妹
妹の夕美が死んだと聞かされた時、私は手に握った携帯電話がひどく恐ろしい物のように感じた。
目には見えない電話の向こうに、地獄が広がっているのでないか、という恐怖に駆られたからだ。
今朝、元気に学校へ向かった夕美の姿が脳裏に浮かぶ。肩口で揺れた黒い髪。細い髪が風に舞ったのを思い出して、少し寂しくなった。
担任の村中先生に病院まで送って貰った。名前は知らないけれど、先生の車は白いスポーツカーだった。病院までの道は、夕方ということもあってとても混んでいた。なかなか前に進めないことに腹を立てるように、先生の車が唸った。
私は太陽が沈み行く彼方を、助手席に座ってじっと見ていた。あの太陽が沈みきる前に病院に着かないと、もう本当に夕美に逢えないような気がした。
太陽が完全に遠くの建物の奥に沈みこんでから、私たちは病院に到着した。辺りはすっかり暗い。送って貰っておいて申し訳ないけれど、私は先生を置いて車の外へ転がり出た。受付に行くとお父さんが待っていてくれて、厳かな声で「こっちだ」と告げた。仕事の途中で駆けつけたのだろう。少しよれたスーツはいつも通りだけど、余計に力なく思えた。
前を歩くお父さんの大きな背中が、今はなんだか小さく見える。目指すは三階。夕美はそこにいる。
病室には妹の遺体がベッドに転がっていた。病院に特有の、なんとも言えない薬品の混じり合った臭いが気持ち悪い。
信号無視をしたトラックが、横断歩道を渡っていた妹を轢いたそうだ。即死だった。ベッドの脇に夕美の鞄が置いてある。学校指定の小奇麗な鞄も、今はすっかりぼろぼろで。可愛らしい熊のぬいぐるみがついていた筈だけれど、今はそれも見えない。きっと事故の時に外れて何処かへ行ってしまったのだろう。
茫然自失としているお父さん。その隣で、憔悴しきったお母さんがベッドに横たわる夕実に縋りついて泣いていた。慟哭が涙となって、夕美の眠る白いシーツを濡らす。
私は何もできず、何も考えられず、ただただ白い病室の片隅に取り残されていた。お父さんもお母さんも、いつまでもこの場所を離れようとはしなかった。
ここは地獄だろうか。
いや、違う。
厭になるくらい、現実だ。
翌朝、窓から差し込む日の光で目が覚めた。昨夜は遅くなって帰宅して、お風呂に入る気力もなくベッドに倒れこんだ。
そのまま気がつけば朝だった。夢なんて見なかった。いや、見たかも知れないけれど憶えてはいない。
ひとつの命が消えた後だというのに、清々しいくらい綺麗な太陽が昇っていた。
一人分の体温が消えた朝。
それでも、世界は速度を変えずに廻る。
ダイニングに行って家族の顔を見るのが辛くて、何もやる気が起きなかった。布団に包まって暗鬱な心を転がしていると、控えめなノックが聞こえた。お母さんかも。いつもなら私はもう起きている時間だ。起きて来ないから心配しているのだろう。こんな時だからこそ、姉の私がしっかりしなければいけないのかも知れない。
ドアがガチャリと音を立てて開く。閉ざされていた私の部屋に、朝日の匂いが染み込んで来た。清々しいはずの匂いなのに、私の重い気分が変わらない。
「早く起きなさい! 遅刻するわよ」
お母さんの怒声が響き、布団を無理矢理に剥がされた。
違和感のあるお母さんの態度。
夕美が死んだというのに、態度がいつも通りなのだ。おかしい。だって、昨日の今日だよ。普通、もっとショックを受ける筈だ。
仕方がないので寝ぼけた頭をさすりながら一階に下りた。ダイニングにはスーツを着込んだお父さん。新聞を小難しい顔で読んでいる。まるでこれから出勤しかねない様子だ。
お父さんにおはよう、と挨拶すると新聞からは目を逸らさずに、むぅ、と唸った。
お母さんが急き立てるように朝食を出してきた。
食欲ないな……。
「食べたくない、よ」
「何言ってるの、この子は! 本当に遅刻するわよ!?」
解ったからそんなに怒鳴らないでよ、と思った。私は大きな声や音に弱い。怒鳴り声を聞くと、体中が悲鳴を上げて、筋肉が弛緩してしまうのだ。
震える手で箸に手を伸ばす。湯気を立てる温かいお味噌汁と玉子焼き。シンプルだけど、お母さんの玉子焼きはとても美味しい。我が家は毎朝、ご飯だ。友達の千百合は毎朝パンを食べると言っていた。なんだかそれだけで普通と違っていて羨ましかった。
いつもならすぐに食べ始めるのだけれど、昨日の病院での光景を思い出してしまって、どうにも食が進まない。夕美はもう二度と、温かいご飯を食べることができないのだ。そう思うと、ただの白いご飯も美味しく感じられた。
どうにかして茶碗の中身を胃に押し込んでいると、ドアの開く音が聞こえた。お母さんもお父さんダイニングにいるのに、いったい誰だろうか。
ふと視線をそちらにやると、そこにはなんと妹の夕美が立っていた。
寝癖のないセットされた髪。自分の通う私立小学校の制服を着て、手には学校指定の鞄を持っていた。鞄についた熊のぬいぐるみがぶらぶら揺れている。
昨日死んだはずの妹の夕美が、そこにいた。
一瞬、目を疑った。妹を失ったショックから幻を見てしまったのではないかと思ったのだ。でも、これは夢でも幻もなくて、ちゃんとした現実だった。
「……ゆ、夕美?」
「おはよう、お姉ちゃん」
笑顔の妹に、私は喜びではなく、恐怖を覚えた。いや、畏怖の方が近かっただろう。
三日月のようにひん曲がった口元が、見下しているかのような目線が、胸につけた名札の「成本夕美」という文字のひとつひとつが、私に嫌悪感を抱かせた。
胃の中に直接素手を突っ込まれて掻き回されている気分だった。先程、無理矢理に押し込めたご飯と玉子焼きを想像して、余計に気味が悪くなる。
「如何して……」
「朝美! 早く食べてって言ってるでしょう!」
「……は、はい」
お母さんが怒鳴るので、仕方なく残りのお味噌汁をお腹に流し込んだ。その間、夕美は私の向かいに座って、無表情に私を眺めていた。いったい、何が如何なっているのだろう……。
私はその年、中学校に上がった。
自宅からは比較的近い。自転車で二十分弱だから、朝から良い運動にはなる。ペダルを漕いでいる途中、家に起こっている異変について考えた。昨日死んだはずの妹の夕美が生きているということ。勿論、夕美が生きていたことは素直に嬉しい。でも、では昨日のアレは何だったのだろう。
病院の独特の死の匂い。携帯電話の向こうから聴こえたお母さんの泣き声。厳格な父の見せた虚ろな目。
あの痛々しいまでにリアルな光景は夢でなかった。断言出来る。
だとすれば……。
「……死んだ人間が……生き、返った?」
「え、何か言った?」
聞こえてきたのは上城光の声。気がつけば、私はすでに駐輪場に到着していた。考え事に夢中になってしまって、如何やって辿り着いたのか思い出せなかった。
心配そうな顔で覗き込んでくる光に、
「なんでもない。ほら、ぐずぐずしてると遅れるよ」
そう言って、私は少し早足で歩き出す。光は慌てて私のあとを付いてきた。とてとて、という効果音がつきそうな歩き方だ。
光とは小学校からの付き合いだ。悪い子じゃない。でも、何故か周りからは距離を置かれていた。聞くところによれば、暗い、だの動作が鈍い、だの悪い話ばかり。なんであんな子と一緒にいるの? なんて訊かれるのにはもう慣れていた。私は最初、光の悪口は許さないからね、と陰口を叩く者に軽くすごんで見せたりしていたが、この時には殆どしなくなってしまっていた。
それは勿論、私自身が仲間外れにされるのを恐がったからだ。私は私を護る為に、大切な友達を売った。それだけだ。
そんなことを微塵も知らない光は、今日も朝から私にへばりついていた。
まったく、他につるむ友達とかいないのかね……。
「ねえ、光。あんたさ、死んだ人間が生き返ると思う?」
私の突然の質問に、光はうーん、と頭を抱えて悩み始めた。
「どう、だろう……? 死んじゃったら天国か地獄に行くわけだから、帰ってくるなんてことはないんじゃないかなぁ」
と良く解らない理論を語る光。彼女の中には天国だの地獄だの、具体的なイメージがあることだろう。夢のない私とは決定的に違う。
光は何処か夕美に似ている。髪形の所為だろうか。妹のことを思い出して、また気分が沈んでいく。
ふと気がつけば、光と話す私をクラス中が見ていた。
私が周りを見渡すと、クラスのみんなはわざとらしく視線を外したり、他愛無い雑談を始めたりした。
違うんだよ、みんな。私はこいつの友達なんかじゃないから……だから……。
だから、私を独りにしないで……。
一日中、授業に身が入らなかった。終始、夕美のことを考えていた。昼休みに遥がやってきて、
「如何かした、朝美? なんだか元気がなく見える」
と心配してくれた。死んだ人間が生き返るだなんて馬鹿げたことを言っても、余計に心配されるだけだ。遥にこれ以上心配をかけたくない。
「ううん、なんでもないの。ちょっと風邪気味で……」
咳の真似をしたいところだったけれど、すんででやめる。わざとらしくなってはいけない。
「何か悩み事があったら言ってね。私、力になれるか解らないけれど、話くらいなら聴けるから」
遥の癖のある髪の毛が、窓からの風に揺れた。柔らかく舞う黒髪に一瞬目を奪われながら、
「有難う、遥」
私はそう告げた。久しぶりに笑えた気がする。
午後の授業は少しだけ集中できた。黒板の文字を必死にノートに書き写していると、いつの間にか放課後になっていた。
家に帰りたくない、そう思った。夕美にどんな顔で逢えば良いのか解らない。
学校を出てすぐ、携帯電話が震えた。ブー、ブー、というバイブ音が、何かを急かすように騒ぐ。自転車を邪魔にならないところで停めて、胸ポケットから携帯電話を取り出す。
それはお母さんからの着信だった。妙な既視感に囚われながら電話に出ると、
「夕美がね、夕美がっ……!!」
夕美が死んだ。
お母さんはそう言った。確かにそう言った。
これではまるで昨日と同じ。厭だ。
受話器の向こうには地獄が広がっている。そう思った。
翌日、窓から差し込む日の光が鬱陶しくて目が覚めた。
夕美は昨日“また”死んだ。今度はコンビニに強盗が入り、たまたま居合わせた夕美が殺された。
世界が歪んでいた。そうは思っても私に何が出来るわけでもなかったけど。ただただ世界の不条理を受け入れるしかなかった。
でも、この場合の不条理とは「何故妹が死んだのか」ということに憤っているのではない。「何故死んだ妹が生き返ってくるのか」というものだった。
もはや得体の知れない存在となった夕美は、今日も昨日と同様、生き返った。
そして、家族におはようと言うと、あの憎たらしいくらいの笑顔で私を見たのだ。
お母さんに急き立てられて朝食を胃に収めた。朝から不快感をたっぷり溜め込んだ。
学校に着くと、駐輪場には光がいつものように私を待っていた。
上城光。私の、友達。
妹に似た、私の……。
「如何したの、朝美? 元気なさそう」
ぼそぼそと呟くように、それでも私を心配するように話しかけてきた。彼女の肩まで伸ばした黒い髪が揺れた。
労わりの声がとても嬉しかった。そのまま光とどこか遠いところに行きたくなった。
奇妙な妹もいない。光を疎ましく思う同級生もいない。厳しい両親もいない。そんな何処か、遠くの場所へと。
私にはこの子だけがいれば……。
「朝美!」
遠くから私を呼ぶ声がしたので振り向くと、そこにはクラスの友人たちがいた。名前を呼んだのは岡崎遥だった。
クラスには仲の良い者同士の集まるグループが少なからず生じるものだが、遥のいるグループはクラス内のヒエラルキーは最上。つまり、女子なら誰もそのグループには逆らえない。逆らうことがどれほど愚かなことか。
私は一応そこに所属していた。明確にどうこうしたから所属した、と認められるわけではないけど、帰り道に一緒にファーストフード店に寄れる関係は少なくとも友人と呼べるだろう。
グループの一人である亜月の厳しい視線を感じた。如何してそんなやつと一緒にいるの、という視線だった。言葉にされなくても解った。肌がぴりぴりと刺激されたけど、厭な思いに対抗するようにグループのみんなの顔を見た。
岡崎遥。白鳥慧子。長谷川琴理。木下茜。万乗千百合。北条桜。戸塚亜月。
みんなの視線、が。
視線、が。
「は、遥……え、と、おはよう」
なんだかひどく間抜けな感じになってしまった。
七人の視線が私と光を射抜く。
厭な一日がまた始まる。そう感じた。
一時間目の数学、二時間目の家庭科、三時間目の社会、と昨日よりかは集中して授業に臨んでいる。四時間目は理科だ。理科室の黒板にチョークで書かれた「光の性質」という文字。私たちが、普段ものを見ることができるのは光の反射があるからだ、と先生が説明をする。なるほど確かに暗い部屋では本を読むのは難しいな、と私は解ったような気持ちになってノートを書く。
光は直進する。まっすぐ進む。
光は反射する。跳ね返って進む。
光は屈折する。曲がって進む。
いろいろな性質があって、まるで私たちみたいだ。まっすぐ進むときもあれば、あっちに行ったりこっちに行ったりすることもある。
「知ってる者もいるかも知れないけどね、光はこの世界で最も速く進むんだ」
大宮先生が教室を見渡して言った。どれくらいの速さか、みんな解るかい? と続ける。そこかしこであべこべな答えが上がる。ざわつく私たちを制して、先生がチョークを滑らせる。
「光はね、秒速三十万km。と言ってもぱっとしないかも知れないけどね……どれくらい速いかと言うとね、一秒間に地球の周りを七周半もしてしまう程なんだ」
すげえ、という声が男子から上がる。
たったの一秒で地球をぐるぐるぐると。なんてすごいのだろう。
ふと気になって、光に視線をやる。彼女は必死になって板書を書き写している。もしかすると先生の説明も右から左へと聞き流しているかも知れない。
秒速三十万km。
それだけの速さがあれば。私と光は、きっと何処へだって行ける。ぐるぐると世界一周旅行を楽しんで、現実という檻から抜け出せる。
光をぼんやりと眺めてそんな下らないことを考えていると、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
今日の授業はここまで、と大宮先生が言い、号令がかかる。いつもの日常だった。私は何処へも行けはしない。
放課後、委員会の仕事があるけどすぐ終わると思うから、と言って光は図書館に行ってしまった。教室で彼女の帰りを待っていると、鞄の中の携帯電話が震えた。
ああ、またか。
私の心は本当に壊れてしまったのかも知れない。自虐の笑みが自然と浮かぶ。
不安な心を押し潰して、通話ボタンを押した。お母さんの声が告げた。
「朝美! お、驚かないで聞いてね……ゆ、夕美がね、夕美がっ!」
ああ、私の心だけではない。
私が壊れてしまったのだ。
いや、世界も一緒に壊れたのだ。
そう思った。
それでも翌日には妹の夕美は何事もなかったように蘇る。
毎日毎日毎日毎日。時間が巻き戻っているわけではない。ただ、夕美が毎日死んで、毎日生き返る。それだけのことだ。
それはまるで復活の神とか偉大な悪魔のようだった。もはや人間ではない。
それに、周囲の人間はそれに気がついていない。
病院の人間だって、毎日お世話になっているのにも関わらず、私たちのことは何も憶えていないのだ。
そんな日々がもう一年以上続いている。
私は中学二年生になった。
この学校では学年が上がる度にクラス変えが行われる。
光とは別々のクラスになってしまった。違うクラスになったことで、より一層彼女の悪口を聞かされた。その度に私は愛想笑いと共に彼女の悪いところを挙げる。するとクラスメイトたちは笑う。それ言いすぎだよ、と笑いながら言って、また笑う。ふざけんな。
でも、彼女を庇うことなんてもうできやしなかった。何故なら、クラスの中で居心地の良い地位を獲得してしまったから。
幸せ、という目には見えないものが私の手の中にある。それを必死に、落とさないように、なくさないように、私はぎゅっと握り締める。光の手を掴む為には、今あるものを手放さなくてはいけない。そんなこと、私には考えられなかった。
それに私はひどく疲弊していた。得体の知れない妹。相変わらず厳しい両親。そして、光へのいじめ。いじめといっても目立つものではなく、陰口や嫌がらせが主だった。
もう何もかもが厭だった。何も考えたくない。ただただクラスで浮かないようにしていた。
そんな時、光のクラスに転校生がいる、というのを知った。名前は知らないけど、光といつも一緒にいるらしかった。よくもまあ、そんな物好きもいたものだ。最初はそう思ったが、私だって似たようなものだったし、今では彼女の隣に並ぶことすら叶わないのだから、素直に羨ましく思った。そして、頑張って欲しい、と思った。
ある時、帰り道で件の転校生に出会ったことがあった。幸い、近くに光はいなかった。
転校生の容姿に違和感を覚えた。なんだろう、と考えていると、あちらから声をかけられた。
「あの、何か用ですか?」
ついまじまじと見つめすぎたらしい。
私は謝罪の言葉と共に、光の友人であることを告げた。
「光の友達だったんですか! ごめんなさい、なんだか見られていたので驚いてしまって……」
「いや、こっちこそごめん」
間に微妙な空気が流れる。それでも居心地が悪いわけではない。何故だろう。初めて話す相手なのに。
兎に角、言いたいことだけ言ってしまおう、と思った。
「あのね、最近の光はどう?」
「どう、って?」
転校生は首を傾げて尋ねてきた。肩にかかる黒髪が揺れた。
「えっと、落ち込んだりとかしていない?」
そう訊くと、彼女は少し寂しそうな目になって、
「……あの。光は無理しているんだと思います。何かあるのだけど、その何かが言い出せないような。そんな感じで」
そう言った。流石に光も参ってきているということか。
「あの、さ。私が言うのもなんだけど、あの子のこと頼むよ。絶対、離したりしないで。ずっと傍にいてやってくれ」
「貴女は?」
「私は……」
黒い瞳が私の顔を覗き込んできた。私の顔は一体どんな表情をしていたのだろうか。自分で自分の表情が解らない。いつもならすぐに笑顔を貼り付けられるのに。その時ばかりは如何いうわけかできなかった。
転校生は更に寂しげな顔になり、それから何かを決心したような声で言った。
「解りました。私、頑張ってみたいと思います」
それじゃ、と言って転校生は去って行った。
私は……。
飲み込んだその続きを胸中で吐き出す。
私は……もう無理だから。もう友達には戻れないから。
転校生の後姿と歩き方が誰かに重なった。思い出す肩までの黒い髪、暗く黒い瞳。
そう、転校生は光に似ていたのだ。そして、私の妹にも似ていた。あの最悪の妹に。
私も帰ろう、と思って自転車に跨ると、後ろから名前を呼ばれた。
「随分と転校生と仲良さそうね、朝美?」
そこにいたのは遥だった。彼女とはクラス変えをしても同じクラスになれた。今では一番の親友だ。
その遥が冷徹な瞳で私を見てきた。
「あの転校生、いっつも上城光といるそうじゃない。全くどうかしてる」
「そ、そうだよね! 本当訳解んないよねぇ!」
「で、何を話していたの?」
遥の視線と声が、空気を震わせて、私の心を震え上がらせた。
「え、あ……」
不味い。光と仲の良い転校生と話していただなんて、私までいじめの対象になるかも知れない。
不味い不味い不味い不味い厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭厭厭厭厭厭厭厭厭厭厭厭厭厭厭厭!
「え、えっとあの子に道を訊かれたのよ。転校したてで地理が解らないらしくって」
「へえ……そうなの」
眼がすうっと細められる。
遥の可愛らしい唇が開く。
「私はてっきり、上城光の話でもしているのかと思った」
「そ、そんな訳ないじゃないの! なんで私があんな奴の話を……」
私の苦しい言い訳を黙って聞いていた遥だったが、彼女には全てお見通しのようだった。
カチコチに固まっている私のもとへ歩み寄って来て、言った。
「ねえ、朝美。解ってるよね?」
地獄の底から襲来した悪魔みたいな笑みで私を見ている。
ポケットで携帯が震えだした。妹の死の震えだ。そして、私自身の。
厭。
翌朝、勿論妹の夕美は生き返っていた。
黒目がちな瞳。肩口で整えられた髪。
本当に光に良く似ている。そして、あの転校生にも。
私は遥に昨日言われたことを思い出す。
「如何したら良いかぐらいは解るよね? 態度で示すの」
つまり、面と向かって光を拒絶しろ、そういうことだろう。やるしかない。だって、やらなくちゃ、やられるのは私だから。
そして、もうひとつ、電話で夕美の死をお母さんから聞いた時、遥は光かあの転校生からの電話だと思ったのだろう。しつこく内容を聞きたがった。妹が死んだのだ、とだけ教えた。どうだ、ちょっとは同情してくれよ。そう思ったのも束の間、遥は怪訝な顔で訊いてきた。
「朝美に妹っていたの? 初耳なんだけど」
「あれ、言わなかったっけ?」
「言ってないよ。それに、遊びに行ってもいつも妹さんいなくない? 会ったことないよ」
そうして、遥は勘違いをして、今の電話は光か転校生からだと勝手に決め付けてしまったのだ。私が嘘をついているのだと思ったのだろう。
でも、それはもしかしたら嘘なのかもしれなかった。
目の前にいる、毎日蘇る妹は、では一体何者なのだろう。
そもそも、私には妹なんていなかった。記憶のどこを辿っても、妹と過ごした思い出なんて皆無なのだ。今まで何か、記憶に薄い靄がかかっていて、判然としなかったのだ。
この不気味な、夕美という私と一文字違いの名前を持った女は、一体何なのだろう。
「おはよう、お姉ちゃん」
笑顔で挨拶して、夕美が私の部屋に入ってきた。
窓から差し込む光が、夕美を照らした。
近付く妹を突っぱねて、尋ねる。
「あんた、誰なの?」
私の声が空気を張り詰める。夕美は、なんのこと? と言って首を傾げる。
「私に妹なんて、いないわ! だから、あんたは誰なのよ!?」
そう言い切ると、呪縛が解けたように今までの記憶が鮮明に蘇ってきた。私にとって、過去に妹という者は存在しなかった。今ならはっきりと解る。この化け物は、私の妹ではない。
「な、何を言っているの、お姉ちゃん? 夕美はお姉ちゃんの――」
「煩いっ! 黙れっ!!」
怒鳴ると同時に、私は机の上に予め用意しておいた果物ナイフを掴む。
ひんやりと掌に冷たさが伝わる。きっとこの冷たさは私の心だ。
朝日に照らされて輝くナイフはひどく美しかった。
「お前がいるからだ! 光も転校生も、そして夕美! お前らみんな同じ顔して、私を困らせて!!」
「な、何の話? 夕美にはさっぱり解らないよ」
「まだそんなこと言うの!? 黙れって言ってるでしょう!」
彼女の細い手にナイフを振り下ろす。瞬間、真っ赤な血が飛び出る。
顔面蒼白になりながらも暴れる夕美に、容赦なく切りつける。右肩、脇腹、首、頬、太もも、右腕、左肩。踊るようにナイフを振る。その度に赤い血が、ぱっと空中に舞う。
逃げようとした夕美の腕を掴んで、背中に血で汚れたナイフの切っ先を力の限り突き立てる。思っていたよりもずっと深く刺さる。溢れ出る血で、ナイフを持つ手が濡れる。
ううっと短く呻くと、夕美は泣きながらその場に蹲った。破れた制服から血が滴り落ちる。
ああ、部屋の床に血が付いてしまった。汚い。
口から血を流しながら、私を見上げる夕美。震える声で、懇願してくる。
「もう、もうやめてよぅ……痛いよぅ……お姉ちゃん、夕美が悪いことしたなら謝るから……だから、だからもうやめ、て……お願いだから……お姉ちゃ――」
「煩いっ! お姉ちゃんって呼ぶなっ!」
破れた制服から覗いていた、夕美の白いお腹にナイフを突き刺した。じゅぶり、という生々しい音がして、白い肌がナイフを飲み込んでいく。途端に制服が赤く染まり、詰まった蛇口から水が溢れ出すような音を立てて、夕美の口から大量の真っ赤な血が溢れ出す。
「ごふっ、あ、ふ……お、お姉ちゃ……ん……う、あ……っ」
血塗れの汚い顔で。恐怖に占められた瞳で。ボロボロの身体で。
両手でお腹の傷を押さえているけれど、指の間から血が流れ出す。そのじわじわした染み出し方がとても愉快で、私はつい笑ってしまう。
夕美は鮮血を吐きながら、
「痛いよお姉ちゃんお姉ちゃん痛いよお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん痛いお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん痛い痛い痛いお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん……」
呪詛のように紡いでいる。
私はお前のお姉ちゃんじゃない!
私に妹なんていないんだ!!
消えろ消えろ消えろ! 忌々しい忌々しい!!
「黙れ黙れ! お前なんか、どうせ殺しても生き返るんでしょう!?」
「厭だよ……死にたく、ない……よぅ……お、姉ちゃ、ん……」
どさりと鈍い音とともに夕美の身体が床にくずおれる。
壊れたスピーカーみたいな口調は次第に小さくなり、言葉も支離滅裂になり、やがて静かになった。
静寂の訪れた部屋には、肩で息をしている私と、床に転がった夕美の屍骸。
制服はズタズタに破れていて、殆どが真っ赤に染め上がっている。虚ろな眼は虚空を見つめている。妹が死んだ。私が殺した。
日々の鬱憤が晴れていたことに、私は驚いた。人を殺したのに。否、こいつは人間なんかじゃない。得体の知れない不気味な化け物。
それでも、化け物の血は、人間と同じ赤だった。
夕美を殺したことで両親の洗脳も解けたようで、私と夕美の騒ぎはなかったことにされているみたいだった。あれだけ大きな声を出したのだから聞こえない筈はないのだけれど、それでも何も言ってこないのだから、きっと夕美の死と共に記憶も元に戻ったのだ。夕美のいない、本当の世界へと。
ご飯を胃に詰め込んでいると、今日、学校で行うことを考えてしまう。夕美を殺して軽くなった気持ちが、再び重くなった。
授業にまったく身が入らず、放課後は押し寄せる波のように、じわじわと然し確実にやってくる。
西日射す階段の踊り場。計画を実行するにはここしかないと思った。
私たちの学年は帰りにこの階段を通る。下駄箱に近いからだ。きっと光もここを通る。廊下では教師に見つかるかも知れないので、階段に決めていた。職員室へ向かうにはこの階段を通ると遠回りになるからだ。
光が階段を上がってくる。如何して下から来るのか解らなかった。教室から帰るのなら上から階段を下りてくる筈だ。それに、なんだか制服が濡れているようにも見えた。混乱する頭。状況に追いつけない。
「隣のクラスの上城光さん。なんか陰気で、見てるこっちが厭になっちゃうよ」
光が私たちの視界に入ったところで、遙が声を上げる。
始まった。
光に聞こえないような音量では意味がないので、その声は階段中に響く。
「あの子、殆ど話さないし、たとえ話してもあの転校生の子だけなんだよね」
「なんかあの二人似てるよね。顔も性格も」
「うわぁ、キモいキモい」
他の女子連中もここぞとばかりに口々に言う。
光を貶せば貶すほど、高得点が貰えるかのように。
悪口を競う試合のように。
光がこちらを見つめてくる。
言わなきゃ。光の身体が如何して濡れているのか、如何して教室から出てこなかったのかなど疑問は残るけれど、でも、やらなきゃいけない。
本番はここからなのだ。
「あの子さ、私と同じ小学校なんだよね」
踊り場に音が響く。
光の鼓膜も揺らす。
さあ、言わなくては。言わなくては私が、やられるのだから。
さあ。
「だから同じクラスの時は仲良くしてあげていたの。でも、本当は厭だったんだぁ。内気であまり話さないし、一緒にいてもつまらないんだよね」
本当はそんなことない。思ってもいない言葉が口から飛び出す。
ふと、顔を上げて光を見る。
私と目が合う。綺麗な瞳だった。でも、何処か違和感がある。
それはきっと光が夕美に似ているからだ。私は夕美だけでなく、光まで傷つけようとしている。
精一杯醜悪な声で言う。
「なんだ、いたの、光」
泣きそうになるのを堪えなくてはならなかった。上手く笑えていない。
涙を流す部分がまだ私の心に残っていたことに、少しだけ救われた。
「うそ…………」
光はやっとのことで言葉を発した。
それはまだどこかで私のことを信じたい、と思う言葉に聞こえた。
「嘘じゃないわよ。あんたを友達だと思ったことなんて一度もない。一緒に帰る時とか、私、精一杯堪えていたの」
呼吸が荒くなる。
目の前がぐらつく。
ごめんね。
「同じクラスで小学校も同じだったから、仕方なくだったの……あんたの前で、私はうまく笑えていたかしら?」
私は泣きそうになった。
視界が滲み、歪む。
「あははははははっ! 泣くの? あんたは昔からすぐ泣くよね……私、あんたのそういうところがすごく嫌いだった。見てるとムカつくんだよねぇ。泣いたら先生が助けて呉れるとでも思ってんの?」
周りの子たちも一斉に笑い出す。
「朝美、それ言い過ぎー」
耳に障る。
「あはは、でも仕方ないよねー」
ふざけるな。
私はにやりとした笑顔を光に向けると踵を返し、
「行こう」
と言って遥とその取り巻きの子たちと共に去ろうとした。心を抑えるのも、限界が近い。
後ろで、階段を駆け上がる音がした。きっと光は泣いてしまうだろう。私は友達にとてもひどいことをした。
でも、これでみんなに、遥に認められる。
そう思うと、自然と強張っていた表情が緩んだ。
遥に、これで良いのでしょう、という思いで笑顔を向けた。
すると、彼女は、
「ごめん、朝美。流石にさっきのは言いすぎだと思うよ……私、ちょっと軽蔑しちゃうな」
そう呟いた。下等な生き物を見る目で見つめてくる。
周りの連中も、置いていかれまいと、必死になって言う。
「そ、そうだよ、朝美」
「上城さん、泣いてたよ。ひどいよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ、みんな! みんなだって――」
私の言葉を遮るように、遥がずずいと近寄ってきて、
「みんなだって、何? 私の友達の悪口を言ったら許さないから」
きっぱりと宣言された。
そして、取り巻きを連れて階段を下っていく。
階段を降り切る直前に、振り向いて告げた。
「じゃあね、成本さん。もう話しかけないで」
世界が歪んでいる。そう思った。
その時、携帯電話が震えた。厭な予感がする。厭だ。出たくない。夕美は死んだ。生き返っていない。死んだんだ。
恐る恐る携帯電話のディスプレイを見る。知らない電話番号だ。
震える手で通話ボタンを押す。
耳に響いてきたのは、聴き慣れた声。
「バイバイ、最低最悪くそったれのお姉ちゃん」
光が屋上から飛び降りたのを知ったのは、それからすぐのことだ。




