五月雨の来客②
大僧正、南海坊天海に「名」を譲ると言われた愛弟子の深海。戸惑う深海に天海はさらに話を進める… …
降り続いていた雨も弱まりを見せ、徐々に小雨程度になりつつあった。
「仮に自分が僧正様に成り代わっても御尊顔が違います。直ぐに正体が明かされてしまうでしょう」
「その点は問題ない。元来、拙僧の素性を知っておるのは今や家康公など一部に過ぎぬ。普段の拙僧は、お主と同じように目元まで白布で顔を覆っておるゆえ、素顔は門弟ですら知らぬのじゃ。故に入れ替わったとしても誰にも悟られぬであろうよ」
「しかし家康公がお許しになりますまい」
「家康公も承知の上じゃよ。今、江戸幕府を取り囲む寺社仏閣は、大名、武将の取り込みで躍起になっておる。今のところ拙僧のチカラでむやみな権力争いは抑えておるものの、拙僧が他界したらどうなると思う」
「宗派闘争、新たな争いの火種が巻き起こる… …でしょうか」
「その通りじゃ。江戸に幕府が開かれたとはいえ、今なお大坂では豊臣の一族が虎視眈々と幕府の隙を突こう時期を見計らっておる。淀君も秀頼殿もまだ若いからの。年老いた家康公に何かあればまた戦乱の世に逆戻りじゃ。宗派対立もしかり。軟弱な基盤を覆すには最も効率的な戦略であろう。つまり、江戸幕府が完全に安定するまでは、拙僧は死んではならんのじゃよ、永遠にな」
関ヶ原以降、戦乱の世が終わった江戸では、あらたな問題が浮上していた。それはしばらく成りを潜めていた宗派対立である。
平穏な世が訪れるや否や、江戸を取り巻く各寺社仏閣が勢力拡大をもくろみ権力の中枢にいる役人、さらには町民まで巻き込むまでに発展。特に臨済宗の崇伝は、天海に匹敵する勢力にまで成長していた。
そのような世情を知ってはいるものの、深海個人としては到底請け負いきれない重責である。それに深海にはもう一つ天海しか知らない隠し事があった。「僧正様、やはりこの話は… …」と、深海が改めて断ろうとした矢先、一時的に小ぶりになった庭先に天海の視線が向けられた。
「ほう、これはこれは珍客の御登場じゃわい」
深海は天海の視線の先を追った。そこには池の淵に佇む、白布を頭上から纏ったひとりの尼の姿があった。尼は天海に向かってひとつ会釈する。
「いやはや、遠路はるばるよく起こしになられたな。そんなところにおられないで早くこちらにお上がりなされ」
天海の手招きで、尼は少々躊躇しながらも同仁斎側の縁側から草履を脱いで上がって来た。年のころは天海とあまり変わらなさそうに見えるその尼は、どことなく気品に満ちている。容姿や所作などからも、格式高い武家出身であることが容易に推測できるほどだ。
尼は何度か声をかけていたものの雨音でかき消されてしまったらしく、仕方なく庭先に廻ったとのことだった。
「失礼とは思いましたが、何か込み入った話をされていたようでしたので、しばらくお庭を散策させていただいておりました」
「いかがかな、この慈照寺の庭は?」
「噂にたがわず立派なお庭ですね。小雨で小山の方は見渡すことができませぬが、池の周りの手入れは立派なものです。天気が良ければ小山の上から全貌を見てみたいものです」
「この雨も明日にはやむであろう。その時廻られると良い」
「そうですわね。是非そうさせていただきたいものです」
尼はニッコリと微笑んだ。
「それより天海様、お加減はいかがですか?」
「いや、見ての通りじゃよ。拙僧も歳には勝てぬ様でな。既に足も弱り思うように歩くこともできぬ。この先、この東求堂から出れることはないであろうよ」
「あの天海様が、なんと弱気な」
「弱気……か。そう見えるかもしれぬな。じゃが、この国が目指すべき望みは、未だ捨ててはおらぬつもりぞ」
「目指すべき望みですか?」
「今も将来の、拙僧の名跡について深海と話していたところじゃよ」
「将来……名跡と申しますと……」
尼は天海の言葉を復唱すると同時に、何かに気がついたようで、ふっと隣にいる深海に目を向けた。
尼に見つめられた深海は、その眼力に威圧された。『これが年老いた女性が送る視線なのか?』と、深海は生唾を飲み込んだ。その瞳は鋭く深海を貫く。それは時間にして一瞬の出来事だったが、深海は尼に心の中まで見透かされたような気分に陥った。
尼は深海から視線を外すと、
「では、こちらの凛々しい殿方がもしや、深海殿ですか」
と続けた。
「自分のことをご存じで?」
少し動揺する深海に、
「やはりそうでしたか。お目にかかれて嬉しゅうございます」
と、尼はニコッと微笑んだ。
その深海に向けられた眼差しは優しく、愛情に満ち溢れているのが分かる。つい先ほど自分に向けられた視線とは全く違う眼差しに、深海は戸惑った。
尼はその後「養華院と申します。改めましてお初にお目にかかります、深海殿」と丁寧な挨拶をした。
つづく
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