(2)
慣れない市電に乗って向かったのは、賑やかな中心部から離れた、郊外の暁町であった。
結月が「暁南」という停車場に降りると、そこは建物ばかりの街と違い、緑の生垣が続く住宅地が広がっている。
紹介所でもらった簡単な地図と番地を頼りに、結月は目的地へと歩き始めた。
途中で人に尋ねながらたどり着いたのは、周辺の住宅と同じように緑の生垣に囲まれた一軒家だった。
三角屋根の二階建ての建物は、村では見ることの無かった洋風の文化住宅だ。灰色の屋根瓦に、明るい生成り色の壁。白い扉や窓枠が明るい印象を与える。綺麗な、普通の家のように見えた。
結月は、家を見上げながら首を傾げた。何しろ、ここに来る途中、道を尋ねた老婆に怪訝そうな顔をされたからだ。
『お嬢ちゃん、あの家に行くのかい?やめといた方がいいと思うけどねぇ』
理由は教えてくれなかったが、結月は行く先が無いという不安以外にも、いったいどんな家で働くことになるのかという不安を抱えることになった。
重い気持ちを抱えながら、いざ着いてみれば、拍子抜けする。洋風の家は結月の目に珍しく映ったものの、特に奇妙なところは無いように見えた。
さっきの女性は何であんなことを言ったのだろう。引っかかりながらも、門柱の方へと足を進める。
門柱には、『天方』と墨で書かれた木の板がかけられていた。
あまがた、と呼ぶらしい。
天方家――ここが、紹介所で教えてもらった家だ。
紹介所の職員から聞いた話では、三か月ほど前から、天方家の若い奥様が身体を壊し、遠くの里で療養しているらしい。家に残った父と子だけでは家事が回らなく、女中を探していたそうだ。
……どんな家かはともかく、しっかりお勤めできるよう頑張らなくては。
それでもなお、不安が残る胸を押さえる結月は、門柱のすぐ横に、白い花が咲いているのに気付いた。
紙のように薄い花弁が幾重にも重なった、手のひらほどもある、大きく綺麗な花だ。何という花だろうか。嗅いだことの無い不思議な香りである。すがすがしいような、どこか懐かしいような。爽やかな香を焚いたような香りに誘われて近づく。
鉄格子の両開きの門扉は胸ほどまでの高さなので、前庭を覗くことができた。
少し前のめりになって左右を見れば、緑の芝が植えられた庭に一人の女性が立っている。
ほっそりとした柳のような身体に、明るい黄色の地の着物を纏っている。大きな白い花が大胆に描かれたモダンな柄に、黒地の縞の帯が映えていた。
女性は家の壁際に作られた花壇の花を愛でているようで、楽しそうな足取りで庭を歩いている。
だが、ふと、女性が足を止めた。
そうして、透けるような白さの顔が、結月へと向けられる。
潤んだような黒目がちな目と、目が合った。
ぱっちりと開いた目は、眦がやや垂れて優しげだった。小ぶりな子供鼻と、赤く紅を差した小さな唇。美しくもどこか少女めいた風貌をしており、可愛らしさの方が先立つ。
艶やかな黒髪は、耳元で緩やかにウェーブして、後ろでまとめられている。野宮家の女中仲間が持っていた雑誌に載っていた、耳隠しとかいう流行の髪形だ。
女性は結月に気づき「どなた?」と小首を傾げる。
結月ははっと我に返り、慌てて身を引いた。
「す、すみませんっ!」
焦る結月に、女性は庭を横切って近づいてくる。
「あなた……」
「あのっ、申し訳ありません!私、勝手に覗いてしまって……大変失礼いたしました!」
これからお世話になる家かもしれないのに、最初から不躾な真似をしてしまった。もしかしたら雇ってもらえないかもしれない。
青ざめる結月であったが、門扉を挟んだ向かいに立った女性に怒った様子はない。むしろ、ぱぁっと嬉しそうに顔を輝かせた。
「あなた、もしかして、新しく来て下すった女中さん?」
「え?あ、は……はい、その……そう、です」
「まあ!」
女性はぱんと両手を合わせて、結月に満面の笑みを向ける。
「嬉しいわ!あなたのような子が来てくれるなんて」
「え?」
「さあさあ、どうぞ、入って入って」
女性は愛想良く、庭から手招きをする。
庭にいるということは、天方家の家人なのであろう。身なりや口ぶりからすると、奥様だろうか。
しかし、奥様は今、療養中で家にいないはずだ。
……もしかすると、病気が治って帰宅されたのだろうか?あるいは、一時的に親戚の方が手伝いに来ているのかもしれない。
結月は困惑しながらも、門扉を押して中に入った。
すると、門柱横の白い花が風もないのにわずかに揺れる。花びらが一枚落ちるのを見て、女性は「悪いものが落ちたのね」と微笑みながら言った。
花びらが落ちるのは悪いことなのだろうか。綺麗な花なのに、と結月は地面に落ちた花びらを目線で探そうとしたが、いつの間にか無くなっていた。
それに構わず、前に立つ女性が「こちらよ」と呼んだ。
芝生の中に作られた石畳の道の先には、石の階段が二段あり、屋根の付いた玄関ポーチがある。
上半分に歪みガラスがはめ込まれた白い扉を開けようとした女性は、思い出したように手を止めた。
「鍵が掛かっていたんだわ。ちょっと待っていてね」
言うなり、女性は消えるようにさっと走り去る。一人残された結月であったが、十秒も経たぬうちに、がちゃりと鍵の開く音がした。
「どうぞ、入ってくださいな」
ひとりでに開いた扉の奥には、広い玄関ホールがあり、板張りの廊下に先ほどの女性が佇んでいる。ずいぶんと身のこなしが速い人だ。感心しながらも、結月は「失礼いたします」と中に入った。
タイルの敷かれた玄関で草履を脱いで、廊下に上がる。廊下は玄関から正面にまっすぐ伸び、両側に扉が幾つか並んでいた。左側、一番手前の部屋に案内される。
そこはモダンな洋室であった。
床には花柄の絨毯が引かれ、どっしりとしたテーブルの周りに、大小のソファーが並んでいる。壁の二面には大きな窓があり、陽光が差し込んで明るい。窓が無い側には、本棚や飾り棚が配されて、天井にはランプが下げられていた。ここはどうやら応接間のようだ。
「好きなところにおかけになって」
「は、はい」
女性に促され、結月は扉近くの一人掛けのソファーに浅く腰掛けた。女性も向かいのソファーに座り、背筋を伸ばして座る結月を見てにこにこと笑う。
「そんなに緊張しないで。ああ、そうだわ。自己紹介もまだだったわね。私、閑子というの。よろしくね」
「若佐結月と申します。紹介所で教えて頂いてこちらに参りました。……あの、貴女は、天方様の奥様でいらっしゃいますか?」
尋ねると、女性――閑子はぱちりと目を瞬かせた後、頬に手を当てて身を捩らせた。
「まあ、奥様だなんて!何だか照れるわ」
彼女は照れながらも、「ええ、そうよ、私、天方の妻なの」と嬉しそうに答えた。