(8)
――おかあさん、どこにいったの。
――ひとりにしないで。
――さみしい。ひとりはさみしいよ。
――おかあさん……
パタパタと、枕元で何かが歩く気配がした。
目を覚ました結月は、起き上がって枕元を見たが何もいない。
……気のせいだろうか。ぼんやりと辺りを見回していると、文机の上の置時計が目に入った。
朝の六時を少し回っているのを見て、さっと血の気が引いた。
「っ、いけない……!」
とっくに起きる時間を過ぎている。結月は急いで身支度をして、布団を畳むのもそこそこに、割烹着を手にして台所への扉を開けた。
明るい台所では、ガスこんろの前に割烹着姿の閑子が立っている。鍋からは出汁の香りが漂い、薬缶の湯気が朝の光の中で白い筋となって揺れている。
閑子は振り返って笑顔を見せた。
「あら、おはよう、結月ちゃん」
「お、おはようございますっ、遅れて申し訳ございません!」
頭を下げて謝る結月に、閑子は困り顔で笑う。
「そんなに謝らないで。私も最近、力の使い方のコツが掴めてきたの。ほら、見てちょうだい、野菜も切れるようになったのよ!」
閑子は自慢げに、まな板の上の葱を示す。確かに具材は柔らかな豆腐以外、大きさは不揃いながらも切られており、また、すでにお米も研いで水に浸してあった。
「……だからね、結月ちゃん。一人でやろうとしないで、偶には私に頼ってほしいの」
ね? と閑子は優しく言ってくれるが、寝坊という失態を晒し、本来自分がすべき仕事を閑子にさせてしまった。穴があったら入りたい気持ちで結月は頷きながらも、もう一度謝り、急いで朝食の準備に取り掛かった。
玉ねぎと豆腐の味噌汁、馬鈴薯の甘辛煮、大根の糠漬け、それに作り置きの佃煮を食堂に運ぶと、ちょうど漣が二階から降りてきた。廊下の向こうからやってくる漣に、結月は一瞬どきりとしながらも挨拶する。
「おはようございます」
「……おはよう」
挨拶を返してはくれたものの、結月と目を合わせることはない。気まずい中、漣は顔を逸らしてさっさと食堂に入ってしまう。
朝食後も、漣は結月と会話を交わすことなく、学校へと行ってしまった。
お弁当を渡して見送った結月が台所に引き返すと、涼が寝室の襖を開けて出てくる。
「おはよう、結月くん……」
盛大に欠伸を零す彼は、ふと結月に目を止めると、その切れ長の目を細めた。
涼はぺたぺたと裸足で廊下を歩き、結月の前で屈みこむ。癖の付いた前髪の下、黒い眼差しにじっと見据えられて、結月は緊張する。
「あの……旦那様?」
「顔色が悪いよ。何かあったのかい?」
「い、いえ……あの、昨晩、少し夜更かしをしてしまったので、そのせいだと思います。心配をお掛けして申し訳ございません。今後は気を付けます」
「……そう」
涼はすっと結月から顔を離すと、いつものように柔らかな笑みを見せた。
「てっきり、夢見でも悪かったのかと思ったよ」
「夢、ですか?」
「うん。そうだ結月くん、昨夜はどんな夢を見たのかな?」
「あ……」
結月は記憶を辿るが、ちっとも思い出せない。
どこか懐かしく、それでいて悲しくて、寂しくなる――そんな感情だけが胸の底に残っている。
「……覚えておりません」
結月が戸惑いつつも答えると、涼はただ「そうかい」と微笑み、顔を洗いに洗面台の方へと向かったのだった。
***
浴室にある洗面台で、冷たい水で顔を洗う。
濡れた顔を手拭いで拭きつつ涼が顔を上げると、鏡に自分以外の顔が映っていた。背後の暗がりにぼんやりと浮かぶ白い顔は――閑子の顔だ。
眉尻を下げ、悲しそうな顔をしている。いつもならきっちりと掛かっている耳隠しのウェーブが、今日は少し緩んで解れていた。
「涼さん……」
「どうしたんだい、閑子」
涼が振り返ると、閑子は両手の指先を何度か組み替えながら、訥々と話し出す。
「……結月ちゃんと漣くんの様子がおかしいの。どちらも、元気が無いみたい」
しゅん、と閑子は肩を落とすが、彼女の方こそ元気を無くしているように見える。
「昨日、帰ってきたときから何だかおかしかったの。喧嘩でもしたのかしら。ねえ、涼さん、何か私にできることはないかしら……?」
紅をさした唇をきゅっと噛み締める閑子に、涼は手を伸ばした。冷たい頬を撫ぜるようとするものの、霊体である彼女に触れることはできない。
それでも涼は、閑子の顔の輪郭に合わせて指を滑らせた。彼女に肉体があったときと変わらぬ仕草だった。
「……大丈夫だよ、閑子」
涼は安心させるように笑む。
「こういうことは、横から下手に口を出すと余計に拗れるだけだからね。放っておくのが一番良いのさ。特に漣は意固地だからね。今回のことで少しは勉強になるといいけれど」
「でも……」
「転んだ子供をすぐに助け起こしては、成長しないよ。少しの間、心苦しいかもしれないけれど見守ってあげよう。……ただ、少し、結月くんの方が心配だね。あの子は頑張りすぎるところがあるから。そこは私の方から手助けするよ」
涼は閑子を宥めながら、目を眇めて先ほどのことを思い出す。
結月の足元に見えた、小さな淡い影。
悪いものではない。そもそも悪いものであれば、この家には入れない。
淡い影は、結月自身の気と溶け込むように重なり、涼の目にも存在がはっきりとはしない。結月にさりげなく鎌をかけてみたが、彼女自身も気づいていないようだ。
だが、確かに何かがいることは感じ取れた。
「さて……」
しばらくは様子を見るかと涼は考えている。もっとも、これ以上閑子が気に病むことがないように、十分気を付けながら。




