五月雨の来客③
病床の天海の前に現れた養華院と名乗る尼僧。彼女は深海のことを知っているようだった。
養華院と名乗るその尼は、美濃国にほど近い飛騨国内にて尼寺の住職をしており、天海とは旧知の仲とのことだった。
尚、養華院のいる飛騨国は元来、公家の姉小路家が国司を務めていた国で、織田政権下においてはその旧領を安堵されていたが、豊臣政権下で統治大名家が滅亡した後は、主だった統治者もおらずほとんど手つかずのまま放置されている国でもあった。
飛騨国から京の都までは距離的に決して近くはない。高齢の養華院としてもその道程は楽なものでなかったと感じる。
しかし、先が短いと悟った天海が内々に文を出し、養華院を呼び出したのだった。ある意味、天海との最後の別れの挨拶である。
「ところで天海様、あれから三十年が経つのですね」
「うぬ、あの日も今日と同じように雨が止んだり降ったりが繰り返される日であったわ」
深海は再び眉を動かした。先ほどの天海のつぶやきと全く同じ言葉が繰り返されたからだ。
あれから三十年……。
天海に続き尼からも発せられた言葉の意味を深海は理解できないでいた。
『今から三十年前というと天正十年あたりか。その頃に起こった出来事とは?』
悩む深海をよそ目に尼の会話は続いていた。
「延暦寺の再興、順調にお進みのようですね」
「ここにいる深海のおかげじゃ。あと数年は掛かりそうであるが目処は立っておる。問題ない。これで貴女も安心であろう」
「本当に……。この延暦寺の再興、天海様が家康公に自ら志願されたのではありませんか?」
「貴女には嘘はつけんな。例え悪事制裁、平穏な世を創るためとはいえ、世間的には到底許しがたいもの。我が友の尻拭いじゃよ」
「やはりそうでしたか。改めて天海様には感謝いたします」
「気にしなさるな。じゃが、あの出来事はあまりにも驚愕すぎたわい。あの一件で失ったものは人心のみならず……じゃ」
「はい。あれ以降家中は分断されたかのように感じます」
「左様、実際家臣団の心は二つに分かれた。忠誠を誓う者と、そうでない者に……」
「そしてあの事件が起きました。私は彼の者が、実行したとは考えにくいのです。天海様、そろそろ真実が知りとうございます」
「そうであるな。拙僧ももう長くはない。此度は真実をお伝えする最後の機会と思い拙僧も貴女に文を出したまでよ」
二人の会話が淡々と進む。三十年という記憶を遡っているのだろう。
しかしここまでの会話の流れで、さすがに深海もこの二人が“三十年前”の何の出来事を話しているのか理解できた。延暦寺が廃墟に化した理由、そして三十年前の出来事の双方に関与している人物―――。
「織田信長……」
深海は思わずその名を口にし、
「お二方がお話しされている出来事とは、もしや明智光秀が謀反を起こした『本能寺』の一件でございますか」
と、茶の湯を沸かしながら二人に問いかけた。
その問いに黙ってうなずく天海だったが、養華院と目が合うと直後に
「あっ、いや、今の質問には間違いがあるな」
と、何故か質問自体を否定した。
二人の会話に割って入る無礼を深海も承知の上だった。しかしかつて天下に名を轟かせた大大名の話題である。深海でなくても好奇心を駆り立てられる。深海はその湧きあがりつつある好奇心を抑えられなかった。
「どの辺りが間違いなのでしょうか?」
首を傾げて問う深海に対して天海は、
「謀反を起こした人物の名じゃよ。真実は他にあるのじゃ」
と指摘した。
意味深長な天海の発言。腑に落ちず眉をしかめる深海。
それを傍から眺めていた養華院は、天海にやさしく微笑んだ。その微笑みが相図になったのだろう。天海は長年、心の中にしまい込んでいた秘密を吐露し始めた。
「謀反人は、光秀ではないということじゃよ」
外は日差しこそ差さないまでも雨は一時的に止んでいた。そんな中、紫陽花に次いでカタツムリまでもが時期を間違え葉の上を徘徊している。東求堂から臨む庭先は静かな時の流れに包まれていた。
天海は数十年前の出来事を思い起こすように目をつむり、
「これは拙僧の友から聞いた話である」
と、前置きをして語り始めた。
つづく
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