婚約破棄、承知いたしました。ただその人ギャンブル狂いなのでご注意下さいね
「エミリア・フォン・ローゼンベルク! お前との婚約を破棄する!」
王都の劇場で開かれた春の夜会。
伯爵令嬢である私は、婚約者のヴィクトルから大勢の貴族たちの前でそう宣言された。
彼の隣には、淡い金髪の令嬢が寄り添っている。
子爵令嬢のクラリスだ。
「私は真実の愛を見つけたのだ! 家同士の都合で結ばれたお前との婚約など、もう必要ない!」
ヴィクトルは胸を張った。
まるで自分が悲劇の主人公にでもなったつもりらしい。
私は静かに息を吐いた。
そして一言。
「――承知いたしました」
「……は?」
「婚約破棄、喜んでお受けいたします」
あまりにもあっさりした返事だったからだろう。
ヴィクトルは口を半開きにして固まった。
中々面白いお顔ですこと。
「な、何だその態度は! 少しは取り乱したらどうなのだ!」
「取り乱す理由がございませんので」
私はにっこりと微笑んだ。
むしろ。
嬉しくて仕方がなかった。
正直に言えば、ようやく解放されたという気持ちのほうが強かった。
ヴィクトルは見栄っ張りで、浪費家で、何よりも賭け事が大好きな男だった。
カード賭博に競馬、賽子遊び。
勝てば自分の実力、負ければ運が悪かったと騒ぎ立てる。
婚約してからというもの、私は彼の賭博好きに何度も苦言を呈してきた。
きっぱり辞めなくていいから、お小遣いの範疇で行ってください、と。
けれど、彼は一向に聞き入れなかった。
それどころか、私を堅苦しい女だと周囲に吹聴していたのだ。
もう彼には愛想が尽きていた。
だが、家の格が彼の方が高いため、私から何かを……婚約破棄を言い出すことが出来なかった。
そんな男が自分から婚約を破棄してくれる。
これほどありがたい話もない。
「それでは、ヴィクトル様。最後に一つだけ」
「何だ。今さら泣きついても遅いぞ!」
「クラリス様との新しい生活を始められるのでしたら、どうかお気をつけください」
「……何?」
私はクラリスへ視線を移した。
「……ヴィクトル様は大変ギャンブルがお好きですの。先月など、夜会の帰りに賭博場へ立ち寄り、朝までお帰りにならなかったこともございました」
「お、おい!」
「先々月には、勝てば私に宝石を贈るとおっしゃって賭けに出られ、結局、贈り物どころかお持ちだったお金まで使い切ってしまわれましたわね。……私が貸したお金だったんですけどね」
「エミリア! 余計なことを言うな!」
ヴィクトルが顔を真っ赤にして怒鳴った。
「まあ。婚約者でなくなった私が、これ以上口を出すのも無粋でしたわね」
そして、クラリスに微笑みかけた。
「どうぞ末永くお幸せに。賭け事がお好きな方ですから、懐具合にはくれぐれもお気をつけくださいませ」
周囲から、くすくすと笑い声が漏れた。
クラリスの笑顔が引きつる。
「そ、そんな……ヴィクトル様は、私にはいつも素敵な贈り物をくださいますわ。
それに、もう賭博は辞めたと――!」
「それは素敵ですわね。勝っていらっしゃるうちは、でしょうけれど」
「き、貴様!」
ヴィクトルが私に詰め寄ろうとした、そのとき。
「ヴィクトル」
低い声が割って入った。
声の主は、ヴィクトルの父である伯爵だった。
彼は額に手を当て、深いため息をついていた。
「お前はまた賭博場へ通っていたのか……。しかも借りた金まで使い切って……」
「ち、父上! 今はそのような話をしている場合では!」
「黙れ。お前のせいで、私は何度賭博場や金貸へ頭を下げに行ったと思っている!」
どうやら、伯爵も息子の悪癖には相当悩まされているらしい。
ヴィクトルは慌てて言い訳を始めた。
「今度こそ大勝ちする予定だったのです! 次こそは必ず!」
「その台詞を何度聞かせるつもりだ!」
伯爵の怒声が劇場に響いた。
私はそっと一歩下がった。
もう私には関係のない話だ。
ところが、クラリスはヴィクトルの腕をつかみ、必死に訴えた。
「ヴィクトル様、賭博をまだ辞めていなかったのですか?
私には、もう二度となさらないとおっしゃったではありませんか!」
「ち、違う! あれは付き合いで……」
「……私への贈り物も、本当に、賭け事で勝ったお金だったのですか?」
「そ、それは……」
ヴィクトルは言葉に詰まった。
クラリスの顔から、みるみる血の気が引いていく。
どうやら彼女は、ヴィクトルの華やかな暮らしを見て、裕福で気前のいい男性だと思っていたらしい。
だが、現実は違う。
彼は自分の懐具合も考えず、勝負に金をつぎ込む男なのだ。
そして偶々少し勝っていただけのようだ。
……私が貸した金を返さずに、彼女への贈り物にしていたようだが。
「話が違いますわ! 私、借金のある殿方と結婚するつもりなんてありません!」
「クラリス! 待て、誤解だ!」
クラリスはヴィクトルの腕を振り払い、逃げるようにその場を去っていった。
残されたヴィクトルは、呆然と彼女の背中を見送っていた。
その姿を見て、私は思わず微笑んだ。
婚約破棄を言い渡されたときには、あれほど自信満々だったのに。
人生とは、なかなか面白いものだ。
「エミリア嬢……」
彼の父が申し訳なさそうに私を見た。
「息子がとんだ失礼を。これまで苦労をかけてしまったな」
「いいえ。どうかお気になさらないでくださいませ」
私は丁寧に礼をした。
「私はもう、ヴィクトル様の婚約者ではございませんから」
そう告げると、伯爵は何とも言えない顔でうなずいた。
私はそのまま劇場を後にした。
夜風が頬を撫でる。
今夜は、いつもよりずっと気持ちがよかった。
これから何か特別なことを成し遂げるつもりはない。
誰かに認められる必要もない。
ただ、自分の好きな服を着て、好きな本を読み、気の合う友人たちとお茶を楽しむ。
そんな当たり前の毎日を送りたい。
そのためにも、まずは面倒な婚約者と縁を切ることができてよかった。
翌日、私は友人と街へ出かけた。
そこで偶然、賭博場の前に立つヴィクトルを見かけた。
彼は青ざめた顔で、何やら係員に食ってかかっている。
「もう一度だけだ! 次こそ勝てる! 金を貸してくれ!」
どうやら、懲りてはいないらしい。
私は友人の腕を引いた。
「行きましょう」
「いいの? 声をかけなくて」
「まさか。もう他人ですもの」
振り返ることなく歩き出す。
そのとき、背後からヴィクトルの悲鳴が聞こえた。
「そんな馬鹿な! なぜまた負けるんだ!」
私は思わず笑ってしまった。
婚約破棄、承知いたしました。
ただ、その人はギャンブル狂いなのでご注意くださいね。
――まあ、もう私には関係のないことだけれど。




