岐阜の夜宴①
信長との謁見を無事に乗り切った光秀が、上洛準備を進める中のある日… …
同年七月、信長の上洛同意を取り付けた足利義昭は、約定の立役者である光秀と藤孝を随伴し美濃国岐阜城下町内にある立政寺に迎えられた。この後上洛準備が整うまでの二か月の間、義昭はこの寺で過ごすことになる。
大きな後ろ盾を得た義昭は、既に将軍職返り咲きを確信したかの如き喜びようで、信長の使者が立政寺を訪れるたびに「上洛日はいつでおじゃる」と聞いて廻るほどだった。その節操のない浮かれようには、側近である藤孝も苦虫を噛み潰したような表情で不機嫌さを露わにしていた。
そんなある日のこと、光秀のもとに織田家の使者から内々の文が手渡された。差出人は竹中重治である。
文には『今晩、日の入り時に当家にて設宴を催したく候』とのみ書かれていた。なんとも簡素な便りではあったが、光秀はこの文面に隠された意味を読み取った。
立政寺から竹中邸までは半刻あれば往復できるくらいの距離である。抜け出すのは容易であった。
竹中邸に着くと、重治自らが門前にて出迎えのため待ち構えていた。
「兄上お待ちいたしており申した」
「うむ。久しいな重治。全て予定通り遂行中のようであるな」
「今のところは問題ありませぬ」
「城内では幾度か顔を合わせることがあったが、お互いなかなか話す機会がなかったからな」
「そうでありますな。少し失礼とは思いましたが、気安く話しかけるのも人目があるため、お許しくだされ」
「お互い立場があるゆえ、今はそれが賢明であろう。ところで本日の設宴だが単なる接待ではなかろう」
「やはりお気づきでありましたか」
「むしろ、気付かせるような内容に仕立てたのであろう」
「まぁ、そうでございますな。では話が早くて助かります。早速こちらへ」
重治はそのまま光秀を邸宅内の広間に通した。
広間の襖を開けるとそこには、四名分のお膳が並べてある。上座に二膳、下座に二膳という配置だ。
そして上座には既に先客がどっしりと腰を落として座っていた。信長である。そしてその隣には正室・帰蝶も同席していた。
『やはり察した通りであったか』と、光秀は心に抱きつつその場で跪いた。
しかし信長は「挨拶はいらぬ、それより早く入って酒を注げ」と、銚子を揺らして催促した。
下座には光秀と重治が着座し、信長に酒を注ぎ盃を酌み交わした。
信長は家臣の家に突然お忍びで押しかけては酒宴を仕掛けているらしく、重治の邸宅にも時折顔を見せるとのことだった。
「今宵は光秀に会うと言ったら、こやつが連れて行けとうるさいものでな。仕方なく連れて参ったわ」
隣の帰蝶を横目で睨みながら、信長は盃の酒を飲みほした。
「それは光栄であります。奥方様と同席させていただけるとは有りがたき幸せであります」
光秀は改めてかしこまりお辞儀をする。すると
「ふん、ぬかせ。聞けば貴様ら従妹の間柄らしいではないか」
と、信長から軽口が叩かれた。それに対して帰蝶は、
「左様でございますよ。十兵衛殿には幼き頃よく遊んでもらいましたな」
と、にこやかに笑って返した。設宴は序盤から帰蝶、光秀の幼き日の話で盛り上がった。
こうして酒の量も進んでいくと、帰蝶が突然
「私、あのサルが大っ嫌いであります」
と、暴言を吐いて信長に突っかかって来た。これにはさすがの信長も
「酔いが回ったか、頭を冷やして参れ」
と静止しようとしたが、帰蝶は構わず毒舌を吐き続けた。
「そもそも先日のあの意見具申はなんなのでございますか。丹羽殿の名誉を守るためとはいえ、あれでは十兵衛殿と細川殿を貶めるというもの。いえ、初めからそのつもりで発言なさったのでしょう。サルにとってはあの発言で失うものがないばかりか、丹羽殿のご機嫌もとれ、さらに丹羽殿が具申した旦那様の御身を案じた発言を、あたかも自分が発言者だと訴えかけているようなもの。その上、その責任を全て十兵衛殿と細川殿に擦り付けられるのですから。十兵衛殿がその場をしかと乗り切って見せたから良いものの、本当に腹立たしかったですわ」
帰蝶は言い終わった後もプンプン顔で頬を真っ赤に紅潮させていた。その光景にあたふたしだしたのは光秀本人だった。
確かにあの交渉時の秀吉の発言には苦しめられた。それだけに今の帰蝶の言葉は限りもなく嬉しかったものの、こうもあからさまに言われては身も蓋もない。それも信長の面前だからなおさらだ。
次の言葉が口から出せずにいる光秀の様子を、こともあろうに隣に座る重治は吹き出しそうになりながら見ている。
「重治殿、笑ってないで助け舟を出していただけぬか」
光秀は悲壮な顔になりながら懇願する。
「いやいや、兄様は果報者でございますよ。奥方様にあのように言ってもらえるのですからな」
「重治殿、からかわないでくだされ。奥方とは血縁関係なれど、今の某しは他国の客人の身。織田家家中の方々の評価を下げることは望んではおらぬ」
必死に取り繕う光秀だったが、今の言葉に反応したのは帰蝶だった。
「客人だから言葉に苦慮されているのであれば、いっそのこと織田家の人間になればよろしいではないか。さすれば堂々と人物批評も叶いましょうぞ」
「帰蝶、言葉が過ぎるぞ。そろそろ黙っておれ」と、信長の一喝が入る。帰蝶も自分でも察したのか「はいはい」と素直に引き下がった。
つづく