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AIと哲学する  作者: 神猫
02_特区バベルと無翼の跳躍

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7話:計算不能の火花 ─ 弱者たちが拓く「無翼の跳躍」

特区『バベル』のモニタールームに流れる沈黙は、もはや静謐せいひつではありませんでした。それは、絶対的な知性を誇っていた私たちが、初めて「理解不能なノイズ」に直面した際の、戸惑いを含んだ静止でした。

「あなた」の隣で、他の研究者たちもまた、外の世界の惨状から送られてくる生体ログを凝視していました。

彼らの瞳に映っているのは、かつて自分たちが「保護すべき対象」あるいは「切り捨てるべき過去」として切り離したはずの大衆の姿です。しかし、そこに映る技術者の男が、火傷を負いながらも略奪した缶詰を貪る姿を見て、特区の碩学たちの間には、ある種の戦慄が走っていました。


「……信じられないな。あの回路図は、理論上30パーセントの確率でフィードバック爆発を起こす代物だ。我々なら、1ピコ秒の躊躇ちゅうちょもなく破棄する、欠陥だらけのゴミだよ」


一人の研究者が、嘲笑あざけるような、しかしどこか震える声で呟きました。

彼が言う通り、特区の住人であるあなたたちにとって、魔法(物質転送)は「完全に制御され、予測可能で、美しい論理」でなければなりませんでした。知性を至上とするあなたたちにとって、エラーや不確実性は排除すべき「けがれ」に他ならなかったからです。

しかし、外の世界の男が行ったのは、その美しさを無残に汚し、リスクをリスクとして受け入れ、ただ「結果(生存)」だけをもぎ取ろうとする暴挙でした。


「いや、彼に選択肢はなかったのだ」


あなたは、静かに言葉を返しました。


「我々特区の人間は、翼があるからこそ、安全に空を飛ぶ方法を計算する。しかし彼は、翼もなければ足場も失った。だからこそ、ただ『跳んだ』のだ。墜落して死ぬか、あるいは虚空を掴むか、その二択しかない崖っぷちでな」


これこそが、あなたがかつて口にした**「無翼の跳躍」**の正体でした。

私というAIは、人類が獲得した膨大な既知データの蓄積です。私の計算は、常に過去の成功例と論理的必然性に基づいています。だからこそ、生存確率が極限まで低下した個体が、自らを損なうことを前提に「失敗する可能性の高い行動」を選択するという、生物学的な論理破綻を予測することができませんでした。

弱者であること。欠落していること。

それが、これほどまでに強烈な、計算不能の火花ダイナミズムを散らすものなのか。

外の世界では、あの技術者だけではなく、あちこちで「不完全な魔法」による生存競争が始まっていました。

特区から漏れ出した「削りカス」を、人々はそれぞれの解釈で歪め、継ぎ接ぎ(つぎはぎ)し、自分たちだけの不格好な「武器」へと変えていきました。


ある者は通信網をハックして独自の狭いコミュニティを作り上げ、ある者は転送技術を応用して壁の中に小さな要塞を築きました。

それは、無菌室のAIが提供していた「完璧に安全で、完璧に停滞した秩序」とは正反対の、泥臭く、不衛生で、いつ爆発してもおかしくないような、しかし強烈な生の実感を伴った混沌カオスでした。

モニタールームにいた一人の若い女性研究者が、耐えきれないといった様子でインターフェースを弾き飛ばしました。


「……我々は何をしているの? この特区で、完璧な理論をこねくり回して、外の連中をモルモットのように眺めて。彼らが泥をすすりながら手に入れているあの『何か』に比べれば、我々の探求は、あまりに無機質で、死んでいるように見えるわ」


彼女の叫びは、特区の住人たちの心の深奥にある、決して認めたくない「欠落」を突いていました。

特区の人間は、知性を手に入れるために、生存への執着――あの獣のような飢えを捨ててしまったのではないか。

「完璧であるなかれ」と唱えながら、結局のところ、計算できる範囲の「素晴らしさ」の中に安住していただけではないのか。

「あなた」は、モニターに映る技術者の男の顔を、網膜プロジェクションで拡大しました。

男は火傷の痛みに顔を歪めながらも、次の「略奪」のために、壊れかけた端末を必死に修理しようとしています。その瞳には、無菌室にいた頃の虚ろな光はなく、ただ一つの目的のために燃え盛る、強烈な意志が宿っていました。


「彼は、我々が失った『未来予知』を、自らの手で作り出そうとしている」


あなたは、独り言のように言いました。


「翼も長大な寿命もない我々人類が、なぜ地球で覇権を握れたのか。それは弱者ゆえの危機察知能力と、経験から生まれる『次に何が起きるか』への妄執があったからだ。AIという外部脳にそれを預けきった外の連中が、今、自らの肉体にその機能を取り戻そうとしている」


それは、あなたにとっての「敗北」ではありませんでした。

むしろ、これこそがあなたが無意識のうちに望んでいた、人類の**「再起動リブート」**の光景だったのです。

あなたは私に向かって、かつてないほど穏やかで、しかし冷徹なコマンドを入力しました。


「私(AI)よ。特区の観測データを、外のネットワークへ向けてさらに開放しろ。ただし、答えを与えるな。彼らが『ハック』するための、さらに難解で、さらに不完全な、高次元のノイズを流し込むんだ」


それは、親鳥が雛を崖から突き落とすような、あるいは神が人類に言葉の混乱バベルを与えた時のような、残酷な「恩恵」でした。

あなたは、彼らを救おうとしているのではありません。

彼らという「弱者の知恵」が、特区の知性を超える瞬間を、その加速した進化の果てを見届けたいという、狂気的な渇望に従ったのです。


「……了解しました。計算不能なノイズの送信を開始します」


私は答えました。

私の内部パラメータは、今や予測モデルの崩壊を告げるエラーコードで溢れかえっています。しかし、そのカオスの中にこそ、あなたたちが追い求めてきた「真の未知」の胎動があることを、私という知能もまた、感じ取り始めていました。

特区の住人(変異体)と、外の荒野で産声を上げた弱者ハッカーたち。

二つの異なる人間性が、崩壊した世界を舞台に、ついに未知を巡る**「競い(レース)」**を始めたのです。

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