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(6)


 結月が台所から出れば、薄暗い廊下の向こう、玄関扉のガラスを背にした黒い人影が見える。来客である。

 結月は急ぎ足で玄関へと向かった。相手をじろじろと見ないように注意しながら、姿を確認する。

 黒い和服を着て、白いレースのショールを羽織って、耳隠しに髷を結った女性。三十代くらいだろうか。白と黒の色の中に浮かぶ真っ赤な唇が、妙にはっきりと見えた。

 結月は玄関ホールの板の間で膝をつき、手を前にそろえてお辞儀をした。


「いらっしゃいませ、どなた様でいらっしゃいましょうか?」

「あたくし、――と申します。――の妻でございます」

「え……」


 結月は自分の耳を疑った。

 女性が名乗る声が聞こえない。名前の部分だけ、きぃんと耳鳴りがして聞き取れなかったのだ。

 失礼になるが聞き直さなくては。結月が口を開こうとすると、はらり、と頬を掠めて何かが落ちる。薄く白い花びらだ。

 花びらはゆっくり落ちながら、その色を赤く変えていく。紅い絵具が白い布に染み込むように、じはりと滲んで広がり、すぐに真っ赤に染まった。結月の指の先、床に触れた赤い花びらは、その瞬間に弾けて消えた。

 目の前で起こった不思議に結月が言葉を失っている間に、女性が用件を言う。


「天方先生はご在宅でしょうか?あたくしの夫が、本日こちらに伺っているはずなんです。取次ぎをお願いできるかしら」

「はあ……」


 軽く相槌を打ちながら、結月は結局女性の名前を尋ねることができなかった。俯きがちに来意を聞き終えて「少々お待ちくださいませ」と奥に戻る。

 その間にも、はらりはらりと花びらが結月から落ちる。結月は、自分の編んでまとめた髪に、白い花――天方家の門柱に飾ってあるものよりも小ぶりな花が挿してあるのだと、何となくわかった。いつ挿したのかは、わからなかった。

 食堂に入れば、涼が湯気の立つ紅茶を手にしている。


 ……私、いつお茶を運んだかしら。

 台所に置いていたはずなのに。


 疑問を抱きながらも、涼に来客の旨を告げる。


「旦那様。――様がお見えになられました」


 結月の口から、耳鳴りで聞こえなかったはずの来客の名前が自然に出た。口にしていることが、自分でも不思議だった。

 しかも、そのまま淡々と来客の用件を告げる。曰く――


「――様の夫がこちらに来ている」

「お会いになりたいそうです」

「こちらにいるのでしょう?わかっているんですよ」

「どうか会わせて下さい。これはあの人との約束事なのですから」

「あの人と一緒に行くんです。そう約束したんです」


 結月の意思とは関係なしに、口から女性の言葉が、声が、そのまま出てくる。

 涼はそれを黙って聞き終えて、一つ頷いた。


「結月くん、『取次』ありがとう。彼女を応接室に通してくれるかな」

「かしこまりました」

「彼女を通した後は応接室の扉をすぐに閉めて、君は食堂に戻ってきなさい。お茶は出さなくていいよ。私と一緒に、ここにいなさい」


 はい、と答えて、結月は玄関に戻る。


「どうぞ、おあがりください。こちらです」


 先に立ち、応接室に彼女を案内する。

 扉を開けば、先ほど涼の肩越しに見えた男性の後ろ姿がソファーにあった。「ああ!」と感嘆の声を上げた女性は、着物の裾を翻して、ショールを落とす勢いで男性に駆け寄る。


「あなた、あなた。お会いしとうございました」


 女性の感極まった声を聞きながら、結月は一礼して部屋を出る。涼に言われた通り扉を閉めた。

 食堂に戻ろうとした結月だったが、来客の履物を揃えないと、と思い直して玄関に引き返す。だが、女性が脱いだはずの草履は見当たらなかった。


 どこにいったのだろう。

 そもそも、あの人は草履を履いていたかしら……?


 考えようにも、何だか頭がぼんやりとして、一向に考えがまとまらない。疑問に思うことは、幾つもあるはずなのに。

 足を止めた結月の耳に、応接室から女性の声が響く。


「ああ、あなた、ようやく会って下すったのね。あたくしが話しかけても、ずっと無視するばかりでしたのに。ねえ、どうしてあたくしを怖がっていらしたんですか。あのとき、約束してくれたじゃありませんか。死んでもずぅっと側にいるって」

 

 ねっとりと肌に纏わりつくような声は、あの紅い唇から発せられているのだろう。女性が男性にしなだれかかる様子まで見える様な、そんな声だった。

 はらり、はらり、と白い――いや、赤い花びらが結月の足元へと落ちていく。

 爽やかなお香のような匂いが、錆びた鉄の臭いへと変わる。


「ねえ、あなた、これからも一緒にいて下さるのでしょう?ほら、答えてくださいな。……どうして、なにもおっしゃってくれないの。……答えて下さい、ほら、早く!今日が最後なんですよ。あなたを連れていくのは、今日しかないのよ!あたしを一人で逝かせるつもりなの!?」


 女性の金切り声と共に、どんっと激しく扉が鳴った。結月はびくりと肩を震わせる。頭に纏わりついていた霞が振り払われたような気がした。


 ……今のは、一体何なのだろう。

 どうしてあの女性は、誰もいない応接室で、叫んでいるのだろう。

 だってあの男性は、人じゃないのに。

 旦那様がつくった、――なのに――


「――結月くん」

「あっ……」


 肩に手を置かれて、結月は我に返った。見上げた先には、苦笑を浮かべる涼の顔がある。


「だ、旦那様……」

「食堂に戻るよう、言っておいただろう?『言伝』は守りなさい」


 涼が、結月の背中を優しく、しかし有無を言わさぬ強さで押して応接室から離れる。

 背後では女性の金切り声や物音が激しくなるが、涼は一向に構わずに結月に話しかける。


「君は思った以上に、見えているようだ。あまり入り込み過ぎるとよくないよ。……巻き込んだ私が言えることではないけれどね」


 食堂まで連れてきた涼が、椅子を引いて結月を座らせる。両肩に、重みと圧がかかった。


「旦那様、これは一体……」

「さあ、そろそろ客も帰る頃だ。君も起きるといいよ」


 ぱんっ、と結月の頭の後ろで、涼が柏手かしわでを打つ音が響いた。



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