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強欲


「彼女は自分自身が嫌いでした。

 嫌いで、嫌いで、とっても嫌いで。

 今すぐにでも自分の喉もとを掻っ切って死んでしまえればどんなに良いか、とさえ思っていました。その想いはとても強く、何かの弾みで現実になってもおかしくはありませんでした。

 然し、人間の身体は上手くできています。このままでは命の危険があると判断した脳は、自分であって自分ではない架空の存在を作り上げました。それは彼女とそっくりの人間でした。

 これで命の危険は去りました。

 何故なら、彼女は自分を責める代わりに、自分そっくりのそれを責め立てれば良いからです。

 それを罵れば良いからです。

 それを嫌えば良いからです。

 それを、殺してしまえば良いからです。

 それでも、彼女にはそうできなかった。自分が死ぬほど嫌い。自分そっくりのその人間を嫌って心の平和を保つ筈だったのに、彼女には無理でした。

 なんということでしょうか。

 彼女は嫌悪するべき自分自身を好きになってしまいました。

 それによって、また心のバランスが崩れ始めます。

 これは、そういうお話です」


 ノアと名乗った少女はすらすらとそんなことを言った。夕暮れの迫る公園のベンチでこんな話もどうかと思うのだけれど、ノアの真剣振りがあまりにも鬼気迫るものだったので、ついついこちらも聞き入ってしまった。

「貴女に解る言葉で言えば、ドッペルゲンガーとでも呼べば良いかしら」

「ごめん、解らない」

 話の腰を折らないように必死だったけれど、私には理解できないのだから仕方がない。この子は何を言っているのだろうか。ドッペルゲンガー?

「上城光の脳は『神代闇』というもう一人の自分、つまりドッペルゲンガーを生み出して、憎むべき対象を作ったの。そうすれば自分自身を嫌わずに済むから。『神代闇』は上城光にとっては飽くまで他人だもの」

 台本通りに喋っているような、違和感。もう何度も同じ台詞を使ってきたかのような熟練さがそこにはあった。薄い唇がプログラミングされた機械のように規則正しく動く。ざあっと風が吹いて、ノアの長い髪を揺らした。このままでは相手のペースだ。そして、意味も解らないままになってしまう。

 私は意を決して言ってみる。

「もう一人の人間を作るだなんて、そんなこと、できるわけないじゃない」

 自分そっくりの人間を生み出す、などという荒唐無稽な話を信じられるわけがない。それも脳みそが勝手に作り出したものだなんて。何処かのマッドサイエンティストが実験室で作った、という方がまだ真実味がある。

 けれど、ノアは止まらない。淀みのない二つの青い瞳で私を見つめる。可愛らしい唇が動いて、解読不能の言語が吐き出される。

「ポルターガイスト現象というものを聞いたことがあるかしら? 貴女たちくらいの歳の子の周りで発生する、怪奇現象のことなのだけれど」

「勝手に食器棚の食器が動く、とかだっけ? それとこれとがどう関係あるのよ」

 ポルターガイスト。いつだったかテレビでやっているのを見たことがある。触ってもいないのに、ひとりでに食器や家具が宙を舞う、といったような不思議な現象のことらしい。

 あんなものテレビの中だけだ。全部、作りごとに決まっている。フィクションをあたかもノンフィクションのように伝えるのが、テレビという機械だ。

「これは大規模なポルターガイスト現象だと考えれば良いわ。普通は部屋の中などといった、自分の身の回り、小規模な範囲でしか起こらないものだけれど、それが世界規模で起こったと考えれば辻褄が合うわ」

「……世界、規模?」

 ついに、世界規模のお話にまでなってしまった。

「欠伸をするのはよして頂戴」

「ごめんなさい」

 素直に謝ってしまう私。何かおかしいような気がする。

「そう、世界規模なの。学校という閉じられた空間には何百人という思春期の人間がいるわ。それだけの大人数によって引き起こされたポルターガイスト現象は、世界を動かすほどの大きなものとなるの」

「世界を動かす、ってそんなこと」

 できるわけがない。

「食器を動かすのも、世界の法則を動かすのも、同じことよ。要は規模の問題ね」

「……」

「テストで良い点数が取りたい。スポーツが上手くなりたい。授業で当てられたくない。あの人が好き。嫌い。ああなりたい。こうしたい……そういった様々な欲望が集まって、複雑に絡まりあい、増幅され――世界を捻じ曲げた。『神代闇』というドッペルゲンガーの存在する世界を生み出してしまった」

「嘘、でしょう。それが本当だったら、世界を思うがままにできるってことじゃない! そんなのできるわけ――」

「できるよ」

 今日食べたお昼ご飯のメニューを言うみたいに。

 ノアはこともなげに言う。

「できるんだよ。私たちにはね」

「それって」

「想えば力になる。願えば現実になる。私たちにはそれができる。世界を変えたい。常識を捻じ曲げたい。強い想いは、世界を食い破ることができる。それだけの可能性が、私たちには眠っているの」

 太陽がそろそろ彼方の山に沈みこむ。夜の訪れを感じる。

 ノアの目は、嘘を言っているようには思えない。

 全く信じることはできなさそうだけれど、もし、今言ったことが全て正しいのなら……。

「それが全部本当で、そして百歩譲って、神代闇が上城さんの作ったドッペルゲンガーだとして、それであんたは何がしたいの。私にその話を言って、どうしたいの」

 いったいどれだけの人間が今の話を信じるだろうか。私だって、信じてはいない。心の冷静な部分が否定する。だって、おかしい。常識外れだ。今は科学の時代だ。怪奇現象なんて笑ってしまう。

 でも、ノアの表情を見ると、何故だか今の話を信用しなくてはならないような気分になる。

 もし彼女を信用するとして、それで私はどうすれば良いのだろうか。返答を待っていると、俯いていた顔を上げるノア。私に向き直って、綺麗な青い両目を開いて、

「私を、助けて欲しいの」

 切実な声で、ノアはそう言った。



 一度にたくさんの情報が頭に入ってきて、上手く処理ができない。

 ひとつ、神代闇は上城光のドッペルゲンガーである。

 ひとつ、ドッペルゲンガーが存在するのは、大規模なポルターガイスト現象が起こり、世界の法則を変えたからである。

 ひとつ、ノアは助けを求めている。

 整理した筈が、余計に混乱しそうなラインナップに、つい舌を出しそうになる。お手上げだ、こんなの。

「完全記憶能力というものを知っているかしら。文字通り今まで体験した全ての記憶を、一生保持し続けることのできる能力のことよ」

「また胡散臭そうなものが……」

「私にはそれがあるの」

「ああ、そう」

「信じてないわね」

「当たり前でしょう。そんな珍しい能力があれば、もっと世の為人の為に――」

「そうなりたいのはやまやまなのだけれどね。今のままじゃ無理なのよ」

 ノアは助けて、と言っていた。何かに困っているわけだ。こんなふうに長々と意味不明のことを吐き出し続けているが、結局はノアの悩みまで到達しなければ先が見えない。

「今のままじゃ無理って、どういうこと」

「今のこの世界は、十三周目なの」

「……はい?」

 いかん、頭痛が。

「この世界はある時間まで進むと、一度もとに戻るの。そしてまたある時間まで進むと、もとに戻る。そんなループを繰り返しているの。そして、今、私と貴女が話しているこの世界は十三回目の世界なのよ」

「ちょっと、待ってよ。私、貴女と逢うの、今日が初めてよ。それに……!」

「勿論、“この世界では”そうね……世界の時間軸はある時刻へと巻き戻る、つまりリセットされるわけ。その間に起こった出来事や、記憶なんかも含めて、全て」

 だから、私が何も覚えてないのは当たり前、ということなのだろうか。では、如何してノアはそれを知っているのだろう。

「私には完全記憶能力があるの。それもどういうわけか、真の意味で『完全』記憶なのよ」

「それって……」

「世界の時間が巻き戻っても、私だけはもとには戻らなかった。全て、記憶している状態で周りの時間だけが巻き戻るの。本当のことを言えば、記憶以外の身体の成長も元には戻らなかったけれど……」

 その声はとても悲しそうで。まるで、置き去りにされた迷子みたいで。

 それはあながち間違ってはいない。ノアは世界から置き去りにされたのだ。時間の迷子といったところか。この長い髪の毛も、もしかするとずっと伸ばし続けてきたのかも知れない。それは時間が進まないことの証。

「その、ある時間まで進んだらもとに戻る、って言ったけれど、それっていったいいつなのよ。もうすぐ来るの?」

 半ば自棄だ。ノアの話が嘘だろうと本当だろうと、もうどうでも良くなってしまった。話が途方もなさすぎて、反論するよりも身を任せてしまった方がきっと楽だろう。

「もう少しね。具体的に言うならば、上城光が死んだ時、かしらね」

 思考が一瞬だけ止まる。身を任せてしまえ、と思ったけれど、やはり無理かも知れない。上城光が、死ぬ?

「ど、如何して上城さんが死ぬのよ! それに未来のことなんて……」

「だから、これは十三周目だと言ったでしょう。最初のうちは、私にも何が原因で時間が巻き戻るのか解らなかった。でも、調べていくうちに解ったのよ」

「……それが、上城さんの死だっていうの?」

 信じられない。いや、信じたくない。如何して上城さんが死ななくてはならないのか。そして、如何して上城さんの死と共に時間が巻き戻るのか。

「さっき話したポルターガイスト現象のことはもう良いかしら。世界を捻じ曲げる力が、私たちにはある、ということも」

「まだ、信じられないけど」

「今はそれで構わないわ。でも、貴女もきっと何処かでその力を発揮している筈よ。些細なことでも、願い事が叶うなんていうのは、世界を変えているのと一緒」

「夕飯はカレーが良いなぁ、って思ってたら本当にカレーだったとか」

「そうね」

 ほんとかよ。澄ました顔のノアは、瞬きすらしないで頷いた。

 ポルターガイスト現象で『神代闇』が誕生した、とノアは言っていた。それを引き起こしたのは、他でもない上城光。

 私にもそんな力があるのだろうか。夕飯の献立をいじるようなしょうもない力でなく。

「上城光の死と共に時間が巻き戻って欲しい、と思った人物がいるのよ。その子の強い想いが、世界の時間軸までをも歪ませたの」

 そう簡単に世界をどうこうできるものなのだろうか。でも、もしそれが可能だとしたら、それを願う子というのは……。

「それって、まさか……」

「そのまさか。きっと、それで正解ね」

 上城さんは周りからはあまり良い評価を受けていない。その死を本気で願う者は多くはないだろうけれど、その死を悼む者が何人いるだろうか。彼女の死を一番認めたくない人物、それは……。

「そう。神代闇。彼女の願いが、上城光の死をなかったことにして、もう一度世界をやり直すことだったの」

 なんということだろうか。

 上城光の想いが世界を歪め、ドッペルゲンガーである神代闇を生みだし、今度はその神代闇の想いが世界を歪め、上城光を蘇らせる。

「今まで話したことが信じられないかも知れない。でも、私にとってこの世界は十三回目。もう、疲れてしまったわ。この先何度も同じことを繰り返すのかと思うと、ぞっとする」

 ノアは本当にくたびれた表情で。同い年くらいだろう、と思っていたけれど、中身が老成している印象を受ける。

「だから、上城光と神代闇の世界を変えるループを、ぶち壊して欲しいの」

 少し、瞳が濡れている。

 ノア、貴女は本当に……?

「そして、私を――」

 想いを、吐き出す。

「――助けて」



 髪の長い子だな、と思った。

 膝くらいまで伸ばした少し色素の薄い髪。淡いクリーム色のサロペットは、胸元に橙色の花の刺繍があしらわれている。足にはヒールのあるブーツを履いていた。

 商店街から一本脇に入った暗い道で、その子と出逢った。その髪の長い女の子は、私を見るなり開口一番こう言い放った。

「こんにちは。ホウジョウサクラ」

 北条桜というのは私の名前だ。でも、私には目の前の子が解らない。何処かで逢ったことがあっただろうか。

「えと、貴女は?」

「私の名前はノア。サクラにひとつ話があるのよ」

 ノア? 見た目は思いっきり日本人だけれど、その名前はいったいなんだろうか。

「初めて、ですよね、逢うの」

 つい敬語になってしまう。ついでに倒置法にも。ノアと名乗った少女は奇妙な間を空けて、

「……そうね」

 とだけ呟いた。夕暮れの風が少しだけ寒く感じた。

 これがノアとの出逢い。たった数時間前のことなのに、ひどく昔のことのように感じてしまう。それはきっと、ノアから聞いた話がとうてい信じられるようなものではなかったからだ。

「また明日逢いましょう」

 そう言うと、ノアは今まで座っていた公園のベンチに別れを告げて、暗がりの中へと去っていった。まるでノアが違う世界へと帰ってしまったように、彼女のいなくなった公園はひどく現実味があった。

 一人だけ残された私はいそいそと帰宅した。辺りは暗く、何か厭なものでも出そうな雰囲気だった。でも、そう言った超常的なナニカを信じてしまうと、さっきの話すら信じなくてはいけないような気がした。その方が厭だったので、変な考えを振り払って、急いで家へと戻ってきたのだった。

 お風呂の浴槽に浸かり、膝を抱えて今日あったことを整理する。温かいお湯が、身体を包み込む感じが、なんとも気持ちが良い。

「ドッペルゲンガー……」

 ぽつり、と口の中で呟く。

「ポルターガイスト……」

 小さな声でもお風呂場では、反響してしまって、厭に大きな自分の声が聞こえる。

「上城光と、神代闇……」

 そして、ノア。

 嘘だと言って信じないのは容易い。全てがノアの妄言だとすれば、何も思い悩むことはない。

 でも。

 でも、彼女の語った内容が全て本当だったら。

 ノアは私に助けて、と言った。

 私に何ができるのだろう。私はまだ子供で、中学二年生で、何もできやしない。

――できるよ。

 ノアの声が蘇る。

――想えば力になる。願えば現実になる。私たちにはそれができる。世界を変えたい。常識を捻じ曲げたい。強い想いは、世界を食い破ることができる。それだけの可能性が、私たちには眠っているの。

 本当だろうか。本当にそんなこと、できるのだろうか。

「できるのかな」

 口もとまでお湯に浸かり、そっとそんな声を吐き出してみる。ぶくぶくと水面に泡が浮かぶ。水中から浮上した『できるのかな』が弾けて、消える。

 この泡が全てひとつの世界だとして、ひとつの泡が消えればもうひとつに、それが消えたらまた他の泡へ、といった具合に、ノアは世界の間を行き交っているのかも知れない。どちらにせよ、彼女は本当に世界に取り残されている。世界の時間軸に置いていかれた、ロストチャイルド。

 それはどんな孤独だろう。世界は異常だけれど、正常にループを繰り返す。その輪に入れない心情は、今の私には想像することすらできない。



 翌日。いつもと変わらない太陽が昇る。毎日同じことの繰り返し。太陽は東から昇る。

 まるでノアと同じだ。過去を反復する行為は、きっと心を殺してしまう。無気力に錆びついた太陽が昇るみたいに、ノアも惰性で呼吸をしているのかも知れない。

 教室に向かう途中、上城さんを見かけた。朝の廊下は人が少ないから、自然と目が合った。然し、彼女はすぐに顔を下げてしまって、床の埃でも見つめるように歩き去った。

 周りの子たちは上城さんのそんな様子に気がつかないように振舞っている。最近の居心地の悪さがこれだ。ノアも言っていた。上城さんは自分のことが嫌い。だから、自分とそっくりな神代闇を作って、それを嫌うようにした、と。

 さっと二組を覗くと、転校生の神代さんはまだ教室には来ていないようだ。上城さんは無言で自分の席へと進んでいった。

 朝からあまり見たくはないものだった。

 私も自分のクラスへと入る。私の通う市立泉ヶ丘中学校では一年生から二年生になる時にだけ、クラス変えが行われる。去年仲が良かった子の殆どとはばらばらになってしまった。

 自分の席について、鞄から教科書とノートを取り出していると、

「おはよう、桜ちゃん」

 木下茜の声がした。茜と去年も同じクラスで、今では一番の仲良しだ。彼女は140cmに満たない小柄な身体をしていて、いつもぴょこぴょこ跳ねているような印象がある。短い髪の毛が余計に幼さを出している。

「茜、おはよ。数学の宿題やってきた?」

 ぴらぴらと数学のプリントを摘んでみせる。空欄はひとつも埋まっていない。昨日、あんな突拍子もない話を聴かされてうんざりとしていた私に、宿題をするという真面目な気力はなかった。

「全部終わらなかったけど、一応やってきた」

 茜の鞄から、ぴっちり折られたプリントが出てくる。そこには彼女の可愛らしい文字が並んでいる。余白にはデフォルメされた猫の絵が描いてある。途中で宿題に飽きたのだろう。

「ごめん、少しで良いから見せてくれないかな」

「良いよ」

 茜にお礼を言って、プリントを拝借する。数学は一限目だから早く書き写さなければ。朝のSHRまであと二十分。必死に写せばきっと大丈夫。

 そう思ったのだけれど。

「おはよう」

 と声をかけられて、おはよう、と反射的に返してから、耳を疑った。今の声は……。

「……ノア?」

 顔を上げると、そこにはノアが立っていた。膝まである長髪。青く光る瞳。泉ヶ丘の黒を基調とした制服に身を包んでいる。

「あんた、なんで……」

 咄嗟に胸元につけている筈のネームプレートを確認する。そこには『巡来未』という文字が彫られていた。

「じゅん、らい、み……?」

「メグリ、クルミ」

 ノアに指摘される。メグリクルミ? 来未と書いてクルミ、か。

 彼女は少しだけ声のトーンを落として、

「これは世を忍ぶ為の仮の姿よ。今の私は『ノア』ではないわ。『巡来未』よ」

 窓から差し込む朝日は清々しい筈なのに、今はそれが鬱陶しく感じる。朝から頭痛がするのはこいつの所為だ。

「サクラ、少し良いかしら」

 私の答えを待たずに、ノアはむんずと手を引っ掴んで教室の外へと私を連行した。そっと耳に口を寄せて、

「上城光の様子はどう?」

 なんて訊いてくる。勘弁して欲しい。そんなこと、自分で直接見れば良いじゃないか。私は忙しいんだ。数学の宿題を手付かずのままなんだぞ。

「そんなの、見れば解るじゃない。普通よ、普通。いつも通り!」

 暑苦しく引っついてくるノアを引き剥がして叫ぶ。平然とした表情のノア。

「神代闇はまだ教室にはいないようね」

 一人、思案顔のノア。もう戻って良いかな……。

「ねえ、ノア……じゃなかった、巡、さん」

 キッと睨まれて、慌てて言い直す。

「何かしら。質問があるならどうぞ。それと、クルミで良いわ」

「じゃあ、えと、クルミ。あんた、如何してここにいるのよ」

「私は貴女に助けて貰いたいの。だから傍にいる。当然じゃない」

 なんだか態度が上から目線で気に食わない。私はまだあの話を信じていないんだからな。

「クラスは、違うの?」

「ええ、二組よ。上城光たちと同じ方が良いと思って」

 まるで自分で操作したかのような言い方だ。

「まさかあんたも、ポルターガイストとやらでクラスをいじったわけ?」

「いいえ。そんなことしていないわ」

 ふとノアの顔が曇った。なんだろう、と思っていると再び落ち着いた声で語りだす。

「そう言えば、世界がループするたびに変わることもあったわね」

「ループじゃないじゃん、それ」

 そもそもループ自体、まだ信じてないけれど、と冷静な気持ちで思う。

「特に何も起こらなかったから意識から外れていたわ。毎回毎回、クラスの振り分けが違ったの。あとは給食の献立や、天気なども」

「どういうことよ、それ。じゃあ、完全に世界が一からやり直しってわけじゃないのね」

「それはきっと私の所為でしょうね」

「はい?」

 それもポルターガイスト? でも、ノアは何もしていない、と自ら言っていた。

「私という存在が巻き戻らないからよ。その微妙なズレが時間軸をきちんと戻せなくしているのだわ」

「そう……なの?」

 私には解らない。残念ながら、全てノアの妄言のように聞こえてしまう。

「初期値鋭敏性。バタフライ効果。カオス理論」

 こうやって意味不明な単語を並べて、はぐらかすつもりなのだ。

「時間が巻き戻るまで、もうあまり時間がないわ。だから、一生懸命考えて頂戴。私を助ける方法を」

「時間がない、って……具体的にはどれくらいなの?」

 時間がない。つまり、上城さんの死までのタイムリミット。

「三日よ」

 一方的に言って、ノアは自分のクラスへと去っていく。呼び止めようとしたら、チャイムが鳴って遮られた。

 三日。あと三日で上城さんは……。


 授業には身が入らない。ノアの声が脳内を駆け巡っていて、集中ができないのだ。ドッペルゲンガー、ポルターガイスト、タイムリープ……。ノートに書き出してみて、そのあまりの現実味のなさに笑いそうになる。教卓の上では、地理の大澤先生が地球儀をくるくる回している。先生の手の中にあるミニチュアの世界。ぐるぐると地球儀を回すように、私たちには世界に干渉する力があるのか。カレーの例でなくても、願いが叶う、というのは何度か経験がある。運が良い、というのは無意識の内に現実を変革している結果なのだろうか。違う、とは言い切れない。未来は誰にも解らない。だから、夕飯がカレーになったからといって、それがたまたま当たっただけだ。たまたまだ。明日晴れてくれるかな、と思って寝たら、きちんと晴れている。それだって、たまたまだ。

 でも……。

 考えがループする。

 でも、私にもその力があるのなら。何かを変えられるのだろうか。ノアを助けることができるのだろうか。もしかしたら、上城さんが死なずに済むのかも知れない。

 ノートを逆からめくって、そこにシャーペンを走らせる。白いページに私の汚い字が並んでいく。

 ノアを助ける。具体的にはどうすれば良いのだろう。いや、どうすれば、というよりは、どうなれば良いのだろう、というのが正しい。どういった結末になればノアは“助かる”のか。答えはすでに出ている。時間軸に取り残されなければ良い。世界が巻き戻るのと一緒に、彼女の記憶も元に戻れば良いのだ。

 それでノアは救われるけれど、究極的には救われない。世界を救おう、だなんて大それた想いはないけれど、いつまでもタイムリープを繰り返す世界で生きていたいとは思えない。

 だったら――

 カリカリとシャーペンの芯が減る音がして、私の字が浮かび上がる。

『世界を正常に戻す』

 それが目標だ。上城さんと転校生の悲しいウロボロスを叩き潰すしかない。

 あとは手段だ。上城さんが生きている未来を願えば良いのか。それは簡単だけれど、そんなこと可能なのだろうか。

 そもそもノアの説明では解らないことが多すぎるのだ、などと心の中で愚痴を吐いて現実逃避。彼女の長い髪の毛が思い出される。落ち着いた口調。それはそうだ。十三回も同じことの繰り返しに、心はきっと耐えられない。時間軸は神代闇が転校してくるところから上城光が死ぬまでのループを繰り返す。およそ、三ヶ月。それが十三回目、ということは三年だ。三年間、彼女は独りで世界と闘ってきたのか。

 なんだか悔しかった。そんなに繰り返す前に、如何して私に相談しなかったのか。

 そこまで考えて、違和感があった。そうだ。如何して今までノアは私にその話をしなかったのか。前の世界のことは解らないけれど、如何して今なのだろう。リミットは三日。如何してもっと、それこそ四月当初の時間が戻ってすぐに、私のところで来たって良いじゃないか。

 何かが引っかかる。ノアはまだ何かを隠している。


 放課後、茜と一緒に帰るのを断って、ノアのいる二組へ向かった。ここのところ、あまり茜と帰れていないけど、仕方がない。

「巡さんなら、もう帰ったよ」

 及川小乃未がそう言った。及川さんとは去年同じクラスだった。成績も容姿も良い女の子。岸辺栄子という子と仲が良い憶えがある。岸辺さんも二組の筈だ。

「いつもならまだ残っている気がするけど……用事があるんじゃないかな」

 教室の中にはまだ生徒がたくさん残っているのに、ノアはそそくさと帰ってしまったらしい。視界の隅に上城さんの姿があった。あと三日。不吉な数字が蘇る。

 あと三日で世界は終わる。それまでに解決策が見つかるのだろうか。

 ともかく、ノアに逢わなければ。そう思って廊下を走り出す。

 何をこんなにも必死になっているのだろう。全て、ノアの冗談ではないのだろうか。私が必死に走り回る様子を、笑いながら見ているのかも知れないではないか。そんなネガティブな考えを打ち消すように、脳裏に浮かぶのは、助けてと言った時のノアの顔だ。あの表情に嘘はなかった。そう信じたい。


 散々走り回って、辺りも薄暗くなってきた。ノアはまだ見つからない。街中を探したわけではないけれど、私一人では無理がある。

 昨日の公園に辿り着いた。予感はしていた。ここに来れば逢えるって。でも、その予感はなんだか彼女の手のひらの上で転がされているように思えるので外れれば良いな、なんて思った。

 薄闇迫る公園のブランコに、髪の長い少女が腰掛けている。ぎいっと錆びついた音で、ブランコが唸った。暗い闇の中に、ノアの白い肌が浮かび上がっている。

「遅かったじゃない」

 足を棒のようにして探し回った結果が、これだ。なんという毒舌だろう。

「放課後に私のこと待っている、とかできないわけ?」

「私にもいろいろとやることがあるのよ」

「なによ、それ」

「タイムリープを止める準備」

 いったいどんな準備をしていたというのだろう。

「世界が繰り返す中で、私は知識を蓄えることにしたの」

 澄んだ声が、昨日と同じように公園の闇に響く。すでに夕日は沈み、街灯の心許ない光しか見えない。

「ひとつ訊かせて」

「何かしら」

 風が公園を囲んでいる木々を揺らす。まるで聞き耳を立てているみたいだ。

「如何して今になって、私にこんな突拍子もない話をしたの。時間が巻き戻ってすぐの、四月から協力していれば何とかなったかも知れないじゃない」

 何か思惑があるのだろうか。全部、嘘でした、なんていうことはないだろうけれど。返事を待っていると、ノアはおもむろに口を開いた

「試したからよ」

 震えるノアの声。唇がわなないているのは、夜の寒さの所為ではないだろう。

「十二回。私は何度もこの神代闇のポルターガイストを止めようとしたわ。でも、結局駄目だった。私の話を信じてくれない人ばかりだったし」

 それはそうだろう。誰もこんな話なんて信じてはくれない。ノアは泣き笑いのように語る。単なる思い出話ではないのだ。

「四回前の世界でね、思い切ってサクラに話してみたのよ」

 いつもの高慢な口調が年相応の少女みたいに、弱々しいものになっている。それだけノアが弱っているということだろうか。

「あれは五月だったから、時間が巻き戻って一ヶ月と少しの頃ね。貴女、その時も言ったわ。如何してもっと早く言わないの、って……」

「その世界の私は、あんたの話を信じたわけか」

「それは解らない。でも、協力してくれる、って言った。それがすごく嬉しくて、時間が巻き戻るまでの間は、とても楽しかった」

 協力したけれど、徒労に終わったわけだ。上城さんは死んで、時間は巻き戻って、一からのやり直し。

「時間というものはちょっとのズレがあとあとに大きな影響を出すの。だから、サクラに話しかけるタイミングを少しずつずらしていった……結局、何も変わらなかったけど」

 私には何も言葉をかけてやれない。目の前の少女に、慰めのひとつも言えない。きっとそれは前の世界まででたくさん言われ続けてきただろうから。ただの気休めにしかならないと、ノア自身が一番解っているだろうから。

 ブランコからすっと立ち上がって、ノアは私を見た。黒い髪が夜の空気を撫でるように揺れた。

「今回はね、諦めようと思ったの。もうどうでも良いや、って……でも、できなかった。ひとつ前の世界でね、サクラと約束したのよ」

「約束?」

「『必ず助ける』って。サクラが言ってくれたのに、忘れちゃった?」

 憶えているわけがない。それを承知でノアも言っているのだろうけれど。

「その約束を憶えているのは私だけ。でも、叶えて貰わなくちゃいけない……だって、このままじゃ……このままじゃ、前の世界のサクラを嘘つきにしてしまう。私は、そんなの厭……でも、それに気づいた時には時間がもうなかった。話さなきゃって。そう思ったの……あと三日というこのタイミングで、貴女に話したのは、こういうわけ」

 ノアの瞳は少しだけ濡れていて、感情の波がもうすぐそこまで来ているみたいだった。私がこの子に何をしてあげられるだろう。残りの僅かな時間で、一体何ができるのだろう。

 解らない。

 でも。

「解ったわ」

 ぽつりと言い放つ。なんだか現実味がないけれど、これは紛れもなく私の声だ。

「私は貴女を必ず助けるわ。やれるだけ、やってみる」

 頬が弛むノア。いつもの超然とした態度は、彼女がノアである為の仮面なのだろう。本名だって『巡来未』に決まっている。潜入捜査なんて本人は言っていたけれど、そんな簡単に学校に入れるわけがない。何より、同じクラスの及川さんがノアのことを把握している時点で解り切ったことだ。

 何ができるか解らない。私のこの両手で、どれほどの未来を掴めるか解らない。

 でも、やるしかない。

「言っとくけど、今回は約束しないから」

「え?」

 吃驚した視線を送るノアに、照れくさいからそっぽを向いて言ってやった。

「前の世界で約束済みでしょ。ちょっと遅れちゃったけど、その約束を守る。だから、絶対に助けるよ」

「……お、遅すぎ、だよ」

 ノアはごしごしと両目を擦って、そう言った。それがくすぐったくて、二人して笑った。タイムリミットは明後日だ。



 翌日になっても、全くと言っていいくらい、何も解決策が浮かばない。昨日あれだけ大胆に言ってしまったからには、もうあとに引けないというのに。

 タイムリープについて、あのあとも散々聞かされた。解ったことは、完全に時間軸が元に戻るわけでない、ということ。ノアという不変の要素がある為に完全に戻ることができないのだ。ノア曰く、少しのズレが大きな影響を生むらしい。前の世界と今の世界とではクラス変えの結果が変わったり、天気が変わったりしたそうだ。

 それともうひとつ、上城さんは放課後に屋上から転落死するらしい。それは毎回変わらないそうだ。場所と時間が解れば彼女の死を防ぐことだってできそうだ。然し、ノア曰く、当日に屋上に行こうとしても何故だか行けないらしい。廊下が生徒で混んでいたり、先生に呼び止められたり、なぜか道に迷ったり、どうやっても屋上に辿り着くことができなかったそうだ。誰かの意思で、屋上へ行けないようになっているのだろうか。それもポルターガイスト? だったら、誰がそんなことを……。

 最後に気がかりなのが、タイムリープを引き起こしている神代闇の心境だ。上城さんに死んで欲しくないからタイムリープを繰り返すというのは、釈然としない。だって、世界をやり直すたびに上城さんは死ぬのだから。生きている時間だけを閉じ込めておければ良いのだろうか。私にはそれが解らない。好きな人の死なんて、そう何度も体験したくはない。神代闇はどんな気持ちで世界をやり直そうとしているのだろう。

 気がつけば午前中の授業を消化していた。何も進展しない。パズルのピースは揃っているのに、全体図が解らずに作業が進まないみたいな、もどかしさを感じる。

 上城さんの死という未来が必ずやってくるというのなら、変えられるのはただひとつ。

 神代闇のタイムリープ。

 そこをなんとか絶つことができれば、時間軸は正常に動き出す。上城さんの死という結果を連れて。



 当日。試験の日にノー勉で突っ込むようなものだ。頭の中はすかすかで、叩くときっと良い音が鳴る。何も考えが浮かんでこない。このままではまた悲劇の繰り返し。ノアは孤独の海を彷徨うことになってしまう。

 約束したのだ。絶対に、助けなきゃ。

 時間は容赦なく過ぎていく。午前中の授業はこんな日に限って体育とか音楽とか、ぼーっとしていられないものばかりで、ノアを助ける良い案なんて浮かぶ筈もなかった。結局、昨夜もいろいろと考えたのだけれど、全然駄目だった。そもそも相手が悪すぎる。得体の知れないポルターガイストなどというものに、どうやったら普通の人間である私が対抗できるというのだろう。

 そんな投げやりな気持ちで、給食になってしまう。今日の献立はカレーだった。給食センターで大量に作られたものだ。それが私たち生徒のお腹の中に等しく収まっていく。ノアはこのカレーを何度食べたことだろう。献立も変わるということだったから、そこは退屈しないで済むのかな。

「桜ちゃん、元気なさそうだけど、大丈夫? 桜ちゃんの大好きなカレーだよー」

 そう言ったのは同じ班の白鳥慧子だ。彼女とは去年からの付き合いだ。去年のクラスは好きな人同士で机を寄せ合って給食を食べたけれど、今度の担任はそれを許さなかった。席順から機械的に班を作って、班同士で食べるようになった。それは他のクラスも一緒だったので別段不平が出るものではなかった。私は茜と別の班だけれど、慧子と同じになれたしそれで良いと思ったのだった。

 慧子の気遣いが嬉しかった。いつもはぼんやりとしているのに、最近は少し雰囲気が変わったようにも思えた。なんというか、前よりも地に足が着いている、みたいな感じだ。上手く言えないけれど。

 先割れスプーンでカレーをすくう。カレーをすくうのは簡単なのに、世界を救うとなると難しい。そう思ったあとで、それもその筈だろう、と自分の中で笑った。

「カレーは誰でも好きだよ。最高の食べ物じゃない」

 そう笑ってみたけれど、上手くできただろうか。でも、慧子はそれを聞いて安心したらしく、

「私も好きだよ、カレー……光ちゃんも同じようなこと言ってた。カレーって美味しいよね、って」

 彼女の口から上城光の名前が出て驚いた。いや、もしかすると他の光さんかも知れない。上城さん以外に、光という名の生徒がいるというのは聞いたことはないけれど。

「光って、上城さん?」

「そうそう。最近、一緒に帰ったりしてるんだよー」

 上城さんの名前を聞いた同じ班の子たちが少しだけ眉をひそめる。美味しいはずのカレーを食べているのに、なんだか不味いものを食べた顔に見えた。

「仲、良いの……?」

 思いついたので訊いてみる。上城さんは嫌われ者だと思っていた。今日死んでしまう。それを悔やんで神代闇が、上城さんを生き返す。そう思っていた。

「ついこないだからだけどねー。光ちゃんと闇ちゃんとはよく帰るね」

 慧子とあの二人は仲が良かったのか。それはとても意外だった。あの二人はいわば上城光が二人いるようなものだ。どちらも嫌われているのだと思っていたから。

「どうしたの、桜ちゃん」

 不思議そうに慧子が首を傾げる。何かが引っかかる。でも、その何かが解らないもどかしさに包まれながら、

「なんでもないよ」

 私はそう嘘をついた。



 午後の授業は抜け殻のように過ごした。もう駄目だ。時間がない。今日の放課後、それがタイムリミット。私にはもうどうすることもできない。そんな絶望ばかりが浮かんで纏わりつく。

 授業が終われば、あとは掃除、帰りのSHR、放課後だ。掃除の時間が勝負だ。ノアと逢える最後のチャンス。これを逃すわけにはいかない。

 六時間目終了のチャイムがスタートの合図であるかのように、私は勢いよく教室を飛び出した。ノアは上城さんと同じ二組だと言っていた。急いで行けば、教室から出て行く前に捕まえられる。廊下には六時間目がちょうど早めに終わった生徒たちで溢れていた。思うように前に進めない。急がなきゃ。早くノアに逢わなくては。

 逢ってどうする?

 そんな不安が心をひやっと撫でる。解らない。解らないけれど、なぜだか無性にノアに逢いたかった。

 二組の教室にはすでにノアの姿はなかった。近くにいた子にノアの掃除場所を訊くと音楽室と言われた。ここからだと少し距離がある。如何してこの大事な時に、暢気に掃除なんてしているのか。駆け足で音楽室へと向かった。私の掃除場所は一階の女子トイレだけれど、今日はサボる。世界が終わろうとしているのだ。それどころではない。

 息を切らして音楽室へと辿り着いたけれど、そこにノアの姿はなかった。とっとと帰れば良かったのだけど、音楽の関谷先生に出くわしたのがいけなかった。今は掃除の時間でしょう、と少し説教を貰い時間をロス。世界が終わるというのに、それに気がつかない人々は全くいつも通りだ。私だってこんなに信じてしまうとは自分でも思わなかった。でも、タイムリープが本当かどうかなんて、今はもうどうでも良い。ノアが助けてというのだから、助けるまでだ。

 音楽室から開放されて、当てもなく廊下を駆ける。その途中で、お昼の慧子とのやりとりを思い出す。

 慧子はあんなに上城さんたちと仲が良かったのだろうか。それはとても不思議なことなのだ。普段からやる気のない彼女。去年、同じクラスだったというだけで、クラスが変わってからも一緒に帰るだろうか。

 何かが引っかかる。

 世界を正常に戻す為に、知らなくてはならないこと。それは、神代闇の気持ち。タイムリープは如何して起こさなくてはいけなかったのか。

 時間軸は完璧に戻るわけじゃない。何処かでズレが生じて、前の世界とは異なる。それは私たちの想いや、関係性などにも同じことが言えないだろうか。例えば、上城光という存在が実はそれほど疎まれていない、だなんて。少しずつ少しずつ良い方にズレが生じていくのだとすれば……。神代闇がタイムリープを繰り返す理由。それは……。

 上城光が周りから好かれる世界を作る為。それは何度、世界をやり直したら訪れる未来なのだろうか。些細なズレで微調整して、アキレスと競争する亀のようにゆっくりと進む。

 そんな、みんな仲良く、なんていう究極的な世界を彼女が望んだとすれば。私にそれを止める権利があるのだろうか。


 漸くノアの姿を見つけた頃には、帰りのSHRも終わってしまっていた。教室に鞄はあるから、きっと不審がられているだろう。言い訳はあとで考えれば良い。今は、ノアと話す方が先だ。特別棟ということもあってか、周りには生徒がいない。静かだ。

「ねえ、あとどれくらい? もう放課後なのに、何も浮かばないの……!」

 肩で息をして、彼女に尋ねる。ノアの長い長い髪が、少しだけ揺れた。

「あと十分くらいかしら」

 十分だって? 屋上には行けない。上城さんも神代闇も見当たらない。一体どうすれば……。

 その時、視界に光るものを捕らえて、思考が止まった。それは非日常の塊。傾いだ太陽の光を受けて煌く刀身。冷たく光るナイフが、ノアの手に握られている。

「ずっと考えてはいたの」

 ぴりぴりと頬に厭な痛みが走る。ノアの右手にあるナイフから目が離せない。刃に映った私と目があった気がした。

「少しのズレが時間軸に影響するのなら、一人の人間の死はどれくらい変えられるのだろうって」

「何、言って……」

 ダンスを踊るように、ノアはその場でくるっとターンをした。ざあっと空気を撫でるように、黒髪が花開く。

 人の死が時間軸に与える影響。ノアという一人の人間の身体が巻き戻らない、というだけでもこれだけの差は出る。それが人の死だったら。一人分の命の欠けた世界だったら……。

「馬鹿なことはやめて、ノア……」

「やっぱり、無理だったんだよ。最初からこうすれば、良かった。毎回毎回、一から人間関係を作り直していく作業。すごく、疲れた。それだって、時間が経てばまたリセットされる……だから、もう誰とも関わりたくなかった……誰とも親しくならないで、ただ時間が戻るのに身を任せようと思った」

 賽の河ではないけれど、積み上げていったものが理不尽に壊される。そして、壊されるのを知っていながら積み上げなくてはいけない苦痛。耐えられないだろう。

「ごめんね……約束……叶いそうに、ないな」

 彼女の目にはうっすらと涙が浮かんでいる。それでも悲しげに笑った。

「何、馬鹿なこと言ってんのよ! まだだよ……! まだ終わってない! 私がなんとかするから、だから……!」

「できないじゃない! もう時間がないの! もう、駄目なの……だったら、私が変えてやる……これでまた時間が戻ったって良い。私の身体はここで死んで、もう二度と蘇らないの。そうすれば解き放たれるから」

 言葉が切れた刹那、ナイフの空を切る音が響く。駄目だ。間に合わない。銀色に笑うナイフの切っ先が、ノアの真っ白な首に近づく。スローモーションで光景が流れる。私は必死に、駆けた。手を伸ばす。伸ばす。届くわけがない。ノアまでの距離は三メートルほど。それが、遠い。ノアはこの世界の私より三年も多く時を重ねている。遠い。距離にして三メートル、時間にして三年。届くわけがない。私の視線の先で、ナイフの先端が、首の肉に喰らいつく。肉の軋む音が聞こえた気がした。厭。厭だ。厭なんだ。ノアに死んで欲しくない。最初は、変な格好で意味不明なことばかり言って、鬱陶しいやつだって思った。でも、そうじゃない。ノアはノアなりに考えて、ずっとループするこの世界をどうにかしようとした。そんな彼女に、死んで欲しくなんかない。いや違う。ノアがどんな人間だって良い。私は、ノアに生きていて欲しい。だから、ぐっと手を伸ばす。前へ、前へと伸ばす。この手は何かを掴む為のものだ。貪欲に、二つの手で、手に入れたい未来を掴みとる為のものだ。だから、私は――

「死んじゃ、厭!」

 頭の中にきーんと痛みが走る。冷たいアイスを一気に食べた時みたいな感覚と、貧血で倒れる時の視界がぶれる感じ。目を開けると、私はノアの身体を押し倒して廊下に転がっていた。手にはべっとりと真っ赤な血がついている。驚いて飛び起きると、横にはノアの身体。傍に血で濡れたナイフが落ちている。

「ノア! ノア、しっかり!」

 慌てて呼びかける。抱き起こすと、首元に一筋の赤い線が見える。

「うう……」

 苦しげに呻くノア。でも、首の傷は大きいけれど浅い。そこから染み出た血が生々しい。

「なんで、止めるのよ……」

 けほっと咳をして、ノアは起き上がった。良かった、生きている。私はほっと息をついて、精一杯の声で怒鳴ってやる。

「ノアが死んで、たとえ世界が元通りになっても……私、そんな未来いらない!」

「な……」

 信じられない、と言った顔のノア。

「だって、これ以上私耐えられない! だったら死んだ方がマシ――」

 ぱちん、と乾いた音が廊下にこだまする。ノアの頬をはたいた私の手のひらも、同じようにひりひりする。

「自分の命で世界を救う? それが駄目なら逃げ出せば良い? そんなの間違ってる! そんなことの為に、私たちの心臓は動いているわけじゃない! ノア、前に言ったじゃない……想えば力になる。願えば現実になる。私たちにはそれができる、って……だったら、精一杯、最後の最後まで願えよ! 途中で諦めて、それであんたは満足かも知んないけどさ! 私はそんな下らない未来なんて欲しくないの……!」

 そう言ってみても、実際どうすれば良いのかなんて解らない。結局、無理だったのだ。願っても願っても、私とノアでは世界を変えることなんてできなかった。

「ごめん、ほっぺ叩いて……」

「うん、痛かった……でも、この痛みは忘れないよ。次の世界でも、忘れない」

 その言葉が痛かった。もう時間を尋ねる猶予もなさそうで。ちらと時計を見る。ノアが寂しそうに、唇を動かす。

「もう、時間ね。上城さんは、死――」

 その時、大げさな足音が聞こえた。振り返ると、そこには慧子とその友人の万乗千百合が立っていた。二人とも肩で息をしている。

「な、何があったの、二人とも」

「光ちゃん、見なかった!?」

 私の問いに答えるのもまどろっこしいという感じで、慧子が矢継ぎ早に尋ねる。光ちゃん、ってつまり、上城さんのことだろうか。如何してこの二人が上城さんのことを、こんなに必死になって探しているのだろうか。

「掃除の時間のあとから、行方が解らない、って……神代さんが」

 千百合も息を整えながら、私に尋ねた。

「ごめん、解らない……でも、もう手遅れ、かも」

 私は何を言っているのか。まだ死んだわけじゃない。そう思いたい。けれど、心の何処かではすでに解っていた。上城さんはもう……。

「どういうこと……」

 突然、ノアが掠れる声で呟いた。

「こんなの、前の世界では起きなかった……如何して、いったい、何が……」

「ちょっと、どうしたのノア!」

「その子、首から血が出てるよ!」

「あらまあ、どうしましょう……!」

 三人で慌てふためいていると、ノアはがくんと力が抜けたように項垂れた。それを見て心配したのだろう、慧子と千百合の二人は保健室に先生を呼びに行ってしまった。ノアはいったいどうしたのだろう。死ななかったことに今更になって安心したのだろうか。そう思ったけれど、違った。彼女はこんなことを言ったからだ。

「時間が、巻き戻らないの……」

「え、それって……」

「そのままの意味。本当ならここで時間が戻る筈なのに……」

 それは未来が変わったということだろうか。いや、そうではない。神代闇がタイムリープを発動しなかったのだ。その理由は、私にはなんだか解ってしまった。

「もうタイムリープの必要がなくなったってわけね……上城さんの周りに、実はたくさんの人がいたことに、神代さんが気づいたから」

 ほっと溜息をつくように、私は言葉を紡ぐ。この切ない物語に終止符を打つ為に。

「慧子や千百合が、上城さんをあんなに必死になって探してた。他の子たちも、もしかすると何処かで探しているのかも。それを知った神代さんは、こう思ったわけ。『上城光は嫌われていなかった。もうやり直す必要はない』ってね」

 上城さんに悪い想いのままで死んで欲しくない、神代闇はそう思ったのだ。だから、上城さんにとって良い世界になるまで、タイムリープを繰り返した。タイムリープをすれば、それだけ上城さんの死を体験しなくてはいけない。でも、彼女が嫌われたままで死ぬのは、それこそ厭だったのだろう。

 この十三回目の世界では、上城さんの周りには慧子や千百合、それに私やノアも含めても、何人かの味方がいた。そしてそれは、他ならぬ上城さん自身で塗り替えた世界なのだろう。

 だから、これで大丈夫な筈だ。

 勿論、全ては憶測だ。そもそもノアの言い分だって本当かどうかは解らない。私の感覚では世界の時間が巻き戻らないなんてことは、解らないのだから。

 それはでも、ノアにとっては別だ。やっと、彼女は時間の因果から解放された。

 透明な雫が、彼女の黒髪に落ちていく。

「有難う、サクラ……これで、私は……やっと」

 私は自分の両手を見る。ノアの首の血で濡れた左手。ノアの頬を叩いて赤くなった右手。この両手はしっかりと、未来を掴んだのだ。

――想えば力になる。願えば現実になる。私たちにはそれができる。世界を変えたい。常識を捻じ曲げたい。強い想いは、世界を食い破ることができる。それだけの可能性が、私たちには眠っているの。

 ノアの言葉が蘇る。これは当たり前のことを言っただけなのかも知れない。何も想わなければ、何も願わなければ、どんな未来もやってきはしない。ただ世界に流されるままになるだけだ。その大きな波に干渉して、自分の望む未来を作っていく。それが、生きていくということだ。

 遠くでサイレンが聞こえる。上城さんのいない世界。自身の死は変えられなかったけれど、彼女は自分の力で周りの人を味方につけていったのではないだろうか。

 それも今となっては解らない。

「約束したじゃない」

 遠くに沈みゆく太陽が、一日の終わりを告げる。ノアにとっては長い一日だっただろう。それが漸く閉じるのだ。

 とにかく、これでもう超常現象とはおさらばだ。上城さんの死という、異常な日常がやってくるだけだ。あまり話したことのない女の子だった。もっと仲良くすれば良かったな、とぼんやりと思った。

 床にへたり込んでいるノアに、ひとつ気になっていたことを尋ねる。

「今更だけどさ、如何してノアなの?」

 本名を素直に名乗れば良かったのに、わざわざ偽名、というか電波な名前にしたのは何か理由があったのだろうか。耳まで真っ赤に染めて、ノアが恥ずかしそうに答える。

「そ、その方が、突拍子のない話でも信じてくれるかな、って……アニメとかで、よく、あるし……」

 そう言ってノアは目をごしごし擦ると、青く光るコンタクトレンズを指に乗っけて見せた。彼女の瞳が青かったのはそういうことだったのか。飽くまで雰囲気作りだったということか。

 その弱々しい姿が、ノアから巡来未という一人の少女に戻ったようで、私は心から安堵した。

「もう、こんなのごめんだよ」

 清々しい笑顔で、とびっきりの悪態をついてやった。



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