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桜の木の下で

 一年前の高校入学式の時、俺は初めて恋をした。校庭にある桜の木の下で、その子は桜を眺めていた。最初は他の女子と同じ認識だったが、風になびく長い黒髪に、俺は目を奪われた。世界の何処かに存在する青く澄んだ海の景色のような、神秘と感動を覚えた。


 それからというもの、俺は彼女を見ていたくて、朝と放課後の挨拶、彼女がいる会話の輪に入ったりした。思い返せばストーカーのような行動ばかりしている。


 そして冬の季節。雪がシンシンと降り始めた頃。


 彼女、花咲ハルは幼馴染の男子と恋人になった。周囲の生徒は二人を祝福し、俺も拍手で二人を祝福してみせた。


 かくして、俺の初恋は告白する前に終わった。不思議と悲しみや嫉妬は覚えなかった。それはきっと、俺が彼女の髪だけに心を奪われていたからだろう。例え彼女が彼氏、あるいは彼女を作ったとしても、あの長い黒髪が変わる事はない。


―――そう、思っていた。


 冬休みが明けた三学期の初日。彼女の髪が短くなっていた。彼女を取り巻くクラスメイト達の髪の指摘に対し、「付き合っている幼馴染の好みに合わせた」と彼女は嬉しそうに語った。


 その日の夜。俺は失恋の苦しみを味わった。考えてみれば当然な事だ。彼女の髪を特別視していたのは俺の勝手で、彼女が自分の髪をどうするかは彼女自身なのだ。そう自分に何度も言い聞かせても、やっぱり悲しくて、彼女の幼馴染に嫉妬した。


 あれから少し時間が経ち、二年生になった。失恋の苦しみは残ったままだが、踏ん切りをつけようと強がっている。誰かに俺の失恋を悟られなかったのは、不幸中の幸いだろう。髪に惚れた男など、同性でも気味悪がられる。


 放課後のチャイムが鳴り、友人やクラスメイト達がそれぞれ自宅や部活に向かう中、窓際の席の俺は音楽を聴きながら夕焼け空を眺めている。こうしていると、イヤホンから流れる哀愁を夕焼け空が歌っているような気がした。風景にはそう思わせる魅力がある。


 すると、音楽が途切れて着信音が鳴った。携帯の画面を見ると、父さんからのメッセージが届いていた。内容は、父さんも母さんも今日は家に帰れないという連絡だった。


「一気に現実に戻された……」


 イヤホンを外し、カバンを肩に掛けて廊下に出た。服の擦れる音がよく聞こえる静かな廊下を歩きながら、今日は何を食べようか考えた。と言っても、自分で何かを作れる自炊力が皆無な俺は、必然的にカップ麺か弁当の二択に絞られる。


 外に出ると、部活動に励む音が響いてきた。どの部活かは分からないけど、声を張って頑張れる人は尊敬出来る。俺には無理だ。頑張る前に冷めてしまう。


 そうか。頑張れたのも、あの時が初めてだったのか。余計に虚しくなってきた。味の濃いピザでも食ってヤケになろう。


 校門まで歩いていると、ふと桜の木に目が向いた。去年と変わりなく美しく咲く桜の木の下で、花咲さんが立っていた。彼女は黙って俯いたまま、そこから動く気配がない。おおかた、彼氏の幼馴染を待っているのだろう。


 彼女を無視して校門まで来た時、一つの疑問が浮かんだ。


 どうして待っているのか、と。


 家に帰る生徒はとっくの前に帰宅してるし、居残りの生徒ももう帰ってる。まだ残っているのは部活動の連中だ。基本的に部活が終わるのは十九時頃で、今はまだ十七時。部活が終わるまで二時間もあるが、まさかあそこでずっと待つつもりなのか?


 校門に背を向け、彼女のもとへ足が進んだ。何も彼女に特別な用事など無い。どうしてそこにいるのか分からないモヤモヤを晴らす為だ。


「花咲さん」


 彼女に呼びかけると、その声に反応して嬉しそうな表情で顔を上げたが、すぐに落胆に変わった。


「カナタ君、だったか……」


「ごめんね。ちょっと気になっただけなんだ。どうしてここで待ち続けてるのかなって」 


「ど、どうして分かるんですか……!?」


「頭に桜の花びらが一杯乗ってるから」


「え? ……あ、本当ですね」


 彼女は少し恥ずかしそうにしながら、頭に乗っていた桜の花を払い落とした。


「全部、落とせたでしょうか?」


「あと一つだけ残ってるよ」


「え? どこでしょうか?」


「ここ」


 頭に残っている桜の花を取ろうと手を伸ばすと、彼女は後退りして、桜の木に軽くぶつかった。ほんのちょっとの衝撃だったはずなのに、桜の木から多くの花が降り落ちた。降り落ちた桜の花が互いの頭や肩に乗ると、彼女は少し驚いた後に、クスッと笑った。


「フフ……! あ……ごめんなさい。急に手を伸ばしてきたから、ちょっとビックリしちゃって……」


「……そうだね。ビックリしたよ」


「え?」


 遠くからでは気付かなかった。去年よりも、桜の花が散るのが早い。花がついていない枝がいくつもある。


「桜、好きなんですか?」


 花咲さんの問いかけを耳にし、視線を下ろした。彼女は頭や肩に乗っている桜の花を落とさず、真っ直ぐと俺を見つめている。


「うん。桜とか綺麗な風景が好きなんだ」


「私も好きです」


 数分、あるいは数秒か。俺達は互いの瞳を見つめ合ったまま止まっていた。その時に見た花咲さんの瞳は、一年前に心惹かれた長い黒髪に次いで綺麗だった。


「……あ、そうだ。それで、どうしてここで待ってるの?」


「え? ……あ! ええっと、その、幼馴染のアオと一緒に帰ろうと思って……!」


「多分部活じゃないかな? 帰る途中で隣のクラスも見たけど、誰もいなかったよ?」


「部活? アオが?」


「いや、もしかしたら先生から用事を頼まれてるだけかもしれない。まぁ、どちらにせよ。一度校舎に戻った方がいいよ。春とはいえ、まだちょっと肌寒いし」


「……そうだね」


 花咲さんは俯きながらそう呟くと、頭と肩に乗った桜の花を落としてから校舎に戻っていった。


 去っていく彼女の背を眺めた後、俺も頭と肩に乗った桜の花を落として学校を後にした。 

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