色欲
愛って何だろう。
誰かを大切に想う気持ち?
誰かと一緒にいたい気持ち?
誰かの全てを受け入れる覚悟?
それが愛なのだろうか。
形のないものは、目で見ることができない。触ることだって、当然できない。
心とか友情とか、それこそ愛なんてものは何処にあるのだろうか。
見えないし、触れない。
そんなあやふやな存在を信じるのは、きっととても難しい。
愛とか絆とか心とか。
目に見えないくせに、とても綺麗な言葉。
目に見えないからこそ、綺麗にしたい言葉。
きっと見えてしまったら、私たちの視線にやられて汚れてしまうのだ。形あるこの世界が、綺麗でないように。
思うに、そういったたくさんの見えない何かは、自分の中にあるのではないか。見えなくても、触れなくても、感じることはできるから。上手く言葉にできなかったとしても、これだ、とびびっと感じる時がいつか来る。
きっと。
それらの内のひとつである愛というものに、私は最近気づいてしまった。
愛が何かは解らない。でも、この気持ちを表すのに一番ぴったりな言葉は愛なのだと思う。
開け放たれた窓から風が颯爽と吹いてくる。カーテンが生きているみたいに揺れる。ぼんやりと見上げた青空には、ふわふわした雲がひとつだけ浮かんでいた。
午後の気だるい空気が、授業中の教室に充満している。シャーペンの動く音と、先生の声が響く。
誰にも気づかれないように、あの人の横顔を盗み見る。真っ直ぐに黒板を見つめる視線が、真面目さを良く表している。
胸が高鳴る。心臓が恐ろしいくらいに速く動いて、今にも破裂して中から感情がとろりと溢れ出してきそうだ。
いつからこんな気持ちになったのだろう。
判らない。
解らない。
気がついた時には、もう遅かった。
頭の中があの人のことで一杯になっていて、もどかしい夜を何度もやり過ごした。
そんな夜に限って、空には月なんか昇っていなくて。真っ黒な空が大きな両手を広げていて。なんだか世界に自分だけ取り残された気分になって。身体に毛布を巻きつけて、空が白んでいくのをぼーっと眺めていた。
こんなこと、あの人は気づいていないだろう。素知らぬ顔で、おはよう、だなんて話しかけてくるのだから。
私をこんなにも悩ませているのに。こんなにも切なくさせているのに。
「茜、何ぼんやりしてるの? もう放課後だよっ」
ぼんやりしていたら、北条桜に話しかけられた。セミロングの黒髪がさらりと揺れる。私の大事な友達。
「あ、桜ちゃん」
「あ、桜ちゃん、じゃないよ。また考えごと?」
まあ、うん、と要領を得ない返事をして、探りを入れられないようにする。私のこの感情は、周りの誰にも話せない。友達である桜ちゃんには尚更だ。
周りを見るとだいぶ人の数が減っている。時計を見ると帰りのSHRが終わって二十分も経っていた。急いで荷物を纏め、教室の入口で待っていた桜ちゃんのもとへ駆ける。
その途中で、机の中の教科書を丁寧に鞄に仕舞い込んでいる少女に声をかける。
「ま、また明日ねっ」
緊張で引きつってしまった。恥ずかしい。
「あ、うん……また明日」
それでも、私の言葉に軽く手を挙げて、いつも通りに返してくれる。顔を上げた時に揺れる黒い髪が、良い匂いをしていた。
二つの黒い瞳。可愛らしい鼻。丸い線を描く顎。白い頬は、少し桃色に染まっている。
上城光。
それが彼女の名前。私が好きになってしまった女の子。
この愛は一方通行。きっと実らない恋。
だって、私は女で上城さんも女だから。
でも。
でも、それでも良い。
今はこうして、互いにさよならの挨拶を交わせる仲であるだけで幸せなのだから。
昔から背が小さかった私は、大人に憧れていた。
早く大人になりたかった。
身長が伸びれば、きっと今見えている世界が変わる。世界が変われば、私は子供から大人になれる。そう信じていた。
それでも、背は一向に伸びなくて。中学校に上がったら伸びる、と信じていたのだけれど、未だに私は140cmの高い壁を越えられずにいる。
身長があと10cmだけ高かったら、私はきっと落ち着いた大人に近づくだろう。
身長があと20cmだけ高かったら、私はきっと難しいことを考えられる大人に近づくだろう。
もしかしたら、愛というものが何なのか解るのかも知れない。
解らないままで良いかも、と思う自分もいるのだけど。
愛とは何なのか。もしもその答えが解ってしまったら、なんとなく私はがっかりする気がするから。だから解らないままでも良い、とも思う。
「あんまり上城さんに話しかけない方が良いよ。周りの目もあるんだからさ」
廊下を歩いていると、桜ちゃんがこそっと耳打ちしてきた。
後ろから走ってきた男の子の集団に抜かされる。風が巻き起こって、私たちの髪を揺らす。危ないなぁ、もう……。
彼女の言う通り、上城さんは如何してかあまり良い評判を聞かなかった。
直接的ないじめはないのだけれど、好ましく思わない人たちがいるみたいだった。だから、あまり仲が良さそうにするのは得策じゃない。
成本朝美という私の友達も、入学したての頃は仲良くしていたみたいだけど、最近ではそこまで仲良くは見えない。それでも、一応、一緒に帰ったりはしているみたいだった。
好きな人のことを悪く言われても、反論すらできない自分が厭で仕方ない。周りから私自身の悪い噂をされるのは厭だったし、上城さんに好意を寄せていると知られるのは死ぬより厭だったから。
だから、表面的には合わせるしかない。
まるで軍隊みたいだ、と思ったことがある。
自分の意見なんて持ってはいけない。ただただ周りの歩幅に合わせて、周りの歩調から一歩も踏み外すことなく、必死に何処かを目指している。
目指す場所はきっと、良い大学とか、良い会社とか、良い将来。心の奥底に渦巻くたくさんの想いを、誰にも言えずに隠して生きていく。
それが大人になる、ということなのだろうか。それとも、大人になればそういうことは簡単にできるようになるのだろうか。
まだ子供の私には解らないけれど。なんにせよ、ひどく厭な気分だった。
桜ちゃんと二人で歩く帰り道。あまり会話も弾まない。
心の中で彼女に謝った。
ごめん。
桜ちゃんとは途中で別れる。思えば、彼女とは帰る方向が一緒だったから仲良くなれたのかも知れない。たまたま帰り道に逢って、たまたま一緒に帰るようになったのだった。
彼女は努力家だ。これだ、と思うことにはとことん頑張って成果を上げる。この間の定期テストでは、彼女の苦手な理科で八十点を取ったら携帯電話を買って貰えるという約束を取り付けたらしく、授業に集中している姿を覚えている。そして、テストでは見事に九十二点という点数を叩き出した。
すごいな、と思う。私にはきっとできないから。
ちなみに私の理科の点数はその半分よりちょっとだけ少ないくらいで。どれだけ背伸びしたって、桜ちゃんと並ぶことなんてできない。
桜ちゃんのいない、一人きりの帰り道。いつもと同じ筈なのに、如何して今日はこんなにも心細いのだろう。不安が、後ろから駆け足で迫ってくるみたいで。少しだけ早歩きになる。
さっきまで彼女と並んで歩いていたのが、全て幻だったら。最近では、そう考えることも一度や二度ではない。全てが私の妄想で。全てが私の頭の中で完結してしまうのなら。この考えを、そうじゃない、と否定することはできても証明できない。
私には木下茜、という名前があるけれど、私が“私”であることの証明はどうすれば良いのだろう。彼女が――北条桜が――私の友達で、さっきまできちんと隣にいて、何も話さない私に気を揉んでいた、というのが真実であると誰が証明できるだろう。全部私の妄想だ、と言われたら信じてしまいそうだ。それくらい、私と桜ちゃんには距離があるように感じる。私より背の高い桜ちゃん。セミロングの綺麗な髪の桜ちゃん。私にはとうてい、追いつけない。
溜息と共に、とぼとぼ歩く。家まではもう少しだ。この大きな交差点を渡れば家に着いたも同然だ。
赤信号で止まり、ふと気づいた。交通量の多い交差点だから、今までにも何度か見かけた光景が、私の足元に転がっていた。
白色に、ところどころ灰色の混じった猫だった。ぽかんと開けた口に、虚空を見つめる瞳。猫は、茶色い内臓をお腹から出して横たわっている。
きっと、死んでいる。
可哀想だな。そう思った。でも、いったい何が可哀想なのだろう。無意識に湧き出てきたこの気持ちは、いったい何なのだろう。
死んでしまったことだろうか。車に轢かれたことだろうか。それとも、無残な姿を晒していることだろうか。
もしかすると、猫はちっとも悲しくないのかも知れない。人間が勝手に、可哀想だとか、悲しいだとか思うだけなのかも知れない。それはきっといつまでも解らないことだけれど、私の感じたこの悼みは本物だ。
私は屈みこんで手を伸ばし、開いたままの猫の両目をそっと閉じてあげた。おやすみ、と口の中で呟くと、喉の奥がカーッと痛くなるのを感じた。
小柄な猫の身体。大きな鉄の塊がそこにぶつかってきたら、ひとたまりもなかっただろう。この子は私と同じ。小さな身体を引きずって、もがいてもがいて、生きていた。それもこうしてあっさりと命を落とす。
私もいつかは、こうなるのかな。
私の小さな身体には、この世界は広すぎる。
信号の色が青に変わる。歩き出さなくてはいけない。もう一度猫の頭を撫でて、私は立ち上がった。自分の家に帰る為に、歩き出した。
翌日の放課後は、図書室に向かった。木曜日は上城さんが図書室のカウンター当番の日なのだ。ここは学校の中で最も静謐な場所。歴史を積み重ねた書物の匂いが、私を優しく包み込む。
カウンター席には上城さんの姿があった。本を借りようとした上級生の対応をしている。図書室の本の裏にはバーコードが貼り付けてあって、それを専用の機械で読み取って、貸し借りの管理をする。お店のレジに置いてあるバーコードリーダーにそっくりなので、まるで上城さんが本屋さんの店員にでもなったみたいだ。小奇麗なエプロンを身に着けていたらさぞ様になるだろう。
いつまでも入り口に立っているわけには行かないので、ふらふらとした足取りで本棚の間を漂う。どうしようか。特別読みたい本があるわけじゃない。
困ったな。そう思って、もう一度カウンターに視線をやる。上城さんの他に、もう一人女の子が座っている。当番はたいてい二人か三人なので、彼女も図書委員なのだろう。
よく見る顔だ、と思ったら毎週通いつめているのだから、当たり前だ。以前にも見かけたことがあった。大人しそうな子で、眼鏡が落ち着いた印象を強めている。胸元のネームプレートには『水鳴瞳』と書かれている。
水鳴さんか。大人しそうな子だ。長すぎない髪に、セルフレームの眼鏡をかけている。確か、三組の子、だったと思う。他のクラスとは授業も違うから、なかなか覚えられない。
水鳴さんは分厚い本をゆったりと開いて、一枚一枚丁寧にページを繰っている。カウンター当番といっても、貸出や返却といった業務がなければ、あとは自由だ。本を読んでいても良いし、宿題をやっていても良いのだろう。五月蝿くしなければ、特に問題もなさそうな委員会の仕事だ。
隣の上城さんがそっと顔を上げた。暗い夜空の映った水面みたいな瞳が、こちらを向いた。目が合って、どきっとした。
ふと、彼女と初めて話した時のことを思い出す。
あれは入学してすぐのことだ。多分、四月の中旬、自分たちの入る委員会が決まってすぐの頃。親が仕事で帰りが少し遅くなる、ということで家に帰っても鍵が開いていないから、学校で時間を潰すことにした。教室では男の子たちが箒を使って野球を始めたので、静かな場所を探していた。ちょうど、目に留まったのが図書室だった。中に入ると、当たり前だけれど本がたくさんあった。昔から本を読むのが苦手だった私は、小学校時代も図書室には寄り付かなかったから、とても新鮮な光景だった。
色々な本があるな、と思ってぶらぶらと本棚の間を徘徊する。あっちに行ってはこっちに行って。まるで、花の蜜を吸う蝶々みたいに。
ふと足を止めた棚は生き物コーナーだった。猫や犬についての本が並んでいる。私は犬よりも猫派だ。猫は小さくて可愛い。私の使っている筆箱も猫をデフォルメした形のものだ。
きちんと覚えていないけれど、「猫の気持ちが分かる」みたいな題名だった。その本が気になって、手を伸ばした。けれど、届かない。チビな私には、どれだけ爪先立ちをしても、指先すら触れることはなかった。うーん、うーん、と唸りながら手を必死に伸ばしていると、横から控えめに話しかけられた。
「あ、あの……」
そこには肩口まで伸ばした黒い髪の女の子が立っていた。隣には脚立が置いてある。
「これ、あの……使ったほうが……」
尻すぼみの声は、今にもごめんなさいと謝るのではないか、と思うほどだった。ネームプレートに『上城光』と書いてあって初めて同じクラスの子だと解った。上城さんは普段から大人しいから、声を聞いたのは自己紹介以来だ。その時の声も、今みたいにか細いものだった。
よいしょ、という声と共に脚立を移動させる上城さん。そこにひょいと足をかけて、目当ての本を取ってくれた。
「はい、これ……」
「……あ、りがとう」
そう言ってこちらに本を差し出す彼女が、ひどく眩しく思えて、私は目を細めた。生返事をして受け取った本を、落とさないように胸に抱く。
「あ、えっと、それじゃあ……」
上城さんがガタガタと音を立てて脚立を運んでいく。ほんのりと朱に染まった頬は、内気な性格の彼女の、精一杯の努力を物語っていた。
結局、その日は日が暮れるまで図書室の机で猫の本を読んでいた。思い返せば、図書室の中には私と上城さんしかいなかったのではないか。だから彼女は、困っている私を見捨てるわけにはいかなかったのではないか。私だったから助けてくれたのかは、今となってはもう解らない。あやふやな記憶の糸を手繰っても、答えは出ない。それでも、別に構わない。
これが私と上城さんの初めての出会いだ。会話というほどの会話をしていないけれど、私にとっては大切な思い出だ。
あれから半年以上が経った。未だに私と彼女の距離は縮まらない。
目が合った上城さんが、少しだけ微笑んだように見えた。その顔を直視できなくて、私は本棚の陰にそっと隠れた。
これが一年生の冬の出来事だ。それから時は流れていって、私は学校の授業に必死になってついていきながら、中学二年生になった。
身長もまったく伸びる気配がない。中学を卒業するまでに150cmになる、という目標は今のペースだと140cmになる、に変更しても良さそうなぐらい。
毎日お腹が痛くなるくらいに牛乳を飲んでも、一向に伸びようとしない私の身体。それはまるで、身体が変化を嫌っているみたいだった。私は早く大人になりたいのに。言うことを聞かない自分の身体が、嫌い。
私の通う市立泉ヶ丘中学校では、一年から二年に上がる時にクラス変えが行われる。その為、新しいクラスにはあまり知り合いがいなかった。
一年生の頃に仲良くしていた人たちとはばらばらになって、知っている人は桜ちゃんと白鳥慧子だけ。慧子ちゃんはなんだかいつもやる気がない女の子。ふにゃふにゃとして掴みどころがないのだ。
「全然知り合いいなくて、なんか不安になっちゃうね」
桜ちゃんが心配そうな顔で呟いた。慧子ちゃんは余裕綽々としている。当然といえば当然の光景だ。そして、私はと言えば、上城さんと別々のクラスになってしまったことにかなりの速度で絶望していた。
「まあでも、このクラスで卒業までやっていくんだから、仲良くやっていくしかないよねー」
何気ない慧子の一言に、絶望する速度は倍に増した。
忘れていた。二年から三年に上がる時にはクラス変えはないのだった。
「そ、そうだよねっ。仲良くしなきゃだよね」
慌てて言い繕ってみたけれど、うまくいかなかった。なんかもう、溜息すら出ない。涙も出ないけれど。
上城さんのクラスには女の子の転校生がやってきたらしかった。名字が確か、上城さんと同じ読み方だった。漢字は忘れてしまった。
転校生というものは物珍しいけれど、わざわざ他のクラスまで見に行く気はなかった。
ただ、気になるのは名字が一緒の読み方ということは席が近いだろう、ということだ。廊下で一緒に歩いているのを、何度か見たことがある。二人が仲良さそうに笑っているのを見ると、胸の奥がちくりと痛んだ。
私の方があの転校生なんかよりも、多くの時間を上城さんと過ごしてきたのだ。
なのに、いきなりぽんと現われて、上城さんのことを何も知らないで、あんな風に笑って。
如何して?
私はこんなにも上城さんのことを愛しているのに。
まだ足りないの?
いったいどれだけ愛すれば良いの?
愛というものに上限はないのかも知れない。きっと私の愛はまだ不十分なんだ。もっともっと、愛が何かを解らなければいけない。
あの転校生は知っているのかな。愛とは何なのかを。
知っているのかな。
最近は桜ちゃんも何やら忙しいようで、一緒に帰る頻度が少なくなってきた。慧子ちゃんとは帰る方向が反対だったから、殆ど一人で帰ることが多かった。
去年同じクラスだったみんなは、今頃どうしているのだろう。特に同じグループにいた子たちは。
岡崎遥、成本朝美、万乗千百合、長谷川琴理、戸塚亜月。
別のクラスになると、わざわざ休み時間に逢いに行きでもしないと、滅多に話す機会はない。廊下ですれ違えばちょっとお喋りはするけど、クラスの子に呼ばれて去っていく姿を見ると、やはり寂しいものがあった。
空を見上げると一羽のカラスが飛んでいた。ゆったりと羽ばたいて気持ち良さそうだ。カラスは猫と同じくらいの小さな身体でも、空を飛び、車に撥ねられることもない。
去年見た、交差点で死んでいた猫のことを思い出す。次の日にはもう、あの死骸は何処にもなくて、誰かが片付けてしまっていた。あの猫を轢いた本人もすでに忘れてしまっているだろう。あそこを通りがかる人も、きっと忘れてしまった。一匹の猫が、あの場所で死んだことを、もはや誰も覚えていない。私を除いては。
多分、私があの猫のことを忘れる時が来たら、その時本当の意味であの猫は死ぬのだ。誰にも思い出されず、存在すらなかったことにされた時、初めて“死”というものが訪れるのではないか。
だから、私は少しでも長く憶えていようと思う。十字に交差した道を、お墓に見立てて、長く、長く、憶えていよう。
そんな取り留めのないことを考えつつ、校門までの道を歩く。外の空気が少し涼しい。夏の前の、ひと時の涼しさだ。
それから数日経ったある日、桜ちゃんが帰りのSHRにいなかったので心配だった。担任の白井先生に聞いても、解らなかった。それで良いのか、先生! と心の中で怒鳴ってみたけど、先生は探してくる、と言って何処かへ行ってしまった。
桜ちゃんの行方も気になるけれど、学校の中がどうにもいつもと違う雰囲気だった。妙に浮き足立っているというか。なんとも言えない感じ。私だけ、息が詰まる。
廊下を歩いているだけで、その違和感が伝わってくる。いったい、なんだというのだろうか。
二組の担任の川嶋先生の声が教室から聞こえたと思うと、何人かの生徒がお説教を食らっていた。二組は上城さんのクラスだけれど、掃除の時間にでも何かあったのかな。その時、教室の後ろの扉から一人の女の子が飛び出してきた。肩口までの黒髪が揺れた。一瞬、上城さんかと思い、どきりとしたけれど、それはあの転校生だった。
何処かへ走っていく背中。それはとてもよく上城さんに似ていた。
如何してだろう。如何して私は、あの転校生に愛する上城さんの後ろ姿を重ねてしまったのだろう。
遠く廊下の端まで進む彼女を、追いかけなければならない、と私の中の何かが告げていた。自然と私の足は動いた。
廊下にはまだちらほらと生徒が残っていて、十分な速度で走り抜けることなんてできない。それでも、懸命に足を前に出して、私は駆けた。
それほど長くない廊下を走りきった。端にあるのは階段だ。一段目を上ろうとした転校生の背中に向けて、大きな声で彼女の名前を呼んだ。
「カミシロさん!」
階段には珍しく誰もいなかったから、その声はなんだかひどく大きく聞こえた。振り返る彼女は、やはり何処か上城さんに似ている。肩まで伸ばしている髪形が似ているのかも知れない。
「如何して、私の名前を?」
戸惑った声の転校生。いきなり名前を呼ばれたのだから、当然だ。
「ああ、えっと……貴女のクラスの上城さんと同じ苗字だったから」
「光と、友達なんですか?」
下の名前。光。
私なんて、上城さんとしか呼べなかったのに。
「……うん。去年、同じクラスだったから」
友達なのか、と訊かれて肯定するのにはひどく勇気がいる。だって、その感情はすごく一方的なものだから。相手は何とも思っていないかも知れない。私が勝手に思っているだけなのかも知れないのだから。絆とか愛とかは、目に見えなくて一方的なもの。でも、相方から確かめ合った時には、目で見えるのかも知れない。
私の言葉を聞いた転校生は、焦った口調で、
「お願い、光を探して、多分、保健室にはいないの」
保健室? どういうことだろうか。
「それって……」
転校生は上城さんを探しているのか。そう言えば、私も桜ちゃんを探している途中だったのを思い出す。
「早くしないと、もう何も思い出せないの。これ以上先のことは、私にも解らない……だから!」
切羽詰ったその声が、耳に痛い。
でも、それ以上に私の心の中が黒く染まっていくのを感じた。
このまま転校生と一緒に上城さんを探してしまって良いのだろうか。上城さんを探すことが、この転校生の、上城さんへの、愛なのだろうか。
厭だ。それは、厭だ。
「厭……」
搾り出すように、言葉を紡ぐ。
「何言って――」
「厭なの!」
彼女の声を遮って叫んだ。
「私は去年、一年間、上城さんとおんなじクラスで! 毎週、図書室で委員会の活動をするのを見てきて!」
私は何を言っているのだろうか。水面に岩が落下したみたいに、転校生の漆黒の瞳が揺らぐ。
「だから、私の方が……」
言葉が勝手に溢れ出す。
止まらない。
止められない。
止めたくない。
「私の方が、貴女なんかよりも上城さんのことをずっと知っているの」
「それが、どうしたんですか。今は光を……!」
胸がもやもやする。伝えられない想いと、伝えたくない想い。
でも、言わなくちゃ、はっきりと自分の声と言葉で。
「私は、上城さんのことが好きなの! だから……だから、貴女なんかには、死んでも渡さないんだから!」
恥ずかしさで顔が爆発しそうだった。
本人に告白している訳でもないのに。きっと、上城さん本人に伝える時は、恥ずかしさで死んでしまうだろう。転校生は突然の私の暴露に、呆気に取られていた。
「私のこの気持ちは嘘なんかじゃない。私にはちゃんと、愛という気持ちがあるわ……上城さんが好きなの、だから……」
今までずうっと思っていたことが、言葉になって、空気に触れる。
愛って何だろうとか、愛は見えないのとか、色々と考えたけれど、きっとこの気持ちは愛なのだから。そうに違いないのだから。
誰にも嘘はつかない。私自身にも、嘘はつきたくない。
「ねえ、愛っていう感情が貴女にはあるの? ……愛が何なのか、貴女には解るの?」
「……」
「ねえ、何とか言ってよ! 愛が解らない貴女には、上城さんの隣にいる権利なんて――」
「――それは」
転校生の口が開く。ぴしっとガラスにひびが入るみたいだった。思わず、私は口を噤んでしまう。
転校生は、言葉を択ぶように、ゆっくりと、だけどはっきりと、
「貴女のそれは、本当に愛なんですか?」
そう告げた。
一瞬、その言葉の意味が解らなかった。否定されたことだけは、解った。
転校生の夜のような瞳が、まっすぐに私を見つめる。
「な、何を言ってるのかな……私は、本当に」
「本当に愛しているんですか?」
何だ。
何で言葉が出ないのだろう。
如何して。
言わなくちゃ。
厭だ。厭だ厭だ。
この気持ちは愛に違いないのだ。違いない。違いない。愛だ。愛なのだ……。
愛の、筈だ。
そうに、違いないのに。
「貴女は本当に、光のことを愛しているの?」
転校生の言葉が鼓膜を揺らす度に、私の気持ちも揺らされる。ゆらゆらと、波間に浮かぶ海月みたいに。ただ、流されるまま。
「貴女は光を愛する為に光を択んだの? それとも、誰かを愛する為に光を択んだの?」
愛の為?
上城さんの為?
どっちだろう。愛が何なのかを知りたかっただけだったのだろうか。
目に見えないものを理解できれば、大人になれると思った。
誰かを愛することができれば、立派な大人になれると思った。
だから、私は……。
「私は……私の、この気持ちは、愛なんかじゃない、のかな……」
「それが解らないから、訊いているんです。貴女は愛ばかりが気になっているみたいだったから」
この気持ちはなんだったのだろう。
上城さんを見て、ひどくもどかしく、切なくなるのは、愛ではなかったのだろうか。愛だと思っていたこの気持ちは、何だったのだろうか。
私は自分自身に嘘をついていたのかも知れない。早く誰かを好きになって、大人になりたかっただけ。その為に、私はありもしない愛なんてものをでっち上げていたのだ。
愛は目に見えないから、確かめようがない。
だから、これだ、と思ったのだけれど、それは見当違いだったのだ。
「女の子同士、というのもありますが、もし貴女が本当に愛していないんだったら、光のことは諦めて下さい。これ以上、あの子を苦しめないで」
もはや自分の気持ちというものが解らなかった。心って何?
愛、友情、絆、信頼、喜び、悲しみ、怒り……。
感情というものは一体、何なのだろう。
私という存在は、たくさんのあやふやなものでできている。目で見える手とか足以外に、目に見えないぐちゃぐちゃした塊が纏わり付いている。
それが知りたくて、私は早く大人になりたかった。
否、逆だ。
大人になる為に、それを知りたかったのだ。その何か解らないものを理解すれば、大人になれると信じて。
目的と手段が、複雑にこんがらがっていた。全ては私の、子供のままでいたくない、という気持ちが原因だったのだ。
「……ごめん……私、もう少し考えてみるよ。この気持ちが何なのか」
私の言葉に、転校生は納得したように頷いた。それから一言。
「たとえそれが愛じゃなくたって、友達として傍にいることはできます。だから、安心してください」
心の底から切に願うような、そんな言葉だった。
それからすぐに、転校生は踵を返すと、階段を上っていった。上城さんを探している、と言っていた。彼女のそれは、愛なのだろか。
愛なのかも。そんな風に自然と思えた。
私も桜ちゃんを探そう。たまには、一緒に帰りたい。
校内を歩き回って、疲れ果てた時にはもう外は夕焼けに染まっていた。もう廊下を歩いている生徒もいない。結局、桜ちゃんは見つからなかった。諦めて教室に戻ろう、とすると、遠くで悲鳴が聞こえた。
何の騒ぎだろうか。
そう思って、辺りを見回す。校舎内はほぼ無人だ。どうやら外が騒がしい。
ひょいと廊下の窓から下を覗くと、校庭に人が集まっていくのが見えた。何かあったのかな。
唐突に桜ちゃんのことが心配になった。もしかして、上城さんがいなくなったのも、それに関係しているのだろうか。
急いで、昇降口までの階段を駆け下りる。もうへとへとの筈の身体は、今にも倒れてしまいそうだ。あと数段で一階、というところで階段を踏み外してしまった。ろくに受身も取れずに床に転がった。身体を派手に打ちつける。すごく、痛い。膝を擦りむいたらしく、じんわりと血が滲んでいた。
私はこの小さな身体が嫌いだ。走ったらすぐ疲れてしまうし、階段から落ちただけで怪我をする。早く、大人になりたい。
よろよろと立ち上がって、外を目指す。今、立ち止まったら何もかも終わってしまうような、そんな気がして。
傷ついた身体を引きずるようにして校舎の外に出ると、やはり校庭の方から大勢の人の声がした。そちらへ向かおうとする私に、後ろから声がかかった。
「茜! あんた、如何してここに!?」
「桜ちゃん!」
見知った顔。セミロングの黒髪が夕焼けに照らされて輝いている。
「探したんだよ、桜ちゃん! って、それ……手……」
ふと、視線を落とすと彼女の手が赤く染まっていることに気がついた。
「大丈夫、私のじゃないから」
そう言って息をつく桜ちゃん。見れば、制服の肩のところが破けている。いったい、桜ちゃんに何があったのかは解らないけれど、今こうして私の前にいてくれることがすごく嬉しかった。
「ねえ、茜」
息を整えて桜ちゃんが口を開く。
「上城光のこと、どう思う?」
いきなり上城さんの名前が出てきて驚いた。どう思う、ってそれって……。
「ええっと、どう思うって、私と上城さんはただの、友達で、ええと、その……」
「友達! 友達ね!」
何かをやり遂げたような表情の桜ちゃん。もう本当に訳が解らなくて。私は頭の上にたくさんのクエスチョンマークを浮かべる。
「それで、良かった。これで、きっと大丈夫……」
「もう、さっきから何の話? それに、桜ちゃん、さっきまで何処行ってたの。ずーっと探してたのに」
ぶうたれる私に、おざなりに相槌を打つ彼女に余計に腹が立った。でも、なんだかほっとして、笑ってしまった。
だから、桜ちゃんの言葉でそんなことが言われるとは、想像もつかなかった。
「聴いて、茜――」
――上城光は、死んだの。
上城さんが死んだ。その言葉を聴いても、不思議と涙は出なかった。
多分、心が理解していない所為だ。
私はまだ心の整理もついていないのに。彼女に想いを伝えてすらいなかったのに。そもそもその想いが何なのかさえ、私には解らなかったのに。
頭の中がたくさんのことでいっぱいになって、子供の私にはもう如何して良いかなんて解らなかった。
葬儀の時になって、上城さんの遺影を見た瞬間に涙が止めどなく溢れ出た。
ぼろぼろと頬を流れて、喪服の黒い鎧を濡らした。喪服が夜のように黒いのは、きっと汚れが目立たないようにする為だ。着る人の流す涙で汚れても、周りにばれずに済むように黒いのだ。
もし、上城さんに私の気持ちを伝えていれば、彼女は死ななかったのかも知れない。そんなのは、勝手な思い上がりかも知れないけれど。それでも、心の中は後悔で一杯だった。
もう元には戻らない。私の愛は、彼女が飛び降りた瞬間に、何処かへ飛んで行ってしまった。
今度は、私は誰を愛するのだろうか。
誰かを愛するのだろうか。
解らない。
結局、愛というものが何のか、解らないままだし。案外、自分で気がついていないだけで、もう解っているのかも知れないな、とぼんやりと思った。
葬儀の帰りに泣き腫らした目で、桜ちゃんを見つけた。桜ちゃんも目にうっすらと涙を溜めていた。黒い喪服のお陰で、彼女がどれ程の涙を流したのかは解らないけれど。
無言でハンカチを差し出される。
白くて綺麗なハンカチ。それは彼女の黒一色の服に、とても良く映えた。
「顔、すごいことになってるよ。これで拭きなよ」
「有難う」
その優しさがすごく嬉しかった。
いつでも傍にいてくれた桜ちゃん。あの時、校舎内を一人で走り回った時、本当はすごく怖かった。桜ちゃんが何処か遠くへ行ってしまうのではないか、とそんなことばかり考えていた。だって、私には桜ちゃんの隣に並べないから。こんな小さな私では。
そう思っていたら、桜ちゃんが一歩、私に近づいて、二人して涙を拭きながら空を眺める格好になった。
近すぎて、気がつかないものもある。遠くに憧れてばかりいると尚更だ。私は自分の先にある、遠すぎる未来ばかり追っていた。だから、遠くのものは全て手の届かないものだと思っていた。でも、違った。大切なものは、こんなにもすぐ近くにあった。遠くにあると思っていたのに、いつのまにか、私はそこに辿り着いていたのだ。
私にとって桜ちゃんは……。
「茜は、死なないでね」
桜ちゃんが雲ひとつない空を見つめて言った。世界の中心で歌うみたいに、そう言った。
「善処するよ」
私も空を見上げて、呟いた。
今はこれで良い。
互いに少し真面目に、そして少しふざけ合いながら、言葉を交わせる仲であるだけで良いのだ。
「ねえ、桜ちゃん」
上を向いていた首を戻すと、桜ちゃんが私を見つめる。
「何?」
呼んだのは良いけれど、そのあとが続かない。
風が吹いて、沈黙を吹き飛ばしてくれたら良いのに。
そう思ったけれど、冷たい風は地面に積もった木の葉だけを舞い上げた。それと一緒に、ついでのように私たちの涙も吹き上げていった。
涙はもう綺麗に拭き取られて、空に舞い上がった。いつか、私たちの涙が雨となって降って来るのかも知れない。その時にまた、私は上城さんのことを思い出すのだろう。
誰かが憶えてくれている限り、死なない。あの交差点の猫もそうだ。まだ、私が覚えている。私の中で生きている。だから、安心して上城さん。私が、憶えておくから。
きょとんとした桜ちゃんに向かって、私は空中を舞う木の葉と水滴の中で、歌うように囁いた。
「ううん、何でもない」
変なの、と呟く桜ちゃん。
私はまだ自分の気持ちが何なのか解らない。
もしかしたら、今度こそ、愛なのかも知れない。
今回はちゃんと確かめよう。きっと時間はたくさんある筈だから。
桜ちゃんが傍にいてくれる限り、考え続けよう。
だから、今はこれで良い。
今はこれで良いんだよ、きっと。
「帰ろう」




