延暦寺攻略①
天海から「本能寺の変」の首謀者は他にいると告げられた深海。その真相が語りはじめられる… …
元亀二年(一五七一年)九月、その出来事は起きた。
いや正確には計画的に実施された戦略と言うべきであろうか。この前年、越前国の朝倉攻略を開始した織田・徳川軍は突如義弟である浅井長政の裏切りに合い、命からがらの逃亡を余儀なくされた。
その後姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を撃退したものの、数か月間に渡り一進一退の攻防を繰り広げる。
そんな矢先、浅井・朝倉連合軍は比叡山延暦寺と手を組み志賀の陣を開始。正親町天皇の調停により陣は解かれたものの、延暦寺とはしこりが残る一戦となった。
そもそもこの頃の延暦寺は僧侶が僧兵化し、略奪、横領、暴行など犯罪行為が表面化。既に民のチカラでは抑えられない事態にまで悪化していた。
そんな延暦寺に対して信長は、治安維持のため横領した寺領の変換を約束させたが、延暦寺側はその講和を一方的に破棄。それどころか敵方の浅井・朝倉連合軍に加担する始末に、信長の堪忍袋の緒も切れかかっていた。
「もう勘弁ならん! 即刻攻め込んで全員ひっとらえるべきだ」
猛烈な夏の日差しが照り付ける岐阜城内で、今にも頭から血が飛び出すのではないかという勢いで怒号のごとく持論を展開しているのは、織田家一の猛者と言われる柴田勝家であった。その野太い声は場内全域に響き渡り、城の周囲で大合唱を繰り広げるセミの鳴き声をかき消すほどだった。
「珍しく意見が合うな、権六殿。我も同感である」
勝家とは対照的に、静かな物言いで意見に賛同したのは丹羽長秀だ。文官である長秀は少し斜に構えた物言いが特徴的だ。
「お館様、ご決断を!」
小姓として長年仕えて来た池田恒興が、信長に決断の催促を求める。
会議は既に数時間続いていたが、なかなか結論にこぎつけないでいた。それもそのはず、会議の内容は『比叡山延暦寺攻略』であるからだ。
かつて武将同士の小競り合いや城攻めは幾度となく乗り越えて来た猛者たちだったが、相手が寺社、それも僧侶というのは前代未聞の珍事。常識的に戦いを挑んで良いものかどうかからの議論である。
これには天下布武を掲げて勢いに乗る信長も簡単には踏み切れないでいた。
「明智殿、お主はどう考える」
信長は将軍足利義昭に暇乞いを突きつけたばかりの明智光秀に意見を乞うた。
「某し、まだ織田家と足利家の両属と言う曖昧な身分。他の重臣の皆様に先にお伺いくだされ」
「そうしたきは山々なのだかな。見ての通り、ここにいるのは権六(勝家)、五郎左(長秀)、勝三郎(恒興)にサル(木下秀吉)、忠政(中川重政)のみ。牛助(佐久間信盛)と夕庵(武井夕庵)は、先ほど書状で猛烈に反対の意を唱えてきおったわ。それに一益(滝川一益)、犬千代(前田利家)、成政(佐々成政)、与兵衛(河尻秀隆)ら、主だった輩は一揆征伐に向かわせておる。故にお主の意見を聞きたいのだ」
「なれば分かり申した。まず信盛殿と夕庵殿は反対であるということでありますな。では某しの意見を申し上げまする。結論から申し上げますと、延暦寺攻略は決行なさるべきと心得ます」
その進言に勝家、長秀、恒興、重政から安堵の息が漏れた。光秀は具申を続ける。
「理由は既知の通り。今の延暦寺は寺社、仏閣の範疇にあらず。僧侶は僧兵と化し、その思考は山賊に近しい存在。村里を襲い目ぼしき女人をさらい略奪の限りを繰り返す。このような俗世の快楽に身を亡ぼすばかりならまだしも、地位的特権が認められている利点を活用し政治にも口を挟む。正親町天皇の弟君が延暦寺の主として就任したのも、彼らを増長させてしまった要因。その知名度を利用し横領に手を染め、近隣の寺社や仏閣の領有権をも奪い、今や悪逆非道の限りをやりつくしたような有様。山賊、海賊の方がまだましと言う民もいるほどであります。彼らには一刻の猶予も同情もいらず、排除なされるのが良かろうかと考えまする」
「とは言え明智殿、相手は神仏の加護を受ける者共。牛助の書状による進言も無視はできぬ。俗世化しているとはいえ攻め入ったとあれば、その後の天下統一の妨げとなるであろう」
「それは心配いりませぬ。攻略する対象を僧兵化した僧侶のみに限定すればよろしいのでありまする。僧兵こそが領民においても悪の根源。その上、僧兵に支配されている学僧や上人、それに女人、子供も寺社内にはいるはず。表向きは彼らの救出を掲げ、建造物には傷一つつけぬよう、なるべく注意を払うことで、天下万民の心が揺らぐことはありませぬでしょう」
「いやお見事!」
光秀の口上が終わるや否や、唐突に甲高い声が場内をこだました。声の主は木下秀吉である。
これまですべての意見に無言を貫き通していた秀吉だったが、本日初めてその声を発した。機会を待っていたのであろう。今がその時とばかりに末席より立ち上がり、つかつかと信長の面前に歩み出た。
「この秀吉も、明智殿のご意見に賛同仕るでござる。信盛殿の意見書にもある通り、延暦寺攻略は織田家の品位と、その後の天下平定を阻む危険な行為であることは否めぬ事実。しかし今、延暦寺に手を付けぬことは万民の平和にとっても、天下布武を掲げるお館様におかれましても、先々の妨げになりましょうや。この秀吉もその点で悩んでおり申したが、明智殿のご意見で目が覚め申してござる。要はお館様や万民の弊害となる僧兵のみを根絶やしにし、建造物に傷をおわせねばよいだけでござる」
会議の締めくくりにあたかも持論が如くの意見を述べ、良いとこ取りの提案をするのが秀吉の常套手段であった。他の重臣たちもこのような振る舞いには心底腹立たしく感じていたが、その饒舌さゆえ問答では敵わず、敢えて不満を口にしなかった。
長らく続いた会議はここで一時閉幕する。上機嫌の秀吉はすぐさま城を出て、金華山麓の城下へ下って行った。
「権六、不服そうであるな。顔に出ておるぞ」
信長が勝家の顔を見て指摘した。心情が顔にでる勝家の心を読み解くのは、信長でなくとも容易である。
勝家の不満の源は秀吉の言動だ。戦しかできぬ武闘派馬鹿と呼ばれるほど実直な勝家だからこそ感じ取れたのだろうか。秀吉の言動に偽りの匂いを感じざるを得ない。『お館様は奴のずる賢さに気が付かないのか』と、勝家のいら立ちは増すばかりだった。
そしてこの後、延暦寺攻略部隊として指名されたのが明智光秀、柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、武井夕庵、中川重政、そして木下秀吉だった。
つづく
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