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(4)

 やがて、笑いを収めた蛙が結月ゆづきに頼んでくる。


「娘さん。水を所望できるかな」

「はい、少々お待ちいただけますか」


 湯呑かコップで水を持ってこようとした結月に、は首を横に振る。


「いやいや、そのたらいいっぱいに、井戸水が欲しいんじゃが」

「え?……あ、はいっ、承知いたしました」


 結月は井戸端に近づいた。

 井戸の上には手押しポンプというものがついており、ハンドルを上下させることで、低い位置にある井戸の水を吸い上げることができる。釣瓶を使って組むよりもはるかに楽だ。

 結月はポンプの口の下に盥を置き、呼び水を入れてから、何回かハンドルを上下させて井戸水を出した。

 なみなみと盥に井戸水が溜まったところで、蛙が「よっこら、せいっ」と飛び上がって、盥のふちに乗った。

 蛙は小さな口を水面につけて、水を飲んでいく。喉を大きく動かして飲む様は、ごくごくと音が聞こえるようだ。

 ……本当にごくごくと、ものすごい勢いで蛙は水を飲んでいた。

 水の量がどんどんと減っていく。小さな白いお腹はとうに破裂していてもおかしくないのに、それでも蛙は飲むことを止めない。

 結月はそこで、蛙の体が水を飲むごとに大きくなっていることに気づいた。乗っていた盥の縁から降りた蛙は、すでに猫よりも大きい。大きな犬くらいの大きさになっている。

 結月が呆気に取られていると、盥を空にした蛙が見上げてきた。


「もう一杯、いただけるかな」

「は、はいっ」


 がっちゃん、じゃぼ、がっちゃん、じゃぼじゃぼ、と手押しポンプで水を汲む。

 盥いっぱいになれば、再び蛙が口をつけて、美味しそうに水を飲む。

 二杯目もすぐに空になり、「もう一杯」「もう少し」と蛙は催促する。結月は大きくなる蛙の傍らでせっせと水を汲み、ついには五杯目になったときだ。


「ふぅむ……娘さん、少し離れていなさい」

「こっちよ、結月ちゃん」


 牛よりも大きくなった蛙と、全く驚きを見せない閑子しずこに促されて、結月は言われるまま井戸端から離れる。

 蛙は最初の半分は屈んで飲んでいたが、しまいには盥を口に銜えて持ち上げ、呷るように最後の一滴まで飲み干してしまった。

 結月を一飲みできるほど大きくなった蛙は、盥をそうっと井戸端に置く。ぷはぁ、と大きな口から白い息を吐き出した。


「ああ……ようやく力が戻った。これで我がくにに帰れる」


 そう呟いた声はすっかりと若返っており、青年のようにみずみずしい響きを伴っていた。蛙は濡れて艶を帯びた大きな目で、閑子と結月を見やる。


「奥方殿、この冬は世話になった。娘さんも……」


 そこで蛙はちょっと首を傾げて「名を聞いてもよいか?」と尋ねてくる。結月が閑子を見やって伺えば、閑子は笑顔で頷いて促した。


「結月です。若佐結月と申します」

「うむ。……結月殿、其方にも感謝申し上げる。実に美味い水であった。この礼はいずれ届けさせる」


 そう言うと、蛙は上へ顔を向けて口を窄め、ぼうっと白い息を吐き出した。白い息は虹になり、虹は晴れた空の向こうへどんどん伸びていく。

 空の果てに伸びた大きな虹の橋に、幾分か縮んだ、それでも結月よりもはるかに大きい蛙が飛び乗った。


「それでは、天方殿にもよろしくお伝えくだされ――」


 水を帯びた声は、虹と共にぼやけていき。

 瞬きをした次の瞬間に虹は消え、井戸端には空になった盥だけが残されていた。

 あっという間の出来事に、結月は青空を見上げてぽかんとする。


「……あの、奥様。今のは、いったい……」

「山口に棲まれる、蝦蟇がま一族の周防様よ。丁重におもてなしなさいって、涼さんに言われていたの」


 にこりと微笑んだ閑子は、結月の問いに答えてくれた。



 ――大蝦蟇おおがまの周防様は、うちの庭で冬眠されていたのよ。

 何でも、昨年の秋の終わりに京都に紅葉見物に行かれた後、そのまま東京まで足を延ばしたくなったそうでね。

 でも、いざ東京に着いたら、寒いうえに力も使い果たしていて、動けずに困っていたらしいわ。

 そこを涼さんが助けたの。ここでなら、ゆっくり休んで霊気を養えるからって。

 庭で一冬過ごされて、きっと喉が渇いていたのね。家の井戸水は美味しいって、けっこう評判がいいのよ。

 たらふく飲んで満足されたのね。すっかり力を取り戻されて、よかったわ。

 結月ちゃん、手伝ってくれてありがとうね。

 きっと、素敵なお礼が届くわよ――



 のんびりとした閑子の言葉に、結月はわかったようなわからないような心持で頷く。

 ただ、やはりこの家は不思議なことが起こるものだと認識したのであった。




 ――さて、その六日後、天方家には一人の来客があった。「主人からお礼の品でございます」と風呂敷包みを持参していた。

 のっぺりとした白い顔の、口の大きな男の人。茶色い着物を着ていたと思うのだが、顔を見たはずの結月の記憶は、何故かすぐに薄れていった。

 ただ、くるりとした黒い目ときゅっと結んだ口に愛嬌があって、少し蛙に似たような風貌であったと、それだけを思い出す。

 風呂敷包みの中には、箱入りの萩焼の茶器と、地酒が入っていた。茶器はご主人に、地酒は奥方に、とのことであった。

 それから、綺麗な白い二枚貝を結月へくれた。

 掌ほどの大きな貝殻は容れ物になっており、中には艶を帯びた亜麻色の、軟膏のようなものが入っていた。なんでも、秘伝の傷薬であるそうだ。ひびやあかぎれによく効きますよ、と言っていた。

 確かにその通りで、小指の爪の先ほどの量を取って両掌に延ばせば、するすると滑らかになった。週に一度、この傷薬を塗るだけで、水仕事で荒れた手があっという間に治ってしまう。

 結月は、素敵なお礼の品を喜んだ。

 蓋を開ける度に、貝の内側の乳白色は虹色の光沢を帯びて、あの日の青空にかかった虹を思い起こさせた。


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