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深海

 夏休み初日。天気は頗る快晴だ。みんな何処かへ出掛けるのか、午前九時になっても駅には大勢の人が押し寄せている。


「先輩! お待たせしました!」


 待ち合わせの場所にやって来たリンの姿を見て驚いた。女装してくるのは予想していたが、メイクまでしてくるとは。髪型も学校でのツインテールとは違い、後ろに一本にまとめた三つ編みだ。


 これが初対面なら、間違いなく俺はリンを女子だと信じて疑わない。そう思うほどに、今日のリンはいつもより女子らしかった。


「お前、今日やけに気合入ってんな。そんなに楽しみにしてるのか?」


「もちろんです! 先輩が初めて僕をデートに誘ってくれたんですから!」


「デートって。ただ遊びに誘っただけなんだけどな」


「二人っきりで遊ぶのなら、それはもうデートなんです! さぁ、切符を買って行きましょ!」


 リンに手首を掴まれ、俺達は駅に入った。


 今日行く水族館は、ここから二駅先で、去年出来たばかりの新しい水族館だ。詳しくは知らないが、今日の場所を決めたリンによればかなり賑わってるらしい。


「初日なので空いてると思ってるんですけど、どうでしょうかね?」


「並ぶ羽目になっても文句言うなよ?」


「言いませんよ。それに、並んで待ってる間、先輩とお喋り出来ます。先輩がいるなら、退屈な時間なんてありません!」


 そう言うと、リンは俺に密着してきた。リンが着ているワンピースに袖が無い所為で、男とは思えない細く柔らかな腕の感触を感じてしまう。つくづく同じ男とは思えないな。香ってくる匂いはシャンプーだろうか。花咲さんのとは違った落ち着ける良い匂いだ。


「お前、良い匂いすんな。シャンプーも女物使ってんのか?」


「……変態ですね、先輩」


「何が?」


「……先輩。今日の僕、どうですか? 先輩から見て、可愛い女の子ですか?」


「そりゃもちろん。学校はおろか、テレビに出てるアイドルなんかよりずっと可愛い女子っぽいぞ」


「女子っぽい、か……タケシ先輩もそうですけど、先輩方って結構鈍感ですよね」


 言ってる意味が分からない。女子っぽいじゃなく、女子に見えると言った方が良かったか。リンが女装する理由は聞いた事が無いし、なんか馬鹿にする感じになるから聞けずにいた。それはタケシも同じだろう。


 駅から出て少し歩いていくと、目的地の水族館が見えた。敷地内に入ると、駐車場には沢山の車が停まっていて、中の混雑具合が見て取れた。


 入場チケットを購入し、いざ水族館の中に入ってみると、左右の入り口の右側だけ長蛇の列が出来ていた。スタッフが掲げている案内板を見るに、あの列はショーの列のようだ。


「どうします? 僕達もあの列に並びますか?」


「いや、まずは普通に見て回ろうよ。列に並んでショーを見るより、色んな生き物を見て回った方が面白いよ」


 俺達は左側の入り口へと進んだ。何のショーをやるかは分からないが、水族館に来たのなら巨大な水槽で生活している生き物を眺めたい。人に芸を仕込まれた海の生き物よりも、実際の海でなくとも変わらぬ暮らしをする海の生き物の方が、変な気持ちにならずに済む。


 照明の少ない通路をガラスの向こう側の世界が青く照らしていた。様々な海の生き物が小分けされた水槽が並んでいると思っていたが、ここでは長い通路に見合った巨大な水槽に様々な海の生き物が共存している。随分と思い切った造りだ。 


「凄いですね! 色んな魚が泳いでる! なんて名前なのか分からないのは引っ掛かりますけど」


「売店で馬鹿でかい図鑑が売ってあったのを見かけたけど、まさかあれで確認しながら進むのか? 商売上手なのか下手なのか」


「でも、凄く綺麗ですね」


 みんなショーの方の列に並んでいるのか、俺達以外に誰もいない。これだけ思い切った造りをした水族館だ。きっとショーも他では味わえない凄いものなんだろう。


 それでも、やはり俺はこっちの方が良い。水族館は海の生き物を眺めるだけじゃなく、こんな風に自分も海の中に入ってる感覚になるのが良いんだ。普段見慣れている空と地面の世界とは違う、青く薄暗いこの世界は、不安にも穏やかにもさせてくれる。ここは眠る時に見る夢なんだ。


「……ねぇ、先輩」


 立ち止まって水槽を眺めていると、リンの声が少しだけ離れて聞こえた。振り返って見ると、リンは俺から離れていた。青い光に照らされたリンの姿は、俺の傍で見せる普段の快活さとは程遠い。


「僕、今まで我慢出来てたんですけど……辛くなってきました……」


「どうしたんだ。体調が悪いのか?」


「……先輩。先輩から見て、僕は可愛いですか? 他の女子には覚えない、特別な感情が僕にありますか?」


 リンは言葉を連ねていく度に、俺から離れていく。声は徐々に聞き取れなくなり、消えてしまうんじゃないかという危うさが色濃くなる。  


「……先……僕は……もう……ますから……た」


 声は聞こえるが、何を伝えようとしているのかが分からない。そうしている内に、リンとの距離がさっきよりも遠くなっている。


 背に寒気が走った。立ち止まっていれば、動かなければ、俺とリンは今までと変わらない関係でいられる。それがどうしてか、良くない事だと思えた。


 気付けば、俺はいつの間にかリンの目の前まで来て、男らしくない華奢な肩に触れていた。離れていたとはいえ、走っても疲れるはずもないのに、息苦しい。


「先輩……」


 俺を見上げるリンは静かに涙を流していた。リンは泣いている事に気付いていない。


「リン。もしかしてお前―――」


 決定的な何かを言う寸前、喉が詰まった。息苦しさと不安な気持ちが押し寄せ、誰かの声が俺に語り掛ける。 


【言うんじゃない】


【気付くな】


【壊さないで】


 それは紛れもなく、俺の声だ。俺からの警告だ。


 リンの肩に触れていた俺の手は、情けないほどに震えていた。


「……ごめん……少しだけ、時間をくれないか」


「……分かりました。整理がつくまで、僕は待ってます」


 リンは笑みを浮かべているが、その笑顔には影があった。

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