(2)
着物の選別と片付けは、午後から涼と閑子がすることになった。
結月が帰ってきてからすると言ったのだが、涼は「急にお使いを頼んだのは私だからね」と手慣れた様子で着物を畳んでいた。洗濯はともかく、畳むのは得意だと言う。
閑子も快く送り出してくれたのだが、結月が普段の地味な縞柄の着物で行こうとすると、
「もっと早く衣替えしておけばよかったわ。そうしたら、結月ちゃんを可愛い着物で送り出せたのに……着せ替えしたかったのに……!」
と少し残念そうであった。
お下げを結び直し、見苦しくないように身支度をして結月が向かうと、玄関ではすでに漣が待っていた。道着から洋装に着替えており、立ち襟の白いシャツとズボン、学生帽を身に着けている。
漣は手に大きな風呂敷包みを持っていた。結月も涼から預かったお金などを巾着袋に入れて、漣と共に玄関を出る。
「それでは、行って参ります」
「ああ、行ってらっしゃい。よろしく頼むよ」
「気を付けてね、漣くん、結月ちゃん」
涼と閑子に見送られ、結月と漣は天方家を出た。
天方家がある暁町から湯島へは、市電を乗り継いで向かうそうだ。
湯島があるのは本郷區……と言われたが、田舎から出てきてまだ一か月、しかも外出は町内だけであった結月には東京の地理はさっぱりだ。市電に乗るのも一か月ぶりで、勝手がわからずにまごついてしまう。漣は顰め面ながらも、段差のある昇降口で手を伸ばした。
「ほら」
自然に出された手を、結月は戸惑いながら見つめる。漣の眉間の皺が深くなったので、急いで手を乗せると、強い力で引っ張られた。市電に乗ると、漣はすぐに手を離して奥へと進んだ。
休日の市電は人が多く、席の大半は埋まり、立っている人も多い。漣もまた吊革を掴んで立っているので、その近くへと寄った。
窓の外の景色が流れていくのを見るのは、結月にとって珍しく、面白い。洋風の建物が並ぶ通りもあれば、日本屋敷や白壁の塀が続く通りもある。村には一台しかなかった自動車が、帝都では何台も走っている。車窓にくぎ付けになっている結月に、漣は、
「ちゃんと行き方覚えなよ。あなただけでお使いに行くかもしれないんだから」
と注意する。結月ははっと我に返り、恥ずかしさで頬を赤くした。
一時間ほど市電に揺られ、途中で席を漣と譲り合いながら、『天神下』という停車場で降りた。
湯島は、日本の最高学府である東京帝国大学がほど近く、学問の神様を祀る湯島天神がある。近くには日本を代表する大財閥の当主の邸宅や、有名な小説の舞台となった無縁坂という坂道もあるそうだ。どちらも結月は初めて知るものだったが、とにかくすごいという感想しか出てこない。
先を行く漣は、湯島天神へと入っていく。左手に梅園がある緩やかな石段を上ると、鳥居が見えてきた。鳥居から少し入った所にはガス灯が立っている。
たしか漣は、「天神裏の紙子さん」と言っていた。天神を通って近道するのだろうか。とにかく漣の後を結月が追うと、彼は手水舎の前で立ち止まった。
「ここで手を洗って」
「は、はい」
……参拝でもするのだろうか。
疑問に思いつつ、結月は言われた通りに手水舎で手を洗う。同じように手を洗った漣は、しかし本殿に向かうことは無く、境内にある梅園の方へと向かった。
五月の今は花が咲いているわけもなく、梅の木は緑の葉に覆われていた。枝のそこここにぷっくりとした小さな青い実がなり、爽やかな香りが漂っている。
漣は緑の葉の茂る中を進む。結月も追うが、なかなか緑の園から抜け出せない。随分と広い梅園のようだ。
ふと、視界に入る色が変わっていることに気づいた。青かった梅の実が大きく、黄色や赤に色を変えている。甘い梅の香りが強くなり、周囲の空気が変わったことに気づく。
そこでようやく、漣が立ち止まった。「着いたよ」という彼の向こうには開けた広場があり、広場の先に大きな門があった。唐破風の屋根がついた立派な門だ。門の向こうはなぜか白く霞がかっている。
「あれが『裏唐門』。裏天神への入口だよ」
「裏……?」
「表じゃない、あちらの世界ってこと。今から行くところは……まあ、もう気づいていると思うけど、少し変わっているから」
そう言って、漣は風呂敷包みから何かを取り出した。
「これを付けて」
渡されたのは、白いハンカチーフのような布だ。薄い布地には赤い文字や図形を組み合わせた文様が描かれ、片端に長い紐が付いている。見ると、漣もまた同じような布を手に持っていた。紐を頭に巻いて布を顔の前に垂らすと、顔が隠れるようになっている。
「顔は見せない方がいいよ。目を付けられると面倒だから」
漣に言われ、結月も同じように布を付ける。前が見えなくなるかと思ったのだが、不思議なことに、布越しに向こうがはっきりと見えた。
「行くよ」
漣は風呂敷包みを抱え直し、裏唐門へと足を進める。結月は小走りで彼の後ろについていった。
門の大きな木の扉には、牛と梅の彫刻が彫られた金具が取り付けられていた。牛の目の所がぎょろりと動いて、こちらを見たような気がしたが、漣は構わずに門をくぐる。
結月も漣に続いて門をくぐった途端、一気に霞が晴れた。




