(3)
その後は、「何歳かしら?」「どこから来たの?」「まあ、東京は初めて?」と結月に矢継ぎ早に尋ねてくる。
結月は答えながら、この閑子という女性はやはり奥様だったのかと頭の隅で反芻した。
元気そうな様子を見ると、すでに病気は良くなられているようだ。
だが、そうなると女中はいらないのではないだろうか、早々にお役御免になってしまうのだろうか……と、結月が少し不安を覚えていれば、閑子は「あら」と慌てて立ち上がった。
「嫌だわ、私ったら、お茶もお出ししないで。ごめんなさいね、すぐに用意するから」
「え?あ、あの、奥様にそんな手数をかけさせるわけには参りません。よろしければ、私が……」
「あら、いいのよぉ。遠いところから来たばかりで疲れているでしょう?甘いお菓子も買ってあったはずだから、持ってくるわね」
腰を上げた結月に座るよう手ぶりで示すと、閑子はうきうきと弾むような足取りで部屋を出て行ってしまう。
またもや残されてしまった結月は、閑子の後を追いかけるか否か迷い、結局大人しくソファーに腰を落とした。
閑子を待つ間、結月は不躾ながら室内を見回した。
洋室が珍しかったからだ。
以前住んでいた野宮家や、村の家のほとんどが、日本家屋で畳敷きの部屋だった。洋室を見るのは、写真やトーキー映画の中。あるいは、新しいもの好きの旦那様がテーブルやソファーのセットを購入して、広い座敷に絨毯を敷いて置いていたのを見たくらいだ。
この応接間の窓のすぐ下に備え付けられた長椅子はいかにも心地良さそうだ。一面に鮮やかな刺しゅうが施された洋風座布団や、窓ガラスの一部に嵌め込まれた色ガラスの美しさに見惚れる。まるで映画の中に入ってきたような心持になった。
一通り見終わって、テーブルに視線を戻せば、艶のある焦げ茶色の木の表面にはうっすらと埃がかかっている。緊張していて気づかなかったが、よくよく見ればソファーの肘掛けや棚の上も少し白っぽくなっていて、掃除がされていないことが知れた。
……閑子は、療養先から戻ってきたばかりなのだろうか。
元気そうに振舞っていたが、もしかすると、まだ体調が良くないのかもしれない。
すでに彼女が去ってから二十分近く経っている。
結月は心配になって席を立ったものの、廊下に出てから気づく。
台所の場所が、わからない。
おそらくは、玄関とは反対の方、廊下の奥にあるのだろうが……だからと言って、勝手に家の中をうろつくのも憚られた。
どうしよう、と廊下の真ん中で立ち止まっていれば、背後の玄関で物音がする。
がちゃがちゃ、と扉のノブが数回回る音。振り向けば、玄関扉のガラス部分に黒い人影があった。きぃ、と軽い音を立てて、扉が開く。
「どうして鍵が……」
怪訝そうな声の主は、学生服姿の少年だった。
線の細い身体に、紺色の詰襟の学生服を纏い、同色の学生帽を被っている。手提げ鞄を小脇に抱えて、長い袋を手にしている。竹刀の袋だろうか。
背丈は、結月とほとんど同じくらいだ。帽子で顔はよく見えないが、覗く白い頬の輪郭はまだ幼さを残している。結月より年下のように思えた。
少年は、薄暗い廊下に佇む結月にすぐに気づいたようだ。学生帽の庇の下、影になった目元から、強い視線を感じる。
「……貴女は誰?勝手に人の家に入り込んで、何をしているの?」
人の家。
つまり、彼もここの家の者。……天方家の息子さんなのだ。
結月は咄嗟に頭を下げた。
「お、おかえりなさいませっ」
「……貴女にそう言われる筋合いはない」
「あ……」
「もう一度聞くよ。貴女はどこの誰で、どうやって家の中に入ったの?目的は何?」
少年は淡々とした口調で詰問しながら、靴のまま廊下に上がった。ぎしり、と床板が音を立てる。鞄を落とし、竹刀の袋を構えて、結月に突きつけるようにして近づいてくる。
剣呑な空気に、結月は慌てて答えた。
「わっ、私、若佐結月と申します!あの、怪しいものではありません。こちらのお宅で女中を探していると、その、紹介所で教えて頂いて伺いました。家には、奥様が入れて下さったんです」
「奥様?……誰のこと?」
「え?閑子様、ですけれど……」
戸惑いながらも答えた結月に、少年は立ち止まる。
近づいた距離のおかげで、彼の顔がよく見えた。
細面の顔に、凛々しい切れ長の形の良い目。通った鼻筋と薄い唇が、綺麗に納まっている。
人目を引きそうな、まるで人形のように整った風貌の少年であった。
少年は結月の答えに、驚いたように目を見開いたが、やがて眉を顰めた。
「……母は、今はいないよ」
「え……?」
今度は結月が驚く番だった。狼狽えながら言葉を続ける。
「そんな、だって、お庭におられましたよ。鍵を開けて入れて下さって、そこの部屋でお話しもしました。今はお茶の用意をして下さって、て……」
しどろもどろになる結月に、少年は眉間の皺を深くした後、構えていた竹刀の袋を下げた。そして小さく息を零す。
「……貴女、まさか見えているの?」
「っ……」
“見えている”。
少年の言葉に、結月はどきりとする。
何が見えているのか、と聞き返すことができない。
だって、そんな――まさか。
結月の頭から、血の気が引いていく。その様子を見ていた少年は、やがて顰め面で結月の背後を見やった。丁度、後ろから声が響いてくる。
「まあ、帰っていたのね、漣くん」
朗らかな声に、結月は恐る恐る振り返る。
暗い廊下の奥に、黄色の着物を纏った女性がいる。滑るような足取りで、こちらに向かってくる。
「ちょうど良かったわ。やっぱりこの身体じゃあ、お湯ぐらいしか沸かせなくて。お茶を用意できなくて、困っていたところなの。……あら、結月ちゃん。ごめんなさいね、長く待たせてしまって」
歩くよりもずっと速い速度で、飛ぶように目の前に来た彼女は、結月の背に手を当てる。
しかし、その手は感触を与えることなく、結月の背にはひやりと冷たい空気が流れただけだ。
「さ、すぐ用意するから、座って待ってらして」
「……」
そういえば、彼女は歩くときに足音を立てない。
結月が思わず見下ろした先。
閑子の着物の裾から覗く白い足袋は、うっすらと透けて。
宙に、浮いていた。