わたしのご主人様
わたしは、ご主人様と二人で暮らしている。わたしを大切にしてくれる、優しいご主人様。わたしは、ご主人様が大好きだ。
「アイリ、今日も綺麗だね」
ご主人様は、いつもそんなふうにわたしを褒めてくれる。アイリは綺麗だね、アイリは可愛いねって。そう言うときのご主人様の声はとても優しくて、その声を聞いていると、わたしはとても嬉しくなる。
ご主人様、わたしはご主人様が大好きです。そう言うことができたら、どんなにうれしいだろう。でも、わたしにはそうすることはできない。ご主人様からどれだけ優しい言葉をかけてもらっても、どれだけ優しく触ってもらっても、わたしからは何もすることができない。それが時々、淋しくて辛い。
「アイリは、いるだけでいいんだよ」
わたしの気持ちがわかるのか、ご主人様はときどき、そんなことを言う。
「そこにいて、いつも綺麗で可愛いアイリでいてくれれば、それでいい」
……本当に、それだけでいいんですか?
「おはよう、アイリ」
朝。ご主人様はあわただしくベッドから起きて、それからわたしを着替えさせて、椅子に座らせる。わたしの髪をきれいに整えると、急いで朝ごはんを食べて、出勤の支度をする。いい子でお留守番しているようにって言って、会社に出かけていく。
ご主人様がいないと、この部屋は静かだ。わたしは椅子に座ったまま、ご主人様の帰りを待つ。それしかわたしにできることはないから。
空が少しずつ赤くなり、それから暗くなっていく。わたしは、ご主人様はいつ、帰って来るんだろうなと思う。ご主人様が帰って来るのはいつも、空が暗くなってからだ。
暗くなると、部屋も当然暗くなる。私には、明かりを点けることができないから。少し淋しい気もするけど、でも、平気だ。ご主人様が、もうじき戻って来るから。
「ただいま」
ドアが開く音と、ご主人様の声。わたしはうれしくてたまらなくなる。ご主人様が帰って来てくれた!
お帰りなさいって言ってあげたいけど、それはできない。わたしにできるのは、ご主人様の話を聞いてあげることだけ。ご主人様は会社に行くときの服を脱いで、普段の服に着替えてから、一人で簡単な食事を取る。食事の間、わたしは、ご主人様の隣の椅子に座って、ご主人様の食事を見ている。ご主人様は、会社でのあれこれを話してくれる。わたしにはご主人様の仕事のことはよくわからないけれど、ご主人様の声を聞くのは好きだ。それが、わたしにかけられているものなら、なおさら好きだ。
食事が終わると、ご主人様は後片付けをしてから、しばらくテレビを見る。わたしも隣でいっしょに見る。ご主人様の見る番組は色々。ニュース番組だったり、ドラマだったり、映画だったり。わたしはニュース番組が苦手だけど、ドラマや映画は好きだ。ご主人様はこういうときもいろんな話をしてくれる。二人きりの、大事な時間。
テレビを見ると、ご主人様はお風呂に入る。わたしはお風呂には入れないので、ご主人様があがってくるのを待っている。ご主人様がいつも丁寧に手入れをしてくれるから、汚れてはいないけれど。待っている間は、いつも少し淋しい。ちょっとだけ一緒に入りたいと思ってしまうけど、わたしは水に浸からない方がいいのだそうだ。
ご主人様はお風呂からあがってくると、わたしを寝巻きに着替えさせる。寝るときはいつも、ご主人様といっしょだ。ご主人様のベッドで、ご主人様といっしょに眠る。
これが、普段の、わたしの一日。わたしの毎日は、こんな風に過ぎていく。
時々「仕事がお休み」の日がある。七日に一度の、日曜日。それから、たまにやってくる祝日という日。こんな日、ご主人様はたいてい家にいる。もちろん、買い物とか、何かの用事ででかけることもある。でも、家にいるときの方が多い。
わたしにとってお休みの日は、ご主人様といっしょにいられる日。とても大事な日だ。
お休みの日は、ご主人様は、普段より少しだけ遅く起きる。だからわたしも遅くに起きる。ご主人様はわたしを着替えさせて椅子に座らせたあと、いつもよりゆっくり朝食の支度をして、それを食べる。わたしは、ご主人様が食事をするのを眺めている。
朝食が終わると、ご主人様は、何かをする。映画のDVDを借りて来てみるときもあれば、わたしの服を作ってくれるときもある。もちろん、店売りの服も何枚も持っているけれど、ご主人様はわざわざミシンを踏んで、自分でも服を作る。アイリにはいろんな可愛い格好をさせてあげたいから、お店の服だとなかなかピッタリってものがないからって、そう、言ってくれるのだ。
実を言うと、わたしはこの家に来たばかりのとき、ご主人様は、お裁縫が得意じゃなかった。でも、わたしに服を作ってあげたいからという理由で、一生懸命練習した。本を見て、布を切って、慣れないミシンを踏んだ。そうやってできた服は、全然形になっていなくて、ご主人様はひどく落ち込んでいたこともあった。
でも今は、いろんな服を作れるようになっている。そうやって作った服をわたしに着せては「可愛いね」と言って、写真を撮ってくれる。
今日は、午前中はお裁縫をすることにしたようだ。ご主人様はわたしの目の前で、ミシンを踏んだり、針で縫ったり、とにかくいろんな作業をしている。
こんなふうにわたしのために服を作ってくれるご主人様だけれど、自分の服は作らない。クローゼットの中にあるのは、ほとんどがわたしの服だ。ご主人様の服は、少しだけ。どうしてなのかはわからない。わたしに口がきけたら、ご主人様に理由を尋ねるのだけれど、残念なことにわたしは話せないから、それはできない。
今日、作りかけの服が完成した。深い緑のリボンがアクセントになっている、真っ白いレースのドレス。たまにご主人様が見せてくれる、絵本の中の女の子のような、可愛いドレスだ。
完成したからね、と言って、ご主人様はわたしにドレスを着せてくれた。そして、とても似合う、アイリが着ると服が引き立つと言って、わたしをほめてくれた。
言いたい。すごく言いたい。こんなすてきで可愛いドレスを作ってくれてありがとうって。いつもわたしを大切にしてくれてありがとうって。でも、わたしは喋ることができない。
ご主人様はわたしを椅子に座らせて、写真を何枚も撮った。服が完成すると、いつもこうしてくれる。
ドレスは夕方になる前に完成していたので、ご主人様は、夜は映画を見ようと言ってくれた。映画は大好きだ。面白いから。
その夜、ご主人様は夕食を食べたあと、言ったとおり、わたしといっしょに映画を見た。『ラースと、その彼女』という映画。わたしみたいな、ビアンカという女の子が出てくる映画だ。主人公のラースも、ちょっとご主人様と雰囲気が似ている。あ、でも、ビアンカはわたしより年上っぽく見える。
ラースはビアンカを外に連れていってくれるので、わたしはちょっとだけうらやましく思った。わたしは、外に連れて行ってもらったことがないから。ビアンカが使っている車椅子というのがあれば、わたしも外に連れ出してもらえるのかな。でも、お洋服ではわたしの勝ちだ。ラースは縫い物をしないし。そう思って、わたしはちょっとだけ、得意になった。
そんなことを考えながら映画を見ていたのだけれど、ビアンカは最後病気になって、死んでしまった。……わたしは悲しくなった。ご主人様もそうだったみたいで、映画が終わったあと、わたしに「アイリはあんな風に死んだらだめだよ」と言った。
……ご主人様。わたしは、ご主人様が望むかぎり、ずっとお傍にいます。
わたしは、もう長いこと、ご主人様のところにいる。正確な年月は、もう忘れてしまった。
わたしには、ご主人様がいればいい。ご主人様には聞こえなくても、心の中でいってらっしゃいやお帰りなさいを言う。ご主人様のために、いつもここにいる。
……でも、ある日。ご主人様は、帰って来なかった。いつものように仕事に行ったのに、帰って来なかった。わたしは眠らないで、ずっとご主人様が帰ってくるのを待った。夜が過ぎて朝が来て、それでもご主人様は帰って来なかった。
どうして? どうして帰って来ないの? ご主人様はいつだって、夜になったら帰って来たのに。
ご主人様、帰って来て。わたしにただいまって言って、わたしにお話をして。一生懸命、そう願った。強く願えば、それが叶う気って、わたしたちの間では言われているから。
でも、ご主人様は帰って来なかった。代わりに知らない人たちが、わたしとご主人様の部屋にやってきた。
「うわ! こ、子供!?」
「よく見ろよ、それは人形だ」
「いやでもこんな大きい人形ってありなんですか? 人間の子供と同じぐらいの大きさじゃないですか」
「ああ……それは、ほら、あれだ。いわゆる『大人のおもちゃ』って奴だ。まともな人間の女とはおつきあいできないっていう、淋しい奴が、女の代わりにするっていう、アレ」
なんでこの人はわたしを見て、バカにしたみたいに笑っているの!? ご主人様は!? ご主人様はどこに行ったの!? ここは、わたしとご主人様の部屋なのに。
「えっ……ああ、そういうことですか」
すごく嫌な笑い方だ。わたしは胸がむかむかしてきた。
「女の代用品にしては小さいですね。外見もロリって感じで」
「こういうのを使うやつには、そういうのが受けるんだよ」
「……でも、変ですよね」
「何がだ?」
「だって、この部屋の人は女だったんでしょ? 女がなんで、淋しい男用の大人のおもちゃなんか買うんです?」
「そういう趣味なんだろ。世の中には色々な奴がいるんだ。聞いた話じゃあ、不細工で無口で人付き合いの悪い人間だったらしいからな」
ご主人様の悪口を言わないでよ! ご主人様はいつだって、わたしにはとても優しかった。わたしのこと、すごく大切にしてくれた。わたしにとってご主人様は、世界でたった一人の、大事なご主人様なのに。あなたたちに、いったい何がわかるというの!?
腹が立ったけど、わたしは怒鳴ることができない。悔しい。なんでわたしは喋ったり動いたりできないんだろう。わたしがイライラしていると、目の前の人たちは、とんでもないことを言い始めた。
「きっと、人形ぐらいしか相手にできるものがなかったんだろう。こんな人形だけを相手に淋しい毎日過ごして、最後は通り魔に刺されて死ぬなんてな。わびしい毎日だよ」
今、この人、なんて言ったの……? わたしは、聞いたことが信じられなかった。ご主人様が、死んだ……?
「確かにわびしいとしか言い様がないですね」
この人たちはまた笑っていたけれど、わたしはショックでそれどころじゃなかった。ご主人様、死んでしまったの? だから、戻って来ないの?
ああ、そうだ。ご主人様は人間。わたしは人形。ご主人様の人形。人間ってすごく死にやすいものなんだ。ご主人様が見せてくれるドラマとか映画とかで、わかっていたはずなのに。わたしはそのことを、考えたことがなかった。
……もういないんだ。わたしのご主人様。わたしを大事にしてくれた、優しいご主人様。
「これも粗大ゴミになるんですね」
目の前の人たちは、わたしを見て笑っている。そうか。わたし、ゴミになるんだ。ご主人様が、死んでしまったから。
……わたしも死んでしまいたい。ビアンカみたいに死んで、お葬式をあげてもらいたい。わたしをおいてご主人様がいなくなるぐらいなら、わたしが死にたかった。
どうして、わたしはまだ、ここにいるんだろう……。わたしのいる場所は、ご主人様のいる場所のはずなのに。
ご主人様、今、どこにいるのですか。
死んでしまったら、二度と会えないのですか。
わたしも死んだら、ご主人様と同じ場所に行けますか。
だったら、死なせてください。
どれくらい、時間が経ったのだろう。
あの人たちは、別の部屋を見ながら、何か話している。
わたしは、じっと座っていた。
ご主人様に会いたいと思いながら。
そうして……気がつくと、わたしは立ち上がっていた。
どうして、動けるのかな。
わたし、ただの人形なのに。
わからない。少しもわからない。
ああ、だけど……。
動けるのなら、することはたった一つだ。
わたしは強い気持ちを胸に、一歩前へと踏み出した。
このお話は、映画『ラースと、その彼女』を見たときに思いつきました。女性のご主人様だったらどんな感じかなあと思ったので。
アイリは、オリエント工業のララドールをイメージして書きました。身長一メートルちょっとの、小柄な人形です。さすがに実物を見たことはないんですが(ショールームに一人で行くのは勇気がいる……行っておけばよかったかなあ)シリコンボディの方が見た目は綺麗なんですが、ご主人様は女性、それも結構非力という設定なので、重量のあるシリコンだともてあますかなと思い、軽量のララという設定にしました。ご主人様は愛玩用に購入したので、当然、そういう機能はついていません。
(あ、オリエントさんのサイトは十八禁なので、年齢制限に引っかかる人は入っちゃだめですよ)
アイリがこのあとどうなったのかは、ご想像にお任せします。