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嫉妬


 昔からそうだった。

 自分のものよりも他人のものばかりが気になってしまう。

 例えば、人が横で食べているケーキ。

 例えば、人が持っている可愛い手鏡。

 例えば、人が暮らしている綺麗な家。

 例えば、人が大切にしている、友達。

 全て気になってしまって落ち着かない。

 あの人は持っているのに、自分にはない。

 如何して?

 如何して?

 私も欲しい。羨ましい。

 悪いのはそうとしか思えない私。それは解るのだけれど……。

 私の家はあまり裕福な家庭ではなかった。その為、欲しいものを買って貰うことなんて、そんなに多くはなくて。

 ついつい他人のものが羨ましく思えた。

 流行に乗り遅れる、とか周囲に置いていかれる、とか、そういう下らない不安感ではない。

 それはただの嫉妬。

 私は嫉妬でできている。



「おはよう、成本さん」

 成本朝美と初めて出逢ったのは、中学校の入学式の日だった。

 自分の下駄箱が判らずにうろたえていたら、声をかけられたのだ。私が自分のクラスを告げると彼女は、

「あ、なら私と一緒。ついてきて」

 そう言って私の手をとった。きゅっと握られた柔らかい手。そこから伝わる温かさが、彼女を表しているように思えた。

 成本さんは長い黒髪を頭の後ろでひとつに纏めている。綺麗なその髪がひどく羨ましかった。まるで刀の鞘みたいにすっと伸びたポニーテール。歩くたびに揺れる様子は、催眠術に使う振り子のように、私を魅了する。

 くせっ毛の私の髪では、あんな風にはなれないのだろうけれど。肩口でくるんと外向きに撥ねている私の髪の毛。ちっとも可愛くない。

 私も伸ばしてみようかな、なんて思ってしまった。

 その出逢いから一週間が過ぎていた。

「あ、おはよう」

 少しどもりながらも、成本さんはきちんと挨拶を返してくれる。

 そんな律儀な性格も羨ましい。

 人の少ない朝の教室。

 六年間通った小学校の教室とは、似ているけれどやはり違う。私はもう中学生になったのだ。少し、大人な気分だ。前の黒板の横には担任の村中先生が模造紙で作ったカラフルな日課表が貼られている。今日は音楽と家庭科の授業があるから、楽な一日だ。

 私の席は窓際だ。朝も早いのでまだ日差しはないけれど、お昼を過ぎるとカーテンを閉めないと直射日光にやられてしまうのが厭だった。

 成本さんの前を通り過ぎようとすると、

「あ、あの……」

 今度はあっちから声をかけてきた。ただの挨拶で終わると思ったのに、なんだろうか。

「朝美で良いよ、呼び方。苗字だとよそよそしいじゃない?」

 はにかんだ笑顔が眩しかった。

 朝日に美しく笑う彼女は、なるほど綺麗だった。

 あんな風に私も笑ってみたいな。

 きっと成本さんは、心の中ではとても怯えている。中学校という新しい生活に。周りを取り囲む知らない人たちに。だからきっと、誰かの手を取りたかったのだろう。

 慣れないことをしているからだろう、彼女の丸いおでこには汗が滲んでいる。

 私も、こんなふうになれたら良いのに。

 成本さんと一緒にいれば、少しは近づけるだろうか。

「解った。それじゃあ、その……これから一年間よろしくね、朝美」

 朝美という呼び方が、まだ少し恥ずかしい。

 私の発した言葉に、笑顔のまま朝美は言う。

「こちらこそよろしくね、岡崎……じゃなくて、遥」

 お互いに名前で呼び合って、それがなんだか可笑しくて、二人して笑った。

 朝の涼しい風が、白いカーテンを揺らした。



 四月も半ばまで進むと、クラスの顔もだいぶ覚えてきて、朝美以外にも何人かの友達ができた。

 クラスには仲の良い者同士の集まるグループが少なからず生じるものだけれど、私のいるグループはクラス内でもかなり高い地位にあった。

 影響力というのだろうか。そういった力が強いのだった。

 私は満ち足りていた筈だった。全てを手に入れたような気さえした。

 でも、いつも頭の中では朝美のことばかりを考えてしまう。ついつい彼女の一挙手一投足が気になってしまう。

 彼女と話している人を見ると、私がその人と代われたら、なんてことを思いもした。

 朝美も私と同じグループだったけれど、それでも他の誰かと仲良く喋っているのを見るとひどく羨ましかった。

 朝美は誰のものでもない。でも、もし誰かのものになるのだとすれば、私のものになって欲しい。

 恋愛感情なんて高尚なものではなくて、それはただの独占欲。

 誰かが朝美と楽しそうに話すのが羨ましかっただけだ。


 朝美は同じクラスの上城光という少女と小学校からの友達らしかった。

 その子は、肩まで黒い髪を伸ばした小柄な少女だ。瞳が驚く程に黒い色をしていて、見ていると吸い込まれそうになる。

 上城光に対する悪い噂は入学してから今までで、たくさん聞いてきた。

 どれも根も葉もない噂だったけれど、周りを敵に回したくはないから相槌を打つのに必死だった。

 そんな子と何故、朝美はいつも一緒にいるのだろう。何故いつも一緒に帰るのだろう。登校の時も一緒にいる姿を見たことがある。

 上城光がひどく羨ましい。

 如何して朝美の隣にいるのがあの子なのだろう。

 そんなことをいつも考えていた。

 如何して私じゃないの。

 如何して……。

 ねえ教えてよ、朝美……如何して私じゃ駄目なの?


 夏休みを目前とした七月の初め、朝美の異変に気がついた。妙にそわそわしていて、顔色も悪い。ぼーっとしていて授業中に先生に当てられても、上手く答えられないでいた。

 何かあったのだろうか。

 もしかして、上城光絡みだろうか。

 それとも、まったく関係のないことなのか。

 はたまた、ただ調子が悪そうに見えるだけなのか。

 考えても考えても、私にはさっぱり解らなかった。声をかけても、上の空だったから、なんだか虚しくなってしまった。

 昨日の夜にメールを送ってみたけれど、返事がくることはなかった。さりげなくそのことを伝えると、ごめん、と一言だけ返されてしまった。

 その「ごめん」にどれ程の想いが込められていたのかは解らない。でも、もうそれ以上問いただす気にもなれず、私はすごすごと引き下がった。


 給食が終わって、昼休み。

 朝美は上城光の手伝いで図書室に行ってしまっていて、この場にはいない。

 私のクラスでは、給食は仲の良い者同士が集まって食べる。他のクラスは決まった班ごとに食べるらしく、羨ましがられた。なんだか人から羨ましく思われるのはとても嬉しく、くすぐったかった。

「この頃、朝美ちゃん、なんだか元気がないねぇ」

 白鳥慧子が眠そうな声で呟いた。背中まで垂らした髪の毛がさらさらと揺れるのを、私は目で追う。

 給食当番を終えてきた長谷川琴理も自分の席に着くなり、うんうんと頷いた。

「悩み事かしらね……心配だわ」

 頬を上品に右手で押さえて、万乗千百合が琴理の頷きにそう返す。

「ちーちゃんが心配するだなんて珍しいねぇ」

 慧子がころころと笑いながら、千百合にちょっかいを出す。

「あらあら、そんなことないわ。わたくしはこう見えて心配性ですもの」

 千百合の腰迄伸びた黒い髪が言葉に合わせて揺れる。それを目で追いながら、慧子がにやにやして言う。

「お嬢様も大変だねぇ」

 そんな二人の会話を遮って、木下茜が声を上げた。

「私もさ、さっき話しかけてみたんだけど……」

「けど?」

「なんだかぼーっとしてて、駄目だった」

「お昼も、食欲なさそうだったし」

 眉をひそめる琴理に、慧子が、

「さてはことりん、朝美ちゃんの残したアセロラゼリーが狙いだなっ」

「ち、違うってば!」

 甘いもの好きの琴理のことだから、あながち間違ってもいなさそうだけれど、ここは黙っておこう。朝美の食欲がないのには、私も気がついていた。

「だったらさ、直接聞いてみれば良いんじゃないかな?」

 茜がぴょこぴょこと小さい身体で主張する。私よりも頭一個分小さいから、見た目は殆ど小学生だ。

「話したくないことだったら、無理に話してもらわなくても良いしね」

 私は彼女の意見にちゃんと返事をしてあげた。彼女は小柄で、声も大きい方じゃないから会話に入ろうとしても気づかれないことがよくある。

 誰かが気づいてやらないと、会話に加われずに一人で落ち込んでしまうのだった。

「亜月は如何思う?」

 私が尋ねると、戸塚亜月はもうすでに昼食を食べ終わっていて、机に頬杖をついてファッション雑誌を捲っていた。

 ふわふわとウェーブのかかった髪をくるくると指に絡めながら、

「うーん、確かに元気がなかったのは見ていて私も思ったけど……原因が判らない以上、対処のしようがないというか……」

 雑誌から目を離さずにそう言った。

「あ、このバッグ可愛い! 欲しいなー!」

 ふいに、雑誌を横から覗いていた北条桜が叫んだ。

「もうっ! みんな真面目に考えよーよ!」

 いまいち纏まらない私たちの会話に、怒った慧子が大きな声で喚く。

 それはとても珍しい光景だった。何かに真剣に取り組む慧子は、初めて見たかも知れない。

「あらあら、珍しいのは白鳥さんの方じゃない。急に何をやる気出しているのかしら?」

 千百合のよく通る声を聞いた途端に、うっ、と言葉につまった慧子は机に勢いよく突っ伏してしまう。机の上に彼女の髪の毛が舞う。

「うあー、やっぱりやる気でないー」

 白鳥慧子は怠け者で有名だった。

 授業中の居眠りは勿論、ホームルームの話し合いにも消極的だし、掃除をサボるなんて日常茶飯事。

 さっきまでのやる気は本当に幻みたいだった。

「まあ、暫くは様子見で。何かあってからじゃ遅いけど、まだ何も起きていないんだから如何にもできないわよ」

 そっけなく言う亜月に、

「亜月の意見に一票」

 琴理が手をびしっと挙げて宣言した。続いて茜と桜も手を挙げる。

 みんなから賛同された亜月は、たいしたことは言ってないけどね、と返した。

「なんにせよ、直接訊いてみないと解らないものね」

 千百合がにこやかに笑って、賛成と言った。

 なんだかんだ言って、みんなきちんと考えているんだなぁ。

 これが私のいるグループのみんな。ここに朝美が加わって八人となる。

 白鳥慧子はいつも飄々とした態度をしているが、何故か男女共に人気があった。

 長谷川琴理は内気だけれど、仲良くなった相手とはよく話すので特に女子に人気が高い。

 万乗千百合はとある資産家の令嬢で、容姿も完璧、生徒からは一目置かれる存在だった。

 木下茜は小柄な体格に愛くるしい顔をしていて、みんなからはクラスのマスコットのように扱われていた。

 戸塚亜月は気取った態度をしているが、内面は優しいということを誰もが知っているので、何かと良い噂を聞く。

 北条桜は友達がとても多く、廊下を歩けば殆どの生徒と挨拶や軽い冗談を交わす毎日を送っている。

 みんな、羨ましいものを持っている。

 私には彼女たちのように魅力的なものを持っていない。

 このグループに如何して私がいられるのかも解らない。

 でも、彼女たちが友達になってくれて本当に嬉しかった。

 これだけは他人に誇れるものだ。


 結局あのあとも朝美に話しかけることはできずに放課後になった。直接聞いてみる、という結論に至ったものの、聞いてみても教えてくれないかも、という意見も出た。メールを送ってみたけど返ってこなかった、と私が告げると、その懸念はよりいっそうのものとなった。

 帰り支度をしていると上城光が私のところにやって来た。

「この頃ね、なんだか朝美の元気がないの」

 彼女はぼそぼそ呟くようにそう言った。俯いて話すから、ひどく言葉が聞き取りづらい。前髪が目元を隠し、懺悔でもしているかのようだ。

 朝美の不調を、彼女も気づいていたのだ。

 なんだか悔しい。

 周りを見渡すと、朝美はもう帰ってしまったようだ。

 幾らなんでも早過ぎると思ったけれど、それも朝美の悩みに起因しているのかも知れない。

 クラスメイトたちの視線を感じる。私が上城光と話しているからだろう。馬鹿らしい。今は朝美の悩みのほうが重要なのだ。

「朝美から、何か聞いた?」

「……ううん、特には」

「そっか」

 まだこの子にも打ち明けていないのか。よっぽど重いことで悩んでいるのかな。

「そう言えば、この前……」

 突然、上城光が顔を上げて呟いた。

「何かあったの?」

「えと、その……たいしたことじゃ、ないんだけど……」

 朝美は上城光に何か言ったのだ。打ち明けたのだ。

 私ではなく、目の前のこの少女に。

 私には言ってくれないんだね、朝美。

「言って」

「でも、えっと……」

「言って!」

「ひぅ……っ」

 つい声を荒げてしまう。肩を縮める上城光。おどおどした彼女の態度が気に食わない。こうしている間にも朝美の身に何かが起こっていないとも限らないのだ。

 喉の奥から、搾り出すように、

「人が生き返ると思うか、って……訊かれ……ました」

 最後は尻すぼみになってよく聞こえなかったけれど。

 人が生き返る?

 如何いうことだろう。

 冗談ではなさそうだ。上城光の表情は真面目なものだった。

 朝美の身に一体何が起こっているのだろうか。

 まったく関係のない質問であれば良い。というよりも、人が生き返るか如何かが彼女の悩みだとしたら、私に何ができる?

 彼女は誰かを蘇らせたいのだろうか。

 今の話だけでは解らないことだらけで、頭がくらくらする。

 目の前でびくびくした視線で見上げてくる上城光が気に食わない。

 そしてそれ以上に、如何して朝美はこの子に自分の悩みを話したのか、ということが気に食わない。

 羨ましい。

 私だって、こんなに朝美を心配しているのに。

 よりにもよって、みんなから疎まれている上城光に話すだなんて。

 上城光がひどく妬ましい。ひどく、羨ましい。

 朝美の一番近くで悩めるということが、ひどく妬ましい。

 それはもう、殺してやりたいくらいに。



 翌朝、駐輪場で上城光と一緒にいる朝美を見つけた。

 グループの子たちと一緒だった。多分、みんなは上城光のことをよく思っていない。

 そんな上城光と朝美が一緒にいるのはあまり好ましい状況ではない。

「朝美!」

 私は叫んだ。彼女を上城光から引き離すべく。

 びくっと肩を震わせて、朝美は私たちに振り向く。

 おどおどとした表情。なんだろう、何かに怯えているような。

「は、遥……え、と、おはよう」

 今日も彼女の顔色は良くない。

 寧ろ悪化しているみたいだった。

 朝美の横では上城光が自転車の鍵を鞄にしまいこんでいた。ピンクの可愛らしいポーチに丁寧にしまいこむ。

 呑気なその動作が、今はひどく苛立たしかった。


 結局、朝美からは何も聞きだせなかった。

 彼女は、大丈夫だから、の一言でこの一件を終わらせた。

 それでも、彼女の顔色は常に悪いままで。私たちは二年生になった。

 クラス変えが行われたけれど、朝美とは同じクラスになれた。琴理と慧子も一緒だ。

 慧子は相変わらずのぐうたらっぷりだ。

「はるかー」

 朝、教室に入ってくるなり私のことを呼ぶ慧子。宿題見せて、といつもみたいに言われるかの思ったけれど違った。

「昨日のホラー特集見た? ポルターガイスト!」

「あー、見た見た。あれでしょ、食器棚の中身が勝手に飛び出すぞ、ってやつ」

「そうそう。すごいよねーっ」

「あんなの、どうせ嘘っぱちよ。私、ああいうの信じてないし」

「ちぇ、冷めた反応だなー」

「あんたには言われたくないわよ」

 慧子はこういったオカルトじみたことには少し熱心だ。何事にも無関心、無気力な慧子には珍しい。

 冷めた反応だということは、自分でも承知している。

 でも、ねえ。ポルターガイストだかウォータークローゼットだか知らないけれど、私はそういった霊的なものを信じてはいない。だって、この身体で体感していないから。幽霊が見えたり、超能力が使えるといった人たちが世の中にいるらしいけれど、如何してか羨ましいとは思えない。きっと、それは私が信じていないからなのだ。

「ポルターガイスト現象はね、思春期の子どもに起こりやすいんだってー。私にもできるのかなぁ」

「そんなわけないでしょ」

 私は慧子との会話にうんざりしてきた。なにがポルターガイスト。なにが超常現象。そんなふざけたこと、あるわけがない。

 ちょうど朝美が登校してきたので、おはようと声をかける。

「おはよう、遥」

 一見、元気そうに見える。でも、違う。私には解る。0°と360°がまったく同じに見えるように。然し、まったく違うものであるように。心のメーターが振り切ってしまったみたいだ。

 朝美はきっと壊れてしまった。パンクしたタイヤのまま、自転車を漕ぎ続けると車輪自体がおかしくなってしまう。朝美はまさにそれと同じ。パンクした心のまま走り続けている。もしかすると、パンクしたことにも気がついていないのかも知れない。

「朝美は昨日のホラー特集、見た?」

 慧子がのんびりした声で言う。間延びした音が眠気を誘う。

 朝美は無言で首を振った。それどころじゃない、とでも言いたそうに。

 如何して慧子は、わざわざ朝美を苦しめるようなことを言うのだろうか。そっとしておいてあげて欲しいのに。

 もし、本当にポルターガイストなんてものが存在するのなら。

 もし、本当に思春期の子どもたちの周りで起こるというのなら。

 超常現象でもなんでも良い。この腐った現実を捻じ曲げて、朝美を苦しみの渦から救って欲しい。

 引きつった朝美の表情を見て、そんなことを思った。


 上城光のクラスには転校生がきたらしい。

 名前は神代闇。女の子だ。名字の読み方が一緒なのが、少し気になった。

 何度か廊下ですれ違ったことがあるけれど、肩口で切り揃えた黒髪と、揺れる水面のような瞳は、何処か上城光を髣髴とさせた。

 あんなのが二人もいるだなんて、厭だなと思った。

 聞くところによると、あの二人はいつも行動を共にしているらしい。どちらが依存しているのかは知らないけれど、いつも一緒にいる、ということを意識すると脳の奥がチカチカしてくる。

 羨ましい。

 そうだ、私はきっと彼女たちが羨ましいのだ。

 去年の仲良しグループを思い出しても、周りの子にはそれぞれ仲の良い人の存在があった。白鳥慧子と万乗千百合。木下茜と北条桜。長谷川琴理と戸塚亜月。

 その関係性が羨ましくて、私は朝美のことを求めていたのだろうか。

 上城光が朝美とうまくやっていたのが目障りだったのではない。ただ、そういった関係に、私は嫉妬してしまっていたのだろうか。

 今となってはもう何も解らない。私は朝美といたい。それだけなのだ。

 でも。

 でも、放課後に上城光が転校生と歩いているところを見ると、つい羨望の目で見てしまう。

 そこに朝美はいないのに。

 厭だ。厭だ。

 私は、朝美が良い。そうに違いない。


 放課後、教室に残って慧子とおしゃべりをしていたら、私の携帯電話が震えた。お母さんからのメールで、夕食に使うものが書かれている。帰る途中で買って来い、ということらしかった。財布を見ると、千円札が一枚と、小銭が数枚入っている。少し買い物をするのには十分な額だ。

「誰からー?」

 慧子が脇から画面を覗き込んでくる。きゅっと右腕にしがみつかれ、彼女の黒髪が揺れて、ふわっとシャンプーの良い匂いがした。背中にかかるくらいに伸ばした、まっすぐな髪の毛。羨ましい。

「お母さん。買い物頼まれちゃった」

「お、じゃあ一緒に帰ろうかー」

「商店街寄ってくから、校門までだけどね」

 ぽんぽんと頭を叩くと、

「おーけー、おーけー」

 そう言って笑って、自分の席まで戻る慧子。

 手早く帰り支度を始める彼女を横目に、私は朝美のことばかりを考える。今こうして隣にいるのが朝美だったらどんなに良いか、と。そんなことばかりを考えてしまう。

「準備できたよー。帰らないの?」

 教室のドアに凭れて慧子が言う。はっと我に返って、私は鞄を掴んだ。

「ごめん、今行くよ」


 橙色に染まる空を、名前の知らない鳥の群れが飛んでいる。

 校門で慧子と別れた私は、一人で商店街を歩いていた。買い物は一通り終えたので、あとは家に帰るだけだ。自転車のカゴに入れた買い物袋がごとごと揺れる。

 学校から家までは自転車で三十分くらい。でも、今日は商店街に寄り道をしたからもう少しかかる。商店街から家までは途中で小さな公園の中を通るのが最短だ。普段から誰もいないし、夕暮れの薄明かりしかないので怖いけれど、遠回りする気にもなれない。

 だけど、今日ばっかりは遠回りしておけば良かったのかも知れない。

 公園のベンチに上城光と転校生の神代闇が座っていた。ただ座っているだけなら良かったのだ。そのまま気づかないふりをして、横を通り過ぎれば良かったのだから。

 でも。

 それは非現実的で、私にはまだ遠い世界の出来事だと思っていた。

 でも、それが、現実として目の前で行われている。

 上城光と転校生がキスをしていた。女の子同士だなんて、と思ったのは一瞬だった。私は無意識の内にブレーキをかけていた。二人に気づかれないように、暗がりから彼女たちを眺めた。

 夜の暗さに溶け込みそうな二人。私たちの制服は黒を基調としているから余計にそう見える。本当にこのまま彼女たちが闇の中へと消えていってしまうような気さえした。

 上城光の白い指が、転校生の頭を撫でた。二人とも、折れそうなほど強く相手を抱きしめる。

 ドクン、と鼓動が跳ねた。

 まただ。

 また私は。

 羨ましいと、思ってしまった。

 上城光と転校生が羨ましい。羨ましい。

 私だって、と気がつけば自分の唇を触っていた。私だって、朝美と……。

 自転車のハンドルを強く握りすぎた所為で、手が痛かった。ぎりぎりと万力を絞るように、私はこの痛みに耐えた。

 ことが済むと、公園の前で二人は別れた。咄嗟に、私は転校生を追いかけていた。知りたい。如何して、上城光なのだろう。それが知りたい。名字が同じだから? 席が近いから?

 太陽がもうすぐ顔を隠す。街頭の薄明かりが転校生の後ろ姿だけは照らしていた。

「ちょっと、待って」

 声をかけると、驚いて彼女は振り返った。肩までの黒髪。上城光と似ている。

 転校生は私の服装から泉ヶ丘の生徒だと判断したのだろう。首を傾げながら、

「何か用ですか?」

「さっき、公園で貴女たちを見たわ」

 単刀直入にそう言った。

 “貴女たち”という言い回しに気づいたのか、転校生は大きく目を見開いた。薄い唇を閉じたり開いたりしながら、言葉を捜している。

「だからどうってことじゃないの。ただ、ひとつ訊きたいのよ」

 そうだ。私の目的は彼女の行いを非難することではない。

「ね、如何して上城光なの」

「……え」

 彼女は質問の意味が解らないのか、ぽかんとしてしまった。

「如何して、あんなのが良いの」

 私には解らない。

 そして、転校生は一言。

「解りません」

 太陽が完全に沈んだ。夜を告げる強い風が吹いた。

「解らない、って。だって、自分のことでしょう」

「そうです。そうなんです……けど、解らないんです」

 解らない、と彼女は何度も繰り返した。

 ふと、私は自分に問いかけた。

 私は如何して朝美が良いのだろうか。

 解らない。なんとなく、朝美が良い、というただそれだけなのだ。

 転校生も同じ気持ちなのだろうか。

「あの、私はこれで!」

 殆ど悲鳴のように叫んで、彼女は走り去って行った。

 黒い背中はすぐに、夜の闇に紛れて見えなくなった。



 ある日、帰り道に朝美を見つけた。驚いたのは話している相手があの転校生だった。如何して朝美と話しているの?

 目には見えない霞のような嫉妬が身体中から溢れ出して来た。

 話し終えると、転校生は歩き去った。きっと私の存在には気がついていない。それは朝美も同じだ。

「随分と転校生と仲良さそうね、朝美?」

 後ろから声をかけると、案の定、私がいるのに今気がついたようだ。吃驚させてしまったかも。

「あの転校生、いっつも上城光といるそうじゃない。全くどうかしてる」

 あれではまるで、一年前の朝美だ。いつもいつも上城光に纏わりつかれて。可哀想な朝美。大丈夫、これからは私がいるから。

「そ、そうだよね! 本当訳解んないよねぇ!」

 朝美が私に賛同してくれる。それだけなのに、なんでこんなにも心が軽くなるのだろう。ふと気になったので、訊いてみる。

「で、何を話していたの?」

「え、えっとあの子に道を訊かれたのよ。転校したてで地理が解らないらしくって」

「へえ……そうなの」

 朝美の慌てぶりが気になった。もしかして……。

 不安に駆られたから、思い切って訊いてみることにした。

「私はてっきり、上城光の話でもしているのかと思った」

「そ、そんな訳ないじゃないの! なんで私があんな奴の話を……」

 朝美の態度が何処かよそよそしい。やはり、何か違和感がある。

 その時、朝美の持っていた携帯電話が震えた。

 彼女は気だるげな目で携帯電話の通話ボタンを押した。短い会話のあと、彼女は電話をしまった。

「誰からだったの?」

「お母さんだよ……妹が死んだんだってさ」

 妹が死んだ?

 話からすれば朝美の妹ということだろう。

 でも……。

「朝美に妹っていたの? 初耳なんだけど」

「あれ、言わなかったっけ?」

「言ってないよ。それに、遊びに行ってもいつも妹さんいなくない? 会ったことないよ」

 まさか、朝美は嘘をついているのかも知れない。

 さっきの電話ももしかしたら上城光からの電話だったんじゃ……。

 それを朝美は隠そうとして……。

「ねえ、今の電話、本当にお母さんからなの?」

「え、それって如何いう……」

「上城さんからの電話だったんじゃないの、って意味よ」

 その言葉に朝美はひどく取り乱した。

「なんで今、あの子の名前が出てくるのよ! 光と夕美は関係ないんだから!」

 その否定の激しさが、電話の相手が上城光だったということを隠すようにしか聞こえない。

 このままではまずい。朝美が本当に上城光と一緒にいたいと思うのは、学校全体を敵に回すようなものだ。朝美をそんな目に遭わせるわけにはいかない。

「もう良いよ、朝美」

 息が荒く、何も言えないでいる朝美に、私は顔を近づけ優しく言った。

「上城光と私、貴女はどちらを選ぶの?」

「遥、信じてよ! さっきの電話は本当に……!」

「ねえ、朝美。解ってるよね?」

 言外に上城光と決別するように告げる。

 これは全て朝美の為なんだ。

 朝美は泣きそうな顔で、渋々頷いた。

 これで私は朝美と一緒に並ぶことができる。

 そして、朝美は幸せな学校生活を送ることができる。

 嬉しくて、涙が出そうになった。



 あの日、朝美ととある計画を立てた。

 それは上城光と朝美を決別させる、絶好の計画。

 そして今日の放課後、階段の踊り場。計画を実行するにはここしかないと思った。

 私たちの学年は帰りにこの階段を通る。それは下駄箱に近いルートだからだ。きっと光もここを通る、と朝美は言った。

 上城光が歩いてくるのを確認して、計画が開始される。朝美は泣きそうな顔をしていた。

「朝美のクラスの上城光さん。なんか陰気で、見てるこっちが厭になっちゃうよ」

 上城光が私たちの視界に入ったところで、私が大声でそう言って開始の合図をした。

 当然、彼女に聞こえないような音量では意味がないので、その声は階段中に響いた。

「あの子、殆ど話さないし、たとえ話してもあの転校生の子だけなんだよね」

「なんかあの二人似てるよね。顔も性格も」

「うわぁ、キモいキモい」

 他の女子連中もここぞとばかりに口々に言う。自然とあの転校生の陰口も混ざる。

 もう私の出番はない。あとは朝美が上手くやる筈だ。

 それまで黙って話を聞いていた彼女が口を開く。

 本番はここからなんだ。

「あの子さ、私と同じ小学校なんだよね」

 踊り場に朝美の綺麗な音が響く。

 私たちと上城光の鼓膜を揺らす。

「だから同じクラスの時は仲良くしてあげていたの。でも、本当は厭だったんだぁ。内気であまり話さないし、一緒にいてもつまらないんだよね」

 本当はそんなことない。きっと朝美はそう思っている。

 ふと、顔を上げて上城光を見ると、両目に涙を一杯に溜めていた。

 私と目が合う。

 澄んだ鏡のような黒い瞳。夜という言葉を溶かしたら、きっとあんな黒さになる。

「なんだ、いたの、光」

 朝美はそれでも言葉を紡ぐのを止めない。

 嬉しい。やっぱり、上城光より私を選んでくれたのだ。

「うそ…………」

 上城光はやっとのことで言葉を発した。

 それはまだ何処かで朝美のことを信じたい、と思う言葉に聞こえた。気の所為ではないだろう。

「嘘じゃないわよ。あんたを友達だと思ったことなんて一度もない。一緒に帰る時とか、私、精一杯堪えていたの」

 朝美と上城光の呼吸が荒くなる。

 ひっそりとした踊り場で、空気が張り詰めていく。

 ごめんね、二人とも。

「同じクラスで小学校も同じだったから、仕方なくだったの……あんたの前で、私はうまく笑えていたかしら?」

 朝美はまだ止めない。それだけ鬱憤が溜まっていたのだろう。今まで辛い思いをしてきたのだから、当然だ。

 上城光は泣く寸前だ。

「あははははははっ! 泣くの? あんたは昔からすぐ泣くよね……私、あんたのそういうところがすごく嫌いだった。見てるとムカつくんだよねぇ。泣いたら先生が助けてくれるとでも思ってんの?」

 周りの子たちも一斉に笑い出す。

「朝美、それ言い過ぎー」

「あはは、でも仕方ないよねー」

 朝美は全てを言い終えると、上城光ににやりとした笑顔を向けると踵を返し、

「行こう」

 と言って私とその取り巻きの子たちと共に去ろうとした。

 朝美が、これで良いのでしょう、という引き攣った笑顔を向けてきた。

 その時、思ってしまった。

 大好きな親友と別れた朝美。

 とても辛そうで、失神しそうになるのを懸命に堪えている彼女の顔は……。

 それはもう、ひどくひどく羨ましく感じた。

 きっと彼女の心の中は真っ黒の悲しみの渦がぐるぐるしているのだろう。そんな暗い感情に私も支配されてみたい。今にも自分の喉もとを掻っ切ってしまいたい衝動に見舞われたい。

 結局、私は最後まで嫉妬したままだ。

 朝美と上城光の絆に嫉妬してしまったのだ。

 だから、私は、

「ごめん、朝美。流石にさっきのは言いすぎだと思うよ……私、ちょっと軽蔑しちゃうな」

 そう呟いた。下等な生き物を見る目で見つめる。

 周りの連中も、置いていかれまいと、必死になって言う。

「そ、そうだよ、朝美」

「上城さん、泣いてたよ。ひどいよ」

「ちょ、ちょっと待ってよ、みんな! みんなだって――」

 朝美の言葉を遮って、顔を寄せて呟く。

「みんなだって、何? 私の友達の悪口を言ったら許さないから」

 冷たいその言葉は、階段の壁に反射して響き渡った。

 そして、取り巻きを連れて歩き去る。

 階段を降り切る直前に、振り向いて告げた。

「じゃあね、成本さん。もう話しかけないで」

 朝美は呆然とした顔で、私を見つめていたけれど、これが親友を手放す時の痛みなのか、と私は心臓に手を当てて考えた。

 気分が悪い。

 倒れそうだ。

 視線が揺れる。

 でもこれで、今の朝美の気持ちに少しは近付くことができたのだろうか。

 彼女たちにあって、私にだけないなんて厭だ。

 ねえ、解って。

 私も貴女たちと同じになりたかったの。

 私も欲しかったの。

 その傷が。


「ねえ、遥。如何して朝美にあんなこと言ったのよ?」

 おずおずと友人が尋ねてくる。

 前を歩いていた私が振り返ると、周りの子たちは驚いていた。

 それもその筈だろう。

「遥、貴女、なんで泣いてるのよ?」

 ぼろぼろと冷たい雫が、両目から零れ落ちていた。

 頬を伝わって、床に落ちていく。

 如何してだろう。涙が止まらない。

 朝美は泣かなかったのに、私は泣いてしまった。

 上城光は泣かなかったのに、私は泣いてしまった。

 泣かない成本朝美が羨ましい。

 泣かない上城光が羨ましい。

 私とは違う。

 如何して?

 如何して?

 如何して、こうなっちゃったんだろう?

 私は彼女たちみたいには永遠になれないのだろうか。

 窓からの風が涙を揺らす。このまま涙を拭い去って、朝美たちと同じように、泣かなかったことにして欲しかった。

 夕焼けに染まる窓の外に視線をやった時、一人の生徒が上から降ってきた。

 上城光。

 それは一枚の絵画のようで。夕焼けに浮かんだ、夜の結晶のようで。

 風に靡く彼女の髪。揺れる瞳。涙。

 なんだ、あの子も私と同じ。

 泣いていたんじゃないか。

 涙で滲む私の目と、一瞬、彼女の目があった気がした。

 泣き腫らした目と、考えの覚束ない頭を抱えて、私は壁に凭れて蹲った。

 何も見たくない。

 何も聞きたくない。

 もう、何も。

 厭だ。厭なのだ。

 生徒たちの喧しい悲鳴がそこかしこで起こる。

 上城光は死んだのかな。

 きっと、死んだのだ。

 死ぬ、という行為も、今の私にはひどく羨ましかった。


 何もかもが妬ましい。

 笑うこと、泣くこと、怒ること。全て、全てが私には妬ましく感じる。

 きっと私は私が嫌いなのだ。

 私には何もないから。

 周りの人が羨ましかっただけだ。

 でも、それはきっと私が嫉妬という行為に羨望を感じていたからなのだ。

 換言すれば、嫉妬に嫉妬していたのだ。

 厭だ。そう思った。

 私はそんな私が厭だ。

 でも、最後に上城光は泣いていた。私と同じ、涙を流していたんだ。

 それを思い出すと、私はひどく安堵する。

 やっと、私は同じになれた。

 それが嬉しくて、悔しくて、とても悲しくて、辛くて。

 だから私は、また泣き始めた。



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