傲慢
幼い頃から、私の周りにはたくさんのものがあった。
庭師が手入れをする広い西洋庭園。季節ごとの花を咲かせる大きな花壇や、朝日にきらきら光る水面を生む噴水。自分の部屋には天蓋付きのベッド。何着もの洋服の入った大きなクローゼット。ふわふわと毛の長い絨毯。一周するのに歩いて三十分以上かかる豪邸は、私にとっては必要以上に大きかった。数十人もの使用人がいて、身の回りのことは何でもやってくれる。
挙げればきりがない。私は所謂、お嬢様だったのだ。
屋敷の中にはいつもたくさんの使用人がいた。だから決して寂しくはなかったけれど、いつもいない両親に逢いたいと思ったことは、星の数なんかよりもずっと多い。
お金をたくさん貰っていたし、資産家の娘ということで将来も約束されているようなものだった。友達にそのことを話すと、馬鹿みたいに羨ましがられる。
全く鬱陶しい。
勝手に向けられる羨望の眼差しが、私にとっては鬱陶しい以外の何物でもなかった。
お金も、将来もある。勝手にそう言われる。お金も将来も、確かにあるのかも知れないけれど……。
でも、私には『家族』が足りなかった。
お金をいくら集めても買えないものだってある。
それが『家族』だったのだ。
今日、父が死んだ。給食を準備している時に、父に持たされた携帯電話に連絡があった。
父は仕事柄いつも忙しくて基本的に家にはいなかったから、最後に逢ったのがいつだったかすぐには思い出せなかった。彼の好きな食べ物すら、私は知らない。低い声できっちりとスーツを着こなしている印象しか、彼にはない。
交通事故だったらしい。父の乗っていた車が、横転したトラックの下敷きになったのだとか。それはまるでニュースの中の出来事みたいで、実感が全く湧かない。電話の向こうから聞こえてくる使用人の声が、まるでテレビのアナウンサーの声みたいだったから。ただただ原稿を読み上げるような無機質な声が、私の鼓膜を事務的に揺らした。
父がいなくなったことで、私はあの広い家で本当に独りぼっちになる。今の母親は父の再婚相手だから、私の本当の母親ではない。唯一血の繋がっていた父が死んでしまった今、私の家族は本当にいなくなったのだ。
それにしても、如何して今日なのだろう。如何して今日でなくてはいけなかったのだろう。
勝手に天国へと旅立った父。別れの挨拶も言わずに。
授業参観、来てくれる、って言っていたのに……。
自分の父親が死んだというのに、不謹慎だろうか。彼の死に嘆き苦しみ、慟哭しなければならないのだろうか。頭では理解していても、心の何処かが故障してしまったみたいだった。
今日は授業参観日。父の死よりも、そのことばかりが頭の中を巡る。それくらい楽しみにしていたのだ。久しぶりに逢える、ということもあったけれど、父が初めて授業参観に来てくれる日だったのだ……。
昨夜は緊張と期待で上手く眠れなかった。
「ねえ、わたくし、先生の質問にちゃんと答えられるかしら」
「大丈夫ですよ、お嬢様ならきっとできますわ」
「でも、お父様がいらっしゃるのよ。ああ、もし的外れな回答をしてしまったら、どうしましょうか」
「まあまあ、今日はもう夜も遅いですから」
などと使用人たちに促されて寝室にこもったのだけれど、結局、そのあとも一人で悶々としていて、睡眠不足だ。
授業で先生に指された時に、きちんと答えられるだろうか。多くの保護者の前で恥をかくようなことはしないだろうか。そんなことばかりが頭の中を巡って、幾ら羊を数えようとしても、不安が邪魔するので羊は数えられる前に逃げていったのだった。
結局、その日は学校を早退することにした。使用人の運転する車が校門の前にやってきて、私はそれに乗り込んだ。病院に行かなくてはならない。その時、父の顔を見たくない、と初めて思った。死んでしまった父。もう、二度と逢えない。記憶の中で手を繋いで貰った回数を数えてみても、片手で足りてしまう。
あの人は本当に私の父親だったのだろうか。眠気の所為か、上手く働かない脳みそでそんなことを思った。
「千百合さん。こちらが貴女の新しいお義父さんよ」
そんなことを義母から聞かされた時に、たった今紹介された、目の前の男を呆気に取られて見つめた。それしかできなかった。痩身だけれど、不健康なイメージは受けない、気の良さそうな男の人だった。耳にかかるくらいに伸ばした黒髪が優しげに揺れる。若そうに見えたけれど、顔にできた皺を見ると、大人なのだと実感が沸いた。
にこやかに、こんにちは、と挨拶をされた。
これが、私の……。
「ほら、挨拶なさいな、千百合さん」
義母は私のことを千百合さんと呼ぶ。その呼び方が気に食わなかった。こちらを窺うような、何かを畏れているような呼び方。“さん”をつけると丁寧で、相手を思いやっているみたいに聞こえるけれど、なんだか距離が遠い気がする。親子だったら、千百合と呼び捨てで読んで欲しい。
今はもうこの世界にはいない人から貰った、私だけの名前をはっきりと、堂々と、呼んで欲しいんだよ。
結局その時、私はお義父さんに何と言ったのかは覚えていない。ただ、ぼそぼそと曖昧に呟くような言い方になってしまったに違いない。
これは父が死んで二ヶ月が経った頃のことだ。
私は義母に、心の中で問いかけた。
如何して?
貴女は父を愛していなかったの?
如何して、すぐに違う男の人を好きになれるの?
私はまだ子供だから解らない。ろくに恋なんてものをしたことはない。
でも、それでも解る。父を愛する気持ちは、義母も一緒だと思っていたのに。
新しい父親と笑い合う義母が、ひどく憎かった。
午後の授業は、ついうとうとしてしまう。まどろんだ意識を現実に戻すと、六時間目がまだ二十分も残っていることに気づいた。思うに、午後の一番眠い時間に数学の授業を入れてしまう時間割に問題がある。給食を胃の中で消化するのに忙しい身体が、脳みそまで使いたくない、と必死に叫んでいる。欠伸をする口元を左手で押さえて隠す。古い記憶が瞼の裏にこびりついている。あれは小学校の頃の出来事だ。今となっては思い出話だけれど、当時は辛かった。父の死と、義母の態度。うんざりだった。
それから半年が経ち、私は中学校に入学した。小学校と中学校では違うことが多すぎて、ついてけるか心配だったけれど、意外と上手くいっていた。
友達も何人かできた。私の大切な友達。
綺麗な顔立ちの成本朝美。
人当たりの良い岡崎遥。
いつでも冷静な戸塚亜月。
明るくて賑やかな北条桜。
控えめで優しい長谷川琴理。
背が低く可愛らしい木下茜。
みんな、とても良くしてくれる。
小学校からのつきあいの白鳥慧子とは、一年生の時は同じクラスだった。彼女はやる気というものを何処かに落としてきてしまったかのように、いつもだらけきっている。昔はもっと勉強や運動に熱心だった筈なのだけれど。何処かで頭のネジが緩んでしまったのかも知れない。サボることに対して楽しみを見出しているのでは、と疑うほどやる気がなかった。
周りからお嬢様扱いされていた私は、中学校でこんなにも友達ができるとは思っていなかったから、驚きと共に飛び上がるほど嬉しかった。学校が楽しかった。家にいると息が詰まる。血の繋がらない義母と義父。ひとつのテーブルに座って夕飯を食べている時、私たちは如何して一緒にご飯を食べているのだろう、と疑問に思ったこともある。傍から見たら、私たちの食卓はどういうふうに見えているのだろうか。滑稽な気がするのは、私だけなのかな。
そういった事情で、一秒でも長く学校にいたかった私は、それこそ毎日の授業も真面目に取り組んだし、委員会活動にも励んだ。
段々と周りのみんなの様子がおかしくなり出したのは、中学一年も半分が過ぎようとした頃だった。何か隠し事をされているような、違和感。全て私がそう感じるだけなのかも知れないのだけれど。
一見すると普段通りなのだ。でも、注意深く観察していると些細なものまで見えてくる。
何だろう。一体、みんな何を隠しているというのだろうか。悩み事があるのなら、相談してくれても良いのに。みんな自分だけで抱え込もうとしているみたいで。それが私を不愉快にさせる。
如何してなのだろう。何でも良いから話して欲しかった。そうしたら、力になれるかも知れないのに。
ちょうどその頃、同じクラスの上城光という女の子がクラスで浮いているということにも気がついた。周りの態度が妙によそよそしいのだ。それでも、私に何かできるか、と言われれば素直に白旗を振ることしかできない。
誰かを助けたい。友達を助けたい。あまり話したことはないけれど、あの上城という少女のことも。
でも、私には何もない。あるのはお金。そんなもの、何の役に立つと言うのだろう。百万円を上げるから、みんな元気になってくれ、とでも言えば良いのだろうか。それで満足するのは私一人だけだ。元気になった振りをするみんなを見て、ああ良かった、と安堵するのは私だけだ。そんなの、望んでなんかいない。
私の将来はきっと有望で、何処かの大きな会社の社長の息子とでも結婚させられるのかも知れない。それはもしかしたら素敵な将来なのだろう。でも、すぐ先の未来に私は何もできない。何もできない私が少し先の未来へと続いていく。遠い将来のことよりも、私には今この瞬間に困っている人たちに何かできないか、と考えた。
でも、みんな何も話してはくれない。誰も自分勝手だ。自分の問題は自分の問題。身勝手にいじめる人間。身勝手に見て見ぬ振りをする人間。
みんな、みんな自分勝手で我が儘なのだ。
これは去年の記憶。眠気の中で瞼の裏側に蘇っては消えていく。
黒板を走るチョークの音がまた睡魔を誘き寄せる。周りをちらと見渡すと、眠りに落ちそうな生徒も少なくない。いつもなら騒がしい男子も、今は静かに先生の話を聴いている。半分は寝そうになっているのだけれど。
視線をさらに後ろへ一瞬だけ巡らす。教室の後ろにはおめかしした大人たちが立っている。今日は授業参観日なのだ。それにしても六時間目という一番眠い時間に保護者を呼ぶだなんて。眠気と保護者に板ばさみにされた私たちにできることは、必死に耐えるということだけだ。どちらにせよ、私の親は来てはいないけれど。
ばれないように溜息をつく。父の死から三年が経った。父が来る筈だった授業参観。それ以降も、授業参観なんてものに義母も義父も来ることはなかった。どちらも仕事が忙しい。彼らは家にいる時間が増えて、夜になれば帰ってくるけれど、平日の午後に学校に来るだなんて、夢のまた夢だ。
三年。私はあれからどれだけ成長しただろうか。大人になりたくて伸ばした髪はやっと腰までの長さになった。そんなことで喜ぶなんて子供っぽい、と慧子に言われた時は、ついむきになって反論したけれど、冷静になってみるとなるほどそうだな、と思ってしまった。
人はいつ大人になるのだろう。法律の上では、成年は二十歳だ。お酒も煙草も二十歳からだ。だったら、私がこうして髪を伸ばして精一杯、背伸びしているのは無駄な行為なのだろうか。時間が等しく子供たちを大人に変えてくれるというのなら、早く大人になりたいと思っても、それは不可能なことだ。
早く終わらないだろうか。時計の針をじっと眺めてみても、秒針のない時計はまるで動きを止めてしまったかのようだ。時間が止まれば良い。そうすれば何も煩わしいことなんてない。そんなのは無理だと解っている。
でも、もしそれができたら……。過去から未来へ進む時間を捻じ曲げてしまうことが、できたとしたら。それこそ、無茶苦茶な話だ。無理だ、と解るのだから少しは大人に近づいているのかも知れない。そんなことを思った。
「万乗さん、今年もよろしくね」
澄んだ声でそう言って、草巻先輩は私に微笑んだ。三年生の草巻桃片先輩は、三年連続で美化委員会に入っていて、今年はついに委員長を務めることになった。背中までの長い髪を、先端でひとつに纏めている。ぷっくりした頬が愛らしい先輩だ。おっとりした性格だけれど、掃除に関してはとても熱心で、少しの手抜きも許さないといった一面もある。
授業参観から数日たったある日、放課後に今年度最初の委員会活動があった。
「こちらこそよろしくお願いします」
私も美化委員会は二年目。掃除は好きだ。家では使用人たちが全てやってしまうから、小学校に上がるまで掃除なんてしたことがなかった。雑巾を初めて絞った時は、指が痛くて水がぼたぼた垂れるような始末だったけれど、掃除は楽しい。綺麗になっていく様子を見るのは、自分自身も綺麗になっていくような錯覚を覚える。だから自分の入る委員会を決める時、美化委員会しかないと思った。あまり人気のない委員会なので、唯一私だけは立候補で美化委員会に決まった。嬉しかった。
「また美化委員になるなんて、万乗さんもお掃除が好きな人なの?」
草巻先輩は不思議そうに首を傾げた。
「先輩もお好きなのですか?」
探るような微妙なやり取りのあとに、先輩と二人して笑った。美化委員会に入るのは二種類の人間だ。他にやりたい委員会があったけれど抽選に漏れてしまった人と、本当に掃除が好きな人のふたつだ。どうやら私たちは後者らしい。
「モモ」
それはまるで鈴の音が鳴るようにも聞こえた。冷たく響く声だった。
振り返ると、そこにいたのは背の高い少女だ。いや、制服を着ているから少女と言えるけれど、だいぶ大人びた印象を受ける。長い黒髪がさらさら揺れる。私も身長は高いほうだけれど、彼女の方が少しだけ高い。その人は分厚い本を重ねて持っていた。図鑑か何かだろうか。
「小夜子、重そうだね。運ぼうか」
「大丈夫よ。この子たちも手伝ってくれているし」
小夜子と呼ばれた少女は、さらっと答えた。ネームプレートには『倉木小夜子』と書かれている。上履きの色を見ると、どうやら三年生らしい。
倉木先輩の後ろには上城さんと、もうひとり眼鏡をかけた女の子の姿があった。どちらも重そうな本を抱えている。二年に進級してクラス変えを行ってからは、上城さんとの接点なんて完全になくなっていたので、逢うのはとても久しぶりだ。
「先生が持っていけって。随分と乱暴よね。女の子にこんな重いものを運ばせるだなんて」
歌うように倉木先輩が言う。本当にそう思ってなさそうな口調で。
「図書室に置くの?」
「司書室ね、きっと。貸し出し用ではないみたい」
完全に雑用だ。上城さんがいるということは、図書委員会なのだろう。
「本当に手伝わなくて大丈夫? 委員会始まるまで、まだ少し時間あるから運べるよ」
草巻先輩はそう言うと、倉木先輩の持っていた本の山を、半分だけさっと取り上げてしまった。
「モモったら、本当に良いのに」
申し訳なさそうな倉木先輩に、草巻先輩は屈託なく笑って、
「良いの良いの、困ってる時はお互い様なのです」
二人の先輩は仲が良いらしい。そのまますたすたと歩き去ってしまう。その後ろを眼鏡の女の子が慌てて追いかける。本が重いから、うまく走れないようだったけれど。
廊下に残されたのは、私と上城さんだけ。辺りは静かだ。みんなはそれぞれの委員会の場所へと向かったのだろう。
上城さんに視線をやる。肩までの髪が、歩くたびに右と左に交互に揺れた。
先輩たちの今のやり取りを思い出す。片方は「手伝いたい」と言い、片方は「手伝わなくて良い」と言う。私にはそれが、どうも自分勝手なように思えてしまう。二人の意見は、まったくの逆だ。永遠に交わらない平行線。自分の考えを押し付ける行為に他ならないのでないか。
重い本を懸命に運ぶ上城さんに、私はなんと声をかけたら良いのだろう。
「あの」
何も考えが浮かばないまま、声だけが出てしまう。どうしよう。
「万乗さん……?」
「ええ、そうよ」
「あ、えっと……お久しぶり、です」
去年、同じクラスだった時、上城さんとは殆ど会話をしていない。声を聞くのも随分と久々な気がした。
「手伝いましょうか」
何故だか言ってみたら、案外すんなり言うことができた。ただ、上城さんは困惑している。
「い、良いよ。大丈夫だよ。もうすぐ委員会始まっちゃうし……重いし……一人で、ほんと大丈夫だから」
最後の方は尻すぼみになってしまって、なんと言っているのかよく聞こえなかったけれど、手伝わなくて良い、ということらしい。こちらが親切に言っているのに、如何して断るのだろうか。草巻先輩たちは荷物を分けて持っていったではないか。
結局、この子も一緒なのだろうか。みんな、自分勝手。こちらの気持ちをちっとも知ろうともしないではないか。
「悪いよ、そんなの……」
必死に言い訳を探すように、上城さんが呟く。その声だけはしっかりと聞こえた。
「悪いと思うのなら、私に荷物を持たせて下さい」
「それは、だめ」
頑なに首を横に振る上城さん。肩までの黒髪が首の傘を開くように円を描く。
「如何して……?」
「……え?」
「如何して、断るのですか……わたくしが、親切に持つと言っているのに」
何故、私の気持ちを踏みにじるのだろう。
「それは、その……」
彼女は本当に言葉を探しているのだろう。自分の中にある言葉を組み合わせて、自分の想いを相手に伝える為に。だから、こんなにも話をするのに時間がかかるのかも知れない。それだって自分勝手な行為に思えてしまう。
沈黙を破り、上城さんが言葉を吐き出す。
「万乗さんに、迷惑、かけたくないから……」
目が泳いでいて、前髪をいじる上城さんはなかなか落ち着かない。迷惑をかけたくない、と彼女はか細い声で言った。それはどういうことだろう。私には解らない。
「えと、だって、これ重いし、万乗さんは図書委員じゃないから持つ必要はないの。だから、その……」
「そんなの、勝手じゃないですか……わたくしの気持ちを蔑ろにして」
「それは違うよ」
私の言葉をぴしゃっと遮って、はっきりとした口調で上城さんが言う。
「だって……万乗さんの手伝いを断ったのは、万乗さんのことを考えてのこと、だから……」
私のことを考えてのこと? 嘘ばっかり。私のことを一番に考えるのなら、私の申し出を受け入れるべきではないか。結局、この子も同じなのか。暗い思いが心を染め上げる。それじゃ、と言って急ぎ足で私の前を通り過ぎる上城さんを、私はただただ見送るしかなかった。
翌日の帰り、慧子とたまたま一緒に帰ることになった。昨日は委員会で慧子と逢った。一緒の美化委員会になれて、なんだか嬉しかった。面倒くさがりの彼女が、美化委員会になるだなんて、きっと他の委員会に入れずにしぶしぶだったのだろう。その光景がすぐに想像ついて思わず苦笑する。
「どーしたの、お嬢様」
時折、慧子は私のことをからかってお嬢様、と呼ぶ。私はあまりその呼び名が好きではないから、むっとして答える。
「貴女が美化委員になるだなんて、おかしいな、と思って」
いつもは学校までの送り迎えに、家の真っ黒なリムジンがやってくる。それはまるで私を閉じ込めて逃がさない棺みたいで。音もなく校門の前にすっと止まる。
中学校に上がって最初のうち、私は自転車で通っていた。それは入学のお祝いに義父から買い与えられた、真っ黒な自転車だった。とても高級な代物で、十年乗っても壊れることのない、素晴らしいものなのだ、と義父は得意げに言っていた。私はあまりその自転車が好きになれなかった。ギアがついていないので、ペダルを漕ぐのにひどく体力がいるし、何より見た目が無骨で厭だった。
こんなの、男の子が乗るみたい。そう思ったけれど、口をついて出たのは買ってもらったことに対する感謝だけだった。その嘘で塗り固められた言葉は、きっとこの自転車みたいに真っ黒なのだろうな、とぼんやり思った。
黒という色が嘘の色だとすれば、この世界は嘘ばかりだ。父の死体が納められた棺、私の長い髪の毛、家の車。どれが本当でどれが嘘なのか、もはや私には解らない。
空には一羽のカラスがぽつんと飛んでいて、お前も嘘でできているの? と心の中で尋ねた。
ともかく私は入学早々に、黒くて大きな女の子らしくない自転車に乗るのをやめた。それを知った義父は、
「最近は物騒だからなあ。正直、自転車で毎日登校するのは心配だったんだ」
そう言って、仕事へと出かけていった。皺のない真っ黒なスーツに身を包んだ背中を、私用人の作った朝ご飯を食べながら見送った。
それからというもの、毎日のように漆黒の車体が校門前に止まる光景が日常となった。少しだけ私は有名になった。別にそれは構わないのだけれど、周囲の勝手な羨望が鬱陶しかった。
そういった諸々の事情があって、私は時折、家までの帰り道を歩いて帰るようにしている。朝は送ってもらうけれど、帰りは友達と帰るから、と嘘をついた。たまには一人になりたい。もともとたいした距離ではないのだ。
そんな昔のことを思い出して、ついさっきのこともついでのように頭に蘇る。昇降口でばったり出くわした慧子は少し雰囲気が違って見えた。何だろうか。
夕暮れにはまだ早いけれど、少し日が傾いでいる。
「ちーちゃんと帰るのって、久しぶりだねぇ」
のん気にそう言って、慧子はふわぁ、と盛大に欠伸をした。それきり、二人とも無言で歩いていたけれど、
「最近、みなさんの様子がおかしいとは思いませんか」
気づくとそんな質問をしていた。何を言っているのだろう、私は。いつも眠たそうにしている慧子に、そんな話をしても一蹴されて終わりそうだ。
「うーん……それ、実は私も思ってた」
然し、予想に反して彼女はそう言った。嘘をついているようには思えなかった。だいたい、いつも面倒事には絶対に首を突っ込まない慧子が、わざわざこんな話に食いついてくる筈がないのだから。
「そうですか……具体的に、わたくしは皆さんの為に如何したら良いのでしょうか」
いつもはふざけ合っている仲だけに、真面目な話をするのが照れくさい。遠くに沈もうとしている夕日が、なんだか綺麗だった。
私たちは歩みを止めずに、ぐんぐんと進んだ。
慧子は黙ったままだ。
「それはやっぱりさ、直接本人に訊くしかないよ。考えたって解らないことはあるもんだよ、お嬢様」
沈黙のあと、慧子がへらへらと笑いながらそう言った。人の気も知らないで。
「では、手始めに慧子の最近の様子について伺いたいのですが」
「私?」
「そうです。慧子も最近、何かを隠しているように見えます。例えば、美化委員会に入るとか」
実際、慧子の様子はここ最近、少しだけおかしかった。それは本当に僅かな変化だったけれど。何か周りが気になっているような。普段から周りのことなどお構いなしにだらけ切っている彼女にしては珍しいことだった。
「そ、それは……」
一瞬口ごもる慧子だったが、すぐに真剣な表情は一転して緩んだ笑顔になった。
「それは乙女の秘密、ということで」
まただ。
またそうやって、真実を隠す。
身勝手な振る舞いが、私をどんどん憂鬱にさせていく。
「如何してですか……」
「……ん?」
気がついたら言葉を紡いでいた。駄目だ。止まらない。いつもならこんなのやめたいと心のブレーキが働くのに。
「如何して……みんな、自分勝手です! そうやって周りのことなんかお構いなしに、自分だけで背負い込んで!」
当惑した慧子の瞳が揺れる。夜が液化したらあんな瞳になるんだろうな、と心の何処か冷静な部分がひっそりと思った。
「……それは」
「言い訳は結構です! どうせみんな――」
その時、携帯電話のけたたましい音が鳴り響いた。マナーモードにするのを忘れていたらしい。一日中鳴らなかったのは幸いだった。使用人からの電話だった。
慧子のことは気になるけれど、仕方がないので電話に出る。
「……はい、もしもし」
少し不機嫌そうな声でそう告げると、
「千百合お嬢様!」
何よ、騒々しい、という私の言葉は、受話器越しに響く大声に掻き消された。
「今は何処にいらっしゃいますでしょうか。これから、お嬢様をお連れして病院に向かいます」
――お義母様が倒れました。
使用人の声。何処までも無機質で抑揚のない、電気信号で変換された声が、私の鼓膜を容赦なく叩いた。
まただ。
また自分勝手に。
父は勝手に天国に向かった。
貴女もなの、お義母さん……?
貴女も勝手に……。
何も考えられず、気がつくと私は病院にいた。私の乗るリムジンが何処を通ってここまでやってきたのかを、思い出そうと思ってもできなかった。辺りはすっかり暗く、初夏の夜の匂いがした。
病室に着くと、目の前には元気そうな母親の顔があった。最後に逢ったのはいつだったろうか。いつも家にいない義母の顔を、病室で見ることになろうとは思いもしなかった。
「ごめんね、心配かけて」
いつもと余り変わりのない義母の様子に安心した。睡眠不足からくる貧血だったようで、使用人たちの取り越し苦労だったらしい。それを聞いて肩の力が抜けた。
その時、肩に何かが触れた。それは義父の手だった。白くて繊細な、男の人の手とは思えないくらいに綺麗な手。
「貴方も、ごめんなさい」
義母が義父に謝る。ひどく薄っぺらい光景。全てが書き割りに見えてしまう。
病室にいる三人は、みんな血が繋がってなんかいない。それがなんだか可笑しかった。
義母が私に話がある、と言ったので義父は病室から出て行った。少し名残惜しそうだったけれど、女同士の大事な話、とあれば退出せざるを得ない。
「それで、お話とは何でしょうか?」
ベッド脇にある椅子に腰掛けて、私は尋ねた。今さら話すことなんかない。もっと義父と仲良くしなさい、だとか、学校の友達とは仲良くやっているの、なんて訊かれたら本当に目の前の女性を憎みそうだ。
「貴女にね、謝らないといけないことがあるの」
「倒れたことなら、さっき謝罪されましたが」
「そうじゃないの」
義母の声が、真っ白の病室にこだまする。チクタクという時計の針が奏でる音が、心臓の音みたいに聞こえた。いつかあの時計が電池切れで止まるみたいに、人間の心臓も動きを止める。病院にいると不思議とそんなことばかり頭を巡る。病院はそういう場所だ。人の生と死を敏感に感じ取れる。
黙ったままの私に、義母は言う。
「貴女のお義父さんのことよ」
やはり、仲良くしなさいと言われるのだろうか。大人は勝手だ。子供の気持ちなんて考えてはくれない。それも当然のことか。私はこの人の子供ではないのだから。そんなことを考えるとどんどんと気分が沈んでいく。
「本当はね、結婚する気はなかったのよ」
義母のその言葉に耳を疑った。
嘘……。いや恐らく、嘘ではないだろう。では、本当に……?
「貴女、前のお父さんが亡くなってから塞ぎ込んでいたでしょう……お母さんね、貴女に何かしてあげたくて、でも何もできなくて……」
義母は両目に一杯の涙を溜めていた。順番待ちの涙が急かしているのが解る。
「何をすれば貴女が前みたいに笑ってくれるのか、解らなくて……そんな時に今のお義父さんに出逢ってね……また家族三人が揃えば、もしかしたら貴女は元通りになるんじゃないかって、私は思った」
目の前で言葉を紡ぐ彼女が、まるで遠い国の絵本でも朗読するみたいで、いまいち実感が沸かない。でも、紛れもなくこの話の“貴女”は私で。昔に読んだ絵本の中のことではないのだった。
目も耳も、義母の声に注目していた。
「でも、やっぱり駄目だったみたいね……だから、謝ろうと思った……ごめんね、千百合さん」
そう言うと、彼女は深々と頭を下げた。黒い髪が、清潔な白いシーツに垂れて黒い川を生み出した。こうやって地球もできたのかも知れない。
「そんなの、勝手です」
いつの間にか私の声は震えていた。言葉を出すのが、こんなに勇気のいることだったなんて。まるで、自分の声じゃないみたいだ。
「なんで、勝手に決めるんですか? 勝手に……そうやって……」
大きく息を吸い込んで、
「わたくしの心の中が、貴女に解るんですか!? ……みんなそう、自分勝手に決めて、わたくしの気持ちなんて後回しで! わたくしの心の内を知らないで、それで上手くいかないなんて嘆くのは、道理じゃないですか!」
病院中に響くような声で叫んだ。これ程の想いが自分の中にあるとは思わなかった。自分には何もないと、そう思っていたから。
目の前の義母も、突然いなくなった父も、学校の友達も、みんな自分勝手。
私の気持ちとは別のところで、みんなは何かを考えている。だから、私の気持ちは彼らの考えには加われない。仲間外れ。私の気持ちは遠くから彼らの囲む焚き火を眺めるしかない。ほんのりと温かい焚き火の熱さえ貰えずに。
気がつくと、目からはぼろぼろと涙が溢れ出した。義母の目に溜まっていた雫の列よりも、私の方が多かったらしい。私の言葉を噛み締めていた義母は、やがてゆっくり言葉を択ぶみたいに話し出した。
「そうじゃないわ、千百合さん」
きっぱりと、揺るぎない瞳で。
「……え?」
それは否定の言葉。私が間違っているとでも言うのか。
「私は貴女に喜んで欲しかった。ただそれだけなのよ……」
「でも、じゃあ、それこそ話してくれたら良かったじゃないですか……!」
「それは貴女も同じことなのよ、千百合さん」
優しく諭す義母の声。労わるような視線が、私の頬を撫でる。
上城さんの言葉が、ふと記憶の底から顔を出す。
――万乗さんに、迷惑、かけたくないから……。
そうだ。上城さんはきちんと、言葉で伝えていたではないか。
義母の言葉も上城さんの気持ちも、なるほどそうなのだ。
「私たちは言葉を持っている。言葉はコミュニケーションの道具で、言葉があれば通じ合えるし、想いを確かめ合うことができる……でもね、言葉では伝え切れないものもあるのよ。言葉にした途端にその価値を失うものもあるの。本当の気持ちとかは、特にそうかも知れない」
義母は私に何も話さなかった。良かれと思って再婚した。
私は義母に何も話さなかった。話しても解ってくれない。そう思ったのだ。
「いくら言葉で確かめようとしても、心の奥底まで言葉を届かせるのはなかなか難しいの。そして、心の奥底を言葉にして伝えるというのはそれと同じくらい難しい」
私の心の中には、いつも何があったのだろう。ぐちゃぐちゃで醜悪な気持ちばかりが、そこにはあったのかも知れない。周りの人のことを、私は考えていただろうか。
考えてはいた。多分。でも、みんなの相談をただ待つだけで、私は結局何もしなかった。できなかったのではない。しなかったのだ。最低だ。
周りが身勝手だったわけではない。
他でもない私自身が、我が儘の塊だったのだ。自分の傲慢を傲慢と思えないことが、一番の傲慢なのだ。
「だからね、謝りたかったのよ、ずっと。言葉で言えばこんなに簡単だったのにね……それでもそんなことに気がつく暇もないくらい、焦っていたのね……これがお義母さんの心の奥底よ……ごめんなさい、千百合さん」
私の心の奥底は。
そっと手を伸ばして底を撫でるように探ってみる。
「わたくしも、お義母さんに言いたいことがひとつあります」
きっと、今まで溜め込んだ言葉の中で、今この瞬間に何かひとつ伝えるとすればこれだろう。だから迷わず、自分の言葉で、言う。
「千百合、と呼んで下さい。“さん”などという言葉は、必要ありませんから」
言った途端、また涙が溢れてきた。
きっとこれが私の抱えていたもの。言いたくても言えなかったもの。
義母に拒絶されるのが恐かった。現状の危うくて、けれど幸せな状態が壊れてしまうのが厭だった。だから、言えなかった。
でも、口に出してみるとそれは意外に簡単で、なんだか拍子抜けしてしまった。義母は俯いていた顔を上げ、
「ごめんなさいね、なかなか踏ん切りがつかなくて……私にそう呼ぶ権利があるのか、なんて考えてしまうのよ」
「それはお義母さんの勝手な意見でしょう。私の心の中では呼んで貰えることを期待しているんです」
そう言って、私たちは箍が外れたみたいに笑い合った。この状況がひどく可笑しくて。
恐る恐る相手の気持ちを確かめ合う作業。勇気を出して相手にちょこっと近づく。それが、こんなにも素敵な行為だったなんて。
「だから、呼んでよ、“お母さん”」
「……ええ、千百合。これからも宜しくね」
想いは通じた。
それを言葉で確かめる術はないけれど、なんとなく解った。
それはきっと、家族だからなのだ。
次の日、いつも通りに学校に行った。
昨日はあのあと、義父も呼んで三人でたくさんお喋りをした。誰かとあんなに話をしたのは何年振りだったろうか。すごく楽しかった。
今では母は義父のことをそれなりに好いているそうなので、仲が悪いという訳ではないらしい。結婚する時はそこまで好きではなかったらしいのだけれど。
でも、きっともう大丈夫。仲良くやっていけそうな気がする。やっと私は望むものを手に入れたのだ。お金では買えないのに、なんだかあっさりと手に入れてしまった。
家族、という二文字が私にはとても素敵な言葉に思えた。
今日は自分の退院祝いに、母がご馳走を用意してくれるらしいから、早く家に帰らなくてはならない。久々の母の手料理だ。自分の退院を自分で祝うのはなかなかにおかしかったけれど、もしかすると違った意味でのお祝いなのかも知れない。家族としての、お祝いとか。
「おなかをすかせて帰ってきてね、千百合」
それがいってらっしゃい、の挨拶だった。
登校の見送りも、とても久しぶりだったのでなんだか恥ずかしかった。いつもは使用人だけが私の身支度を整えてくれるだけだったのに。リムジンが出発しても、母が門の前で手を振ってくれていたので、私は彼女の姿が見えなくなるまで後ろを見ていた。
教室に着いてまもなく、慧子が私のもとへとやってきた。違うクラスなのに、よく私が到着したのが解ったものだ。やはり最近の慧子はおかしい。こんなに行動力はなかった筈だ。ぱたぱたと駆け足で近づいてくる。背中に垂れた髪が朝の新鮮な空気に踊る。
「昨日は大丈夫だったー?」
「あらあら、心配して下さってどうも有難う。でも、たいしたことはなかったです」
「そりゃ良かった……それと、昨日の話の続きだけど……」
「あ、あれは……その、わたくしも悪いところはありました。みなさん、周りに迷惑をかけないように自分の中に隠しているのでしょう」
一晩考えて、この結論に至った。答えはすぐに見つかった。だって、私も同じだったから。私だって自分の家庭のことは話さないだろう。心配をかけたくないから。上城さんもそうだ。きちんと言葉で伝えようとしていたのに、私がそれを断ち切ったのではないか。彼女はそれほど悪い子ではないのかも知れない。
「なんか、変わったねぇ……何かあったのかい、お嬢様」
「まあ、たいしたことではありませんよ」
ほら、私はまた隠す。
自分勝手、と言ってしまえばそれまでなのだけれど。でも、きっとこれは自分勝手とはまた違う。自分のこと以外に、他人のことも考えた上での勝手なのだから。
「ふーん、まあ良いか……よーし、じゃあ仲直りの記念に、今日の放課後、何処かに寄って行こうよ。たまには駅前のケーキ屋さんとか! 光ちゃんたちも誘ってさ」
綺麗な笑顔で慧子が言う。涎が出ているし。
その提案はとても名案だったけれど、生憎と断らなくてはならなかった。本当に残念なのだけれど。
「ごめんなさい、今日はちょっと……」
「如何してー? なんか用事があるの」
きょとんとした慧子に、申し訳なさと嬉しさがない交ぜになった言葉を紡ぐ。心の奥底から。
「ええ、先客が入っていまして……家でわたくしの大切な家族が待っていますから」




