(5)黒い客、赤い花
大きな蛙を含め、天方家には来客が多い。
門の前に横付けした高級な外車から降りてくる、洋装姿の壮年の男性。お付きを二人も従えた、老年の和服姿の男性。華やかな洋服に身を包んだ、断髪のモダンガール。きっちりと髷を結った、黒い和服の年配の女性。
それぞれ、名の知れた政治家であったり、大きな百貨店の社長であったり。流行の理容室を経営する女性であったり、老舗料亭の女将であったり。
老若男女と客層は様々であるが、訪れる客に共通しているのは、どこか余裕がない色があるところだ。
そして一様に、こう尋ねてくる。
『天方先生はご在宅ですか』――と。
皆、天方家の主人である涼のことを『先生』と呼ぶ。
先生というと、学校の先生、医者、お茶やお花の師匠、作家や画家……といった職業を思いつくが、涼がどんな仕事をしているか、結月は知らない。
自由業のようなものだよ、と言う涼の様子を見ていると、週の半分はどこかに出掛け、半分は家にいる。来客の相談事を聞いて助言したり、書斎で何か書き物をしていたり、骨董品のようなものを持ち帰ってきたりもする。
いったい何の先生なのだろうか。
不思議に思いながらも、訪れる客の取次や応接をするのも、結月の仕事の一つである。
朝の仕事――炊事に掃除に洗濯を終えたのは、十時半を過ぎた頃であった。
庭の竿に干した洋シャツやズボン、肌着やシーツを見上げて、結月は一息つく。天方家に女中が居ない間に溜まっていた洗濯物が、これでようやく片付いた。
とはいえ、片付いたのは洋服類だけだ。今後は、冬の間に来て汚れたり痛んだりした着物をほどいて洗い張りし、仕立て直しをしていかなければならない。
洗い張りをするのは、もう少し暖かくなってからの方がいいだろう。そろそろ衣替えの季節だし、箪笥や押し入れの中も整理しなくては。
着物の汚れや痛みを確認して、何に仕立て直すかを、奥様と相談して決めよう。とりあえず、今日の午後は洋服を取り込んだら火熨斗をかけて――
つらつらと今後の予定を考える結月は、額に滲んだ汗を拭う。
洗濯も洗濯干しも、重労働だ。以前に奉公していた野宮家では、結月の主な仕事でもあった。なので、料理よりはだんぜん得意ではあるが、体力は使う。
結月は洗濯の道具を片付けた後、家の中に戻って顔を洗った。ほつれた髪を梳いて編み直し、身だしなみを整える。
昼食の準備までの空いた時間は、朝の掃除でできなかった場所や、細かい所の掃除をする。
浴室や便所などの水回りの掃除は昨日で終わらせたので、今日からは艶拭きをする予定だ。
艶拭きには、米のとぎ汁や糠袋などを使う。糠袋は、米屋でもらってきた米糠を炒って、冷ましてから綿の袋に入れたものだ。これを水に浸して固く絞り、木の床や柱を磨くことを繰り返していけば、糠の油分によって表面に美しい艶が出るのだ。
おそらくは一か月以上手入れされていないであろう床の間や、階段の手摺や柱、応接間の木の家具を磨こう。
糠袋は昨晩のうちに用意しておいた。さっそく取り掛かろうと、雑巾とバケツ、糠袋を持って廊下に出たときだ。
「結月くん、お茶を淹れてくれるかな」
「っ!」
急に声を掛けられて、結月は思わずバケツを取り落としそうになる。
応接間の前に佇むのは、長着姿の涼だ。今日は一日家にいるとは聞いていたが、てっきり二階の書斎にいると思っていた。
いや、それにしても気配をまるで感じなかった。結月は跳ねる心臓を落ち着かせるように胸元を押さえて頷く。
「はい、承知いたしました。……お客様が来られているのですか?」
涼の後ろ――応接間の中には、ソファーに座る男性の背中が見えた。
いつの間に来客があったのだろう。これもまったく気づかなかった。結月はしまったと青ざめたが、涼は怒った様子はない。
「ああ、気にしないで。お茶は食堂の方で飲むとしよう。一緒にどうだい?」
「え?あの、ですが、お客様は……」
「大丈夫だから」
応接間の扉を閉めた涼に笑顔で促され、結月は仕方なくバケツを持ったまま台所へと向かった。
お湯を沸かし、紅茶の準備をする。
紅茶の淹れ方は、閑子に教わった。天方家では基本的に緑茶や麦茶を飲むことが多いが、閑子が集めている洋風茶器に合わせて、紅茶も偶に飲むようだ。
かんかんに沸騰したお湯を、茶葉を入れたポットに注ぎ、蓋をしてしばらく待つ。茶葉を蒸らして、十分に香りと味を抽出させるのだ。
しかしながら、この紅茶の香りにも味にも、結月は慣れない。
牛乳と砂糖を入れると甘くなっておいしいのよ、と閑子は言っていたものだが――と、そこで結月は閑子の姿が無いことに気づいた。
……お茶の時間は、閑子が楽しみにしている時間なのに。
そうして、家の中がやけに静まり返っていることに、結月は今さらながら違和感を抱いた。
かち、かち、と時計の音が耳に大きく聞こえる。いつも賑やかな閑子が居ないせいだろうか。静寂はやけに不気味に、心細く感じた。
気のせいだ、と結月は顔を振って、ポットの紅茶をカップに注ぐ。透明な赤茶色の液体が、白いカップに波を作った。
だが、独特の変わった香りが漂ってこない。蒸らし時間が少なかったのだろうか。もう一度淹れ直した方がいいだろうか。
心配になってカップに顔を近づけたときだった。
「――ごめんください」
玄関の方で、女性の声がした。
 




