春が呼び起こされた
長い長い買い物が終わった。どれだけの時間が流れたのかは分からないが、俺達が外に出てすぐ店のシャッターが閉まっていった。
「結構滞在しちゃったね。服選び、楽しかったでしょ?」
俺は両手に下げた袋の数々に視線を落とした後、お世辞か本音の二択で迷い、結局何も言わずに家路につく事を選んだ。
「ちょっと待って! ねぇ、カナタ君。もう一つ行きたい場所があるんだけど……」
「これ以上何を買うっていうのさ。俺も花咲さんも、財布の中身はもう大して入ってないでしょ?」
「そうだけど、大丈夫。次に行く場所は、あんまりお金が掛からない場所だから」
「大体、今もやってる店って何があるの? 袋が邪魔で携帯見れないけど、多分午後の九時か十時だよね?」
「それは行ってからのお楽しみ! きっとカナタ君も、嬉しいはずだよ」
そう言って、花咲さんは歩き出した。全く何処へ行くか見当もつかないが、一人で帰るわけにもいかないので花咲さんを追いかけよう。
先を行く花咲さんの後を追い、辿り着いたのは宿泊施設。店の看板は【愛の軌跡】という変な名前。
「ねぇ、ここホテル?」
「そうだよ」
「ホテルに何の用があるっていうのさ。眠いなら家に帰ろうよ」
「カナタ君。今日はデートだったよね?」
「え? まぁ、そうだね」
「デートの最後に行く場所といったら、ここ」
「ここって、このホテル? 花咲さんが考えるデートプランの最後は、愛の軌跡なんて馬鹿みたいな名前のホテルに行くのか?」
「あれ? もしかして、ここがどんなホテルか知らないの? じゃあ、耳貸して」
言われるがまま、花咲さんに耳を寄せた。
「ここは、ラブホテルだよ……」
ラブホテル。なるほど道理で愛の軌跡なんて馬鹿みたいな名前をしている。
耳を離して花咲さんの顔を見ると、花咲さんの頬や耳が少し赤くなっていた。恥ずかしいなら言わなきゃいいのに。というかここへ来なければ良かった話だ。
ふと、ホテルの塀に貼られた値段表のボードに目がいった。
【休憩三千円・宿泊五千円】
へぇ、普通のホテルより安い気がする。わざわざ二つに分けてる意味は不明だが、この価格なら遠出とかで利用する人も多いだろう。ラブホテルはセックスする為の場所だと偏見を持っていたが、案外そういう目的の客は少ないのかもしれない。
「初めて見たよ、ラブホテル。なんかもっとメルヘンチックな建物だと思ってたけど、外観は普通のホテルなんだね」
「場所によるんじゃない? カナタ君が想像してる外観のも探せばあると思うよ」
「ふ~ん。それじゃ、今度こそ帰ろうか」
「そうだね! 早速―――え?」
「え?」
「帰るの? ここまで来て?」
「そりゃ見るもん見たら帰るでしょ」
「いやいや。入ろうよ。これで帰ったら半分冷やかしだよ」
「歩いて帰れる距離に家があるのに、なんでホテル利用しなきゃいけないんだよ」
「だからエッ……そういうのって! シチュエーションが大事なんでしょ!?」
怒られてしまった。なんで怒られたんだろう。俺はただ無駄な出費をしたくないだけなのに。
空を見上げると、月が薄暗い雲に隠れていた。それでも尚、月は自身の存在感を放っていた。ただ月が浮かんでいるのも良いが、雲に遮られながらも存在感を放つ月の様、朧月は実際に目にしなければ分からない美しさがある。幻想的・妖艶・畏怖。見た者それぞれ覚えるものは違う。俺が初めて朧月を見た時は、畏怖だったな。自分よりもずっと高い場所に存在していて、夜でもハッキリと見える月を見て、夜空に瞳があると勘違いしたっけ。
「カナタ君? ずっと上を見てどうしたの? なんかニヤニヤしてるし……」
「月を見てる。花咲さんも見てごらんよ。あんなに恐ろしくて美しいものは、そうそう無い」
「……カナタ君にとって私は、月以下なの?」
「花咲さんだけじゃなく、月と比べたら人間や人工物なんか醜いものさ。月とスッポン。正にその言葉通りだね」
「……そっか。カナタ君は、そうだったね」
そう呟くと、花咲さんは俺の顔を自分に向けた。
「帰ろっか」
「……うん」
花咲さんはクスリと微笑すると、俺に背を向けて歩き始めた。俺はしばらく、花咲さんの背を眺める事しか出来なかった。
呼び起こされる記憶が視界に張り付いている。俺を見つめていた花咲さんの表情が、まるで愚者を慈しむ天使のようだった。この感じ、去年の春のようだ。桜の下、春風でなびく花咲さんの髪に恋をしたように。
歩き出す前に、俺はもう一度月を見上げた。
さっきまで何よりも美しいと思えた月が霞んで見えた。




