(3)蛙の虹
涼が起きてきたのは、漣が学校に行った後だった。
「やあ、すまないね。二度寝してしまって」
温め直した味噌汁の椀を受け取りながら、前髪の一部に寝癖をつけたままの涼が謝ってくる。
天方家の主人である涼は、会社勤めではなく、自由業をしているらしい。そのため、決まった時間に起きて出勤することはない。この一週間でも、今日のように起床時間が遅くなることがあった。
とんでもございません、と首を横に振る結月に対し、閑子は腰に手を当ててふくれっ面だ。
「もう、涼さんったら。なかなか起きてくれないし、起きたと思ったら寝てしまうんだもの」
「悪かったよ、閑子」
「漣くんも気づいたら学校に行っちゃってるし……」
拗ねる閑子に涼はもう一度謝った後、味噌汁とご飯を食べて「おいしい」と微笑む。
「やっぱり温かいご飯はいいね。お米も好きな硬さだ」
とたん、閑子はぱっと顔を輝かせた。「そうでしょう?」と機嫌の良くなった閑子は、率先して涼の給仕をする。結月はその間に台所の片付けとお茶の準備をした。
涼が食事を終えて食堂で新聞を読み始めた後、結月は掃除に取り掛る。
女中部屋でいったん割烹着を脱ぎ、前掛けをつける。襷を掛けて、おさげを後ろで一つにまとめて手拭いを被った。
納戸にしまっている座敷箒と手帚、はたきと言った掃除道具を持って、夫妻の寝室に入る。
窓や障子、襖を開けてから、布団を畳んで押し入れに入れる。座布団や火鉢にははたきをかけて、隣の居間に移してから、障子や家具にはたきを掛けていった。
はたきを掛けた後は箒で掃いていく。居間も同様に掃除した後は、持ち出していた物を布巾で拭いて、元の位置に戻す。
次は、洋室の応接間だ。こちらもはたきを掛け、空布巾で家具の埃を拭いていった。床は目についた大きな埃をとってから、手帚で掃いていった。
そして、二階への階段、廊下を奥から玄関の方へと掃き進め、玄関の三和土部分、外の玄関ポーチまで掃く。
掃き掃除が終わったら、次は拭き掃除だ。
あらかじめ、水で濯いで固く絞った雑巾を多く用意して、縁側や廊下、階段の板の目地に沿って拭いていった。汚れたら裏返しにして、裏面も汚れれば次の雑巾と変えていく。全部の雑巾が汚れたらバケツでまとめて洗って、と繰り返した。
玄関までの拭き掃除を終えた後、結月は吹き抜けになった玄関ホールで二階を見上げた。
二階の部屋の掃除は、涼に頼まれたときにだけするようになっている。漣の部屋は自分で掃除するように閑子から言われているらしく、涼の書斎も同様であった。
そして、二階の客間は、基本的に出入りが禁止されていた。
『結月くんが入ったら、危ないかもしれないから』
涼の言葉の意味を、結月は最初こそわからなかったが、この数日でわかってきた。
なぜなら――
きし、きし。みし、きし。
見上げる二階のどこかで、かすかに軋む音がする。まるで、誰かが歩いているような、這いずっているような、そんな音。
でも、二階に部屋がある漣はすでに学校に行って不在。書斎を使う涼は食堂で新聞を読んでいる。
誰もいないはずの二階で、誰かがいるような音や気配がするのは、結月の気のせいではなかった。毎日のように、奇妙な雰囲気を感じ取る。
もともと結月自身、人には見えないものまで見える性質だから、こんなに気になるのだろうか。そう思ったが、今までの天方家に来た女中たちもまた、この家の奇妙さに気づいていたようだ。
『だからね、私だけのせいじゃないのよ』
扉を開けたり閉めたり、水道を止めたりガスの炎を上げたり――と奇妙な現象の主な原因になっていた閑子が弁解するように言っていたものだ。
たしかに、閑子以外にも、天方家には何かがいる。
わかったが、結月は以前のように無暗に恐れることはしなかった。
涼と漣は普通にこの家で過ごしているし、何より、結月が慕っている女主人の閑子は幽霊なのである。
奇妙ではあるが、不思議と怖くはない。それが、天方家に対する結月の印象だった。
もっとも、全部が怖くないわけではないし、驚かないというわけでもない。
掃除を終えた結月は、洗濯のために南側の庭に移動する。
洗濯は、水道水ではなく井戸水を利用する。庭の奥にある屋根付きの井戸へ洗濯物を運び、コンクリートで固めた流し場に盥を置いたときだ。
屈んだ結月は、流しの縁の所に、茶色の蛙がちょこんと座っていることに気づいた。
掌に乗るような大きさの蛙は、身体のあちこちに土をつけていた。
春先である。土に潜っていたものが起きてきたのだろう――と思っていたら、蛙が小さな赤い口を開いた。
「――もうし、娘さん」
蛙の鳴き声ではなく、しわがれた男の声がその口から飛び出す。
驚いた結月は「ひゃっ」と声を上げて、尻もちをついてしまった。盥に足が当たり、思わず大きな音が響いてしまう。
「ああっ、す、すまなんだ。驚かせるつもりは無かったんじゃが」
「結月ちゃん、どうしたの!?」
蛙から謝罪の言葉が出るのと、閑子が縁側に出てくるのは同時だった。
地面に座り込んだ結月に、閑子は「大丈夫?」と駆け寄ってきて、流し場の蛙に気づいた。
「あら……周防様じゃありませんか。起きられたんですね」
「うむ。かれこれ四か月ぶりかのう、奥方殿。……ん?んん?……奥方殿、その身体はどうなされた?」
「うーん、私もよくわからないんですの。気づいたらこうなっていて」
にこやかに会話を交わす閑子と蛙――周防という名らしい――は、どうやら顔見知りのようである。
尻もちをついたまま呆気にとられる結月であったが、蛙が顔を向けてきて「ときに娘さん」と声を掛けてきたので、はっと我に返り立ち上がった。
「は、はいっ!ご用がおありでしょうか、す……周防、様?」
「おお、儂の言葉がわかっとるのか」
蛙は「ほう、ほう」と楽し気に目を細める。
「珍しい娘よの」
「先週から家に来てくれた子なんです。真面目で働き者で、私のことも見てくれて、とても助かっていますの」
「そりゃあまた、都合が良いじゃろうて。……娘さん、驚かせてすまなかった。怪我はないか」
「はい、ありません。私こそ、失礼な態度をとって申し訳ございません」
結月が頭を下げると、「ううむ、まことに珍しい娘よ」と蛙は笑った。
 




