第一話 奥様は幽霊(1)
春。三月の終わり。
村から夜汽車で半日以上かけて結月がたどり着いたのは、大日本帝国の帝都・東京。
先の大震災から復興を遂げて、一週間にも渡る復興祭が開かれたのは、つい先日のことらしい。
「もうちょっと早く来てりゃあ、お嬢ちゃんも花電車見れたのになぁ」
職業紹介所の場所を尋ねた結月に、親切にも道案内してくれた男性は、道すがらそう言った。
「はなでんしゃ、ですか?」
「花やら電球やらがいっぱい飾られた、派手な市電だよ。昼間もよかったが、夜はこう、星みたいにぴかぴか光ってよぉ。夢みたいに綺麗だったなぁ」
思い出して様子を語る男性だったが、結月はちっとも想像できずに首を傾げるばかりだ。
そもそも、市電自体初めて見たのだ。汽車には何回か乗ったことがあったが、街の中を走る電車は初体験で、乗り方も分からずに右往左往していた。
朝に東京駅を降りたってから、結月は見るもの見るものに驚いていた。
煉瓦造りの豪奢な駅に、立ち並ぶ石造りの高い建物。
広い道を走るのは、村では数台しか見なかった車。
洋装のスカートの裾を翻し颯爽と歩く若い女性に、背広を着て帽子を被って巻き煙草を吹かす男性。
カフェーの大きなガラス張りの向こうに広がるのは、異国に来たのかと思うようなモダンな光景。
初めて田舎から都会へ出てきた結月は、目の前に広がる異国のような世界に呆けるばかりだった。
そうして職業紹介所までたどり着けたときには、すでに昼を回っていた。
紹介所の一室に通され、結月は野宮家からもらった紹介状を差し出した。封を開けて中身を読みながら、眼鏡をかけた男性職員が尋ねてくる。
「若佐結月さん、ですね。歳は?」
「十六になります。以前は、野宮様のお屋敷で奉公しておりました。その、できれば同じように、住み込みの仕事を探しているのですが……」
「ああ、女中なら引く手数多ですよ。最近は短い期間で辞める子が多くって……と、失礼」
職員は軽く咳払いして話題を変える。
「ところで、若佐さんはご両親が亡くなられているんですってね?親戚は他にいます?郷里はどこ?」
「……物心ついたときには里を離れていたので、わかりません」
正直に答えれば、職員はふむと考えるように顎に手を当てる。
元々、女中奉公は、若い女性が嫁入り前に親戚や知人の家に住み込んで家事を教わる、いわば花嫁修業のようなものである。
なので、身元がしっかりとした縁故関係の者を雇うのが普通で、結月のように無縁の者を受け入れた野宮家の方が珍しかった。
女中の他にも工場で働く女工の仕事もあるが、結月は個人的な事情で、大勢の人間が集まる場所を避けたかった。
縁故関係が強い田舎では、女中仕事を探すのは難しい。
だが、都会では最近、女性の社会進出がさかんで、職業を斡旋するための訓練所や紹介所ができたと野宮家の奥様から聞いた。
身元は確かでなくとも、七年間奉公していた経験がある。奥様からは紹介状も書いてもらった。
都会でなら、女中仕事を探せるのではないかと結月は考えていたのだが……。
無理だったらどうしよう。
結月は、膝の上にある風呂敷包みを無意識のうちに握りしめる。
「あ……あの、何か問題があるでしょうか?」
「あっ、いえいえ。まったく問題ありませんよ」
職員はにこやかに取り繕った。そして、「ちょっと待ってて下さいね」といったん部屋を出ると、大きな封筒を持って戻ってきた。
「ちょうどいいお宅があるんですよ。郊外にあるので、ここからはちょっと遠いんですけれどね。最近女中が辞めたばかりで、急ぎで探しているそうで。いかがです?」
「は、はいっ、もちろん、ぜひともお願いします!」
封筒から書類を取り出す職員に、結月は一も二もなく頷いた。
***
おさげ髪に地味な縞模様の着物を着た少女を入口で見送る職員に、声が掛かる。
「先輩、よかったんですか?」
「ん?何が?」
職員が振り返れば、後輩の若い男性職員が眉を顰めていた。職員は巻き煙草を手にし、マッチで火を点けながら答える。
「紹介状はあったし、見た感じ真面目そうな子だったし。薦めても問題は無いだろ」
「そこじゃありませんよ。彼女に薦めた、“あの家”のことです」
先ほど尋ねてきた少女の仕事先を見つける際、この後輩に“あの家”の書類を出してもらっていた。だから気になるのだろう。なおも言い募る後輩の言葉に、職員は煙草に口を付けて火を点した後、紫煙を吐き出した。
「なに?お前、あの子のこと気に入ったの?」
「えっ!?な、何でそうなるんですか!」
「まあ、確かに色白でけっこう可愛い子だったけどな。イモっぽい純朴そうなところもいいし。磨けば光るかもなぁ、ありゃあ」
「先輩!茶化さないで下さいよ」
怒る後輩に、職員は唇の端を上げる。眇めた目で、後輩を見やった。
「毒を以て毒を制すって言うだろ?訳アリには、訳アリを宛がった方が上手くいくんだよ。たぶん」
「……だからって、“あの家”を紹介するなんて、ひどいじゃあありませんか。あそこ、この三か月で五人も女中が辞めているんですよ?」
後輩の咎める視線に、職員は肩を竦めた。
「仕方ないだろ、こっちだって“あの家”には困らされていたんだからな」
都市部の若い娘の間に噂が広がるのは早い。特に、悪い噂であればあるほど。
――『あの家、奇妙なことばかり起こるのよ』
噂が広まれば、件の家を薦めても断られて、なかなか新しい女中が見つからない。すでに前の女中が辞めて三週間が経ったところに、丁度あの子が来たのだ。
田舎から出てきて、事情を何も知らない娘が。
「……帰る里が無けりゃ、早々すぐには辞めないだろ」
仕事は親切心ばかりではできない。職員は打算を多く含み、先ほどの少女に仕事先を紹介していた。
その職員の意図に気づき、後輩は溜息を零す。またすぐに辞めても知りませんよ、とだけ言い残して、机へと戻っていった。
残された職員は、窓に近づき外を見やった。
罪悪感は無いが、達者でやれ、と健闘を祈る気持ちはある。そう思って少女の姿を探したが、雑踏の中についに見つけることはできなかった。