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~登場人物紹介~


上城光かみしろひかり:主人公。内気な性格で、周りからはあまり良く思われていない。

 神代闇かみしろあん:光のクラスにやってきた転校生。光と仲が良い。


 成本朝美なるもとあさみ:光と同じ小学校出身。長い髪をひとつに結んでいる。

 岡崎遥おかざきはるか:朝美と仲の良い少女。肩口で撥ねた髪が印象的。

 白鳥慧子しらとりえこ:いつもやる気のない少女。千百合と同じ小学校出身。

 万乗千百合まんじょうちゆり:お金持ちの家に住むお嬢様。慧子と同じ小学校出身。

 長谷川琴理はせがわことり:ふたつに髪を縛っている。亜月と仲が良い。

 戸塚亜月とづかあづき:クールな少女。ふわふわな髪が特徴的。琴理と仲が良い。

 木下茜きのしたあかね:短い髪の、背の小さな少女。桜と仲が良い。

 北条桜ほうじょうさくら:明るい性格の少女。茜と仲が良い。


 及川小乃未おいかわこのみ:成績も容姿も良い少女。光とは二年間同じクラス。

 岸辺栄子きしべえいこ:小乃未と同じく、成績、容姿ともに良い少女で、光とは二年間同じクラス。

 金森優花かなもりゆうか:光のクラスメート。ひとつ前の席に座っている。

 福永美咲ふくながみさき:光のクラスメート。活発な少女。

 大島三葉おおしまみつば:光のクラスメート。あだ名は『ミツ』。

 水鳴瞳みずなりひとみ:図書委員会に入っている少女。大人しい性格。

 草巻桃片くさまきももひら:三年生。給食委員会委員長。

 倉木小夜子くらきさよこ:三年生。図書委員会委員長。

 巡来未めぐりくるみ:髪の長い少女。落ち着いた性格。

 いつも通りの教室。

 四十一人分の机と椅子。

 チョークの線が消えた黒板。

 うっすら砂埃に汚れた窓ガラス。 

 いじめをなくそう!と書かれた壁の掲示物。

 いつも通りの教室で、息の詰まる教室で、私は必死に呼吸をする。

 一年生の時となんら変わらない。教室なんてみんな同じだ。全てがいつも通り。

 ここに、私の居場所はない。

 周囲の喧騒から身を隠すように、先生から渡されたプリントに視線を落とす。今日の予定が書かれていて、朝のSHRのあとに体育館で始業式があるらしい。先程から六回も目を通したのでいい加減に飽きてしまった。

 上級生としての誇りを持とう、という文章が少しだけ薄く印刷されてしまっているのが気になる。今年から私も二年生だ。去年とはまた違った生活が始まるのだ。続々と教室に入ってくる子たちの顔を見ると、その実感が沸く。

 ああ、私はここで、独りぼっちなんだ。知らない顔。知ってはいるけれど、話したことのない顔。

 溜息が漏れる。

 時間が経つにつれて席が埋まっていく。自分自身の居場所とはまた違う。決められた位置。先生たちから見た、私たちの座標。本当の私たちの「席」はこんなふうに目で見えるものじゃない。目では見えないけれど、確かに存在していて、それゆえに私を悩ませる。生徒で犇くこの狭い教室の中で、私は何処に座れば良いのだろう。

 判らない。

 ちっとも、判らない。

 周囲にはとりとめのない会話が溢れている。「知ってる? 三組の北原が――」「英語の長岡ってさぁ――」「――屋上の鍵が壊れてるんだって」「昨日のテレビで――」「見てみてー、新しいケータイ買って貰えたんだ――」溢れる。溢れすぎて、私の鼓膜はもう限界。疲れたって言っている。噂にもならない他愛のない会話。社交辞令。そういったもので溢れている。小さな教室の中はもう歩く隙間もない。


 チャイムが鳴ってSHRが始まる。担任の川嶋先生は去年、この学校にやってきた英語の先生だ。今年で二十五歳になる先生は、化粧っ気がなく明るい。教壇に立つ川嶋先生は去年よりも落ち着いていて、ちゃんとした「先生」だった。見ていて安心できる。先生が出席を確認していく。

「上城さん」

 名前を呼ばれて、ぼんやりと顔を上げて返事をする。今日初めて声を出したのでおかしな具合になって恥ずかしかった。川嶋先生は構わず出席を取る。

 頭を上げて気がついた。私のひとつ前の席には、誰も座っていなかった。

 いったい誰だろう。ふたつ前に座る髪の長い女の子は、確か金森さんだ。去年同じクラスだった。話したことはないけれど、席が近かったので憶えている。金森と上城の間に入る名字の子か……。なんという名字の子だろうか。両手で数えられる人数しか話したことのない私が考えたところで、答えが出る筈もなかった。

 そんなことをぼんやりと考えていると、川嶋先生はにこにこしながら、

「もう知っている人もいるかも知れませんが、このクラスに新しく転校生が来ます!」

 クラスを見渡す。その転校生は登校するのが少し遅れてしまっているらしい。そんな説明を先生がしていると、教室の扉を控えめにノックする音が聞こえた。きっと転校生だ。入ってきて、と先生が呼ぶ。どんな子だろう。その子は私の前の席に座るわけだから、仲良くなれたら良いな。そう思った。


 黒板に書かれた文字を見て、私は少し驚いた。

 それは勿論、ただの偶然であるかも知れないのだけれど。それでもなんだか運命的なものに感じてしまった。

 女の子の名は神代闇。神様の神に時代の代、そして真っ暗闇の闇で、と書いてカミシロ アンと読むらしい。

 肩まで伸ばした、濡れているように黒い髪。

 大きく、そして深淵の暗さを湛えている、黒い双眸。

 すっきりとした顔立ちで、どこかで見覚えのあるような顔だった。懐かしい感じがする。

「えと……神代闇です。ど、どうぞ、これから宜しくお願いします」

 短い挨拶。それが、転校生カミシロ アンの最初の言葉だった。さらさらと夕凪の海に風が吹いた時みたいな音。ゆっくりと鼓膜を震わせる声。神代さんの座る席は、予想通り私の前の席だった。黒を基調とした制服を、ぴしっと身に着けた彼女が、こちらに近づいてくる。

 膝のお皿を隠すくらいの長さのスカートが、ゆらゆら揺れる。まるで神代さんの気持ちを表しているみたいで。

 自分の席に辿り着くと、神代さんが口を開いた。

「よろしく、お願いします……ええと」

 少し戸惑ったような声でそう言った。黒く光る瞳が可愛らしい。

「光……カミシロ ヒカリです」

「よろしく……カミシロさん」

 私の名字は、漢字こそ違うけれど、読み方は神代さんと同じカミシロだ。

 上という字に城、そして太陽とかの光で、上城光。光という名前は、私には重い。周りの人々を照らせる存在にはきっとなれない。自分自身の足元さえ、真っ暗で見えないと言うのに。

 神代さんはぎこちなく私に笑いかけると、自分の席にすとんと腰を下ろした。肩まで伸ばした髪が揺れて、ほんのり懐かしい匂いがした。

 私の通う市立泉ヶ丘中学校では、一年生から二年生に進級する際にクラス替えが行われる。そのクラス替えの所為で、一年生の頃にいた数少ない私の友人たちはこのクラスにはいない。新学期の何処か浮かれた空気は、吸い込むと肺の奥底にでっぷりと溜まり、吐き出すことはできないみたいだった。気分が重い。


「クラスが変わって、また、転校生の神代さんを迎え、新しい生活の始まりです。その生活に慣れることができるか、友達と仲良くやっていけるか……心配な人もいるでしょう。でも、安心して。今、みんなが同じスタート地点に立っているんです。みんなが同じように不安で、同じように新しい生活に期待しているんです。このクラスのみんなが早く仲良くなれることを、先生は願ってます」

 言い切った川嶋先生は、自分の言葉に浸っていた。周りを見れば何人かの生徒はしきりに先生の言葉に頷いていた。綺麗な言葉に酔っているのだ。

 勿論、先生の言葉通りになれば、私だって嬉しい。でも、先生の言うような『みんな仲良く』というのはなかなか難しい。それは、先生という立場の人が目指すものなのだろう。永遠に設定され続ける、究極目標。叶うことのない、理想……。

「さて、クラス全員が揃ったところで、出席番号の一番早い、浅黄さんに号令をして貰いましょうか」

 そう言われた浅黄さんはしぶしぶ、きりーっつ、きょうつけー、れー、というおざなりな号令をかける。周りのみんながそれに倣う。目の前の神代さんも、慌てて礼をする。私もそれに遅れないように礼。身体に染みついた習慣は、どんなにそれが不完全でも律儀に反応する。だらっとした挨拶に、川嶋先生は少しだけ眉をひそめたけれど、何も言おうとはしなかった。

「おはようございます」

 きちっと揃わない朝の挨拶はこうして終わった。

 新学期が始まる。



 時間が経つにつれてクラスは打ち解け合っていったけれど、私はどうもクラスの人たちとは上手く馴染めないでいた。それはアンも同じのようで、彼女も馴染めていないようだった。その為、私は休み時間にはアンと話すことが多かった。いや、正確にはアンと話すか、次の授業の準備をしてぼうっとして過ごすかのどちらかしかなかったのだけれど。

 溜め息が知らず知らずの内に出る。

 はあ……。

 一年生の時は、同じ小学校出身の人がクラスにいたのでその子と行動を共にしていた。成本朝美という名前の、私の友達。朝美は快活明朗な子だから、いつも彼女の周りには友達がたくさんいた。人一倍思いやりがあって、一緒にいて安心する存在だった。朝美の周りの子たちといると、私もその友達の内の一人なのだ、と思えて、とても嬉しかったのだ。 朝美のお陰で私にも幾人かの友達ができたけれど、今のクラスにはいない。ひどく気分が沈む。

 朝美なら……。

 あの子なら、また一年前のようにたくさんの友達に囲まれているのだろう。

 羨ましい。そう思った。

 私の周りには何もない。あるのは教室の喧騒と、周囲からのちくちくと刺さる視線だけ。いっそのこと見ないでくれれば助かるのに。私など空気のように扱ってくれればそれで済むじゃないか。勿論、そんなことは思っていても言えず、ただただ息苦しい教室の中で小さくなるしかなかった。

 そんなふうに一人で塞ぎこんでいると、前の席のアンがくるりと振り向いて、私に話しかけてきた。

「何かあったの、ヒカリ? 元気ないけど」

 いつしかアンは、私のことをヒカリと呼ぶようになった。私も彼女のことをアンと呼ぶ。彼女は私以外の人を、必ず名字で呼んでいるみたいだった。つまり、彼女が下の名前で呼ぶのは私だけ。なんだかそれはとてもくすぐったくて、同時にとても嬉しいことだった。アンは、私にとってのかけがえのない友達なのだ。

「ううん、大丈夫。ちょっと寝不足なだけっ」

 私は努めて明るい口調で言った。久しぶりに声を出すから、調子がおかしくなっては堪らないので、ばれないようにしたのだ。

「そう、なら良かった」

 アンは安堵の表情を浮かべて、胸を撫で下ろした。

 声のおかしな調子が、気づかれた様子はない。

 私たちは授業中には勿論お喋りなんかはしないし、休み時間になっても会話をすることは一日の内にそれ程あることでもないから、学校では殆ど声を発さない。周りの女の子たちは如何してあんなに大きな声で話すのだろうか。私にはよく解らない。大きな声で廊下の端から端まで、自分の思いを届かせることができたなら、私にももっと多くの友達ができるのだろうか。

 でも。

 でも、私にはアンがいる。いつもそばにいてくれる。私とアンとの間にある距離は言葉など要らないくらいに、近いものになっていた。距離が遠ければ遠い程、大きな声を出さないと相手には伝わらないけれど、今の私たちにはそんな離れた距離なんてない。

 言葉なんて必要ない。そう、思った。



 ある日、英語の授業で長岡先生に指名された。長岡先生は五十歳を目前とした男の先生で、影で髪が薄いことを馬鹿にされているのをよく耳にする。私もこの先生をあまり好きになれなかった。

 黒板に踊る異国の文字が、私の前に立ちはだかる。白く武装した凶器。必死に頭の中で答えを探っても、一向に正解が浮かぶ兆しはなくて、

「……解りま、せん」

 と正直に、小さな声で答えた。

 一年生の頃から、英語と社会が苦手だった。何故かは解らないけれど、苦手なのだから仕様がない。得意なのは国語だ。物語を読むのは楽しい。ここにはないもうひとつの現実が、本の中にはあるから。物語の中では私は私であって私でなくなる。それが、ひどく心地良いものだったのだ。

 ぼんやりとそんなことを考えていると、長岡先生はいつものように厭味ったらしくねちねちと、

「まったく、こんな簡単なことも解らないで如何するんだ? 一年からまたやり直すか」

 教室中がどっと笑い出した。私は顔が真っ赤になって、汗だくになった。悪意のない笑いもあるのかも知れない。でも、今の私には何もかもが耐えられない。みんなの視線を感じる。氷でできた矢のように、その視線は四方八方から私の身体に容赦なく突き刺さる。肩やお腹に、ぴりぴりとした痛みが走る。呼吸がしづらい。水の中に放り込まれた小動物のように、私は必死に酸素を吸った。

 不可視の海、溺れる。

 厭だ。

「もう良い、座りなさい」

 先生は呆れた声でそう言うと、他の人を指した。その子はすらすらと淀みなく答える。長岡先生は満足して笑顔になった。

 私は堪らなくなり、じっと教科書を読む振りをした。動くことさえ儘ならない。一挙手一投足がクラス中の視線を浴びるみたいで、怖かった。羞恥で耳の先まで真っ赤に染まっていることだろう。英語の授業は、私の気持ちを無視してどんどん先に進んでいく。黒板の上を這う、白チョークの不規則な音が、淡々と聴こえるだけ。

 視線は上げられない。

 もう指されたくない。

 厭だ。

 厭だ厭だ。

 教科書に印刷されているアルファべットたちが淡く、滲んだ。


 授業が終わると、及川さんと岸部さんが私の席までやって来た。ちょうどその時、アンはトイレに立っていていなかったので、この場には私と及川さんと岸部さんの三人きり。

 胸がドキドキした。

 この二人は、クラスの女子の中でもトップクラスに頭の良い子たちである。

 どちらも、髪の毛は黒く、長く、毛先まで手入れが行き届いている。端麗な容貌に、頭脳明晰。私のような人間などが、なろうと思ってなれるような人種ではない。

 多分、私のことなど空気とすら認識していないだろう。でも、でもである。そんな二人が、わざわざ私のところまで話に来てくれたのである。どんな話をされるのだろうか。もし、万が一、ううん、億が一にも……友達になろう、とか言われてしまった暁には私は冷静でいられるだろうか。休み時間を一緒に過ごしたり、授業中に他愛無い内容のメモが回ってきたりするのだろうか。そうしたら是非、アンとも仲良くなって欲しい。この幸せをアンにも分けてあげたい。

 そんなことを想像すると、私はとても嬉しく、

「邪魔だから」

 という及川さんの言葉が初め、理解できなかった。脳が麻痺してしまったみたいで。

「……え」

 私は、漸くそれだけを絞り出した。

「だから、授業の邪魔なのよ、あんた。あんたみたいな馬鹿がいるとね、授業の進度が遅くなって、クラスのみんなに迷惑がかかるの」

 邪魔。

「解る? 解るよね? 貴女はこのクラスでは邪魔者なの」

 邪魔者。

 邪魔……私が、邪魔……。

「なんとか言ったら如何なのよ。謝ることもしないの?」

 岸辺さんの口が音を紡ぐ。

 ぎちぎちと錆びついた首を廻す。教室を見渡す。


 みんなの、視線が。


 視線、が。


 その時、始業のチャイムが鳴り響いた。

「行こう、栄子」

 及川さんが岸部さんを連れて、席に戻った。他のみんなも慌てて席に着く。

 数学の林先生が来る数秒前に、アンは戻って来た。

「大丈夫? 顔色、悪いよ」

 アンは心配そうに私の顔を覗き込んだ。

「うん、大丈夫、だよ……」

 不安げなアンをよそに、数学の授業が始まった。

 幸い、数学では問題を当てられることはなかった。

 放課後、アンとは一緒に帰る。

 二人で教室を出る時、後ろでこそこそと話す声が聞こえた気がした。


 学校は丘の上にある。帰りは校門前の坂を下りなくてはならない。その坂は丘を囲むようにぐるっと渦を巻く形になっている。両側には歩道があって、最近工事をしたばかりで、綺麗に舗装されていて歩きやすい。私はアンと違って自転車で登校している。彼女と歩幅を合わせるように、自転車を押しながら歩く。からからと車輪が回る。その音がやけに寂しく聞こえた。

 地球は太陽の周りを回りながら、自身も回転しているらしい。その音も、こんなふうにからからと寂しげな音なのだろうか。それを他の星たちはいつも聴いているのだろうか。遠くの空に耳を澄ましてみても、残念ながら何も聞こえなかった。青い空に飛行機が一機走っていた。

 街が一望できる丘を、私とアンは無言で歩く。辺りには誰もいない。

 知らず知らずの内に溜息が出てしまう。今日の出来事を思い出す。厭な気分だ。英語の授業に始まり、その後のクラス全体の視線。明日から、どんな顔をして教室に行けば良いのだろう。

 隣を歩くアンも、いつも以上に口数が少ない。いけない。アンにまで辛い思いをさせたくない。でも、如何すれば良いのだろうか。まずは私から何か話題を……ああ、でも元々口数の少ない私に何ができるだろう……。

 クラスにいる明るい子たちはいつも会話を止めない。何をそんなに話すことがあるのだろう、と昔から不思議に思っていた。私には会話する能力がない。何を話したら良いのか、さっぱり判らない。昨日見たテレビの話題やアクセサリーの話をする女の子たちを見て、とうてい私にはついていけないと思った。小学校の頃は一生懸命テレビドラマを見たり、流行の曲を聴いたりして、話題に乗り遅れないようにと思っていた。でも、途中からそういった生活に嫌気がさして。必死に縋りつこうとする自分がどうにも厭になった。中学校に上がる時には、周りの話題に一切ついていけなくなった。

 アンがふと口を開いた。

「ねえ、ヒカリ。本当のことを言って。如何して貴女は、そんなに苦しそうなの?」

 じっと私を見つめるアン。

 全部解っていたのだろう。私が何かを隠していること。

 もう迷いはなかった。本当はアンを巻き込みたくなかったけれど、切実な目で見つめてくるアンに嘘はつけない。つきたくない。

「実はね……」

 私は英語の授業の後に起きたことについて、アンに話した。自分で話していて、とても情けなくなった。アンは黙って私の話を全部聴いてくれた。話し終える頃には、私たちは寂れた公園まで来ていた。どちらが言い出した訳でもなく、ただ会話に夢中になっていたら自然と辿り着いていた。こうやって宛てもなく、アンと一緒に歩いていきたい。たとえ何処へ辿り着こうとも、アンと一緒なら私はそれで満足だ。

「そう、だったんだ……」

 明らかにショックを受けたように、アンが溜息をつく。何もアンが傷つくことなどない。全部、全部私が悪いのだから。二人で腰を下ろしたベンチ。ペンキが所々剥がれている。

「でもね、アンに話せて少し楽になったよ。ありがとう、アン」

 私はアンに明るく言った。

 本心だった。

「私ね、アンと一緒にいると安心する。出逢ってから、まだあんまり経ってないのに、如何してだろうね……なんだか、もっとずっと前から、私とアンは一緒だった気がするよ」

 普段の私なら、絶対にこんなことは言わない。相手を困らせるだけだ。だって、意味が解らない。でも、今のアンになら話しても良い気がしたのだ。

 アンと出逢ったのは、四月の始業式の日だ。なのに、なんだろうこの気持ちは。本当は遠い昔に彼女に出逢っていたのではないか、と思ってしまうのだ。

 アンは泣きそうな顔だった。形の良い眉を歪めて。

「如何したの、アン?」

「ううん、なんでも、ないよ」

 なんでもない、というようには見えない。アンは何かを隠している?

 誰にだって、秘密のひとつくらいあるだろうけれど。でも、なんで。

 なんで、アンはこんなにも泣きそうなんだろう。

「アン……」

 私の声が虚しく空気に溶ける。アンには届いたのかな。彼女の鼓膜を震わせる前に、私の言葉は消えてしまったのかも知れない。

「大丈夫。ほんとに、大丈夫だから」

 自分に言い聞かせるように、アンは大丈夫と繰り返す。細い肩が少し震えている。アンも何かに怯えているんだ。揺れる黒い瞳と、肩までの黒い髪を見ていたら、ぐっと胸が締めつけられた。隣に座るアンがとても大切に思える。

「アン」

 もう一度彼女の名前を呼ぶと同時に、私はアンの身体を抱きしめていた。華奢な身体。強い風が吹いたら折れてしまいそうなくらい。

 こんなにも、アンの身体は小さくて頼りない。そんな彼女に、私は全てを委ねていたんだ。こんなのって、ないじゃないか。悪いのは私だ。アンが不安に押し潰されそうになるのも当然だ。

 ぎゅっと背中に回した腕に力を込める。目を閉じる。風が吹いて、私たちの髪の毛を弄ぶ。アンの匂いがする。アンが今こうして私と一緒にいてくれることがとても嬉しい。背中にアンの手が回されて、彼女の体温を感じる。心の中に温かいものが溢れていく。

「……ヒカリ?」

 当惑した声のアン。目を開けてアンの顔を見つめる。潤んだ黒い瞳。すっと通った鼻梁。少しだけ朱が差した頬。

 アン。

 私の、私だけの、アン。

 伝えたい。心の中にわだかまる色んな想いを。でも、言葉にした瞬間に価値を失ってしまいそうで。

 だから、私は――。

「アン」

 再び彼女の名前を呟く。なに、と彼女がこちらを向く。私はアンの小さな唇に、自分のそれを重ねた。

 初めてのキスは、私に安心をもたらした。彼女の柔らかい唇の感触を感じる。温かい。こんなにも人は温かいものだったんだ。女の子同士でキスをするだなんて、私はいよいよおかしくなってしまったのかも知れない。でも、止められなかった。アンを励ますのに最適な言葉を、私は知らないから。ただ、こうするしかなかった。

 アンの手が私の頭を撫でる。時折当たる爪の硬い感触がまた気持ち良い。彼女の名前を呼ぶ。アンも私の名前を呼んでくれる。嬉しい。とても、とても。

 ここが私の居場所。

 アンの隣。私とアン、二人でひとつ。

 私たちは今、ひとつになった。

 アン……。

 唇を放すと、私たちはおでこをくっつけて照れくさそうに笑い合った。アンを抱く腕に、力を入れる。放したくない。私はアンとずっと一緒にいたい。

「アン、ずっと。ずっと一緒にいよう」

 アンは瞳の端っこに浮かんだ涙を拭って、うん、と大きく頷いた。その笑顔がとても可愛くて、私はまたアンに口づけをした。私たちに言葉はいらなかった。ただ、こうして触れ合うだけで、想いは伝わるんだ。


 次の日、いつも通りの時間、ホームルームの始まる十五分前に学校に着いた。

 気分は沈んでいた。周りの人の視線が万力の如く私の心を締め付ける。

 教室に着くとアンはすでに席に座っていた。私が声をかけると笑顔でおはよう、と返してくれる。昨日のあれを思い出して、私は少し赤くなった。勢いとはいえ、アンとキスをしたのだ。あの柔らかい感触は今も唇に残っている。

 アンの笑顔を見るだけでさっきまでの暗い気持ちは和らいでいく。今日も一日、頑張ろうという気持ちになる。とても不思議だ。笑顔という魔法がこんなにも素晴らしいものだったなんて。

 授業が始まって、相変わらず及川さんたちの視線が怖い。でも、目の前に座るアンの背中を見ているだけで、心の中にじんわりと温かいものが広がっていく。それだけで私は満足できる。黒板に書かれた文字を必死にノートに書き写す。周りの視線は、いつしか気にならなくなった。

 ありがとう、アン……。


 昼休み、トイレに行こうと廊下を歩いていると、目の前に朝美がいた。懐かしい。逢うのはクラス替えをしてからは初めてのことだった。一年生の頃は一緒に自転車で帰ったものだけれど、最近ではしなくなっていた。

 なんだか、元気がなさそうにも見える。朝美も新しいクラスに馴染めていないのだろうか。

 勇気を出して手を振ってみたけれど、それは朝美がちょうど教室に入っていくところで。彼女は気がつかない様子で、そのまま教室に入っていってしまった。振り翳した手が所在無げに揺れる。少し、恥ずかしくなった。

 普通の子なら、大きな声で名前を呼んだり、自分から駆け寄ったりするのだろう。でも、私にはできない。自分の所為で誰かに迷惑をかけるのではないか、と思うとなかなか行動できない。昔からそうだった。思ったことも口にできず、そのままにしてしまうことがよくある。良くないことだとは思っているけど、できないものはできないのだ、と半分諦めてもいる。

 朝美と話がしたい。上げていた手をだらりと下ろして、そんなことを考えた。


 六時間目の授業が終わると、掃除の時間だ。

 教室掃除は大変だ。非力な私には椅子が載った机を持ち上げるだけで腕がぷるぷる震えてしまう。教室掃除の人数は七人しかいないので、机を運ぶ人、床を掃く人、床に雑巾をかける人、と分けられている。私はその中でも一番大変な机を運ぶ役割。中に教科書がたくさん入っている机はとても重く、その重みに軋む指が悲鳴を上げる。歯を食いしばって、机を教室の後ろへと運んでいく。

 いつもなら誰かに手伝って貰って一緒に運ぶのだけど、今日はそうできなかった。アンは雑巾の係りだし、頼むことはできない。

 机の脚を引きずらないように、気をつけながら後ろへ下がっていると、何かに足がぶつかった。後ろを確認していなかった私が悪いのだ。それは水の入ったバケツで、ぶつかった拍子に倒れてしまった。私自身も咄嗟のことに反応できず、そのまま机ごと転んでしまう。

 床に水が零れる音と、机と椅子が倒れる音とが混じり合った。バサバサと音を立てて机の中身も散らばり、尻餅をついた私に降りかかった。

「ちょっと、あんたなにやってんのよ!」

 大声で怒鳴ったのは金森さんだ。この机は彼女のものなのだ。机の中にあった教科書やノートが、水で濡れた床に散乱してしまった。

「ゆーちゃん大丈夫? これ、びしょびしょ!」

「うわあ、ひどいねこれは!」

 周りの子たちも悲鳴を上げる。そんな中私は、体の上にのしかかる机を、どかして良いのかさえ判らずにただ呆然とする。ああ、如何したら良いのだろうか。零れた水で、制服はあちこちびしょ濡れだ。

「ごめ……なさい……」

 消え入るような声でそう言ったけれど、きっと彼女たちには聞こえていない。金森さんへの同情の視線。私への非難の視線。ちくちく、刺さる。

 床には萎れた教科書。ページの開いたノートには、金森さんの整った文字が濡れて滲んでいる。

 びしょびしょなのは私も同じで、とても惨めだ。床に打った身体も痛い。

「ヒカリ!」

 アンが雑巾を投げ出して、遠くから駆けつけてくれる。ごめん、アン。もう心配をかけないようにしたかったのに。私って本当に駄目だ。

「神代さん、まさかその子のことかばうの?」

「悪いのは上城さんよ! バケツをひっくり返すわ、優花の教科書を駄目にするわ」

「まあでも、お二人さん仲良しだからねぇ」

 みんなの視線がアンに向かう。ニヤニヤと底冷えするような笑い。その中には及川さんと岸部さんのものも混ざっている。無秩序に混じり合っている。まるで、パレットの上で絵の具を全色混ぜ合わせたあとのような、気味の悪い色が瞳に宿っている。

 アンは倒れた机をどかし、私を抱き起こしてくれた。

「ごめん、アン……」

 どうにかそれだけ言った。声が掠れて、気持ち悪い。

 肩に置かれた掌から、アンの温もりを感じる。アンは無言で周囲の生徒たちを見渡した。

「なによ、その目……!」

 金森さんがキッと睨み返してくる。

「わざとでしょ」

 少し震えた声で、アンが言った。か細い、けれど芯のある声だ。

「はあ?」

「バケツなら私が片付けたもの。なのに如何して、また水の入ったバケツがあるの?」

「それは……」

 アンは何を言っているのだろうか。金森さんたちの表情が曇る。

「それに机も、わざと教科書を詰めて重くしておいたのでしょう?」

「い、いつも入れてるわよ。だから重いのはいつもで……っ」

「いいえ、違うわ。いつもはきちんとロッカーへしまってあった筈よ。私、後ろの席だからよく見えたのだもの」

「……っ」

 二の句が告げなくなった金森さんの代わりに、及川さんの口が開く。

「たまたまでしょ。たまたま優花がロッカーにしまい忘れたってだけ。バケツだって、誰かが終わったことに気がつかないで、そこに置いたに決まってるわ」

「そんなこと!」

 すらすらと答える及川さんにアンが食って掛かる。でも、

「でも、どちらにせよ、上城さんが優花の教科書を台無しにしたのは事実よ」

 その言葉に、アンは何も言えなくなる。私はじっとみんなの視線に耐えるだけで、何かを言おうにも、いったい何を言えば良いのか解らない。

 確かに教室の真ん中にバケツを置いておくのは危ないし、金森さんの机は異様に重かった。けれど、私がしてしまったことは事実だ。原因は私の不注意なのだから。

 このままではアンまで悪者扱いされてしまう。それだけは厭だ。

「もう、なによこれ、どうしたの!」

 突然、川嶋先生の甲高い声が聞こえた。今まで囃し立てていた子たちは途端に元気をなくし、いえ、あの、としどろもどろになる。

「上城さんがバケツの水を零したんです」

 岸辺さんがぴしゃりと言った。川嶋先生は教室を見回して、生徒一人一人の顔を見る。最後にその視線が私の濡れそぼった制服に注がれた。

「光さんは保健室で制服を乾かしてきなさい。床は教室掃除の人たちで拭いておくから」

 先生の優しい声音に涙が出そうになった。代わりに安堵の溜息が出る。周りの子たちからは不満の声が上がる。

 肩を預けていたアンに、囁くように告げる。

「……アン、もう良いよ。私、保健室に行ってくる」

「一人で、大丈夫?」

「うん、平気」

 それに、一人じゃない。離れていても、私とアンはいつもそばにいるのだ。だから、怖くないし、寂しくもない。

 むしろ、この場にアンを一人で残していくことのほうが怖いけれど、川嶋先生がいることだし、大事にはならないだろう。

 小走りで教室を出る。濡れた制服がひんやりと私を包む。倒れてきた机にぶつけたお腹がじくじく痛んだ。


 保健室のドアをノックしてみても、中から返事はなかった。上の窓からは蛍光灯の光が漏れているのに、誰もいないのは変だ。そう思い、もう一度ノックしようとすると、ドアがあちらから開いた。中から現れたのは保健の篠原先生でなく、戸塚さんだった。

 戸塚亜月。一年生の時に同じクラスだったので何度か話したことがあるけれど、いつも怒っているみたいでなんだか怖い、という印象しかない。腰まで伸ばしたふわふわの長い髪が揺れている。

「……!」

 戸塚さんはドアを開けたままの姿勢で固まっている。口を閉じたり、開いたりを繰り返している。表情は硬い。まるで何かが来るのを待っていたけれど、それとは違い、私が来たから驚いたかのような。

「帰って……」

 漸く出てきた言葉はその一言だった。怒気を孕んだ戸塚さんの声。

「帰ってよ!」

 そう言って彼女は勢いよくドアを閉めようとしたので、私はノブを掴んで声を張り上げた。

「と、戸塚さん、如何したの!」

 何があったの? と問いかけても、戸塚さんは答えない。ドアはすごい力で引っ張られて、今にも閉じてしまいそうだ。

「お願いだよ、戸塚さん……入れてよ」

 然し、向こうから返ってきたのは無常にも、

「五月蝿い! 帰れって言ってるでしょう!」

 ドア越しに、戸塚さんの荒い息遣いが聞こえる。そんなにも、厭なのか。私は何処にいっても、嫌われる。嫌われ者の私。

 アンと離れていても一緒だから、何も怖くないと思った。寂しくないと思った。でも、それはただの強がりでしかなかった。私の子供っぽいただの幻想。そんなふうに考えなくては、やっていけないと思ったからなのだろうか。

 濡れた制服が気持ち悪い。寒さで身体が震える。

 保健室のドアは完全に閉じてしまった。中からは何の音も聞こえない。

 誰かに、逢いたい。

 ――誰でも良い?

 違う。

 アンに逢いたい。

 ――本当に?

 私の声が、頭の中にこだまする。ノイズを出すラジオみたいに、じりじりと。

 本当に、私はアンに逢いたいのだろうか。誰でも良いんじゃないのだろうか。

 違う、と頭で否定しても、心の声が邪魔をする。

 私は……。

 チャイムが鳴って、我に戻った。廊下の時計を見ると、もう帰りのSHRが終わった時間だった。仕方がないから、今日はこのまま帰るしかない。少し身体は痛むけれど、ぶつけただけだ。寝れば治る、と思う。

 教室に戻ろう。SHRは終わっているから、あまり人はいないだろう。濡れた私を見て不審がられるだろうけれど、そこは耐えよう。

 まずアンに謝って、それから……。

 ばらばらに千切れたノートのページを繋ぎ合わせるように、思考の断片を頭の中で組み立てる。金森さんのことが浮かんだ。謝らなくてはいけない、と思うと気分が沈んでしまう。

 私は嫌われ者。

 私は、そんな私が嫌いだ。

 私は嫌われ者なのだ。


 教室に戻る為に、階段を上がっている時だった。階段の踊り場で、朝美の声がした。

 私は朝美の声に誘われるようにそちらに向かう。一段一段上がらなくてはいけないのが煩わしい。朝美までの距離。一歩一歩、踏みしめて。タン、タン、タンと踊り場へ。

 朝美と話がしたかった。ここ数日の居心地の悪さを、朝美なら吹き飛ばしてくれるような、そんな気がしたのだ。ふいに瞼の奥にアンの顔が浮かんだ。私は結局のところ、相手は誰でも良かったのかも知れない。頭では、違う、アンじゃなきゃ駄目なんだ、と思っても、心はそうはいかない。誰かと話がしたい。誰かに私の気持ちを聴いて欲しい。今は朝美にその役が回ってきただけ。回したのは他でもない、私自身。

 彼女の顔が見えた。朝美の周りには何人かの女の子が集まっている。知らない子たちの前で朝美を呼ぶのは気が引けたけれど、それでも彼女との会話を思うと、口は勝手に動いて、

「あさ――」

「クラスの上城光さん。なんか陰気で、見てるこっちが厭になっちゃうよ」

 朝美を呼ぼうとした私の言葉が、途中で切れる。

 私の陰口を叩いているのは、去年同じクラスだった岡崎さんだ。岡崎遥。朝美と、とても仲の良い子だ。

 岡崎さんは止まらずに言葉を紡ぐ。

「あの子、殆ど話さないし、たとえ話してもあの転校生の子だけなんだよね」

「なんかあの二人似てるよね。顔も性格も」

「うわぁ、キモいキモい」

 他の女の子たちも口々に言う。

 私は声が出せなかった。顔が青ざめる。

 朝美を呼びたい。

 彼女なら、私を助けてくれる。

 小学校の時からずっとそうしてくれていたように。私を護ってくれる。きっと、きっと。黙って話を聞いている、朝美なら。

「あの子さ、私と同じ小学校なんだよね」

 朝美が口を開いた。懐かしい朝美の声。さらさらと、砂浜の上を波が撫でる時の音に似ている。じんわりと心の奥に染み渡る。心地良い。私の心がふわっと軽くなる。ぼんやりと頭の片隅にアンの顔が浮かんだ。

 アン……。

 結局、私はアンに何を求めていたのだろうか。アンがいれば、いてくれればそれで良いと思った。なのに、今の私は朝美に縋ろうとしている。アンに失礼だ。そう思っても、心は言うことを聞かない。錆びついた時計の針が時を刻むように、私の気持ちは朝美をゆっくりと求めていく。

 でも、

「だから同じクラスの時は仲良くしてあげていたの。でも、本当は厭だったんだぁ。内気であまり話さないし、一緒にいてもつまらないんだよね」

 朝美の口がそう紡いでいた。ふと、彼女が顔を上げる。後ろでひとつに結った黒髪が、夕日に照らされて揺れた。

 私と目が合う。綺麗な瞳だった。でも、何処か違和感がある。

 それは狂気。朝美の心の奥に潜む闇が、そのまま瞳の黒を染め上げたみたいで。

 にぃと、朝美が笑う。

「なんだ、いたの、光」

 口を三日月のようにひん曲げて、彼女は言う。

 そこらへんに落ちている雑巾でも見るかのように。

 信じられない。どうして、朝美はこんなことを言うのだろうか。

「うそ……」

 やっとのことで、声を出す。

 それは、まだどこかで朝美のことを信じたい、と思う言葉だった。

「嘘じゃないわよ。あんたを友達だと思ったことなんて一度もない。一緒に帰る時とか、私、精一杯堪えていたの」

 呼吸が荒くなる。

 目の前がぐらつく。

 如何して。

「同じクラスで小学校も同じだったから、仕方なくだったの……あんたの前で、私は上手く笑えていたかしら?」

 如何して。如何して。

 私は泣きそうになった。

 視界が滲み、歪む。

「あははははははっ! 泣くの? あんたは昔からすぐ泣くよね……私、あんたのそういうところがすごく嫌いだった。見てるとムカつくんだよねぇ。泣いたら先生が助けてくれるとでも思ってんの?」

 周りの子たちも一斉に笑い出す。

「朝美、それ言い過ぎー」

 甲高い。

「あはは、でも仕方ないよねー」

 耳に障る。

 にやりとした笑顔を私に向けると、朝美は踵を返し、

「行こう」

 取り巻きの子たちと一緒に去っていく。

 私は涙を必死に堪え、階段を駆け上がった。

 朝美との距離が離れていく。私自身の足で遠ざかる。でも、本当はもっとずっと前から私たちは離れきっていたのかもしれない。それに気がつかずに、馬鹿みたいに朝美に縋って。挙句の果てに、私は……。

 三階に上がった所で、誰かと激しくぶつかった。

「痛っ」

「きゃっ」

 私にぶつかった人は尻餅をついた。同様に、私も廊下のひんやりとした床に投げ出される。

 見ると、ぶつかったのはアンだった。

「ど、如何したの、ヒカリ? 何で泣いてるの?」

 彼女は私に駆け寄ると、心配そうにそう話しかけた。

 なんでもない、と呟いて起き上がり、私は屋上までの階段を駆け上った。

 後ろで、アンの呼ぶ声がした。


 この学校の屋上には柵がない。その為、普段から生徒の立ち入りを禁止している。でも、鍵が壊れているという噂は本当だった。重い扉を開けて、屋上に出る。きいっと音を立てて扉が閉まる。ばたんと重く閉まる音に、なんだかもう、元には戻れない気がした。

 初めて屋上に出たけれど、特に面白いものなんてない。ひび割れた地面から雑草が生えているくらいで、あとは何もない。がらんとして、少し寂しい。

 初夏の風が吹く。もうすぐ夕暮れなのに、日差しの匂いがする。

 スカートが風に吹かれるのも気にせずに、屋上の縁までふらふらと歩いた。冷えた身体が震える。

 ふと、屋上の入り口のドアが開く音がした。

 振り向くとそこにはアンがいた。

「如何したの、ヒカリ?」

 アンの声が、か細く響く。何かに怯えているような声だ。

 私はかろうじて声を出す。

「私、邪魔なんだって」

 風が音を乗せ、アンの鼓膜まで届けてくれた。悲しみや辛さなんかも一緒に。

「そ、そんなことないよ!」

「ううん、良いの。ありがとう。アンだけだよ、そんなことを言ってくれるのは……でもね、私……」

 私は一歩、一歩後ずさりした。上履きに屋上の無機質な感触を伝わる。

 あと、何歩だろう。

「厭だよ、ヒカリ。せっかく友達になれたのに……私、ヒカリがいないと厭!」

 じりじりと一歩ずつ後退する。私の命は一歩一歩磨り減る。

 不意に足場の感触がなくなった。

 後ろを見ると、そこが屋上の淵だった。下には校庭が広がっている。白線で描かれた楕円が、ぽっかりと開いた地獄の入り口みたいに見えた。

 校庭は土でできているけれど、四階から落ちればきっと死ぬだろう。

 アンがそろそろと近づいて来た。

「ねえ、お願い、ヒカリ。私を一人にしないで」

 アンが懇願するように、私に言った。

 苦しそうな呼吸のアン。

 それはまるで、今の私のようであった。

 さっき朝美の友達が話していたことも、あながち間違いではない。

 私とアンは似ている。性格も容姿も。

「でも、私は……!」

 私はアンを裏切った。アン以外には何もいらない、とそう思ったのに。でも、朝美という希望に縋ってしまった。朝美の声さえ聞ければ、アンのことなど、如何でも良いと思ってしまった。

 悪いのは私。全部、私だ。

 ぼろぼろと、自分でも、信じられないくらいの涙が溢れ出す。

「アン……」

 ごめんね、アン。ごめん。

 心の中で何度も、何度も呟いた。おまじないみたいに。

「ヒカリ、大丈夫、心配しないで。私、いつまでも貴女と一緒にいるから。だから……」

 優しい声が、私の鼓膜と心臓を震わせる。気持ちがぐらつく。

 厭だ。

 私はこの世界にとって必要なのだろうか。何をやってもうまくいかないし、運動も下手、英語の簡単な問題すらできない。仲良くなりたい人からは邪魔だと言われ。大事な友達にだって、厭な思いをさせる。

 こんな私に、生きている価値はない。手の甲で溢れ出る涙を拭う。でも、拭ったそばから溢れてくる。

「アン……ずっと一緒にいたかったけど、ごめんね……大好き、でした」

 そこまで言って、私の体はぐらついた。ぽんと後ろに押されるような感覚。ああ、きっとアンに想いを伝えることができたからだ。この身体は、もうこの世に未練はないんだ。

 浮遊感。

 上履きが屋上の床から離れて。ふわっと、何もない空へと投げ出される。

 いつの間にか走ってきていたアンが、細い細い腕を伸ばす。もう死のうと思った筈なのに、アンの柔らかい手をもう一度触りたくて、私もがむしゃらに腕を突き出す。

 私たちの距離は、こんなにも、遠い。遠くなってしまった。

 私とアンの手は、触れることはなかった。白い五本の指が、必死に伸ばされる。それでも、届かなかった。

「厭っ!」

 それが私の発した声なのか、アンのものなのかは、解らなかった。

 でも、それが最後に聴いた音だった。

 真っ逆さまに落ちる。涙がきらきらと宙に舞う。アンの泣き顔が遠くに霞んだ。

 さよなら、アン。






 体を揺すられて、目を覚ました。

「早く支度なさい、アン。今日は転校初日でしょう?」

 そう言うとその人は部屋から出て行った。

「え?」

 気がつくと、私はベッドの中にいた。カーテンの隙間から朝日が漏れている。布団から這い出て、辺りを見回す。ここは何処だろう。

 私の部屋ではない。どことなく似ているが、同じではない。勉強机に小説がぎっしり詰まった本棚、丸いテーブル、そして姿見が置かれている質素な部屋。私の部屋も実際こんな感じであった。

 おずおずと鏡を覗く。肩まで伸ばした黒い髪。宇宙の果てのように黒い、ふたつの瞳。そこにはアンがいた。

 いや、正確には、私がアンなのだ。

 ヒカリが死んで、私はアンに生まれ変わったのだ。


 なんだかとても嬉しくなった。

 自分の体を、否、アンの体をぎゅっと抱きしめる。いつか抱きしめた時に感じた、アンの脆さを感じる。

 涙を堪えられなかった。屋上で流したものと同じくらい、溢れる。こんなにも自分の中に涙があったなんて知らなかった。

 身体に回した腕に力を込める。

 アン……。

「ずっと一緒だよ、アン……ずっと、ずっと……」

 それから私は涙を拭って、呟いた。



 光あれ―――



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