信長謁見①
竹中重治を軍師に取り立てた織田軍。天下の要所・美濃を手中に収めた信長の次なる一手とは… …
ここで養華院は一息ついた。
深海は点てたばかりのお茶を養華院に差し出すと、器を手に取り飲み干した。軒に打ち付ける雨音はだいぶ激しくなってきている。外の視界は雨粒に遮断され庭先も満足に見えないくらいだ。
養華院がしばしの休息をとっている間、深海はなぜ彼女が「竹中重治は後にも先にも斎藤家、並びに織田家の家臣」と強調していたのかようやく理解した。と同時に、弟子である重治を織田家に送りこんだ明智光秀の意図が気になって仕方がない。
これについては引き続き養華院が「光秀が初めて信長様の前に姿を現したのは、足利義昭公の使者として岐阜城(旧・稲葉山城)に参上した時のことです」という切り出しで語り始めた。
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永禄十一年(一五六八年)、明智光秀は朝倉義景の元にて保護されていた足利義昭の命により、かつて井の口と呼ばれた美濃国・岐阜領内にいた。
とはいえ元々岐阜は彼の故郷。この年四十一歳を迎える光秀にとっては、弘治二年の長良川の戦で越前逃亡して以来、十二年ぶりの帰参となる。というのも、いっこうに上洛の兆しを見せない朝倉義景に痺れを切らした義昭が、美濃を統一して勢いに乗る織田信長に鞍替えする意志を示したからだ。
義昭は、織田家に多少の伝手がある明智光秀を使者として派遣することを決意。家臣の細川藤孝を同行者として加えた。
光秀がこのように岐阜の地を踏めるのも、信長が美濃を統一してくれたおかげであろうか。龍興なきこの地に敵はなく、西美濃三人衆などの旧友に会える喜び、そして前もって意志を確認し合った重治との再会も待ち遠しかった。
金崋山の麓から岐阜城天守閣へ少々険しい山道を登っていく。一歩一歩踏みしめるその道も懐かしさで心が溢れかえるようだ。
客間である控の間に通されると、気持ちが高揚する光秀とは裏腹に、同行した細川藤孝の顔が謁見の刻が近づくにつれて見る見る青ざめていくのが分かった。
「どうされた藤孝殿、ご気分が優れませぬか?」
「いえ、気になされないでくだされ。毎度のことなのです」
藤孝はそう言って心配そうな光秀を押しのけるも、やはり調子が悪そうなのは明白である。光秀がしつこく追求すると藤孝はしぶしぶ白状しはじめた。
「精神的な重圧に耐えきれぬのですよ」
「精神的な重圧? 藤孝殿が… …でありますか」
光秀が疑問に思うのも無理はなかった。細川藤孝といえば永禄の変で第十三代将軍・足利義輝が松永久秀や三好三人衆に討たれた際、興福寺に幽閉された義昭を、決死の救出劇を繰り広げて見事に救った当事者だからである。その後も臥薪嘗胆の日々の末、今に至る苦労人。
細身で武芸こそ人並み以下であるものの、並みの逆向程度では根を上げない根性だけは持ち合わせていると思っていたからだ。
「小生、織田殿に会うのは二度目なのですよ… …」
「それがどうか致しましたか?」
「しかも歳が同じなのです」
「そういえば織田殿も天文三年の生まれでございましたな、今年三十五でしたかな」
何を怯えているのか分からず困惑する光秀を余所眼に、藤孝はつぶやくように話を進めた。
「織田殿の威圧感はとても同年代とは思えぬのですよ。あの迫力は並大抵の者では押しつぶされてしまうのです」
「細川殿が怯えるほどの迫力の持ち主でありますか」
「それともう一つ理由があるのです」
「ほう、何でありますかな」
「三年前、今回と同じ理由で織田殿に面会した後のことです」
「それは知っております。当時、清州城にいた織田殿に、細川殿が義昭公の上洛を願い出た時でありますな」
「あの時分、上洛協力の確約を頂いたにも関わらず越前に帰参後、盟約を破棄されたのですよ」
「それは仕方なきこと。織田殿も美濃侵攻の前という大切な時と重なったまで。好き好んで破棄したわけではないと思いまする」
「それは多少なりと分かってるのですよ。ただ義昭公に叱責を受けたのは小生であるゆえ」
確かにこの戦国の世、何が起こるかは天のみぞ知ること。今回の交渉で例え良い返事を得ようとも、時世の流れで崩れ去ることも必然。そう考えると先ほどまで心躍らせていた光秀自身にも、心の片隅に不安が生まれつつあった。
『不味いな。心に恐怖心が芽生えつつある』
と、増幅しつつあるその不安感に光秀も押しつぶされそうになった。
しかし、そのような不安感を払拭できぬまま、信長のいる大広間に通されることになるのだった。
つづく
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