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懐古堂奇譚  作者: 浅見カフカ


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ウランガラス

せいさん、遅くなるそうです」

艶やかな黒い受話器を両手で持った真綾は、申し訳なさそうに菊池を見た。

「仕方ないな。自慢がてら曰く付きの根付けを持ってきたけど、また今度にするよ」

そう言って立ち上がると奥に居る真綾と、隣で話し相手になってくれていた紗綾に手を振った。

「じゃ」と口を開きかけると、ガラガラと引き戸が開いた。

(なんだ早いじゃないか)

そう思い視線を向けると、和装にカンカン帽を被った老人が、敷居を跨ぐところだった。

改めて「じゃぁ」と言った瞬間、菊池の袖を紗綾が引いた。

元来、白磁のような紗綾の肌だったが、蒼白に見えたその顔色にただならぬものを感じた。

「いらっしゃいませ」

気丈にもそう振る舞う真綾の声にも、緊張を感じ取れた。

(ヤバいのは客かブツか、それとも——)

菊池の額にも汗が滲んできた。

「ここの店主なら留守だぜ。俺も諦めて帰るところなんだ」

声が震えないように力を込めた。

老人は足を止めて菊池を見ると「そうでしたか、ありがとうございます」と帽子を持ち上げた。

老人特有のしわがれた声で、物腰は柔らかだった。

ただ、細められた目を向けられた瞬間——

全身の毛穴から汗が吹き出し、身動みじろぎひとつ取れなくなった。

蛇と対峙した蛙はこんな気持ちなのだろうか。

老人の長い顎髭が、蛇の舌に思えてきた。

「それではお嬢さん、これを置いておきますよ」

老人は懐から小さな置物を取り出すと、勘定台の上にそっと置いて「店主殿によろしくお伝えください」と言って踵を返した。

翡翠のようだ。

今まで見たどれよりも深く、濃鮮やかな緑色。

(ろうかん翡翠という物だろうか?)

その最高級と思われる翡翠は、惜しみもなく細工を施されていた。

遠目でよく分からないが、氷山のような形だ。

真綾は翡翠の置かれた勘定台から、後ずさるように数歩離れた。

出口の扉に手を掛けた老人は「ほっほっ、聡いお嬢さんだ。店主殿以外は触れないことじゃ」と、振り向きもせずに言うと外へ出て行った。

まだ袖を掴んでいる紗綾の頭を撫でた菊池は、老人を追って店の外に出た。

そこにはいつもと同じ。

人の気配の無い路地が、口を開けた闇夜の向こうへ伸びているだけだった。

「爺さん、居なくてさ。足......早いんだな」

戻った菊池は精一杯の冗談を言って、力なく笑った。

「ははは」という乾いた空虚な笑いが店内にこぼれた。


二時間ほどして、誠一郎が帰ってきた。

それまで菊池の傍に居た二人は、誠一郎に駆け寄って行った。

現金なものだ。

が、分からなくも無かった。

勘定台の置物——

あれから刻々と禍々しさを増すように、空気が質量を感じさせて、肩に伸し掛っていた。

「酷い物を置いて行ったのですね」

二人の肩を護るように抱いた誠一郎は、その異質な置物を一瞥した。

「なんだよ、そのろうかん翡翠」

「これは歯ですよ。奥歯のようですね」

菊池の言葉に誠一郎はそう答えた。

「わざわざ歯の形にしたってことか?」

「ええ。ただ、翡翠ではなくウランガラスですね」

「おいおい、いくら遠目でもウランガラスと翡翠の見分けくらいつくぞ」

誠一郎は傷見きずみと呼ばれるルーペを左目にはめると、白いハンカチで歯をつまんだ。

「酸化銅を混ぜているみたいです」

「酸化銅......緑青りょくしょうか」

菊池がなるほど頷くのを、紗綾が小首を傾げて見ていた。

「古い十円玉が、汚くなってるの見たことあるか?」

「ある。なんか緑色のばっちいの」

「それな、銅の錆なんだ。その銅の錆を緑青って言うんだ」

「だから菊池さんが古物商なのに間違えたのね」

「おい、なんか悪意あるぞ」

可愛らしい笑顔で見る紗綾を睨むと、彼女は更に可愛らしく舌を出した。

誠一郎が帰って来て、恐怖は薄らいだようだ。

「菊池さん。このウランガラス、お譲りしましょうか」

「冗談だろ。一緒に何を譲られるかも分からん」

菊池はそう言って、わざと身震いをした。

「そうですか、残念です」

「......誠一郎。お前、視えたな」

「さて、誰が来るのでしょう?」

「もったいぶるなよ」

菊池がそう言うと、誠一郎は首を振った。

「本当に分からないのですよ。——誰を助けるべきか」

「珍しいことを言うな。お前なら全員助けそうなものだけど」

「トロッコ問題ですね」

「オカルトにもあるのか、それ?」

「でも、ありがとう菊池さん。私のやり方でやってみます」

誠一郎はそう言うと、紗綾と真綾を奥の部屋へやった。

「菊池さんはどうします?」

「関わっちまったからな」

そう言って頭を搔くと、店のソファーに腰を下ろした。

「俺は、何をしたらいいんだ」

「三人で、これを持ってきた人のところに行ってもらいます。老人とえにしが出来てしまったので」

「巻き込むつもりだったんじゃねぇか」

菊池が呆れながら笑うと「残らなければ元凶を消すだけです」と表情の消えた顔で誠一郎は言った。

そして「トロッコにブレーキが付いたので、掛けてみます」と、いつもの穏やかな表情を浮かべた。

「間に合うといいな」

「あとは老人次第です」

誠一郎がそう言った刹那——

全ての照明が落ちた。

店の奥からは、押し殺した悲鳴がふたつ。

入口の戸がカタカタとなって、格子のガラスの向こうに影が映った。

立ち上がろうと腰を浮かせた菊池を、手のひらを向けて誠一郎が制した。

そしてそのまま人差し指を立てると、唇に当てて見せた。

カタカタという音は次第にガタガタと激しさを増していった。

「はいはい、お入りなさいな。そんなにされたら戸が壊れてしまう」

勘定台の向こうから入口に向かって声を掛けた。

ガタガタという音はピタリと止んだ。

(嘘だろ)

少し暗闇に慣れた目で誠一郎を見た。

建物はそれ自体が結界となる。

つまり"許可が無ければ入れない"のだ。

戸が音もなく開くと、生ぬるい夜の風が店内に吹き込んだ。

ズル......ズル......

何かを引きずる音と、鉄の錆びた臭いが耳と鼻に張り付く。

微かな生臭さに、血の匂いを確信した。

(ああ、これは見ない方がいい)

そう思った菊池だが、好奇心には勝てなかった。

(引きずっているのは足だろうか)

ゆっくりと視線を上げた。

たしかに片足は引きずり気味だったが、音の主は違った。

——頭だ。

折れた首が重みで落ちたのだろう。

ちぎれかけた皮が、伸びて切れずに繋がっていた。

それが頭部を引きずっていた。

振動でおとがいがカタカタと鳴り、洞穴のような闇を灯した瞳が菊池を見ていた。

胃液が込み上げた。

酸が喉を焼き、口の中に嫌な酸味が広がって口を押さえた。

音を立ててはいけない。

菊池はそのままの格好で、誠一郎の方を見た。

誠一郎は勘定台の向こうで、異形が来るのを微動だにせず待っていた。

異形が勘定台の前に立つと、誠一郎は「いらっしゃいませ」と頭を下げ「こちらを預かっております」とウランガラスの歯を差し出した。

歯は青緑色にぼんやり光り出すと、徐々にその光を増していった。

やがて異形の怪異を包み込むと、光はゆっくりと暗くなっていった。

そしてコトリと小さな音を残して、元の暗闇が訪れた。

キィと床が軋む音がした。

菊池はそれが誠一郎の足音だと思った。

先程の青緑の光を凝視していたせいで、菊池の視界はまだ回復していなかった。

もう一度、キィと鳴った。

そして衣擦れの音。

菊池が誠一郎の名を呼ぼうとした時、女のすすり泣きが聞こえた。

「それが彼の想いのようです。貴女はどうされますか?」

誰かと話す誠一郎の声を頼りに視線を向けた。

再び目が慣れてきた菊池の目に、女の姿が蒼白く浮かんだ。

落ちくぼんだ目に、痩けた頬。

ほつれた黒髪が、くすんだ肌に張り付いていた。

誠一郎は床に落ちていた赤いかんざしを手に取ると、女の髪に飾った。

「お似合いですよ」

誠一郎の表情はよく見えなかったが、きっと笑顔だったと思う。

女の肌が赤みを帯び、薄桃色の頬から艶やかな黒髪がはらりと落ちて揺れた。

落ちくぼんでいた瞳は、優しい笑みをたたえて誠一郎を見つめ返していた。

誠一郎は小さく頷くと「さぁ、彼が待っていますよ」と入口を差した。

入口には首を引きずってい男が、生前の姿で立って女を待っていた。

女が男の差し出した手を取ると、二人は金色の光に変わって戸をすり抜けて消えて行った。

そこでようやく店の明かりが灯った。

「誠一郎さん!」

奥から二人が飛び出してきた

「さっきのは何だ、誠一郎」

「尋問と拷問の末に殺害された男性と、その奥さんですね」

「ですねって、お前——そうか、ウランガラスを見たときから全て視えてたってことか」

菊池は得心がいったとばかりに頷いたが、すぐに首を傾げて眉根を寄せた。

「じゃぁ、俺に何をさせたかったんだ?」

「ええ、菊池さんにはこれから働いてもらいます」

誠一郎はそう言うと紗綾と真綾に「今日来た男の縁は辿れるね」と尋ねた。

二人が頷くと「では菊池さん、お願いします。私の専門は人以外なので、二人を守ってやってください」と言って、外出用の上掛けを羽織った。


「紗綾ちゃん、本当にこっちでいいのかい?」

街の灯りからどんどん遠くなる様子に、菊池は堪らず声を掛けた。

「......」

「紗綾、教えてあげなさい」

「いいです」

「真綾ちゃん、さっきまで普通に話してくれてたのにどうしてなのかな?」

菊池は小声で真綾に尋ねた。

真綾は可笑しそうに菊池と誠一郎を交互に見ると「紗綾は、誠一郎さんの前で他の殿方とお喋りするのが嫌なのです」と小声で返した。

しばらく歩くと分かれ道に出た。

ひとつは舗装された市道。

もうひとつは竹林の中、踏み固められた土の細い道。

「こんな道、記憶に無いぞ」

ここは頻繁に通る道だ。

竹林の間を抜ける興味をそそる道、記憶に残らない理由は無かった。

「それはえにしが無かったからですよ」

誠一郎はそう言うと、脇道に足を踏み入れた。

一瞬——

誠一郎の姿が揺らいで見えた。

何か透明の膜を通過したような、空気の密度の境目のような場所に入ったような......

紗綾と真綾がそれに続くのを見て、菊池も慌てて後を追った。

竹林特有のツンとした清涼感のある香りが、夜露の湿り気を帯びて濃く漂っていた。

数分歩いた先、遠くに人影が見えた気がした。

白い着物の女性。

えっと思い、もう一度見た時にそこに居たのは一匹の狐だった。

狐は菊池たちと距離を取りながら歩いた。

先導するように、時折振り返っては立ち止まり歩いた。

やがて彼らの前に大きな屋敷が姿を表すと、強い風が竹林を揺らした。

ざわめく周囲に気を取られていると、狐は忽然と姿を消してしまっていた。

「誠一郎」

菊池が彼の名を呼ぶと「すぐに会えますよ」と誰のことを指したのか、そう言った。

数寄屋門と呼ばれる瓦屋根の門扉の前に立った。

現代風の呼び鈴は特に無く、誠一郎は躊躇なく縦格子の引き戸を開けた。

玄関までの間には白い玉砂利が敷かれ、黒い御影の飛び石が、通路となって続いていた。

最後の飛び石に足を掛けたところで、玄関の戸がカラカラと開いた。

そこでは竹林の小路で見掛けた女性が、こちらに向かって恭しくお辞儀をしていた。

「いらっしゃいませ。主が奥でお待ちしております」

誠一郎は不躾にもため息をひとくと「いつからですか」と尋ねた。

「もう、随分と永くなります」

女性はそう答えると、切れ長の目を伏せた。

「さっきはありがとう」

紗綾は女性にそう言うと脱いだ靴を整えて、誠一郎の後に続いた。

真綾は無言で頭を下げて屋敷に上がった。

菊池も同じように上がろうとすると「これを」と狐の面を渡された。

「貴方では囚われてしまうかもしれないから」と必ず付けるよう言われた。

懐古堂で会ったあの老人に会うのだ。

女の言うことももっとものように思えた。

そしてこの時ようやく、この女が先程の狐で、老人に使役されていると菊池は理解した。

面には紐が無かった。

どう付けるのかと思いながら顔に当てると、肌に吸い付くように面は馴染んだ。

開いた目の穴から通した景色は、やや紫掛かった薄靄うすもやに見えた。

女を見ると頭部が狐に変わっていた。

玄関正面に飾られた大きな絵皿では、描かれた金魚が二匹——悠々と泳いでいた。

(これを誠一郎達は視ているのだろうな)

菊池はそう、漠然と思っていた。

そうしているうちにすっかり彼らの背中を見失っていたが、蒼白い足跡が三つ、奥へと続いていた。

辿ると最奥の部屋へ、足跡は続いていた。

菊池はふすまに手をかけた。

スーッと静かに開いた向こうで、誠一郎は老人と対峙していた。

息が苦しい。

部屋の中は紫のもやが瘴気のように濃く立ち込めていた。

「おや」

老人が遅れて入った菊池を見た。

「アレには躾が必要ですな」

そう言うと誠一郎へと、濁った瞳の視線を戻した。

「あのウランガラスの歯は貴方が作らせた物ですね」

誠一郎は静かにそう言った。

てっきり老人があの異形——になる前の男から奪ったものだと思っていた菊池は、耳を疑った。

「ほう、分かるか」

老人は嬉しそうに、長い顎髭を撫でつけると屏風を背に座布団へと胡座をかいた。

「まぁ、お座りなさいな」

促された菊池達は、用意されていた座布団へ腰を下ろした。

なぜ人数分の座布団が並んでいたのか。

空恐ろしさに、背中に数滴の冷水を垂らされたような悪寒と厭らしさを覚えた。

「密告という有り難い制度のおかげで、実験体には困らんかった」

老人は喉に言葉がが引っかかるような、掠れた声で話し始めた。

「あの男を見たのは、浅草寺の入口の出店だった。無骨な手に不釣り合いのかんざしが印象的だった」

「あれか」

菊池は誠一郎が女の髪に飾った、赤いかんざしを思い浮かべた。

「見ましたか」

老人は嬉しそうに口の端を歪めた。

「とても幸せそうな顔をしていたので、家まで付けました。そして懇意にしている官憲にアカだと密告したのです」

「戦中——いや、戦前か」

戦時の浅草寺は出征兵士の壮行会の場であると同時に、食料供給の為の農地となっていたのを菊池は思い出して言い直した。

「密告とは被検体を手に入れるに、実に良い制度でした。そして彼らは実に忠実に働いてくれた。稀に数発殴られた程度で偽りの自白をして助かる者も居ましたがね」

老人は何が可笑しいのか、喉を鳴らして笑った。

「お話が冗長ですね」

誠一郎は表情ひとつ変えずに言うと「彼、佐々木末雄さんから貴方に預かった物を届けに来たのですよ」と続けた。

「そんな名前だったのか。あの被検体は」

老人は数十年経って初めて知った名前に、さして興味も無さそうだった。

「何を預かった?呪物か?呪詛か?」

嬉々として身を乗り出す老人に「赦しです」と一言だけ告げて、誠一郎は立ち上がった。

「嘘だ!お前は嘘を言っておる!!」

背を向けた誠一郎に、激昂した老人が大声をあげた。

「赦されることで、貴方の人生が否定されるだなんて——滑稽ですね」

誠一郎は老人に向き直ると無表情なままで、まるで亀裂が走ったように口を開いて嗤って見せた。

「貴様、貴様!」

老人は屏風を蹴倒すと、その後ろにあった日本刀を手にして抜いた。

菊池は座布団を投げつけると、老人が怯んだ隙に蹴りを叩き込んだ。

所詮は非力な老人だ。

菊池の一撃に激しく飛ばされると、持っていた刀も手放して倒れた。

「紗綾、真綾、逃げるぞ」

菊池がそう言って走り出した瞬間だった。

何かに足首を掴まれて転んだ。

振り向くと手首だけがそこにあった。

「菊池さん!」

誠一郎は短く叫ぶと菊池の足を叩いた。

手首が消えて自由が戻る。

立ち上がった菊池は、紗綾と真綾を両脇に抱えて走り出した。

「あとで行きます」

背中に誠一郎の声を受けて、一気に玄関へと向かった。

長い廊下の先に、這い寄る何かの影が見えた。

黒焦げに近い姿で、動く度に炭化した部分を剥がれ落としながらこちらへと向かって来た。

——動きが止まった。

そう思ったのも束の間、突然四つん這いになると、虫のように四肢を動かして走り出した。

そして突然飛び上がると、焼けただれた顔に焦げた歯を剥き出しにして、菊池の首へと口を広げた。

叫んでいるのは紗綾だろうか、真綾だろうか。

菊池は、もうそんなどうでもいいことしか思い浮かばなかった。

ドサッという鈍い音に我に返った。

足元では黒焦げの異形が、塵に還ろうとしていた。

「急いで!」

目の前にはあの狐の女性が立っていた。

「ありがとう」

菊池はそう言って再び駆け出した。

そうして竹林の出口まで辿りついて市道に飛び出すと、脇道も狐の女性も消えていた。

「誠一郎!!」

菊池の叫び声は夜の静寂しじまに消えていくだけだった。



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