母の形見であった弦は切れて、もう鳴弦は使えそうにない。

 ならばと、結月は先ほど見た夢の、呪詛の手がかりを口にする。


「旦那様、蜈蚣むかでです……奥様が、箱を……中から蜈蚣が……」

「蜈蚣……? ……ああ、そうか! だから蟇目が効いたのか……!」


 涼はどこか興奮したように言うが、結月は意味が分からずに首を傾げる。そんな中、隣では漣が目覚めようとしていた。


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