(8)
頬を強張らせた結月に気を使ってか、涼は人形を袂に戻す。
「これは明日、寺で焚いて供養してもらうよ。……君を『取次』に出してしまって、悪かったね」
一応、守りは付けていたんだよ、と涼は反対側の袂から白い花を取り出す。門柱に飾ってある花と同じだった。結月の髪に挿してあったのは、これだったのか。
「穢れを代わりに受けてくれる。それに、君にも家にも術を掛けて結界を張っていたけれど……」
頭がぼんやりとしていたのは、何らかの術を掛けられていたせいであったのか。
涼が言うには、結月の意識に薄い膜を掛けて、相手の霊の影響を受けないようにしてくれていたらしい。だが、それでも最中に術が破れてしまった。
「君は見える分、影響を受けやすいようだ。血筋かな」
「……」
普通の人には見えないものが見えることは、すでに涼……天方家の人々には知られている。だが、自分の母親が梓巫女として口寄せやお祓いをしていたことまでは、話していない。どこまで話していいかもわからなかった。
答えられずに俯く結月に、涼は機嫌を損ねた風もなく、唇の端を上げる。
「まあ、何にしろ、君がいて助かったよ。私が直接応対して相手に警戒されても困るし……閑子を客前に出すわけにはいかないしね」
確かに閑子は霊であり、普通の人間の客相手には対応できない。
しかし、今回の来客は幽霊だったのだし、もしかすると結月よりも閑子の方がうまく対応できたのではないだろうか。
涼の口ぶりからすると、閑子が他の霊と接することをあまり望んでいないようだ。まあ、確かにあんな恐ろしい霊に、閑子を会わせたくない気持ちはわかる。
だが……。
ふと、結月は疑問を抱く。
そもそも閑子は、何故この家にいるのだろう。結月の知るところでは、少なくとも三か月前から閑子は幽霊の状態のはずだ。
死者がこの世に留まる四十九日はとうに過ぎている。なのに、何故この世に――
この家に、留まっているのか。
疑問には思ったが、それを直接涼に尋ねることはできかねた。
結月自身は、幽霊であろうとなかろうと、閑子にはこの家にいてほしいと思っている。天方家に来てまだ二週間と経っていないが、結月は閑子をたいそう慕っていた。結月が口を挟むことで、閑子や涼に何か困った思いをさせるのは嫌だ。
結月は疑問を頭の隅に追いやって、曖昧に涼に頷き返した。
***
結月は夕暮れの町を急ぎ足で帰っていた。
その腕には、明日の朝ご飯用の卵と野菜の入った籠、それから、香ばしい油の匂いをまとわせた紙袋を抱えている。
今日は午後から何かと慌ただしかった。女性の霊の来訪によって、気づいたときには午後二時を回っていたせいだ。
予定していた床の間の艶拭きは結局行えなかった。涼とのお茶の時間を終えた後、結月は急いで風呂の焚きつけをし、乾いた洗濯ものを取り込んだものだ。
洗濯ものの火熨斗掛けが終わったときには、午後四時半を過ぎていた。今日の夕食はどうしようかと閑子に相談しようとしたが、閑子はサンルームで寝ていると涼が答える。
閑子は珍しく、眠っているらしい。
幽霊の睡眠がどのようなものかはわからないが、眠っているのを無理に起こすわけにもいくまい。
夕食どうしましょう、と結月が困っていれば、涼はあっさりと答えた。
『コロッケが食べたいな』
『コロッケ……ですか?』
コロッケは、カレーライス、カツレツに並ぶ人気の洋食だ。「今日もコロッケ、明日もコロッケ」といった軽快な唄にもなっているくらいで、結月も名前だけは聞いたことはあった。
しかし、実際に食べたことはないし、むろん作り方を知っているはずもない。
旦那様の要望に応えられない、と顔を強張らせる結月の思考を読み取ったのか、涼は小さく吹き出した。
『作ってくれとは言わないよ。あかつき商店街の総菜屋に売っているんだ。美味しいよ』
うん、コロッケにしよう、と涼はすっかりその気になって頷き、結月に財布を託してきた。
そうして、結月は無事に総菜屋でコロッケを買い、帰路についているわけである。
手にした紙袋には、コロッケが六個入っている。一個二銭という安さで、総菜屋の店頭にはコロッケを求めて並ぶ客が多かった。
油の入った大きな鍋では、握りこぶしほどの大きさの丸いコロッケが挙げられていた。じゅわじゅわと音を立てて、狐色にこんがりと揚がったコロッケ。
一体どんな味がするのだろう。
初めて見るコロッケに興味津々でいれば、店の人がコロッケのことを教えてくれた。
細切れ肉をさらに細かくして炒めて味付けし、ふかした馬鈴薯と混ぜて丸め、パン粉を付けて揚げるのだという。ラードで揚げるのがコツだが、家庭では難しいそうで、美味しいコロッケを食べたいときには店に来てね、という宣伝付きだった。
話を聞くだけで、ドーナツで膨れたはずの結月の腹が、きゅうと切なく音を立てる。
結月は揚げたてのコロッケが入った紙袋を大事に抱えた。
冷める前に帰らなくては、と結月が小走りになって急いでいれば、前の方に学生服を着た少年の後ろ姿が見える。細身で、ぴんと伸びた背筋。藤色の竹刀の袋。
「あ……」
漣だ。
気づいた結月の足が、わずかに重くなる。
声を掛けるか、掛けていいものか。迷ったのは数秒で、結月は一つ息を吸って足を踏み出した。




