(2)
「涼さーん、ここの襖を外して下さる? 少し固くって動かないの。私がすると襖が破れそうで……あっ、漣くん、緞通はあまり強く叩いては駄目よ! 表面が傷んでしまうわ」
五月末の休日。天方家には、閑子の指示を出す声が響いていた。
現在、天方家は夏支度の真っ最中である。季節に応じて衣を替えるように、家の中の建具や敷物といった家具調度類のしつらいも改めるのだ。
夏に向けて、襖や障子を取り外し、簀戸や御簾に掛け替える。風通しを良くするためだ。また、家屋の外回りには日よけの軒すだれを掛ける。
畳の上に敷いていた暖かい毛織物の毛氈や緞通は、軽く日に当てて埃を叩き出す。汚れやシミがあれば、石鹸水でこすって落とし、水で拭き取って乾かしてから木箱に仕舞うのだ。虫がつきやすいので、樟脳やナフタリンといった防虫剤を一緒に入れることが必須だ。
そうして、代わりに網代や籐むしろを畳の上に敷くと、いかにも涼しげで爽やかなしつらいとなる。
建具や敷物は大きく重く、なかなかの重労働であるので、男性の涼と漣が駆り出されていた。
涼は建具を外して、夏用のものへと替えている。身長が高いので、御簾を掛けるのも容易いようだ。漣は家中の敷物を回収して、縁側へ並べたり、竿に干したりと力仕事に徹していた。
結月はといえば、外された建具を綺麗に拭いたり、毛織物のシミを落としたりと、細かい作業を行っていた。
昼休憩を取りながらの一家総出の夏支度は、日が傾いてきた頃にようやく終わりが見えてくる。
慣れない作業で疲れたのか、開け放たれた居間の縁側で横になった漣は、すっかり寝付いている。涼もまた、縁側で足を伸ばして柱に寄りかかって一息ついていた。
日中暑くなってきたとはいえ、風はまだ冷たい。結月は薄い上掛けを眠る漣にかけた。
そうして、台所で熱いお茶を淹れ、昨日買っておいたアンパンをお盆に載せて居間に戻る。
「夕食まで時間がありますので、よかったら」
「ああ、ありがとう」
お盆を差し出すと、涼は胡坐をかいて座り直し、隣をぽんぽんと叩いた。
「結月くんも休憩しなさい。朝からずっと動いているだろう」
「ですが……」
「見なさい、漣だってあの体たらくだ。君が少し休憩したところで、文句を言うはずもないよ」
すうすうと寝息を立てる漣を指さして、涼が悪戯っぽく笑む。
主人の心遣いに感謝しつつ、結月は少し離れた所に正座して座った。
夏仕様となった室内を涼しい風が通り抜け、程よい疲れもあってか心地よく感じる。熱いお茶がまた美味しい。
「三嶌屋のアンパンだね。ここの餡は少し塩気があっておいしいんだ」
甘いもの好きの涼が、アンパンを頬張って目を細める。
結月もアンパンを手に取って齧った。柔らかなパン生地はふかっとして、餡はしっとりと甘い。東京に来て初めてアンパンを食べたが、中身は同じ餡子なのに、香ばしく焼けたパン生地は饅頭や大福とは違った美味しさがある。半分ほど食べたところで、ふと結月は気づいた。閑子の姿が無い。
「……あの、奥様はどうされたんですか?」
「閑子なら眠っているよ。今日は随分と張り切っていたから、疲れたんだろう」
「そうですか……」
時折、閑子はひどく眠たくなることがあるそうだが、今がそうなのだろうか。
何となく、以前よりも閑子が家の中から姿を消す……全く気配を感じなくなる時が増えたような気がする。気のせいかもしれないが、少し心配だ。
「……」
しかし涼に尋ねることはできない。結月はアンパンの残りをもそもそと食べて、湧き出した疑問と共に飲み込んだ。
まだ片付けの途中であるし、これから風呂焚きや夕食の準備もある。今は自分の仕事をしなくては。ちょうど涼も食べ終わったようなので、休憩はここまでと結月は立ち上がった。
すると、涼が思い出したように声を掛けてくる。
「ああ、そうだ。座布団をまだ替えていなかった。悪いけれど結月くん、二階の書斎と客間に置いてあるものを取ってきてくれるかい?」
「はい、わかりました」
結月は頷いて、二階へと向かった。
二階の書斎は、涼に掃除を頼まれた時に時々入るので勝手は知っている。
書斎は洋室で、壁一面を埋める大きな本棚、そして窓の側に書き物机と椅子がある。結月は椅子の上に敷いてあった座布団を取った。
座布団もまた、夏用と冬用がある。綿の分厚い座布団から、麻やパナマの薄い座布団に変えるのだ。
結月は座布団を手にし、次に客間に向かった。少し緊張しながら襖に手を掛ける。
書斎はともかく、客間に入ったことは一度だけしかない。しかも二間あるうちの手前の部屋に、涼が持ち帰った品物を運び入れるのを手伝ったときだ。
客間とは言うが誰も泊まることはなく、実際は物置状態だ。結月はおそるおそる手前の部屋に入ったが、座布団は見当たらなかった。何が入っているか分からない箱が雑然と並び、棚には古い書物が重ねられている。
ならば奥の部屋だろうかと、結月は襖を開けようとした。
ふっと鼻をくすぐったのは、清涼感のある香りだ。すがすがしい香りは、以前も嗅いだことがある。これは……確か、最初に家に来た時に門柱にあった白い花の香りだ。
襖を開けた途端、その香りが結月を包んだ。
「っ……」
目の前に広がる光景に、結月は目を瞠った。
一面に、白い花が咲き乱れている。薄い花弁が幾重にも重なった、牡丹のような大きな花。本物ではない。紙でできた花だ。
紙の花が座敷を埋めるように置かれていた。中央には白い蚊帳が吊るされていて、布団が敷かれている。
その布団の中にいたのは――
「……奥様?」
閑子が、青白い顔で眠っていた。




