敵と味方と
着々と形成される信長包囲網。その勢いは止まらない… …
元亀元年(一五七〇年)八月、姉川の戦いにおける大勝利の余韻に浸っていた織田軍に一転して最大の危機が到来した。摂津国での三好三人衆の逆襲である。信長包囲網が形成され、信長が劣勢に立たされたと読んだ彼らが、摂津国に性懲りもなく再上陸し、そして挙兵したのだった。
当然波に乗る織田軍は即座に出陣するが、ここに新たな誤算が噴出した。それはこれまで中立を維持してきた石山本願寺の『対信長挙兵』である。
石山本願寺の法主・本願寺光佐(本願寺顕如)は各地の一向衆の一斉蜂起を下知。織田信長のお膝元である尾張国でも、一向衆の門徒が長島にて一揆を勃発させた。これにより織田軍は完全に戦力を二分しなくてはならなくなったのだ。
その上姉川で辛酸を舐めさせたばかりの浅井・朝倉軍が今度は比叡山延暦寺と共闘し、三万の大軍にて近江国・坂本城へ押し寄せて来た。織田軍本体は東と西からの挟み撃ちに苦しむことになる。
しかしここで信長は、攻撃対象を東の浅井・朝倉・延暦寺連合軍に絞り込み、本陣を近江に移した。これに慌てたのは連合軍側だった。急遽本陣を後退させ比叡山へと退却。織田軍が比叡山を取り囲む中で二ヵ月間にも及ぶ籠城の構えをとったのだ。
このような状況が長引くほど一番不安を抱いたのが将軍・足利義昭だ。将軍職が傀儡化され自身の思うような政治ができないことに苛立ち、信長包囲網の形成にこぎつけたものの、もしこのまま信長が破れ畿内より離脱した場合、三好三人衆による畿内支配が再構築されることが目に見えていたからである。そうなれば傀儡化よりもさらにたちの悪い『暗殺』が待ち受けている。これでは兄・義輝の二の舞になることが目に見えていた。
そのような最悪の事態を想像する最中、信長から和睦仲裁依頼の使者が訪れた。さすがの信長も四面楚歌状態で動きが取れず、これ以上の持久戦に持ち込まれたら不利だと感じたのだ。
しかしこの依頼は同じく不安を感じていた義昭にとっても吉報であり、彼はすぐさま朝廷を口説き落とし和睦の仲裁に尽力。その年の末には両軍の講和は成立し志賀の陣は終焉した。
あと一歩のところまで追い込みながら策が失敗した秀吉と延暦寺の座主・覚恕法親王だったが、彼らの中では既に新たな策略が進行していたのだった。
カタチはどうにしろ織田信長との和睦がようやく実現し安堵していた浅井長政だったが、年が明けた元亀二年(一五七一年)、新たな勅命が下った。反信長の再蜂起である。当然この勅命は朝倉側にも下っており、朝倉義景は呼応する意志を直ぐに表明した。
織田・朝倉両者の間で板挟みに合い頭を抱える長政の下に、信長からは度々使者が訪れていた。その使者とは竹中重治である。
ただこの時分では、信長も重治も朝廷の関与がはっきりとしていなかったため「いつまでも将軍なんぞに忠誠を誓っておらず謝罪すれば許す」とだけ伝えるに留まっていた。結果これが大きな読み違いであることに重治が気付くのは、これより少し先の話である。
こうして重治が長政調略に動いている中、岐阜城内では『延暦寺への報復措置』が議論されており、事実上の延暦寺への単独攻略が閣議決定されるに至る。そしてこの年の九月、信長軍以外の何者かの手によって延暦寺は焼失した。
世間はこの表面化された事実だけを鵜呑みにし「信長は鬼だ」「天魔の使いが降臨した」「織田に逆らうと皆殺しにされる」などと、天下布武とは逆行した噂が広まり、ついには日本中を駆け巡った。織田信長の名が地に落ちた一件である。信長からの人心離れが加速する。今まで信長に対して中立を保っていた大名も反織田を掲げはじめ、家臣として降った外様大名の忠誠心は低下していった。ここからの立て直しは容易ではない、いや不可能に近いことは信長自身が感じていた。
この延暦寺焼き討ちに伴う黒幕の存在が明るみに出始めたのもこの頃である。しばらく軍を離れさせ単独行動の任務に就かせていた重治の調査の結果、信長包囲網には朝廷が絡んでいることが徐々に暴かれてきたのである。
だがその裏で糸を引くであろう秀吉の決定的な証拠は見つからないし、追放することもできなかった。何故なら秀吉の金ヶ崎での活躍は家中に響き渡っており、さらに姉川の戦、志賀の陣での攻防など家臣団の中でも群を抜いた働きが目立っていたからである。さらに筆頭家老の双璧をなす丹羽長秀を取り込み、池田恒興とも親交が深い。このような家臣を突然追放するようなことがあれば、家臣の忠誠心と威信が薄れることは必定。
信長はかつて実弟・信行を刃にかけて依頼、久しぶりに獅子身中の虫、敵は味方の中に隠れていることを身に染みて感じた。
『秀吉の目付け役が必要だな… …』
そこで信長は重治の願いもあり、彼を秀吉の与力として再任。秀吉に戦国随一の『鈴』を付けたのだった。
つづく




