怠惰
天才という存在は実在するのか、と問われれば、私は何も考えずに首を縦に振ることだろう。
それは何故か、と問われれば、私は何も考えずに私が天才だからだと答えることだろう。
如何せん、私は天才だった。
勉強というものが特別好きだった訳ではない。寧ろ、嫌いだったかも知れない。
静かに先生の説明を聴き、チョークのなぞった跡を目で追いながらノートに書き写す。
その行為の何処に楽しみを見出せるのだろうか。せいぜい先生の思い出話を楽しむくらいのものだ。
私はそれでもきちんと先生の話は聴いたし、ノートも綺麗に書いた。ただそれだけしかやっていないのに、テストではいつも満点だった。
如何して百点なんて取れるの? と友人に訊かれた時、一番に驚いたのは私だった。
だって、授業で習ったじゃない。それが答えだった。授業で教えて貰ったのだから、できない方がおかしい。私はそう思った。
でも、それは間違いだった。
あとで解ったのだけれど、普通は一度聞いたことを一言一句全て憶えていることなんて非常に難しいことらしい。
私にとってはそれがすんなりできてしまった。ただそれだけ。
初めの内は周りからちやほやされた。同級生の子や、先生。お母さんにお父さん。たまに家にやってくる親戚の人たちからも、「えこちゃんはすごいね」という言葉を投げかけられた。
その言葉が嬉しくて。
その言葉が聴きたくて。
私はテストで山のように満点を取った。満点を取るのは造作もないことだったけれど、取れた時はやっぱり嬉しかった。答案用紙の白い空欄が、時間に比例して文字で埋まっていく快感。鉛筆の先が減れば減るほど、私は得意になった。
いつしかテストを受けることを楽しんでいる自分がいた。全ては誰かに褒めてもらう為。
いつからだったのかは憶えていない。
気がついたら周りの視線が、羨望から嫉妬に変わっていた。
小学校の高学年になると完璧に私の存在は浮いていた。
いつもテストで満点、しかも特にこれといった勉強をしている訳でもない。
天才。
ちやほやと持て囃された頃によく投げかけられた言葉だ。天から授けられし才能。この二文字が私にとってはただの荷物でしかなかった。
天才。なんて理不尽な言葉だろう。
私は普通でいたかったのに。
普通に勉強をして、
普通に授業に出席して、
普通に宿題をするのに手こずって、
普通にテストで平均点ギリギリの点数を取り、
普通にみんなと同じ場所に立っていたかった。
みんなと同じ視点でいたかったの。ただそれだけ。
だから私は天才を辞めた。
テストで満点を取れるということは、裏を返せば零点も取れるということだ。
自分の解答が合っていると解るなら、敢えて間違った解答を書くことも可能な訳だ。
その考えに気づいた時から、テストの点数を操作してきた。急に低くなるとばれてしまうかも知れなかったので、ゆっくり下げていくことにした。初めのうちは言い知れぬ罪悪感が渦巻いていたけれど、段々とその作業にもなれていった。
平均点を少し上回る位の点数に落ち着いたのは、中学校に上がる直前だったと思う。
その頃には、周りの視線もだいぶ落ち着いていた。
これは私が辞めた天才の一部分だ。
運動、芸術、はたまた人間関係においても、私は天才を辞めた。
普段からやる気を出さずに、周りの事態にも無関心を貫くことで、私はやっと普通の人間になれた。
だから、天才という存在は実在するのか、と問われれば、私は何も考えずに首を縦に振ることだろう。
だけどこうも言うだろう。
天才という存在は実在したが今はもういないよ、と。
「白鳥さん、起きなさい。授業中ですよ」
深川先生のその言葉に、突っ伏していた顔を上げる。
今は歴史の授業中だ。四時間目ということもあって、周りのみんなはおなかをすかした表情でノートを書いていた。先生から注意を受けた私に向けて、教室のそこかしこからクスクスという笑い声が洩れた。小学校からの友達であるちーちゃんが、溜息をつくのが聞こえた。
別に寝ていた訳ではない。
授業の内容は数日前に教科書を読んで知っていたので、特に聞くこともないな、と思い机に突っ伏して昔のことを思い出していたのだ。
だけど、正直にそんなことを言ってお説教が長引くのは面倒だ。
「すみません」
目を軽く擦りながらそう答えると、これから気をつけなさいね、と言って深川先生は板書を再開した。
もう注意されたくはないので、黒板がチョークの粉に埋め尽くされるのをぼーっと眺める。
白いチョークががりがり削れる。
忙しく動く、先生の手。
それを目で追ってみる。漢字の書き順が違う。また間違えている。あ、今度は年号を書き間違えた。
なんで誰も指摘しないのだろう。
教科書を見れば書いてあるのに。黒板に書かれた数字とは全然違うのに。
昔の私なら、ここで勢いよく手を挙げてその間違いを正したことだろう。それはきっと他の生徒の学習にとっても良いことなのでやるべきことではあるのだけれど、どうにも気が進まない。天才を辞めた日から、何にもやる気が起こらなくなってしまった。やる気を起こしてはいけない、と常に思っていたからいつの間にかやる気の出し方を忘れたのだ。蛇が進化の過程で手足を捨てたのと同じように。私は活力というものを捨て去ってしまった。
誰か訂正しないかなぁ……。
そんなことを考えていたら、授業終了のチャイムが鳴った。
結局、先生は自分の間違いに気づかずに授業を終わりにしてしまい、教室を出て行った。
みんなの歴史のノートにはきっと、間違った年号が書かれていることだろう。
歴史って何だろうか。ふとそんなことを思う。
1192年が1129年になったからといって、現在を生きる私たちは全く困らない。徳川家康が聖徳太子と握手をしていたとして、別に私たちの生活がどうなる訳でもない。
真実というものは、ふとした書き間違いで塗り替えられてしまう。薄っぺらい紙みたいな真実に、一体どれほどの価値があるのだろう。風が吹いたら表と裏がひっくり返って、最後にはどちらが『表』なのか判らなくなってしまうのかも。
そんな下らないことを真面目に考えている自分が、なんだか可笑しかった。別に笑えはしなかったけれど。
給食係の人が忙しく動き回って、給食の準備をしている。白い給食着は、夏場は暑い。もこもこしていて、見ているだけでもその暑さが伝わってきそうだ。
係ではない私はぼーっと自分の机に座ったまま。
段取りの悪い係の人たちだと、給食の開始が遅れることがある。そういうのを見ると、何やっているんだろうな、と思う。私ならもっと上手くやるのに。
勿論、自分が当番の時でも率先して行うなんてことはしないけれど。
天才を辞めると決めたから。
怠惰に生きると決めたから。
私のクラスでは給食は仲の良い者同士が集まって食べる。仲の良い子たちと食べる給食を、私は密かに楽しみにしていた。
ガタガタと机をくっつけて、みんなで集まって、いただきますの合図でご飯を食べる普通の光景。これが私の求めていたものだったから。だから、すごく幸せ。
でも最近、クラスの雰囲気が悪い。
同じクラスの上城光という女の子が、周りからあまり良く思われていないようだった。
他人がどう思われようが知ったことではない。きっと私がひょいと頑張ってみれば、人間関係の不和なんてすぐに解決する。
でも、しない。
やる気が起きないし、そんなことをして注目されるのも厭だったから。
上城さんには申し訳ないけれど、私はもう無関心に生きると決めたの。
ごめんね、と心の中で彼女に呟いてみた。
きっと伝わらない。
心の中で思ったって、空気を震わすことなんてできやしない。
だから、きっと伝わらない。届かない。
私がまだ天才だったら、伝わったのかな。
そんなことを思った。
一日の授業が終わって、放課後。
「あれ、朝美がいない」
遥ちゃんが心配そうな声でそう言った。
最近の朝美ちゃんは何処か元気がない。少しだけ、心配だ。
成本朝美は上城さんと同じ小学校出身で、よく一緒にいるのを見かけた。もしかしたら、上城さんのことで悩んでいるのかも。それで元気がないのかも知れない。
「成本さんなら、さっき帰ったよ」
ことりんの声。ことりん、というのは長谷川琴理のことだ。下の名前から名づけたあだ名である。後ろで二つに結んだ髪をいじりながら、ことりんが言う。
「何か用事だったの?」
「歴史のノート返そうと思ったのに」
手に持ったピンクの可愛らしいノートをぷらぷらさせてそう言った。表紙には綺麗な字で「歴史」と書かれている。ことりんが小首を傾げて、
「借りてたの?」
「そうそう。私、授業の途中で寝ちゃってから」
なんだ遥ちゃんも寝ていたのか。私だけ怒られるとはなんと不公平な。そう言えば、遥ちゃんは六時間目の国語の授業でいやに熱心にノートを書いているな、と思ったらただの内職だったわけか。
「机の中にでも入れておいたら?」
「……うん。そうね」
腑に落ちない様子で遥ちゃんが朝美ちゃんの机へと向かう。私も帰る支度をしなくちゃ。
「歴史の授業、黒板に書くのが速くて、私、全然おいつかないよ」
ことりんが苦笑して呟く。彼女はノートをきっちりと書く子だから、黒板に書かれた通りに写す。だから余計に時間がかかってしまうのだろう。自分なりに書きやすいように、覚えやすいようにノートを取ると、時間に余裕ができ、先生の話を耳に入れることもできるのだけど。
「琴理、帰るわよ」
戸塚さんが教室の入り口で、ことりんを呼んだ。戸塚亜月。腰まで伸ばしたふわふわの髪の毛と、射抜くように鋭い目が印象的な女の子だ。私が未だに「戸塚さん」と名字で呼んでいるのは、少しだけ怖いからだ。
「あ、うん。待って、亜月ちゃん」
ぱたぱたと慌しく戸塚さんに駆け寄る。二つに結った黒い髪が揺れる。戸塚さんは、見た目は怖い感じだけれど、実は優しいのかも知れない。今だってことりんを急かしてはいるけれど、きちんと待ってあげているのだから。
彼女たちはとても仲が良い。席が隣同士というのもあってか、たいてい一緒にいるのだ。
なんだか羨ましい。昔から、私にはそんなものはなかったから。
天才と呼ばれていた頃は、ちやほやされてはいたけれど、同等の立場としては見られてなかった。一歩引いた場所から話しかけられていた気がする。
その天才という言葉が妬みに変わってからは言うまでもない。天才を辞めてからも同様だ。仲の良い友達なんて、私にはいない。休み時間におしゃべりする相手はいるけれど、果たしてそれが友達と呼べるのだろうか。
友達って、何なのかなぁ……。
分からないまま机に突っ伏して、目を閉じる。
考えても答えは出ない。私にも解らないがあるのか、と妙に感心してしまった。
給食を食べる時に集まるメンバーのことを思い出す。成本朝美、岡崎遥、長谷川琴理、戸塚亜月、木下茜、北条桜、そして、
「あら、今日はまだ帰っていないのですか」
それは黒き大河。腰の下まですっと落ちるように伸びた黒髪は、さらさらと流れる川にしか見えない。顔を上げるとそこにいたのは、万乗千百合。ちーちゃんだ。
「今帰ろうとしていたよ」
「そう言って、実は寝ていたのではないの」
「む、今もそうだし、歴史の時間もそうだけど、寝てなんかないってばー」
「まあ、良いです。それよりも、こんな時間までいるとは珍しいですね」
「んー? そだっけ」
言われてみればそうかも知れない。窓の外を見ると、もうだいぶ日が沈みかけている。ちーちゃんの髪が朱に染まっていた。いつもは毛先にまで手入れが行き届いている髪に、小さな埃がついているのが見えた。なんだか、彼女がこの時間まで残っている理由が分かった。でも、それを言うのは面倒なので、直接訊いてみる。
「ちーちゃんは如何してこんな時間?」
「委員会です。美化委員会は校内外の清掃を当番制で行っていますので」
「へえ、掃除ってSHRの前にやるのに、放課後にもやるんだ」
広い校舎だから、生徒だけでは掃除の手が届かない場所があるのは分かるけれど、それを委員会活動としてやるとなると、私にはもう想像できない。ちーちゃん、面倒な委員会に入っていたんだね。
「ちーちゃん、面倒な委員会に入っていたんだね」
「思ったことをそのまま言わないで下さる?」
「な、なんで分かったのー!」
「小学校からの付き合いなんだから、それくらい分かりますわ」
てっきり読心術の一種かと思った。長い付き合いだと相手の考えていることが分かるのか。それとも、友達だから?
「そろそろ帰ろうと思うけど、慧子はどうしますの?」
「あ、うん。帰る帰るー」
急いで鞄に荷物をつめて、ちーちゃんのもとへ。彼女の大きな歩幅に後れないように、隣に並んで歩き出す。
廊下にはもう生徒の姿もなく、寒々しい西日が床を照らし出していた。
私とちーちゃんの関係について考えてみる。私たちは確かに小学校の頃から一緒だけれど、それがイコール友達になるのかといったらそうではないのかも知れない。
そもそもどういう関係が友達なのだろうか。私にはそれを確かめる術がない。だから、結局分からないままで。
昇降口を出ると、夕暮れの少し寒い風が吹いていた。校門の外には黒いリムジンが止まっている。ちーちゃんの家の車だ。彼女にはいつも送迎の車が来るのだ。
「ね、ちーちゃん」
ちーちゃんと話す時は、私が見上げる形になる。夕日に照らされた白い横顔。すっと通った鼻梁が大人な感じを出している。
「なんですの?」
歩きながらそう訊き返すちーちゃん。私が立ち止まると、彼女も数歩先で止まった。この距離がなんとももどかしい。
「私たち、友達、かな……」
うまく彼女の顔が見られなかった。見上げる為の首の筋力がなくなってしまったみたいに。じっと彼女の靴の先を見続けるしかなかった。一陣の風が吹いた。
ちーちゃんが息を吸う音が聞こえた。
「なにを言っているのですか。早く行きますわよ。もう車が待っているのですから」
そう言って踵を返すちーちゃん。私が顔を上げると背中しか見えなくて。なんだか余計にしょんぼりしてしまって。
目の奥がカッと熱くなって、視界が少しだけ揺れる。
小奇麗なスーツを纏った使用人さんが後ろのドアを開ける。ちーちゃんはすぐには乗り込まずに、
「今日は友達も一緒なの。乗せていってあげて」
使用人さんの視線が私に向かう。かしこまりました、と慇懃に言って私に乗車を促した。いまいち状況が飲み込めない私に向かってちーちゃんが一言。
「ほら、ぐずぐずしないでください」
「えっと、友達って……」
「今ここに、貴女以外に誰かいらっしゃる?」
そっぽを向いて言うちーちゃん。
「う……な、なんだか、顔が赤いよー?」
照れ隠しに、にやにやしながらそう言うと、
「ゆ、夕日の所為です。良いから、早く乗ってください」
そう言う彼女がなんだか無性に可愛くて、思わずその身体に抱きついた。細いけれど、しっかりした身体だ。
「な……いきなりなんですの!」
ぐいぐいと私の身体を引き剥がすように力を込めるちーちゃん。長い髪の毛が舞う。彼女の力は全然強くないから、どれだけ押しても私の身体は離れない。昔からそうだった。ちーちゃんは運動があまり得意ではないのだ。
「……ありがとね、ちーちゃん」
抱きついた姿勢のまま、そう告げた。なんだか恥ずかしくて、やっぱり彼女の顔を見ることができない。
私の言葉を聴いた彼女は、引き剥がそうとしていた腕の力を緩めた。地面には夕暮れの長い影が伸びている。
細い指の感触がした。頭を撫でられている。目を瞑ると、ちーちゃんの匂いがした。
「慧子ったら、貴女も顔が真っ赤じゃないですか」
「……うん。そうだね」
「それも、夕日の所為ですの?」
優しい声音が、私の鼓膜を揺する。友達なんだ。私とちーちゃんは。
それはもしかするともっとずっと昔からそうだったのかも知れない。ただ、私が気づいていなかっただけで。そもそも、本当の友達というものは、こうやって友達かどうかを確かめるものでもないのかも知れない。
でも。
それでも。
友達、という二文字が、私の心をそっと撫でたのは確かなのだ。それに至るまでの手段は人それぞれ違うのかも知れない。だったら、私たちはこれで良い。
そんなことを考えながら、私はちょっぴりいじわるに、こう言った。
「ううん、ちーちゃんの所為だよ」
一年間はあっという間に過ぎ去っていって、気がつけば私は二年生になっていた。
二年生に上がる時にクラス変えが行われる。
私は一年生の頃の仲良しグループのみんなとは散り散りになってしまった。唯一同じクラスになったのは茜ちゃんと桜ちゃん。この二人はとても仲良しで、同じクラスになれて良かったね、と心の中で祝福した。
ちーちゃんとも離れ離れになってしまった。確か、ことりんと戸塚さんとは一緒だ。
新しいクラスでの自己紹介が終わり、始業式のある体育館へ向かう途中、
「全然知り合いいなくて、なんか不安になっちゃうね」
と桜ちゃんが心配そうな顔で呟いた。きっと、それはみんな同じだ。新しい生活は期待以上に不安が大きい。私はといえばもはやそんなことに一喜一憂することすらしないので、解らない。でも、普通は心配なものなのだ。
「まあでも、このクラスで卒業までやっていくんだから、仲良くやっていくしかないよねー」
不安を紛らわせようと、そんなことを言ってみる。二年から三年に上がる時はクラス変えがない。受験を控えるからだろうか。それは解らないけれど、あと二年間は同じ顔ぶれでやっていかなくてはならない。
「そ、そうだよねっ。仲良くしなきゃだよね」
慌てた感じで茜ちゃんが言う。何か違和感があったけど、何だろうか。
仲良くしたくない相手でもいるとか?
さっと辺りを見回してみたけれど、それらしい人は見当たらない。殆どが知らない人で、茜ちゃんと接点があるようにも思えなかった。
まあ、良いか。
結局、私の心はそこで落ち着く。考えるのはやめよう、とそう誓ったのだ。
だから、良いのだ。
時が経っても、上城さんに対する周りの評判は悪いようだった。
私が直接その噂を聞くことはなかった。勿論、それは日々の努力の賜物だ。面倒なことには極力関わらない。関わりたくない。
なるべく普通でいたいのだから。
彼女のクラスには転校生が来たらしかった。
名前は神代闇。カミシロ アンと読むらしい。
すごい名前だ。
アンという少女は、上城さんに似ていた。外見は少し、雰囲気は異常なくらいに。
私は勘が鋭いから、その人たちがどういう関係なのか、この人は今何を考えているのか。そんなことがぼんやりと解る。そして、それはかなりの確率で正解しているのだ。
だから、嘘をつかれると一発で見抜けてしまうのが辛かった。人間って恐いなぁ、って思ったけれど、自分だって色んなものを押し込んでいるのだから、お互い様だ。
やっぱり人間って恐いなぁ。
閑話休題。
転校生の神代さんは本当に上城さんとよく似ているのだ。一度、廊下ですれ違った時に上城さんだと思って話しかけようとして驚いた。胸元のネームプレートには神代闇とあって、それを見るまで別人だとは気がつかなかったのだ。
神代さんは上城さんとよく行動を共にしていた。
上城さんには私の友人でもある、成本朝美という小学校からの親友がいるのだけれど、クラスが違ってからは一緒にいるところを全く見ない。
朝美ちゃんも去年の途中くらいから様子がおかしかった。
友人たちにはそれとなく彼女の異変について言及したのだけれど、結局、朝美ちゃんが最後まで自分で抱えたままで。うやむやのままのクラス変えだった。
まあ、そんなことを言い出したらきりがない。みんな何かを心の奥に隠している。
EVERYBODY HAS THE DEVIL ON THE INSIDE
そんなタイトルの曲を前に聴いたけれど、誰が歌っていたのだっけ。
なんにせよ、誰かの隠したい部分を全て解ってしまうのが厭だった。
神代闇という少女はまだ解らない。
転校生は普通、周りからちやほやされるものだけれど、時間が経てば次第に収まるものだ。
だから、神代さんは上城さんと静かに、目立たないように一緒にいた。
一方、上城さんは相当参っているみたいだった。恐らく、周りの視線に気づき始めている。
もともと内気な性格なのだろうけれど、それが拍車をかけているのだ。
そこまで解っていて、何もできない自分は何なのだろう。
否、正確には何もできないのではない。
何でもできるけれど、やらないだけだ。
最悪だ。
美化委員会委員長、草巻桃片。三年生だ。「ももひら」という変わった名前だけれど、周りからは「ももちゃん」と慕われている。背中まで垂らした黒髪を、先の部分だけを結っている。
「委員長になりました、草巻です。精一杯やらせて頂きますので、よろしくお願いします」
草巻先輩は澄んだ声でそう言うと、辺りを見回した。続いて、委員会の活動内容を説明していく。美化委員会は各学年二十名ずつ、総勢六十名ほど。持ち回りで毎日校内の清掃を主に行うらしい。
今年は、私も美化委員会になった。ちーちゃんと同じ立場に立ちたいという子供じみた考えで。机を一列挟んだ先にちーちゃんが座っている。周りに座っているのは今のクラスの友達だろう。去年も同じ委員会だったということで、きっと話を聴く必要がないようだった。
ひとつ気がかりなのは、私の斜め後ろに座っている転校生、神代闇のことだ。いつも見かける上城さんの姿はない。きっと去年同様、図書委員会になったのだろう。美化委員会は人気がないので、あぶれた者が集まることが多い。憶測だけれど、初め図書委員会に立候補した神代さんは抽選に漏れて美化委員会になったのではなかろうか。上城さんと違う委員会に率先して、しかも最も人気のない美化委員会に立候補するだなんて、あまり考えられないから。
「実を言うと、今日は特にやることがないんです。清掃は明日から、先ほど作った予定表の通りに行ってください。では、今日は、解散です」
部活動に入っている子たちは足早に教室をあとにする。そうでない子たちもだらだらと引き上げていく。
「去年、美化委員会だった生徒はちょっと残って貰えるかな? 倉庫の用具チェックをしたいの。勝手が分かる人のほうが良いので」
教卓に身を乗り出して声を張る草巻先輩の周りに何人かが集まる。当然、その中にはちーちゃんの姿もあった。
「私も手伝おうかー」
ちょっとした親切心から、声をかけた。
「結構です。それに、どういう風の吹き回し? 自分から手伝う、だなんて」
相変わらずの憎まれ口だ。久々に話す気がするのに、全く違和感がない。
「じゃあ良いよ。ちーちゃんなんてきったなーい倉庫で埃まみれになってくれば良いんだ!」
「もう、なにを不貞腐れていますの」
「不貞腐れてない!」
周りの視線が、少し気になる。私とちーちゃんはこれくらいが普通。だから、大丈夫。
「えっと、万乗さん」
心配そうな草巻先輩の声。他の先輩方も不安そうにこちらを見ている。
「すみません、先輩。いつものことですから」
そう言うと、ちーちゃんはにっこり笑って、
「行きましょうか」
悠然と告げる。釈然としない周りの人たちを引き連れて教室から出て行った。
こんな風に言い合えるのは、きっと友達だからなのかも知れない。本音をぶつけ合える存在。勿論、冗談まじりに、だ。冗談を冗談ときちんと認識できる相手、それが友達なのかな、とぼんやり考えた。
二組の女の子たちが立ち上がる。男子はもう戻ったあとのようで、神代さんとあと二人、女の子がいる。名前はなんと言っただろうか。
ちらっと胸のネームプレートを見やると、一人は『福永美咲』とあった。
「ミツ、行こう」
短く切り揃えた髪の子、福永美咲がそう言った。少し日に焼けた健康的な肌。陸上部っぽいイメージ。
ミツと呼ばれた子は、対照的に色素の薄い長髪で、三つ編を一房、身体の左側から前に垂らしている。三つ編だからミツ? そんな筈もないだろうけれど。
彼女たちに勘付かれないように、ネームプレートに書かれた名前を盗み見る。そこには『大島三葉』という文字が並んでいる。なるほど、『みつば』で“ミツ”なのか。
大島さんは慌てて筆記用具を筆箱にしまい、席を立つ。神代さんも同時に立ち上がる。舌打ちが聞こえた。少し離れたところにいる私でさえ聞こえた。
「早く行こう、ミツ」
いらいらした口調で、福永さんが言う。
「ちょ、やめなよ、美咲」
おずおずと指摘するミツ。でも、福永さんは、意に介せず、
「なんでよ。ミツだって、こいつのことうざいって言ってたじゃない。こんな時だけ良い子ちゃんぶるの」
「それは、その……」
神代さんは開けた口を閉じようか如何しようかで迷っているみたいだった。
教室の中にはもう私と彼女たち三人しか残っていない。クラスのみんなは私がちーちゃんと話している時には退散してしまったのだった。
如何したものか。
普段からぼんやりしている私が近くにいようが、如何にもならない、と福永さんは思っているようで、神代さんへ露骨に辛い言葉を浴びせる。大島さんも引っ込みがつかなくなったようだった。
「ただでさえ美化委員なんて面倒な仕事やらなきゃいけないのに、その上こいつが一緒だなんてさ」
「あの時、じゃんけんで上城さんが負けてれば……」
「ほんとよ。あいつったら去年も図書委員会だったんでしょ。一回やったんだから誰かに譲るとかすれば良いのに」
二人の矛先が、段々と上城さんの方へと向いてくる。
ここで私が介入しても、面倒なだけだ。ひとつ欠伸をして、筆記用具と掃除当番表を持って、教室を出ることにする。
ごめんね、神代さん。ごめんね、上城さん。
私はもうそういった面倒事には首をつっこみたくないんだ。
教室の扉に手をかけた時、意外にも神代さんの声が聞こえて驚いた。
「光の悪口を言うのはやめて!」
切実な、一声。
もし空気というものが目で見えるというのなら、その一言で教室内の空気にひびが入っている筈だ。
後ろを振り返ってみると、信じられないものを見るような目つきで、福永さんは神代さんを見やる。大島さんは目を丸くしている。
「馬鹿じゃないの」
震える声で福永さんが告げる。如何してだろう。如何して震えているのが、陰口を叩いていた福永さんなのだろう。
「馬鹿でも良い。でも、光は私の友達なの! だから、絶対に悪いことは言わせない」
キッと睨みつける神代さんの視線に、二人はたじろいだ。今まで誰も擁護してこなかった上城さんを庇うなんて、私も吃驚した。
「もう良い。行こ」
机の上の荷物を音を立てて引っつかみ、福永さんは大島さんを連れて神代さんに背を向ける。
「死んじゃえ」
低く発したその言葉が、神代さんの肩を震わせたのに気がついたのは私だけだったのかも知れない。
ずんずんと福永さんがこちらに向かってくる。
「ちょっと、邪魔」
福永さんの手が伸びてきて、ぐいっと横に押しやられる。教室の扉の前でぼうっとしていた私は、本当に邪魔だったのだろう。
大島さんが慌ててあとを追って教室から出て行った。残されたのは私と、神代さん。
教室の真ん中で呆けたように立っている。その黒い両目には今にも溢れ出しそうな涙が溜まっていた。
このまま知らない顔で私も教室を出れば良い。そうすれば、厄介事に首をつっこまなくて済む。私は、天才を辞めたあの日からずうっとそうやって生きてきたのだ。
でも、如何してだろう。
如何しても身体が動こうとしない。神代さんから目が離せない。
おかしい。自分でもそう思う。でも、私は、
「あの……」
私の声は二人しかいない教室に大きく響いた。いつもより広く感じるのは、当たり前か。遠くから野球部のかけ声が聞こえた。委員会が終わって部活動の時間なのだろう。
うまく、彼女の目を見られない。俯いていた神代さんが顔を上げる。潤んだ瞳が、揺れた。
「上城さん、のこと」
「……え?」
彼女はきっと私のことなんて知らないだろう。第一回目の委員会の集まりということで、クラスと名前を言うだけの簡単な自己紹介はやったけれど。私だって、神代さんのことはよく知らない。でも、悩んでいるのは上城光のことだろう。
「どうし――」
「解るよ。貴女を見ていればね」
ああ、私は何を言っているのだろう。こんなの私じゃない。そうは思っても、
「上城光は去年からずっとあんな感じ。周りの子たちは特に理由もなく、疎んでいるの。それについて、貴女は納得できていない。さっきだって、この学校の生徒だったらしないようなことをしてたしね。上城さんを庇うなんてこと、自分の首を絞めるようなものだからね」
一気にそこまで言った。
驚かれるだろう、そう思った。違うクラスで、今日初めて話すような相手が、自分の抱えているものを言ってのける。それは驚きを通り越して、不気味にさえ映るかも知れない。
でも、彼女の反応は全く違った。
「そこまで解っていて、何もしないんですか……」
錆びついた鎖をそのまま飲み込んだ時のような声だった。きっと、彼女の奥底から絞り出した言葉。
私もさっきまではそうだった。心の底辺にそっと想いを溜め込んで、いつまでも言わないで腐らせていた。
「私なんてどうでも良いの。でも……でも、そこまで解っているんだったら、なんで光を助けてあげないのよ! 去年から光を知っているんでしょう?」
教室に彼女の声が響き渡る。
黒く澄んだ二つの瞳が、私を睨みつける。
「そうだね、去年は、なんと同じクラス」
おどけてそう言ってみる。反応は、解りきっている。
「だったら、なんで……!」
なんで助けてあげないの……。神代さんの切実な声が、教室の中心で爆ぜる。
如何して助けないのか。
そんなこと、理由は一つだ。
面倒事に首を突っ込むことは辞めたのだ。
あの日、天才を辞めた時に、『私』は死んだのだと思う。
以来、何もやる気が出ないのは、もう私のこの身体の中には『私』がいないからなのだ。私は空っぽ。ただの抜け殻だ。
天才は死んだ。
「ねえ、如何してよ! 如何して助けてあげないの!」
肩を掴まれる。ぎゅっと力が込められ、痛い。この痛みは、きっと神代さんの痛みそのものだ。
「私だって!」
神代さんの手を振り払って叫んだ。彼女の叫びに負けないくらい大きい声が出て、自分でも吃驚した。声の大きさと、自分の行動自体に。
こんなの、いつもの私じゃない。何も考えずに、静かに目立たずに生きていきたかったのに。心の奥底に溜まっていた言葉が、次々に溢れそうになる。いや違う、もう溢れ出しているのだ。
「私だって、助けてあげたいよ!」
「じゃあ、なんで!」
「だって!」
気づいたら、ぼろぼろと涙を流している自分がいた。頬を伝って、床に落ちる。
言葉だけじゃない。溜め込んでいたのは涙の形をした感情だったんだ。
「もし、上城さんを助けて、私はそのあと如何すれば良いの! きっとみんなからも頼られる。一般人がスーパーマンに頼るみたいに……それでも……それでも、また私は、誰かに妬まれる! あの頃、そうだったみたいに!」
圧倒された神代さんは、黙って私の言葉を聴いている。だから、声が枯れるまで叫んでやろうと思った。
「もうそんなの厭なの! 誰かを助けられる力があるのは解ってる! でもその先、私は如何したら良いの!? スーパーマンは人を助けるけれど、スーパーマンは誰に助けて貰うの!?」
息が荒い。
涙が止まらない。
俯く私に、神代さんは優しく言った。
「貴女はスーパーマンなんかじゃないわ」
違う。そんな気休めはいらない。現に私は昔から天才と言われ続けて、普通じゃないのに。
それでも、私の抱えた想いをぶち壊すように、神代さんは告げる。
「貴女は私たちと、みんなと同じ。ただの人間だよ」
「え……?」
一瞬、彼女の言葉が理解できなかった。鼓膜は揺れても、それを言語として脳が処理できないような。
「私が……ただの人間……?」
それは私が一番欲していた言葉。
天才でも、怠け者でもない。ただの人間。
呪縛が解けたみたいだった。みんなと同じ、ってなんて安心する言葉なのだろう。安堵してほうっと息を吐くと、さっきよりもたくさんの涙が出てきて驚いた。
「人より少しだけ勘が鋭いってだけでしょう?」
肩までの黒髪が彼女の笑顔と一緒に揺れる。
言葉の一つ一つが優しい。
長い沈黙の後、涙交じりの声で言った。
「……有難う」
お礼を言って、もう一言付け加える。
「……それと、ごめんね。上城さんのこと」
「ううん、ごめん、私こそ勝手言っちゃって」
そう言って、神代さんはそっと微笑んだ。夕日に照らされた彼女の笑顔は、反則級に綺麗だった。
敵わない、とそう思った。私もこの子みたいに、上城さんの為に何かできるだろうか。
なんだかやる気が出てきた。
きっと私にはみんなを助けるなんてことはできない。何でもできるなんてのは、ただの驕りだ。
でも。
それでも、友人を一人助けるくらい、スーパーマンじゃなくたってできることだったんだ。
目の前の転校生は、天才でもスーパーマンでもない。それでも、大切な友人の為に懸命に闘っている。それが、簡単な証明。
神代さんに借りたハンカチで涙を拭っていると、教室のドアを開けて上城さんが入ってきた。なかなか教室に戻ってこない神代さんを捜しに来たのだろう。
充血した目の私を見て、驚いている様子だ。急いで背中の後ろにハンカチを隠したけれど、泣いていたのはばれてしまっただろう。
濡れたハンカチは吸い取った涙の重さで、少しだけ重くなっている。それは気がつかないくらいの微小な変化だけれど、一方で私の身体はひどく軽くなっていた。質量保存の法則なんて、嘘かも知れない。それとも、涙は例外ってことかな。
「ど、如何したの、白鳥さん。目、真っ赤だよ」
慌てた様子の上城光。いつもはおどおどしているけれど、今は違った。本気で心配しているみたい。
「目にゴミが入っちゃったみたいで」
神代さんがすかさずフォローした。あまり上手い言い訳ではなかったけれど。それでも、上城さんは納得したようで、
「そっかぁ、もう痛くない?」
なんて訊いてくる。
それがなんだかくすぐったくて。
とても居心地が良くて。温かくて。
私は思わず笑ってしまった。
きょとんとしている二人を置いて、私は一人でいつまでも笑った。
瞳の脇に浮かんだ涙を隠す為に。
その日は三人で一緒に帰ることになった。辺りは薄暗く、遠くに沈みかけた夕日が見える。
私と上城さんは家が同じ方向だったから、途中で神代さんとは別れることになる。
別れ際に彼女は、思い出した、と呟き、私に向かって、
「スーパーマンはさ、きっと誰の助けも要らないんだよ。自分でなんとかしちゃうの。だってそれがスーパーマンなんだもの」
笑顔でそう言うと、神代さんは別れの挨拶と共に帰ってしまった。
その後ろ姿が見えなくなった頃、上城さんが首を傾げながら、
「スーパーマン? 何の話だろう……知ってる、白鳥さん?」
と訊いてきた。
なるほど、スーパーマンは自分で何とかしてしまう。誰かに頼る必要なんてない。
スーパーマンはそれでこそのスーパーマンなんだ。
私は結局、人間だから。誰かに頼るしかない。
でも、人間だから、誰かに頼れる。頼っても良い。そしてたまに誰かに頼られる。そういった関係が、私たちなんだ。
「さあねぇ、転校生はそういった映画が好きなのかもよー?」
真面目に答えるのが照れくさかったから、はぐらかしてみた。
そっかぁ、と妙に納得してしまう上城さん。
この子の純真さも、もうちょっとどうにかならないものだろうか。なんとか人並みに疑う、ということも覚えた方が良い。
純粋な心をいつまでも汚さないようにするのは、きっととても大変だ。一度汚れてしまえば、あとはどれ程汚れようがあまり気にならなくなるのと同じ。
それでも、上城さんには綺麗な世界で生きていて欲しい、なんてことを思った。
「えっと、私の家、こっちだから……」
交差点で立ち止まる。上城さんの家は信号を渡った先らしい。私は信号を渡る必要がないから、ここでお別れだ。
信号の赤い光が、青に変わる。進め、の合図だ。
「また、明日ね」
上城さんは控え目に手を振って別れを告げた。青信号が点滅しないうちにと、早歩きで前へ進む彼女の背中。その後ろ姿に、何か言おうと思ったけれど上手く言葉が出てこなかった。いつもは心の中に溜まって渦を巻くのに、今に限ってそれがなかった。開きかけた口で、仕方ないから短くこう言うことにした。
「また明日」
それを聞いた上城さんは笑顔で頷いて、去って行った。
言葉にすれば、空気を震わせて、きちんと伝わるんだ。
伝えたいこと。
伝わって欲しいこと。
伝わらないこと。
伝わって欲しくないこと。
色々あるけれど。
心の中で持て余していては、きっと勿体ない。
彼女の姿が見えなくなってから、口の中だけでおまじないみたいに呟いてみた。
「また明日」
また明日、逢えると良い。




