至福の時
リンからの誘いを受け、クッキーを食べにリンの家に来た。初めてマンションに入ってみたが、ロビーへの入り口の時点で暗証番号が必要な事に驚いた。幸いにもリンから暗証番号を聞けていたが、知らないままだと俺はここで夜を明かす事になっていただろう。
リンが住む番号の部屋に辿り着き、インターフォンを鳴らした。すると、インターフォンの画面が点き、奇妙な動物の人形が画面一杯に映った。
『アイコトバ、イエ』
「蕎麦。ネギ抜き」
『ヨシ。イマツカイノモノヲヨコス。ソコデマッテロ』
それっぽい事を言ってみたが、どうやら合ってたようだ。
扉の鍵が開く音が聞こえると、開いていく扉がドアロックに引っ掛かった。隙間からリンが顔を覗かせると、俺を見て目を細めた。
「合言葉、言え」
「まさかの二重式だ」
「よし。通れ」
「その隙間でどう通れって言うんだ。あと、合言葉さっきと全然違うぞ」
「エヘヘ! こういうのちょっとやってみたかったんです! 今開けるので、もうちょっとだけ待っててください!」
そう言うと、リンはドアロックを外す為に一度扉を閉め、今度はちゃんと扉を開けてくれた。
「ヘヘ! ここを通りたくば合言葉を―――」
「もういいって」
リンの家に上がると、部屋の広さに驚いた。一人暮らしで住むには過剰な広さだ。宝の持ち腐れとはまさにこの事だろう。
「改めまして、先輩! ようこそ僕の家へ! さぁ、思う存分楽しんでください!」
「楽しむとは? あと、もうちょっと静かにした方がいいんじゃないか? 隣にも誰か住んでるだろ」
「大丈夫です。ここ、防音性がありえないくらい高いんで! ここに住み始めた夜に、思いっきり熱唱しても隣の人には聞こえてませんでした!」
「この広さに、防音性……家賃、いくらなんだ?」
「さぁ? パパとママは気にしなくていいって」
「ちゃんと感謝しろよ。多分目玉が飛び出る額だぞ」
リンの家族について聞いた事はなかったが、この部屋と今の話からして、一般的な家庭よりも遥かに裕福なのだろう。そんな彼女に俺とタケシは男友達として絡んで……知られたら殺されるかもな。
「先輩、どうかしました?」
「いや、ちょっとな……俺の事、お父さんとお母さんに紹介する時は、リンを男として接してた事は伏せておいてほしい」
「紹介……紹介!? え、あ、い、もぉ~!! 先輩ったら~!! 気が早いですって~!!」
「そ、そうだよな!? これから挽回すればいい話だもんな!?」
タケシ、すまない。お前は俺達の罰を受ける犠牲となってくれ。
ソファに座って待っていると、リンが焼いたクッキーとコーヒーが運ばれてきた。クッキーは普通のとチョコチップが混ざった二種類。コーヒーはアイスコーヒーだが、午前に飲んだカフェのアイスコーヒー擬きよりも美味しそうに見える。
リンは俺の隣に座ると、クッキーとコーヒーを乗せていたトレイを抱えながら、俺の感想を待ちわびていた。
クッキーを食べる前に、ストローでコーヒーを飲んだ。飲む前から感じ取っていた通り、程よい苦味と果物のような後味があって非常に美味。この時点で称賛の嵐をリンに送りたい。
本命のクッキーを食べてみると、二種類とも良くも悪くも普通のクッキーの味だった。でも出来立て故の良さというか、手作りの物だからか、味だけでは評価出来ない良さがこのクッキーにはある。
「ど、どうですか?」
「……どっちも美味しいよ。リンが作ったクッキーを食べられる俺は幸せ者だな」
「エ、エッヘヘ! そんな、大胆な! まだ僕達は高校生ですよ~!?」
ウネウネと体を揺らしながら悶えているリンを横目に、俺はコーヒーを飲んだ。口には出さなかったが、単純な美味しさでいけば、クッキーの何百倍もコーヒーが美味い。これをタダで飲んでいるのが悪い気がしてきた。
「でも、良かったです。先輩を誘ったはいいものの、先輩が美味しいって言ってくれるか不安で。もちろん、味見はしましたよ? それでも、先輩に喜んでもらえる物かどうか分からなくて……」
「リン。俺が今まで、お前が作った弁当を不味いと言った事があったか? お前にされた事に一度でも嫌な顔をしたか? 例えこのクッキーが焦げていたとしても、お前が一生懸命作ったのなら、文句はないさ。お前は可愛い後輩だからな」
不安そうな表情を浮かべるリンの頭を撫でた。俺が今言ったように、リンが心を込めて作った物なら、味なんて二の次。込められた想いを味わえる事が、何よりも大切で光栄な事なんだ。
「―――あっ!?」
「ど、どうしましたか!?」
「俺、リンの頭撫でてる……!?」
「え、はい。そうですね。非常に愛のこもった撫で方で、僕に対する先輩の愛が―――」
「すみませんでした!! 女性の髪を軽率に触れるなんて馬鹿な真似をしてしまって!!」
俺は誠心誠意を持って、ソファの上で土下座をした。昨日リンを女性と認識したばかりなのに、以前と変わらぬ馴れ馴れしさで頭を撫でてしまった。
タケシ。やっぱりお前だけに罰を受けてもらうのは間違ってた。というか、リンに触れていたのはほとんど俺の方だ。タケシの場合、触れるというか、殴られてばっかりだったな。でも同じくリンを男だと勘違いしてたわけだし、罰は平等に受けるべきだろう。
「はぁ……先輩。昨日言ったばかりですよ? これ以上、僕を呆れさせないでくださいって」
「で、でもさ! 女性の髪って第二の命なんだぞ!? つまり俺は、この低俗な手で命を汚したんだ……!」
「先輩って感情移入凄そうですね……それじゃあ、許してもらう為に、僕のお願いを聞いてもらおうかな~」
「なんなりと!」
すると、リンは俺の方へ頭を傾けてきた。
「……撫でてください」
「……自傷癖?」
「そんな趣味ありません! とにかく! 先輩は僕の気が済むまで撫でていればいいんです!」
拒否出来る立場ではない為、俺はおそるおそるリンの頭に触れ、ゆっくりと撫でた。優しく、傷つけないよう細心の注意をはらって。
「……あの、これは何分ほど?」
「僕の気が済むまでです!」
「左様でございますか……」
クッキーの甘い匂いと、コーヒー香ばしさと、リンの髪の匂い。
ゆっくりと一定のリズムで鳴る時計の針の音。
静かな部屋の中、俺はリンの頭を撫で続けた。




