広き世界③
天下布武を世界に広めようという新たな夢を抱く信長。しかし、その夢の実現には険しい難関が待つ構えている… …
ここで少しは印象を残しておこうと動いたのが丹羽長秀である。
「恐れながらお館様、今の明智殿の戦略、まことにその通りと感服いたしましたが、前提となる技術がおいついておりませぬ」
「申してみよ、五郎左」
「造船技術であります。見る限り、フロイス殿はこの地球儀なるものの裏側から来られるほどの船力を持っております。それに対して当方はせいぜい隣の明国に行けるくらいが関の山。もし将来的に領土拡大をお考えであれば、まずはこの問題点を解決せねばなりませぬ」
「そうであるな。良いところに気が付いた。でかしたぞ、五郎左。では我が軍で造船に適した者をみつくろえ」
「造船に適したものでありますか… …。さすれば最近、伊勢の北畠より降ったばかりでございますが、九鬼嘉隆などはいかがでしょうか」
「うむ、よかろう。では九鬼嘉隆に異国の造船、航海技術の習得をさせることを命ずる」
この後早速、フロイスと造船技術の享受に向けた交渉に入ったが、フロイス側から引換えに出された条件は『京の都での布教活動の容認』であった。そこで信長はフロイスの布教活動が円滑に進められるように、細川藤孝を相談役として任命。藤孝もこれに従った。
こうしてフロイスによるカトリック教会の建設と布教活動が、信長認可の元に堂々と施行されたが、これに激怒したのが義昭だった。義昭は自分が認知しないところで布教活動の許可が下されたことと、さらに自身の家臣である藤孝を勝手に使われたことに激怒。信長の命令を受け入れた藤孝にも、この後ひどい八つ当たりを繰り返すようになった。結果的にこの八つ当たりが、後の藤孝の造反理由につながった。
そしてもうひとつ、布教活動に反対的立場をとっていた団体があった。高野山とともに国内宗派の双肩を担う比叡山である。
比叡山延暦寺はこの信長による異教布教活動に抗議の意を唱え、朝廷・正親町天皇に上訴。自身の弟が延暦寺の座主であるため、この訴えを無下にできず頭を抱えることになる。そこで正親町天皇は、信長のご機嫌をとり布教活動に制限を加えようと副将軍職への任命を促す策にでるが、規制権力などに毛頭興味のない信長はこれを事実上無視した。
こうして信長は、時の朝廷や既存宗教団体、そして幕府との間で徐々に亀裂を深めていくことになった。
そんな中、信長の政策に同調し、またご機嫌を取るために近づく者も出始めた。堺の有力会合衆のひとり今井宗久である。
彼は信長の能力と統率力を商人ながらいち早く認め、一級品の茶器や軍事支度金を献上。信長に批判的な会合衆を取り込むため、自ら会合衆の取りまとめに奔走した。このような献身的な行動は、信長の覚えも大変良く、経済面における信長の信頼を一身に受ける。
またこの際、信長は交渉力では家中内でも指折りの秀吉を堺の取りまとめ役として内々に任命。織田軍の安定資金を確保させる交渉を随時行わせた。しかしこれが後の禍の種になろうとは、この時信長ですら予知していなかった。
年が明け元号も変わった元亀元年(一五七〇年)、信長による将軍軽視の行いが目に余る中、信長はさらに義昭にとって屈辱的な次の手を打った。「殿中御掟」の調印である。
この制約自体は義昭がくだらない行動を侵さぬように、この前年に両者で合意し既に承諾済みの案件であったが、信長はさらに厳しい五箇条を新たに付け加え、義昭の政治活動をほぼ完全に制限した。事実上の傀儡政権の誕生である。
もちろん信長が、突然このような一方的な行動に繰り出したのには理由がある。それは義昭に忠告を促し、諫めるものでもあったのだ。将軍の地位につけば何でも自分の思いのままに世の中を動かせると思っていた義昭だったが、蓋を開ければ信長の掲げる天下布武のもとに何にもできない。遊びも権力の行使も制限をつけられる。傀儡と化し面白くなくなった義昭が、周辺諸国の大名に信長討伐の内書を送りつけていたのが発覚したからだった。
そもそも義昭自身には人を引き付ける求心力も将軍としての政治能力も、兄・義輝のような武力もない。通常なら将軍職に就けけただけでも有り難いくらいなのだが、生来自分の思い通りにいかないと駄々をこねるわがままな性格のため、己の力量も分からずに信長に牙をむき始めたのだった。
ところがこの義昭の内書には、周辺諸国の大名たちの喰い付きが意外と良かった。最終的な包囲網は、東は甲斐国の武田晴信、越後国の上杉輝虎、西は安芸国の毛利元就、そして摂津国の本願寺顕如、越前国の朝倉義景などそうそうたる列強各国が参戦。その包囲網は広範囲に形成されていった。
つづく




