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暴食

――カラスが泪を流すとして、その泪は何色をしているだろうか。


 昔読んだ本の一節に、そんなことが書いてあった。


「ほら、あすこ。真っ暗な空をカラスが飛んでいる」

「ああ、本当だ。でもあのカラス、ちょっぴり泣いているみたいだぜ」

「カラスが泣くもんか。カァカァといつも喧しいだけじゃあないか」

 黒い夜空に溶け込む様にして、カラスが一羽駆けている。二人の会話を聴き乍ら、私は煙草の煙を吐いて、ぼんやりと物思いに耽るのであった。カラスが泪を流すとして、その泪は何色をしているだろうか。そんなことを考えて。


 この続きは覚えていない。でも、このあとに何かが書かれていたというぼんやりとした記憶がある。

 そもそもカラスは泣くのかな、なんて子供心に思ったことがある。それは今でもそうだ。私たち人間は悲しい時には涙を流す。透明で、綺麗な涙を流す。

 真っ黒な身体のカラス。

 私はそれでも、カラスの涙が透明であれば良いと思った。

 教室の窓から外を見ていたら、向かいの校舎に一羽のカラスが止まっていた。その所為だろうか。古い記憶がぼやけて蘇る。

 あの本は今、何処に行ってしまったのだろう。タイトルすら思い出せない。

 先生が黒板にチョークを走らせる音を聴きながら、空を見る。千切れた雲が、行く当てもなく漂っている。先ほどのカラスが飛び立つ。黒い両翼で、空を裂いた。

 何処に行くのだろう。あの翼で、何処まで行くのだろう。泣き場所を探しに行ったのかな。

 授業の終わりのチャイムが鳴って、はっと我に返った。クラス会長の号令で挨拶をすると、隣の席の戸塚亜月が話しかけてきた。

「如何したの。なんだかぼうっとしていたけれど」

 少し吊り上った目。すっと通った鼻梁は西洋の人形を連想させる。ぷくぷくした頬は、触ったらとても柔らかいのだ。これで髪の毛が金色ならお話に出てくるようなお嬢様に見えることだろう。ふわふわと波打つ腰まである亜月の髪が揺れて、良い匂いがした。

 六限目が終わると、帰りのSHRの前に掃除があるから、周りの子たちはいそいそと移動を始める。

「カラスがいたの」

 ぽつりと告げる。亜月はよく解らないといった顔。それもそうだろう。

 ちらと窓の外を覗いてみたけれど、何処にもカラスの姿は見えない。

「ねえ、亜月。カラスって泣くと思う?」

 ざわざわと騒がしい教室で、自分の声がひどく弱々しく思える。きちんと亜月に聞こえているのだろうか。

「泣かないわよ。あいつら図太そうだし」

 腕を組んでそう言ってのける亜月が、彼女らしくてなんだか笑ってしまう。

「ど、如何して笑うの!」

「ごめんごめん。亜月らしいな、って」

「なによ、それ」

 そっぽを向いて、むくれる亜月。これも彼女らしいのだけれど。これ以上笑うと本当に怒られそうだから、やめておこう。

 それに、そろそろ掃除場所に行かなくてはならない。教室掃除の子たちがすでに机を教室の後ろへと運んでいる。

「じゃあ私、掃除行くねー」

「あ、こらっ」

 亜月が止めるのを構わず、教室から出ようとすると、後ろから髪の毛を引っ張られた。

「ぅぐ……っ」

「待ちなさいよ。その話とぼーっとしていたの、関係あるの?」

 二つに結った髪の片方を握られて、私はじたばたともがく。髪を掴むなんて横暴だ!

 必死に亜月に抵抗をしていると、

「そこらへんにしとけ、戸塚」

 担任の村中先生の声がした。髪を掴んでいた力が弛められる。ぴしっとスーツを着込んだ先生は、三十歳近いのにそれよりもとても若く見える。流石に亜月も先生には頭が上がらないらしく、少し大人しくなった。

「長谷川もだぞ。校舎裏の掃除だろう」

 と思ったら私にも矛先が向いた。

「す、すみません」

 謝ると同時に、亜月の手を振り解いて、一目散に駆け出す。後ろで亜月が不満の声を上げた。

「こら、琴理!」


 外履きに履きかえる為に、昇降口までの廊下を駆け足で進む。

 亜月の声が、何故だか頭に残った。

 琴理。

 私の、名前。



「ことり」という自分の名前が嫌いだった。

 私には空を飛ぶ為の翼なんてないから。

 その代わり私には、血を吸う為の牙ならある。


 物心ついた頃には、私は既に吸血鬼だった。吸血鬼というのは文字通り、『血』を『吸』う『鬼』のことだ。

 最近では吸血衝動の発作が現われる回数も減ったけれど、一時期は血が欲しくて仕方がないことがあった。自分が吸血鬼であることを厭だと思ったことはない。日差しを浴びたら駄目だとか、ニンニクが弱点だとかよく聞くのだけれど、全然そんなことはない。

 暑いのは厭だし、ニンニクは臭いけれど、それは私が吸血鬼じゃなくても同じことを思っただろう。

 吸血鬼なのに、私には翼がなかった。手下の蝙蝠もいない。昔、先輩吸血鬼に出会った時にすごく圧倒されたのを覚えている。先輩吸血鬼はまさに吸血鬼と呼ぶに相応しい姿で、自分が同じ吸血鬼であることを恥ずかしく思った。

 漆黒の両翼と、周囲を飛び交う黒い蝙蝠の大群。

 そのどちらも私にはなかった。それでも、私は吸血鬼で。吸血鬼の血が流れている。

 こんな落ちこぼれでも、吸血鬼なのだった。

 だから、私は自分の名前が嫌いだった。

 「ことり」なんて可愛らしさは、私にはない。


 吸血鬼の私が人間の学校に通っているというのも、見方によってはおかしな話だ。でも、それには色々と事情があるのだ。最近では吸血鬼と人間との混血が珍しくなくなっているのが一つの原因だ。要は仲良くやっていきましょう、ということらしい。

 別に人間を嫌いではないから、良いのだけれど。中には人間嫌いの吸血鬼もいる。人間をただの餌としか見ていないのだ。

 そんな考えは間違っている。

 私たちは確かに人間の血を吸うけれど、吸わせて貰っている、という考えの方がしっくりくる。多分、それが仲良くやっていく、ということなのだと思う。

 血を吸わなくても、私たちは人間でいう食事からの栄養摂取が可能だ。

 これも混血のお陰。純血の吸血鬼は人間の血がないと生きていけないから。

 混血よりも純血の方が優れている、という見方もあるらしいけれど、私からすれば純血なんて不便なだけだ。美味しいプリンを食べたって栄養を取ることはできないのだから。だから食べることに意味を見出だせずに、食べなくなってしまうらしい。まあ、勿論それで太ることもないのだろうけれど……。

 ともあれ、私たち混血は血を吸わなくても生きてはいける。

 でも、残念なことにこの頃発作の兆候が見え出した。まずい、と自分でも思う。

 本当はもう誰の血も吸いたくない。

 血を吸うといっても加減をするから死ぬことはないし、前後の記憶が少しだけ曖昧になるくらいだったから、人間とは上手く共存できている。それでも、誰かの吸うなんてことはしたくなかった。

 だけど。

 だけど、渇く。

 渇いている。

 身体の奥底が渇いている。

 渇望している。

 あの甘美な、匂いと味。

 欲している。

 血が、血が欲しい。

 赤い、紅い、朱い、赫い、血を。

 それもこれも、あの子の所為だ。あの子を見ると、私は――

「長谷川さん、大丈夫?」

 心配そうな声が聞こえて、顔を上げると、そこには一人の女の子がいた。私に話しかけてきたこの子。そう、この子だ。クラスの腫れ物である上城光という少女。

 掃除が終わって放課後。周囲の喧騒に紛れて、上城さんは私にそう言った。

「え、えっと、大丈夫だよー」

 そう笑顔で返すと、彼女ははにかんで俯いた。

「なら良いんだけど……その、長谷川さん、何か辛そうだったから」

 普段からぼーっとしていて何を考えているのか解らない子だったけれど、やっぱり何を考えているのか解らない。黒い髪は肩にかかるか、かからないかといった具合に切り揃えられていて、白い首筋が良く見える。ごくり、と無意識に生唾を飲み込む。

 血を吸いたい……。

 あの淡い雪でできたような首筋に齧り付いて、血を吸い尽くしたい。

「有難う、上城さん。でも、本当に大丈夫だよ、ちょいと考え事をしていてね」

 言葉を紡いでいる最中も、首筋から目が離せない。視線がそこに吸い寄せられるみたいに。

 吸血衝動と、それを必死に止めようとする心が鬩ぎ合う。苦しい。苦しい。

 でもきっと友達の血を吸うことは、最も苦しいことだと思うのだ。だから、吸いたくない。それが私の吸血鬼としての意地だ。

「考え事……?」

 目の前の上城さんの心配そうに揺れる顔が、妙に印象に残る。

「そうそう、そうなの。考え事」

 まずいなぁ。下手に嘘をつくものではない。嘘というものは一回ついただけで、とても大変なことになる。嘘を嘘にする為に、新しい嘘をつかなければならない。そしてその新しい嘘を守る為に、また新しい嘘を、といった具合にどんどん追い込まれていくものだ。上城さんは心配そうに私を見上げてくる。身長が同じくらいの筈なのに、彼女の方が小さく感じるのは如何してだろう。

「上城さんは、カラスが泣くと思う?」

 引っ込みがつかなくなった私は、ふとした思い付きでそんなことを訊いてみる。なるべく、首もとを見ないようにする。上城さんは難しい数学の問題を解く時の顔でうーん、と唸った。

「ごめん、そんな深く考えないで。ほんとつまらないことだし」

 慌ててそう言うと、上城さんは薄い唇を開いた。

「……泣いて欲しくはない、かな」

 ぽつりとそう言った。穏やかな水面に一枚の葉がゆっくりと落ちたみたいに、その言葉がじんわりと鼓膜を揺らした。

「あ、えっと……ごめん。泣くかどうか、だよね……ええっと」

「ううん、もう良いの」

 泣くか泣かないか、ということよりも、泣いて欲しくない、という彼女の考えが素敵に思えた。

 不思議な表情の上城さんに、少しだけすっきりした気持ちで告げる。

「有難う」


 帰り道、亜月と並んで自転車を漕ぐ。ペダルを回して、私たちの身体が進む。

 少し日の傾いた空に、一羽のカラスが飛んでいた。学校でのやりとりを思い出す。

 亜月と上城さんの意見はどちらかと言えば、カラスは泣かない、だった。やっぱり、私は普通とは違うのかな。人間じゃないから。

 私はカラスに泣いて欲しい、と思った。カラスの涙はきっと透明で、きらきらしていて。

 その涙が、地上に降り注ぐ雨の何パーセントかであれば、それはすごく素敵なことだと、私には思えるのだった。

「私にはカラスが泣くとは思えないけど」

 頭上を飛ぶカラスを見やって、何処か忌々しそうに亜月が言った。

「何かあったの?」

 カラスに厭な思い出でもあるのかな。

「別に」

 そう言う亜月の長い髪の毛が、風の中に舞った。


 翌日、朝から気分が良くなかった。ふらふらと眩暈がして、吐き気まであった。秋も終わりかけていて、涼しいのが救いだった。暑いのも、寒いのも苦手だ。秋は、私の一番好きな季節。

 少し家を出るのが遅れたから、教室に着くとだいぶ人が多い。その中には上城さんの姿もあった。ドクンと身体が反応する。

 血を吸いたい。

 上城さんの血を吸ってしまえば、きっと……。

 きっと、この苦しみから解放される。でも、それは……。

 葛藤を見透かされないように、自分の席へ急ぐ。

「おはよー」

 白鳥慧子の挨拶が鼓膜を揺らす。ほんわかした声が、今は何処か安心する。隣にいた木下茜も、おはよう、と言ってぱたぱた手を振った。

 慧子はいっつもぼんやりしていて、傍にいると和む。茜はクラスで一番背の低い女の子で、いつもぴょこぴょこしている印象がある。見ていて面白い。癒し系な二人だから、体調が悪くても、自然と居心地の悪さは感じない。

「英語の宿題やった?」

 茜にそう訊かれて、すっかり忘れていたことに気がついた。

「あ、れ? 宿題あったっけ……」

「あったよ。私も分からなくて全然終わってないんだけどね」

 終わっていれば、見せて貰おうかなって。彼女ははにかんでそう言った。隣で欠伸をしている慧子は絶対にやっていないだろう。忘れていたのではなくて、やっていないというのがまた厄介なところだ。

 吸血衝動を抑圧している所為か、他のことにまで気が回らないのが現状だった。どうしよう。そうは思っても、我慢するしかない。

 自分のできる範囲のことを、精一杯やっていくしかないのだと思う。

「じゃあ、茜。まずは座って。ほら慧子も」

 だから今は、英語の宿題を片付けるところから始めないと。


 数学の授業中に先生に指され、黒板に出て問題を解こうとした時だった。

 席を立ち上がった瞬間、強烈な眩暈に襲われた。ぐらっと視界が揺れて、足に力が入らない。

 騒然とする教室。先生がすぐに飛んできて、慌てて私を抱きかかえた。

「……だ、大丈夫、です」

 たったこれだけの言葉を発するのにも苦労した。呼吸がしにくい。

 ふと先生の首筋が目に飛び込んできて、吸血衝動が蘇る。きっと今まで抑えてきた分の反動だ。身体に力が入らない。

 保健委員である亜月が保健室まで付き添ってくれることになった。肩を貸して貰って、なんとか歩く。いつも歩いている廊下が、ひどく長く感じられた。

「ごめんね、亜月。もう良いよ、自分で歩けるから」

 階段をひとつ下りた時にそう言ってみたけれど、一蹴された。

「何言ってるのよ。まだ顔色だって悪いじゃない」

 いつもクールで他人のことなんてあまり気にしていなさそうに見えたけれど、その認識は改めるべきかも。なんだかいつもの数倍優しく見えたのだ。

「ありがと……」

「一応、保健委員だからね」

 触れ合う肩から、彼女のぬくもりを感じる。歩く度に揺れるウェーブがかかった髪が綺麗だ。長い髪の隙間から、白い首筋が見える。そこには青白い血管がうっすらと見えていた。なるべく見ないようにした。

 授業中の為か、廊下は静かなものだ。今なら血を吸っても誰にもばれないだろう。亜月も少し記憶と血を失うだけで済む。そして、私の体調も回復する。悪いことなんてない。

 なのだけれど。

 襲い来る吸血衝動に、歯を食いしばって堪える。額に汗が滲む。呼吸が更に荒くなる。

「もう少しだから頑張りなさいよ」

 励ましてくれる言葉に応えるように、吸血衝動を抑えた。今ここで血を吸うことは、亜月を裏切ることになってしまう。

 だから、絶対に血を吸いたくない。

 私の身体は血を吸わなくても生きていける身体なのだから。

 だから。

 そこまで考えて。

 意識はぶっつり途切れた。



 目を覚ますと、保健室の清潔なベッドに横になっていた。

 薬品の独特な匂いがする。

 ぼやけた視界には、隣の椅子に腰掛けている戸塚亜月の姿。

 私、如何しちゃったんだろう。

 きっと倒れたんだろうな。うまく働かない頭で、ぼんやりと思った。

「目が覚めた、琴理?」

 彼女は私の瞳を覗き込んでそう尋ねた。私が寝ている間、ずっとここにいてくれていたのだろうか。

「いきなり倒れたから、吃驚した」

 ごめん、と胸中で謝る。

「ただの寝不足って、先生は言っていたけど……私、心配したんだよ」

 亜月の声が妙だと思ったら、彼女は目にいっぱい涙を浮かべていた。

 がばっと抱きしめられる。細いけれどしっかりとした亜月の身体。彼女の体温を制服越しに感じる。

「心配、したんだから……」

 シャンプーの良い匂いが、鼻を掠める。薬品の匂いが薄れて、彼女の存在を確かめられた。

 亜月は本当に優しいんだな、とぼんやり思った。

 そんなことを思いながらも、もう限界だった。

 抱きすくめられた私の口元には、彼女の白い白い首があったのだから。皮膚の下には血管が幾筋も見えていて、頭がくらくらする。

 目の奥がチカチカして、ぐらぐら視界が揺れる。その中で血管だけはしっかりと見えていて。もう本当に、駄目だった。

「ごめん、亜月」

 呟くが速いか、彼女の血管に牙を突き立てる。

 亜月は小さく呻き、気を失ったみたいだった。

 それで良い。私のこんな姿なんて、誰にも見せたくないから。

 何も考えられずにただただ、血を吸うという行為に没頭する。

 口の中に彼女の血が溢れる。そして、広がる甘美な味。赤い血を一心に嚥下していく。

 これが、亜月の血。

 大切な友達の、血。

 私の求めていたもの。

 幸福感に包まれているのも、僅か数秒。早く牙を離さないと亜月が危ない。

 名残惜しいけれど口を離す。綺麗に舌で血を舐め取ったけれど、うっすらと残った二点の牙の噛み痕や、血が少なくなって青ざめた唇が痛々しかった。こちらにしな垂れかかる、血の抜けた分だけ軽くなった亜月の身体。

 ごめん、と呟いた。でも、彼女には聞こえる筈がない。

 私の代わりに亜月をベッドに寝かせた。

 何て言うんだっけ、こういうの。ミイラ取りがミイラになる、だったかな。ちょっと違うかな。

 亜月の顔色が少し悪い。血が足りないのだろう。

 それでも、たいていはすぐに目を覚ますから、それまで待つことにした。

 亜月が眠りについてしまった、上手い理由を考えながら。



 あれから半年が経って、私は中学二年生になった。

 中だるみの年、なんて言われているから、授業についていけるようにたくさん勉強しなくてはならない。

 クラス変えの結果、私は亜月や遥と同じクラスになった。岡崎遥は去年も同じクラスだった。肩口で撥ねた猫っ毛が愛らしい女の子。

「お、ことりんも一緒かー」

 そう言ったのは慧子だった。のんびりした声ですぐ解った。慧子も同じクラスか。新しいクラスでも、知り合いがいるというだけで全然緊張しなくて済む。

「他のみんなはバラバラか」

 遥が少し気落ちした声で言う。

「朝美ちゃんはちーちゃんと同じだったかな」

「あとは茜と桜も同じクラスって言ってた」

 去年同じグループにいた子たちとはそれぞれ別のクラスになってしまった。それは仕方のないことだけれど、やはり寂しいものがあった。

「また一年よろしくね」

「何言ってるのよ、琴理。二年から三年に上がる時には、クラス変えがないんだから、このクラスで卒業までいくのよ」

 亜月がそう言ってのけた。そうだった。確か受験勉強も考えて、二年生から進級する時にはクラス変えを行わないのだった。

「良かったねぇ、戸塚さん。ことりんと三年間一緒のクラスで」

「別に良くはないけど」

 亜月はそう言って自分の席へと戻った。怒らせてしまったかな。

 時々、慧子は計算して物事を進めているように思えるときがある。今だってそうだ。亜月は何も言ってないのに、良かったね、と声をかけたのだ。

 いつものだらけた態度からは想像もつかないけれど、本当はとても頭がきれる子なのかも知れない。能ある鷹は爪を隠す、というし。白鳥慧子。白鳥は水面下では必死に足を動かして泳いでいる。でも、周りの人にはそれが解らない。ただただ優雅に水面を漂っているようにしか見えない。それと一緒なのかな。

 そんなことを考えたけれど、ふぁあ、と大きな欠伸をする慧子を見て、その考えをかき消した。ないない。慧子に限って、それはない。


 上城さんとは違うクラスになった。

 かつて血を吸った人と、血を吸いたかった人。

 同じクラスに慣れたのは、亜月だけ。亜月はあのあと、特に後遺症もなくいつも通りの学校生活を送っていた。いつも通りクール、という意味だ。あの時の優しさはそれ以来発揮されることはなかった。

 上城さんもいつも通りにのほほんと過ごしていた。ただ、周囲の視線はあまり良くなかった。何故だかは解らない。陰気な性格なのは見ていて解ったけれど、取り立てて騒ぎ立てることでもないと思う。

 なんにせよ、変わりのない日常を送っていたわけだ。

 周りのみんなは。

 私はというと、また吸血衝動に見舞われていた。

 厭だ。

 如何して。

 如何しよう。

 血が欲しくて堪らない。

 一度味わってしまった快楽は、多少のことで忘れられるものではない。

 でも、また亜月の血を吸うわけにはいかない。私をあんなにも心配してくれたのに。友達だったのに。

 私はそれを裏切ってしまった。

 今度はこの身体がどうなったって良い。絶対に彼女から血を吸わない。そう決めていた。

「琴理、帰ろう」

 放課後は亜月と一緒に帰ることが多かった。

 上城さんは顔見知り程度だったから、一緒に帰るということはなかった。彼女はいつも誰と帰っているのだろうか。確か一年生の頃は、私の友達の成本朝美とよく帰っていたけれど。今は知らない。

 夕日に染まる廊下を歩く。昔、亜月に付き添って貰って歩いた廊下。

 私の正体を知らない彼女の横顔は、沈み行く太陽に照らされて赤く染め上がっていた。

 赤は血の色。ごくりと唾を飲み込む。

 いっそ自分の正体を話してしまえば良いんじゃないか、と考えた時もあった。

 でも、もし嫌われたら?

 はっきりと拒絶されたら?

 私はきっとそれに耐えられない。我慢をするのは、辛い想いをするのは、私一人で十分だ。人間じゃない、吸血鬼の私が。

「如何したの、亜月。急に立ち止まって」

 亜月が歩みを止めて、遠くに視線を向けていた。

 そこには上城さんの姿があった。ドクンと心臓が鳴る。

 頭に浮かぶのは血のことばかり。厭だ。厭だ。

 彼女の横を歩いているのは、四月に転校してきた神代さんだ。下の名前は忘れてしまった。漢字一文字だった気がするけれど、知らない読み方だったから。

 二人は仲良さそうに並んで歩いていて、まるで昔からの知り合いのように見えた。それに何処となく二人は似ている。肩口までの髪の毛や、黒い綺麗な瞳。

 なんだか、上城さんが羨ましかった。

 私は亜月とは一年以上も友達をやっているけれど、まだ本音で話すことができない。

 今まで誰かに秘密を伝えられたことなんてなかった。でも、亜月になら、全て教えても良いかもな、と思った。否、知っておいて欲しいのかも知れない。

 本当に相手を想う、という行為はきっとひどく難しくて、勇気が要ることなんだ。言いたいことも言えない関係は友達なんて呼べない。誰かがそんなことを言っていた。ただの綺麗事だと思う。でも、少しくらい勇気を出したって、罰は当たらないとも思う。

 亜月なら……たとえ解ってくれなくても、今まで通りに接してくれる気がした。

 だけど。

 だけど、遠くの二人をじっと見つめる亜月にはなかなか言い出せなかった。言い出せない雰囲気だったから。



 翌日、私は倒れた。

 去年と状況は一緒だったから、学校を休めば良かったのかも知れない。朝からどうにも体調が悪くて、朝ご飯は食べてすぐに吐いた。それでも、ぼろぼろの身体で学校に来たのだった。

 それは、給食の準備中だった。食器が入った重い容器を運んでいる時に、身体の力が急に抜けたのだ。大きな音を立てて床に散らばるプラスチックの食器。

 周囲から上がる悲鳴。

 ああ、まただ。またやってしまった。そう考えるのが精一杯で、自分がこれからどうなるのかなんて考えられなかった。薄れ行く意識の中で、頬に当たる床がひんやりと冷たかった。


 目が覚めた。

 カーテンの隙間からは夕日が差し込んでいる。

 保健室にいることはすぐに解った。あの薬品臭いベッドに横になっているということも。今は何時だろうか。先生の机の上にシルバーのおしゃれなデジタル時計が置いてある。もう帰りのSHRも終わってしまった時間だ。お昼食べてないや、と思い出した途端にお腹がぐぅっと音を立てた。こんな時でも身体は正直だ。お腹がすけば、お腹の虫が騒ぎ立てるのだ。

 限界までお腹がすけば、人間はどんなものでも食べてしまう。限界まで喉が渇けば、たとえそれが泥水でも飲んでしまう。昔に読んだ本に似たようなことが書いてあったことを思い出す。それほどまでに貪欲な生き物が人間であり、私たち吸血鬼なのだろう。

 沈む太陽の眩しさに目を細めていると、ドアノブが回る音がした。振り返るとそこには亜月がいた。また彼女に迷惑をかけてしまった。

「良かった! 起きたのね、琴理」

 綺麗な笑顔だった。申し訳ない気持ちと、彼女の血を吸わなくて良かったと思う気持ち。どちらも同じくらいあった。

 先生を呼んでくる、と言って彼女は慌てた様子で部屋から出て行った。

 彼女には悪いけれど、亜月が帰ってくる前に保健室から逃げなくては。

 きっともう限界だから。これ以上、亜月の傍にいると血を吸いたくて堪らなくなる。

 血を吸わなければ私はどうなってしまうのか、全く見当もつかない。でも、あの笑顔を壊すよりはマシだ。亜月の血を吸うなんて厭だ。厭なのだ。

 そんなの、厭。

 力が上手く入らない身体を引きずるようにして、昇降口を目指す。

 息がし辛くて、酸素が恋しい。汗が次々に溢れ出て、気分が悪い。顎を伝って床に落ちた汗の粒が、なんだか涙みたいだな、と思った。

 壁伝いにやっとの思いで進み、昇降口が見えた時、後ろから声がした。

「何処行くの、琴理っ!」

 亜月だ。

 振り向かなくても声で解る。大切な人の声。

 振り向いたら駄目だ。自分を保てなくなってしまうだろうから。

 震える足を叱咤して、勢い良く走り出す。逃げ出すみたいに。

 足がもつれる。右足と左足が、まるで自分のものではなくなってしまったようで。

 こんな時、翼があれば楽なのだろう。夕焼けに染まる空にふわっと舞い上がり、全てから逃げ出せるのだから。

 昇降口を過ぎ、夕暮れの空の下を走る。上履きのまま、必死に走る。

 背後で、亜月の足音が聞こえる。

 厭。

 来ないで。

 来ちゃ駄目だよ、亜月。

 腕をいっぱいに動かして、出鱈目なフォームで当てもなく走った。

 無意識に校舎裏を目指していた。毎日掃除をしている場所。あそこは人もいなくて、静かで良い場所だから。

 今は誰にも逢いたくない。

 頬に当たる風に、力任せに突っ込む。翼なんかなくても、私は二本の足で走るしかない。走っても走っても、現実からは抜け出せないけれど。



 もう少しで校舎裏に着くという時、周囲から悲鳴が聞こえた。

 一体何が起こったのだろう。そう思い足を止めて、辺りを見回す。

 一瞬、真っ赤な薔薇が咲いているのかと思った。

 美しい薔薇色。

 それは血だった。

 上城光の血。

 私の目の前に、上城光が倒れていた。

 なんとなく飛び降り自殺という文字が頭に浮かび、上を見上げると、屋上に転校生の姿がちらっと見えた。転校生の神代さんは、ぼろぼろと大粒の涙を零している。それはまるで雨のように地上に降り注いでいた。真っ黒な髪の毛が、場違いにもさらさらと揺れている。

 彼女の涙が、私の頬にぶつかって弾けた。


 上城さんの身体は真っ赤に染まって横たわったまま動かない。異様に赤い血をぶちまけて。

 きっとそれは夕日の所為だ。立ち込める血の匂いが、私を私でなくさせる。亜月の血を吸った時のことが脳裏によぎる。

 あの時の味と幸福感。そして、上城光は亜月とは違う、かつて吸いたかった血。

 それが今、目の前にある。上城さんの血は、じわじわとその面積を広げ、私の上履きに当たって赤い染みを作った。

 限界だ。そう思った。

 一歩、足を踏み出すとぴしゃっという音が聞こえる。さっきまでふらふらだった足が、今は力強い。もう何も考えられない。血溜まりに沈む彼女の姿ももはや目には入らない。本能のままに、吸血鬼の血に従うように、私は地面を這う血に手を伸ばした。

 指先に触れた上城さんの血は、ひどくぬるかった。

 無理だ。

 スプーンもフォークも使えない幼児みたいに、私は自分の両手にべっとり付いた血を舐め取っていく。

 結局、無理だった。

 口の中が上城光の血で侵されていく。

 私が壊れていく。

 喉の奥を大量の血が通る。

 厭だ。

 食道を通過して、胃に溜まっていく感覚。

 止まらない。

 厭なのに。

 止めたいのに。

 壊れたのだ、私は。

 口内に溢れる、私の求めていた血の味。それはひどく罪の味がした。

 一心不乱に砂利混じりの血液を舐めていると、後ろから誰かに羽交い絞めにされ、血溜まりから引き剥がされた。

 風に揺れるウェーブの黒髪で、すぐに亜月だと解った。

「琴理、琴理! あんた、なにやってるのよ!?」

「離して、離してよっ!!」

 必死に抵抗しても、亜月の腕は私の身体を羽交い絞めにしていて、どうにも離れなかった。

 彼女の顔を見るのが辛い。厭だ。

 きっと今の私はひどく醜いに違いない。口の周りは当然のこと、手や制服はたくさんの血でべとべとだろう。

 亜月の目にはただ、食欲に負けた醜悪な吸血鬼の姿が映っている筈だから。

「……亜月」

 彼女から逃れることは諦めた。今の私じゃ多分、無理だから。

「私、如何すれば良いんだろう……こんな身体、厭だよ……」

 気がついたら目からはぼろぼろと涙が零れ落ちていて。

 心の奥底から必死に抑えていた感情が、決壊したダムから水が勢い良く流れ出るようにして、溢れて弾けた。

 亜月は押さえていた腕を放してくれた。

「如何してだろうね……いっぱい、いっぱい我慢したのに……結局、私は駄目な子なんだよね……ごめんね、亜月ぃ……ごめんね…………」

 遠くで救急車の音が聞こえる。

 きっと上城さんの為のサイレンだ。

「私ね……吸血鬼なの……人間じゃないの」

 言った。

 言ってしまった。

 亜月は如何思うかな。

 私を嫌いになるだろうか。

「うん。そっか」

 彼女の返事は短かった。拒絶でも許容でもない。でも、私の言葉を受け止めてくれた返事。

「半年前にもね、血を吸ったの……亜月の、血を……こんな私じゃ、友達失格だよね……亜月の傍にいる資格、私には……ない」

 俯くと、ぼたぼたと洪水のように涙が溢れてきた。

 私たちは色んなものを流す。血と涙。色も形も違うけれど、きっと何処かで繋がっている。

 一気に想いの丈を言い放って、肩で息をする私を亜月はそっと抱きしめた。

 もう抵抗する力は残っていなかった。

 囁くみたいに、歌うみたいに、彼女は告げた。

「琴理が何者かなんて、関係ないよ……吸血鬼でも、私の血を吸ってもさ……それでも琴理は、私の友達でしょ? それだけで十分だもの」

 空気に優しく溶けていく亜月の言葉は、しっかりと私の鼓膜を揺らす。

「だからね、傍にいてよ、琴理」

 その言葉を聴いたら、また涙が出た。

 嗚咽と共に、私の口に残っていた上城光の血が零れていく。

 こんなに泣いたのは久しぶりだ。

 亜月は優しく、強く私を抱きしめてくれている。

 背中に回された腕から伝わる温度は、前に保健室に一緒に行った時のぬくもりに似ていた。

 亜月の胸に顔を押し当てて、大声で泣いた。嬉しいのに、涙が止まらなかった。悲しい時以外でも、こうやって涙が出るものなのか、と少し不思議に思った。

 上城さんの死と、亜月の優しさと、自分の未来。

 色んなことが頭の中を駆け巡る。

 こんな時、翼があったらどんなに便利だろうか。亜月を連れて真っ赤な空を渡って、何処か遠い国で暮らすのだ。それはとても良い考えだったけれど、不可能ということもすぐに解った。私だってもう子供じゃない。そんなこと、できっこないと解っている。

 翼の代わりに、この細い二本の足で生きていかなくてはいけないんだ。

 それはきっと、人間も同じことなのだろう。

 翼のない吸血鬼と、人間。

 違うのは血を吸うことだけ。

 なんだ、初めから私たちは似ていたんだ。


 そうやって、吸血鬼と人間の境界線を曖昧にして生きていくのも悪くない。

 亜月が傍にいる。いてくれる。それだけは確かだったから。

 でも……。

 そっと、思う。

 でも、今だけは夢を見ていたい。

 救急車の真っ赤なサイレンが現実を染め上げるまでの、短い時間で良いから。

 幻想の中に、翼の生えた私と、必死に私の手に掴まる亜月の姿が見えた。楽しそうに、空を飛んでいる。

 私の手は血に濡れてなんかいなくて、綺麗だった。

 それは幻想。

 絶対に叶わない、私の淡い淡い夢。


 やっぱり、私は「ことり」という自分の名前が嫌いだ。

 血を吸う為の牙ならあるのに、私には空を飛ぶ為の翼なんてないから。

 それに私は、小鳥じゃない。吸血鬼だ。

 そして、亜月の友達でもある。

 そうでしょう?



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