表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/10

憤怒


 世界の全てに嫌気がさす。

 皆の視線が、行動が、全て鼻につく。腹が立つ。イライラする。

 茨のように絡みつくイライラが、私の身体を更に苛立たせる。

 如何してこうなってしまったのだろう。昔は他人なんてどうでも良かった。他人が何処で何をしていようが、気にはならなかった。

 でも、今は違う。

 目に見えることは勿論、あまつさえ見えないところにいても他人が何をしているのか気になってしまう。そして、何も知れないことがまたイライラを増大させる。

 目につくのも私のイライラを刺激するのだけれど。

 鈍間な奴、煩い奴、高慢な奴、自分を隠す奴、そして、全てに苛立っている自分。

 周りの友人たちはきっと、私が笑顔の下で噴火寸前のマグマを押さえ込んでいるなんてことに気づいていないのだろう。

 気づかれてはいけない。絶対に。

 何故なら誰も悪くないのだから。悪いのは私だ。何でもないようなことで怒っている私が悪いのだ。ああ、そんなことを考えていると、また腹が立ってきた。

 今が昼休みで良かった。幸い、いつも一緒に行動している人たちは出払っている。

 少しイライラから開放されている。

 そんな時、後ろの席から話しかけられた。

「戸塚さん、大丈夫?」

 自信のないぼそぼそとした声。黒い髪が肩口で揺れる。身長は私より少し低い。クラスの腫れ物、上城光という少女である。

「大丈夫って、何が?」

 平然を装って言葉を返す。俯きがちな上城さんのおどおどした挙動がいちいち癪に障る。言いたいことがあるのならば、きっぱりと言えば良いのに。

「えとね、なんだか……その、怒っているみたいだったから」

 察しの良い女だ。またイライラとした感情がむくむくと首を擡げてくる。

「そんなことない。そう見えたのなら、ごめんね」

「う、でも……」

 私はきっぱりと言ったのに、彼女はまだ何か言いたそうで。面倒に思いながらも頭の中で言葉を捜していると、急にぶわっと風が吹いて私の髪が舞い上がった。

 机の上に載っている雑誌のページがバラバラバラと次々に捲れていく。

 クラスの男子が窓を開け放ち、そこからの突風が教室に吹き込んだのだ。

 髪が顔にかかる。さわさわと髪の毛が皮膚の上をなぞる感覚が、とても不快だ。クラスの喧騒が喧しい。音、髪の感触、風。

 男子たちの巫山戯た笑い声。

 女子たちの下らない嗤い声。

 厭だ。

 厭だ厭だ。

 厭だ厭だ厭だ。

 全てが苛立つ。

 ムカつくムカつくムカつくムカつく……!

 ぶわっと風とは関係なしに自分の髪が逆立っているような気がする。

「と、戸塚さん?」

 上城さんの澄んだ言葉に、我に返った。

 危ないところだった。もう少しで私は、クラス中に響く声で怒鳴って、そこいらにある机や椅子を嵐が通り過ぎたあとのようにめちゃくちゃにしていただろう。

「……なんでも、ない」

 毎日毎日、心の中を怒りが蝕んでいくのが解る。

 怒りは他の感情とは違う。まず隠すことが簡単ではない。無事に隠せたとしても、次々に噴出する怒りは、どうにも自分自身を圧迫する。

 いつ心がはち切れてしまうのか、それを考えると自分のことながらも愉快だった。



 中学二年生になったある雨の日、帰り道に死神に出逢った。

 道行く人たちは、死神が道のど真ん中に立っているのに、まるで気がつかないみたいで。死神のいる場所を無意識の内に避けて通っているように見えた。

 でも、私にはその死神が見えた。見えてしまったのだ。

 死神は若い青年の格好をしていて、一見すると普通の高校生くらいにしか見えない。短い黒髪に、服装は白を基調としたデザインのスーツ。今から結婚式場に飛び込んでも大丈夫なくらい、清潔なイメージを受ける。

 死神と言えば、骸骨が黒いマントを着て巨大な鎌を持っているものだと思っていたのに。それでも私が、彼のことを死神だと解ったのは、彼自身が死神だと名乗ったからだった。

「貴女は『視える』のですね」

 綺麗なテノールだ。見えるか見えないか、と問われれば、見えるのだろう。現にこうして、私には死神の声までも聞こえている。

「鬱陶しい雨ですね。気分が愉しくなります」

「それ、矛盾してない?」

 彼はとんちんかんなことを言う。死神って、みんなこうなのだろうか。

「死神っていうことは、誰かの命を奪うの?」

「ええ。正確には、奪うというよりも運ぶのですが」

「どっちでも良いわ」

 沈黙は訪れず、雨の音だけが響く。傘に当たって跳ねる雫が五月蝿い。

 道の真ん中に突っ立っている私を、不思議そうな目で見て去っていく通行人たちが煩わしい。他の人には死神の姿は見えない。それに、死神のいる場所を無意識に避けて通っているみたいだった。

「こないだ読んだ本には、仕事をする時は必ず雨が降るっていう死神がいたけれど、あんたもそうなの?」

「いいえ、そんなジンクスはありませんが……その死神、とても羨ましく思います」

 何処までもおどけた死神だ。死神というよりも、寧ろ道化師に近い。スーツというフォーマルな格好でなかったら、様になっていただろう。

 彼が現れたのは、私の近くで誰かが死ぬかららしい。一体誰だろうか。

 両親はまだ死なないだろう。でも、突然の事故なんてのも十分あり得る。

 涼しい顔で雨を眺める死神。

 こんなやつが人間の命を運ぶだなんて。

「馬鹿みたい」

「そうですかね?」

「本当に、馬鹿みたい」

 彼はきょとんとしている。

 雨の勢いが強くなる。早く家に帰って、暖かいシャワーを浴びたかった。

「あと一週間です」

 死神が口を開いた。それは誰かの命の期限。

 余命一週間。

「最初に謝っておきます。僕のこの仕事はきっと貴女を不幸にします……貴女が僕に気がつかなければ、何も知らなければ、不幸にならずに済んだのでしょうけど」

 不幸になる、か。確かに、周りの誰かが死ぬのは私にとっては不幸かも知れない。

 でも、なんだか彼の言葉が面白くて笑ってしまった。

「如何したんですか?」

 不思議そうにこちらを窺う死神に言ってやる。

「私が不幸になるって……? あはは、何それ。私以上に死ぬやつが不幸じゃない」

「ああ、すみません。それもそうですね」

 本当に会話のしがいのないやつだ。こちらの言葉は、全て躱されてしまう。それも死神たる所以なのかも知れないな、とぼんやりと思った。

「それでは、失礼します。くれぐれも変な気は起こさないよう」

 変な気、って何だろうか。そう思ったけれど、問い質す前に死神は真っ黒なカラスになって雨雲を目指して飛んでいってしまった。私はその光景を忌々しく思った。

 カラスは嫌いだ。

 小学校二年生の時だったと思う。学校の帰り道、夕暮れ色に染まる坂道で、カラスの群れが道の真ん中にいたことがある。ガァガァ、と喧しく鳴いていた。全部で十羽くらいはいたのではないか。実際にはそんなに多くはなかったのかも知れないけれど、当時の私の目には蠢く黒いカラスたちが本当に怖く、無数にいるように感じられたのだった。

 恐る恐るカラスの群れに近づく。辺りはどんどん暗くなるので、早く家に帰りたかったのだ。

 黒い群れは遠くから見ると宇宙の図鑑に載っていたブラックホールに見えた。近づくにつれてカラスなのだと解る。濡れたように黒い羽が、夕日に照らされて光る。

 ちょうど横を通り過ぎた時、カラスたちの身体の隙間から、地面に横たわる赤黒い物体が見えた。それは猫か何かの死体だった。カラスの嘴で掘り起こされた内臓が辺りに散らばっていて、もはや原型はなかった。かろうじて四本の足だったものが見えて、猫かな、と思ったのだった。

 それを見た途端、カラスたちがキッとこちらを振り返った。嘴の間から細長い肉が覗いているものもいた。それをごくんと嚥下すると、私に向かってギャアギャアと騒ぎ立てた。

 背中を芋虫が這いずり上がるような不快感を受けて、私は一目散に駆け出した。後ろからカラスたちが追ってくるのではないか、と厭な妄想をしながら、必死に駆けた。無事に家に辿り着いた頃には、ランドセルと背中の間は汗でびしょびしょに濡れて気持ちが悪かった。漸く玄関の扉を開けたところで後ろを振り返った。勿論、そこにはカラスの羽の一枚も落ちてはいなかった。

 ホッとしたけれど、思い出すのは死体を貪るカラスの群れのことだ。胃の中が逆流しそうになって、急いでトイレに駆け込んだ。

 それ以来、私はカラスが嫌いなのだ。道を歩いていて、電柱の上からカラスに見下ろされるたびに、あの日の光景が蘇って、ひどく不快になる。

 死神はそれを知っていたのだろうか。だから、わざとカラスという格好になって飛んでいったのだろうか。だとしたら、本当にむかつくやつだ。

 曇天の空を見上げて、溜息をひとつついた。



「あと三日です」

 死神が呟く。その声は夕暮れの何処か寂しい空気に溶け込んでいく。私は少しだけ息を止める。白いスーツ姿の彼は、やはり死神には見えない。

「死神って、辛くないの」

「如何してでしょう?」

 風が吹いた。吹かれるがままに、死神は立っている。私の長い髪が揺れて、頬にくっつく感触。邪魔だ。

「だって、命を奪うんでしょ」

「正確には運ぶのですけど」

「それは前も聞いた」

「そうでしたか」

「……」

 死神は誰かを殺すことが、厭ではないのだろうか。それが仕事だから、彼は命を奪い続けるのだろうか。それは私たち人間が生きていく為に、他の動物を殺して食べ、住処を奪っているのと同じなのかも知れない。

「殺しても殺しても、死なない存在がいたとしたら、僕には辛いでしょうね」

「不老不死ってこと?」

「そういったものは存在しませんけどね。形あるものは、いずれ必ず滅びます」

「仮にいたとしたら?」

「個人の妄想。幻覚の一種です。死んでも蘇るだなんて、正気の沙汰ではありません」

 そもそも死神が見えている時点で、自分が正気なのかは解らない。

「そういった正気の沙汰ではないものを殺せ、と上から言われたら辛いでしょうね」

「まあ、良いわ」

 ひとつ溜息をついて、空を見上げた。月は昇りそうにない。

 帰り道は長谷川琴理と一緒だった。琴理は中学校に入ってできた一番の友達だ。クラス変えをした今年も、同じクラスになれた。思えば、隣を歩く彼女は何処か体調が悪そうだった。もしかして、と思い死神を見る。もしかして、死神が命を奪うのは琴理なのではないか。そう考えると、身体の奥底から怒りが溢れそうになる。

 思い返してみると、最近は琴理の体調が悪いようだった。半年前に一度、彼女は授業中に寝不足による貧血で倒れている。

 今回もそうなのだろうか。

 それとも、死神が来た所為なのだろうか。

 解らない。

 でも、もしあの死神が来たからという理由だったら、死ぬのは琴理かも知れない。それは本当に厭だ。

 琴理は、一番の友達なのだ。

 私はいつも自分の言いたいことを上手く言葉にできなくて、冷たい言葉を口にしてしまうことがある。それでも、琴理は私の良き理解者だった。こんな私でも良くしてくれるのだった。

 いつも小説を読んで過ごす休み時間が、彼女と一緒にいるだけで楽しくなるのだ。そんな時だけ、私の心の中の怒りは何処か遠くへ吹っ飛んでしまう。

 ずっと、こうだったら良いのに。こんな日々が続いてくれれば、それはとても嬉しい。

 もう怒りたくない。そう思っても、感情の波は抑えきれない。

 周囲の状況は、悪くなるばかりだった。

 上城さんへの周りの悪口の数は相変わらずのもので、彼女の友達の成本さんも結構滅入っているみたいだった。

 いじめる側も、いじめられる側も、傍観者の立場も、全てイライラする。

 私をこれ以上に不快にさせないでよ、お願いだから。

「あと三日したら、僕は帰ります。それまでの辛抱ですから」

 死神はそうにこやかに言った。無性に腹が立つ顔だ。あと三日。

 琴理が死ぬのだろうか。それを訊いても死神はきっとはぐらかすのだろう。この死神には何を言っても無意味だ。そんな気がする。

 顔にかかる髪を払って、投げやりに言う。

「そう」

 夕暮れの風が吹いて、私の言葉を乗せていった。



 死神に初めて出逢ってから、一週間が経った。彼の宣言した時間が経過した。私にとっては何もない日々が続いていた。

 今日、誰かが死ぬ。

 そんなことを考えてふっと笑ってしまった。今日に限らず、毎日何処かで誰かが死んでいるのだ。こうしている間にだって、世界中のあちこちで人が死ぬ。そんなの当たり前のことじゃないか。それがいざ自分の身の周りで起きようとしているから、こんなにも気持ちが沈んでいるのだ。厭な自分だ。テレビのニュースの出来事なんて、どうでも良いのに。

 三日前に逢って以来、死神の姿は見ていない。でも、今も何処か近くにいるのは解る。何となくだけれど、気配を感じるのだ。

 午前の授業も終わり給食の準備をしている時に、琴理が倒れた。その倒れ方は一切受身なんか取れずに、冷たい床にダイブするみたいだった。鈍い音が廊下に響いたのを聞いた。彼女のふたつに縛った黒髪が、力なく床に垂れた。

 もう何も考えられなかった。彼女を保健室まで運び、保健の先生が、ただの貧血よ、と言っても信じることは不可能だった。

 きっと琴理は死んでしまうのだ。

 あの小奇麗な死神が、彼女の命を運んでいってしまう。それが琴理の運命だ、と言ってしまえば簡単なことだけれど、そんなのくそ食らえだ。

 五時間目が始まっても、六時間目が始まっても、彼女は目を覚まさなかった。

 時折、心配になって琴理の脈を確認してみたけれど、規則正しく動いていた。細い手首の下で、しっかりと血が通っていた。私の気がつかぬ間に、死神に殺されていたら、と思うと一歩も保健室から出る気にはなれなかった。

 放課後になり、保健室の扉が音を立てて開いた。

 一瞬、死神のやつが来たのか、と思って身構えたけれど担任の深川先生だった。

 私たちの荷物を持って来てくれたらしい。あまり琴理の傍を離れたくなかったけれど、担任の呼ぶ声に従って入り口まで行き、鞄をひったくるとすぐさま琴理の眠るベッドへ引き返した。あとでちゃんと謝ろう。

 琴理はまだ目を覚まさない。このまま眠り続けたままになってしまうのではないか、という厭な妄想が頭を駆け巡る。

 そんなのは厭だ。琴理の未来にそんなものが待ち受けているというのなら、どうにかしてその未来を変えたい。私は中学二年生で何の力もないけれど、琴理を守りたい。そんなことを思っていると、コンコンと控えめなノックの音が聞こえた。今度は誰だろう。保健の篠塚先生だろうか。

 死神が律儀にノックをするとは思えないので、こちらからドアを開ける。

「……!」

 驚いた。

 ドアの向こうにいたのは上城光だった。如何してこの子がここにいるのだろうか。言葉が上手く出てこなくて、口が閉じたり開いたりを繰り返す。今はこいつにかまっている場合じゃないのに。琴理の命が危ないのだ。それなのに、こんな……。

「帰って……」

 漸く出てきた言葉はその一言だった。怒りを押し殺して、そう告げた。厭だった。こうしている間にも琴理は死神に狙われているのかもしれないのだから。

「帰ってよ!」

 勢いよくドアを閉める。然し、あちらからノブを掴まれて、完全には閉められなかった。

「と、戸塚さん、如何したの! 何があったの?」

 上城さんの声が空気を揺らす。ドアを引っ張りながら、冷静になりつつある頭が、今しがた見た光景を思い出す。上城さんの制服は濡れていた。水でも被ったかのように。いったい彼女に何があったのかは判らない。

 でも、今は上城さんのことを気にしていられない。ごめんと心の中で謝る。

「お願いだよ、戸塚さん……入れてよ」

 泣きそうな彼女の声を無視して、力の限りドアを引き寄せる。怒りは力になる。身体がまるで自分のものでなくなったような高揚感と万能感。なんだってできる、そう思えたのだ。

「五月蝿い! 帰れって言ってるでしょう!」

 バタンという大きな音を立てて、保健室のドアは完全に閉じた。それは私と琴理を世界から隔離したように思えた。まだ外にいるだろう上城さんの気配は感じられない。

 彼女には悪いけれど、仕方ないのだと自分に言い聞かせる。

 でも。

 周りからあまり評判が良いとは言えない上城さん。昔、彼女に心配されたことを思い出す。私が不機嫌なことを見抜いて、気遣ってくれた。上城さんは悪い子じゃない。でも、嫌われている。きっと、みんなは怖いのだ。自分が嫌われるのが怖いから、嫌うべき対象を作る。それが口下手で大人しい上城さんに役が回ってきただけの話。

 自分の言動を思い返す。琴理が心配だったとはいえ、上城さんには悪いことをした。謝らなくちゃ、そう思ってたった今閉めたばかりのドアを開ける。

 外の喧騒が聞こえる。帰りのSHRも終わった頃だろう。勿論、廊下には上城さんの姿はない。先ほど彼女が立っていた床は少しだけ濡れていた。一瞬、上城さんの流した涙かと思ったけれど、彼女の服が濡れていたことを思い出す。きっと何かあったのだ。いじめ、という言葉が浮かぶ。少しだけイライラした。

 琴理のことが心配になってベッドまで戻ると、彼女は目を覚ましていた。今の騒ぎが五月蝿かったのかも知れない。上半身だけ起き上がり、外に広がる夕日を眺めている。心の中に安堵が広がった。

「良かった! 起きたのね、琴理」

 笑顔でそう叫ぶと、保健の先生を呼びに行くことにした。

 目が覚めていれば、やすやす死神に殺されることはないだろう。それに、殺すのなら寝ている時の方が都合は良さそうなのに、殺しに来なかったのだから何か理由があるのかも知れない。

 とにかく、安心した私は職員室まで走り、保健の篠原先生の手を引っ張って保健室に取って返した。然し、保健室の中から琴理の姿が消えていた。

 如何して?

 厭だ。

 まさか私が目を放した隙をついて、あの死神が……?

 不思議そうな先生を残して、私は走り出した。探せ! 探すんだ!

 がむしゃらに駆けていると、遠く、昇降口にいる琴理を見つけた。

 まったく心配かけて……! 気づけば心の中で、怒りの気持ちが増大している。

 如何してそんな身体で動いているのだろうか。今は私と一緒にいた方が良いのに。このままでは本当に、彼女は連れて行かれてしまう。厭だ。それだけは、厭。

 なかなか縮まらない距離に、激しくイライラする。私の身体はちっぽけで、いくら速く駆けても自分の限界は超えられない。

「何処行くの、琴理!」

 力の限り叫ぶ。

 でも、彼女は私の言葉が耳に入っていないのか、歩みを止めない。

 ふらふらの身体を引きずるようにして、一歩一歩進んでいる。

 私から遠ざかっていく。

 逃げ出すみたいに。

 上履きのまま校舎の外に飛び出す。靴に履き替える余裕なんてなかった。琴理の背中はすぐに見つかった。幸い、彼女の速度は遅かった。

 良かった、追いつける。そう思った時だった。

 ぞわり、と背中が震えた。悪寒が走るとはこういうことなのだろうか。

 死神の気配だ。

 まずい。

 琴理、逃げて。

 私から逃げるんじゃなくて、死神から逃げてよ。

 腹の中で感情が爆発しそうだった。

 憤怒、という言葉が今の私にはぴったりだった。

 辺りを見回して、死神の姿を捜す。

 琴理に追いつくよりも、根元を断つしかない。あの巫山戯た死神の姿を捜す。

 でも、前に見た白いスーツ姿は何処にも見えず、校庭には沈み行く太陽の橙だけがあった。

 何処だ。

 何処だ、死神!

 焦る気持ちを宥めながら走っていると、何処かで悲鳴が聞こえた。

 何だろう。

 ふと頭上を見上げてみた。

 屋上。

 夕日に照らされた屋上に人影が見えた。

 三人分のシルエット。

 転校生の神代闇。

 屋上の縁に背を向けて立ち、今にも落ちそうな上城さん。 

 そして、純白のスーツに身を包んだ、死神。

 死神の右手が、ぽんと上城さんの胸を押すのが見えた。神の見えざる手は、上城さんたちには感じられない。ただ訳も解らずに、後ろへと押されるだけだ。ふわっと宙に浮く、上城さんの身体。

 必死に駆けて、手を伸ばす神代さん。でも、死神のいる位置が悪かった。彼女の身体は無意識に死神を避ける。その為、伸ばした腕は、上城さんには全然届かなかった。

 やけに長い時間をかけて、上城さんの身体は宙を泳いだ。スローモーションに世界が動く。でも、終わりはすぐそこなのだ。彼女は屋上から地面まで、一直線に落ちていった。

 気味の悪い音と共に、彼女の身体が地面にぶつかり、弾けた。上城さんは死んだ。

 先ほどのことが脳裏にちらつく。謝っておけば良かった。今更後悔しても遅いけれど、もっと良い追い払い方だってあった筈なのだ。

 上城さんが落ちたのは、ちょうど琴理の真横だった。死体の周りに広がる血溜まりを、琴理は感情のない目で見つめている。

 やがて、何かを決心したようにふらふらと近づき、しゃがみこんだ。そして、琴理は服が汚れるのも気にせずに、地面を這う上城さんの血を、掬いとって舐めた。

 それはまるで、小学生の時に見た、カラスの群れだった。死体に群がる、黒い身体。黒を基調にした制服、ふたつに結った琴理の黒い髪。それが厭でもカラスを連想してしまう。琴理、あんたはカラスなんかじゃない……。あの死神じゃない、昔見た漆黒の群れでもない、私の友達じゃないか。なのに、如何して、こんな……。

 頭の中がからっぽになった気分だ。何も考えられない。

 如何したの、琴理。一体、如何しちゃったの?

 震える足を叱咤して、私は駆けた。勿論、琴理を止める為に。私が行かなくちゃいけない。彼女を止められるのは、私しかいないのだ。

 後ろから琴理の身体を羽交い絞めにして、血の海から引き剥がす。

「琴理、琴理! あんた、なにやってるのよ!?」

「離して、離してよっ!!」

 暴れる琴理に、必死にしがみつく。

 もう良いから。

 もう良いんだよ、琴理。

 もう止めてよ。

 その訳の解らない行動が、私をいらつかせるの。だから、止めてよ。

「……亜月」

 力の抜けた彼女の身体は、血まみれだった。顔も制服も、真っ赤だった。唇から垂れた血が、ぽろっと涙みたいに地面に落ちる。

「私、如何すれば良いんだろう……こんな身体、厭だよ……」

 気がついたら琴理の目からはぼろぼろと涙が零れ落ちていた。

 上城さんの死がショックだったのだろうか。いや、違うかも知れない。こんな身体、という言葉の意味が解らなかった。

 彼女は少しだけ落ち着いたみたいだった。押さえていた腕を放してやる。琴理は滔々と語り出す。

「如何してだろうね……いっぱい、いっぱい我慢したのに……結局、私は駄目な子なんだよね……ごめんね、亜月ぃ……ごめんね…………」

 遠くで救急車の音が聞こえる。

 きっと上城さんの為のサイレンだ。

「私ね……吸血鬼なの……人間じゃないの」

 どきん、とした。

 心臓が跳ねたのだ。

 吸血鬼なんてファンタジーの代物だ。でも、彼女が言うならそうなのかも知れない。

「うん。そっか」

 ぽつり、とそれだけ言った。琴理が続ける。

「半年前にもね、血を吸ったの……亜月の、血を……こんな私じゃ、友達失格だよね……」

 半年前……。保健室での出来事だろうか。

 あの日、琴理は今日みたいに授業中に倒れた。当時、保健委員だった私は彼女を保健室に連れて行ったのだけれど、途中からの記憶が曖昧で、結局私は保健室のベッドで寝ていたのだ。家に帰ってお風呂に入った時に、自分の首の辺りにポチポチと二つの奇妙な点を見つけた。虫刺されかと思っていたのだけれど、それは琴理の噛み痕だったのか。

 薄々そうなのかも、とは思っていた。でも、そんな話は小説の中だけだと思っていた。馬鹿らしい考えだと思っていた。それでも、琴理はきっと本当に吸血鬼なのだ。あの時、本当に血を吸われていたのだ。

 友達だから、信じる。

 琴理の両目からは大量の涙が溢れていく。

 一気に想いの丈を言い放った彼女は、力なくしな垂れかかってくる。肩で息をする琴理を私はそっと抱きしめた。

 保健室の薬品の匂いと、彼女の髪の毛の匂いがした。

 きっと今まで彼女は辛い思いをしてきたのだ。

 血を吸ってしまったことを、私に打ち明けられずに。

 こんなに小さな身体で、必死に。ごめんはこちらの方だ。何かを隠している琴理に、私は一方的に苛立っていたのだから。

 綺麗な涙を流す琴理。吸血鬼に涙は似合わない、と素直に思った。

 そんな彼女が本当に愛しくて、抱きしめる腕に力をこめて、歌うように言った。

「琴理が何者かなんて、関係ないよ……吸血鬼でも、私の血を吸ってもさ……それでも琴理は、私の友達でしょ? それだけで十分だもの」

 琴理はその言葉を聞くと、また泣いてしまった。

 こんなにも心の奥深くから言葉を言えたのは、とても久しぶりだ。いつもは素直になれずに、相手を苛立たせるようなことしか言えないのに。

 琴理は友達以上なのだ、と思う。

 きっと親友と呼んでも大丈夫。そうでしょう?



 救急車のサイレンが遥か遠くに消えた頃、校内の騒がしさも殆ど消えていた。

 結局、死神が命を運んだのは上城さんのものだったのだ。

 それでもやはり辛いものは辛い。彼女の動作の鈍さは、私を苛立たせたけれど、それでも、嫌いじゃなかったんだよ。

 汚れた服を着替える為、琴理は保健室に戻った。

 当の私も彼女を抱きしめていた所為で、ところどころに血がついている。

 先に行ってて、と言って琴理一人で向かわせた。まだ私にはやることが残っているから。

 太陽が半分くらい沈み、空が群青と橙で彩られている中、私の目の前に真っ白な姿の死神がつっ立っている。

 仕事を終えた白い死神と、上城さんの真っ赤な血のついた私。これならば逆の方が格好もつくというものだ。

「改めて謝罪を。貴女は私を憎んでいるでしょうね」

 死神の言葉が風に乗って聞こえる。

 私は何も答えない。

「貴女は私を恨んでいるでしょうね」

 同じような意味の言葉を繰り返してくる。

「そうね」

 だから、きっぱりと言ってやった。

 心の奥で荒れ狂う感情を感じる。

「あんたなんか、大嫌いよ。とっとと帰って」

 叫び声が、黄昏の空に響く。

 辺りに人はいないから、存分に想いを吐き出せる。

「もう、顔も見たくない」

「そうですね、もう二度と逢うことはないと思いますが」

「もう用事は済んだんでしょう? だったら、早く帰ってよ……それでもう二度と、私や琴理に近づかないで……!」

「解りました」

 申し訳なさそうな顔の死神は、それでもいつものように不安定な笑顔をよこした。

 なんでまだ笑えるの?

 馬鹿みたい。

「馬鹿みたい」

「……」

「あんた、本当に馬鹿みたい」

 死神に向けた“馬鹿みたい”もこれで最後だろう。

 無言のまま、死神はくるりと踵を返した。そして、沈み行く太陽目掛けて、手を伸ばすと彼の目の前に大きな黒い扉が現れた。映画にでも出てきそうな古めかしい、扉だった。子供の頃に両親に連れられていったホテルに似たような扉があった気がする。

「それでは、本当にお別れです。短い間でしたけれど、案外楽しかったですよ、この世界は」

 まだ言うか。

「早く、帰ってってば」

 息が詰まる。

 呼吸がし辛い。

 酸素を必死に吸い込み、瞬きをすると、彼の姿は校庭から掻き消えていた。勿論、あの黒い扉も一緒に。忽然と姿を消していた。

 やけにあっさりと。

 本当に、消えたのだ。


 辺りが薄暗くなっていく。闇が忍び寄る。光があるところには闇が必ずできるけれど、闇しかないところには光は存在しない。それがなんだか悲しかった。

 夜を告げる風が吹いてきて、私の頬を撫でる。

 いや、風以外のものも撫でていた。涙が出ていたのだ。

 ぼろぼろと、止めようと思っても止まらない。

 感情が溢てくる。

 でもこれは、死神が消えて安堵したからではない。

 琴理が死なずに済んで良かったと思っているからでもない。

 上城光という一人の少女の死が悲しかったからでもない。

 答えはもう出ている。

 私は気がついているのだ。

 結局、私は素直になれない。

 言いたいことも、全然言えない。

 如何してだろう?

 琴理を相手にした時は、あんなにすんなり言えたのに……

 死神に、私のこの荒れ狂う気持ちを伝えられなかった。


 好き、って一言伝えれば、何か変わったのかな。


 何も変わらなかったかも知れない。なにせあの性格だし。

 如何して好きになったのか、自分でも解らない。ただ、居心地が良かったのだ。死神相手なら素直に怒れた気がするのだ。隠す必要なんてなかった。そんなこと、初めてだったから。

 結局、本当の気持ちは隠したままなのだけれど。

 でも、これで良いのかも知れない。あそこで彼に、帰らないで、とお願いしたら、もしかすると彼は残ってくれたかも知れない。単なる希望的観測なのだけど。もしそれが本当になったとしても、それは同時に私の周りでどんどん人が死ぬことを意味する。それが死神というものだから。

 それはやっぱり厭だ。

 人間と死神じゃあ、きっとつり合わないだろうし。

 ああ、またイライラしてきた。

 あの死神にではない。

 きっと、この気持ちは自分に対しての怒り。

 今までも私は、自分自身に腹を立てていたのかも知れない。

 自分が嫌いだ。

 溜息が出る。

「馬鹿みたい」

 もう微かにしか見えていない太陽に向かって呟いてみた。

 涙を制服で拭ってみても、まだまだ溢れてきた。上城さんの血と、琴理の涙と、私の涙で濡れた真っ黒な制服は、夜に溶けていきそうだ。溶けてしまえば楽なのだろうけど。

「本当に、馬鹿みたい」

 誰に向けての“馬鹿みたい”なのかは、いちいち言わなくても解るでしょ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ