6.謎の欲求
イミコとの生活が始まってもう一月が経とうとしている。この間に弱い人間が生きるために必要なものは大体揃っただろう。快適、とまではいかなさそうだが不自由のない生活にはなっているようだ。少なくとも人間の村に居た頃よりもずっと生活の質は向上した、と本人からは聞いている。
雨風を凌ぐ壁と天井のある家、いつでも入れる温泉(と人間は呼ぶらしい)、硬い木の実の殻でできた器と、龍の爪で作ったナイフ……いや、ホウチョウだったか? とにかく我は様々な物をつくり、イミコの生活を充実させた。
それもこれも我が強大な魔力を持ち、汎用性の高い原始の魔法を使える龍であればこそ出来たこと。イミコはもっと我に感謝して笑えば良い。
「どうかした?」
「……何もない。気にするな」
焼き魚を口にしていたイミコが、我の視線に気づいて顔を上げる。その顔には不思議そうな表情が浮かんでいて、しばらく前までほとんど顔が変わらぬまま首を傾げていたのが嘘のようだ。生活の変化に伴い、彼女にも様々な変化が起きている。
出会った当初に比べて随分と言葉は滑らかになったし、肌は相変わらず真っ白だがどこか赤みが差して健康的になったように見えるし、何より目に気力がある。表情の変化は大きくないがそれなりに変わり、我が知っている人間大分近づいてきた。
そのおかげか、見ていて全く飽きぬ。一日中イミコを眺めて過ごせる程だ。次はいったいどのような顔をするのかと見ていれば、本当にすぐ一日が終わってしまう。暇がつぶれすぎて、イミコが眠った後に自分が住処を探す旅をしていたことをふと思い出し、しかし今の過ごし方を結構気に入ってしまっているために住処探しを先延ばしにしてしまうという有様だ。
……このままここを住処にしてしまうという考えも浮かんだが、それはできない。付近にはイミコの住んでいた村があり、我の存在が知られれば今の生活は続けられないであろう。イミコもどうなるか分からない。
(騒ぎになる前に、ここを離れなければならんな)
しかし、我が居なくなってしまえばイミコは生きていけるかどうかも怪しい。とてもひ弱な人間であるし、見ていないところで死なれてしまっては寝覚めが悪い。彼女を置いてこの場を離れることは躊躇われるので、場所を移るなら彼女も連れて行くべきであろう。
……別に我がイミコと共に過ごしたいから連れて行くわけではないぞ。断じて違う。
「イミコ、近々ここを離れようと思うのだが」
我がそう声をかけるとイミコは目を丸くして固まった後、急に暗い顔をした。何にそこまで落ち込んでいるのかさっぱり分からないが、そのような顔をさせるつもりはなかったので少しばかり悪いことをした気分になる。話を聞く限り良い思い出などなさそうに思えるのだが、それでもここはイミコの故郷である土地。離れることを寂しく感じるのかもしれない。
……イミコがどうしてもここに残りたいというならば仕方ない……いやしかし、ここに置いて行くと死にかねないしどう説得したものか。
「お前は知らんだろうが、世界というのはとても広くて興味深いのだぞ。きっとこの場所よりもお前にとって住み易き環境だってあろうし、どうしても帰りたくなったら我がまたここまで連れてきてやることもできるし……む、どうした?」
先ほどまで暗い顔をしていたイミコが、驚いたような顔をして我を見ていた。この場にまた戻してやると言ったことがそんなに驚くことであったのか。……我は見知らぬ土地に連れ去って、本人の希望も聞かずに留まらせるほど器量が狭いつもりはないのだが、そのように思われていたのだろうか。それは少しばかり心外である。
「私も……連れて行ってくれるの?」
不満げに揺れていた尾がピタリと止まった。予想外の言葉についイミコの顔をじっと見つめてしまう。
我は元よりイミコを連れて行く前提で話していたのだが、どうやら彼女は置いていかれるものと思っていたらしい。
意思の疎通が上手くできていなかっただけで、どうやらこの土地を離れることに抵抗はなさそうだ。やはり一人この場に置いていかれることには不安を覚えるのであろう。それならば先ほどの表情も納得できる。
「当然であろう。お前にはしばらく我に付き合うように言ったはずだ。忘れたのか?」
「忘れてないよ。……そっか、私まだクロムと一緒に居られるんだね」
イミコが笑った。薄く目元を赤に染めながら、心の底から嬉しそうだと分かる顔で笑っていた。それを目にした瞬間心臓を杭で打たれるような衝撃を受け、何故だか彼女のその表情から目が離せなくなる。
我と共に過ごすことをどうしてそこまで喜ぶのか分からないが、そのように思われて悪い気はしない。しかも花の咲くような柔らかい笑顔を見せられて……何故か、体の奥から食欲に似た何かが湧き上がってきた。
食事という行為を必要としない我が目の前の人間を食べたいと思うはずはないし、食欲ではないはずだ。ただ、その柔らかな体に巻きついて締め付けてしまいたいような、軽く噛み付きたいような。傷つける気は全くないというのに、そのような気分になってしまった。
(なんなのだ……これは……)
先ほどの笑顔が目に焼きついてしまったように頭から離れないし、妙な欲求は消えることなく腹の内にとどまっている。どうにも落ち着かず、地面を何度も尾で叩けば心配そうな宝石のように透き通った赤い目が我に向けられた。
「……たいしたことではない。気にするな」
ひたすら地面を叩く尾によって地面が少々へこみを作った頃、ようやく謎の欲求は収まった。しかしそれはイミコのちょっとした行動や表情の変化で何度も訪れる不思議なもので、我はその度に尾を地面に打ち付けたり、頭を抱えたりすることになってしまう。
……本当にいったい何なのだ、これは。
抱きしめたい、甘噛みしたい、そんなクロムでした。
久しぶりの更新で申し訳ないですが、暫くゆっくり更新が続くと思います。