後半
「…どうしよう」
後部座席で丸まっていた茉莉が上半身を持ち上げ、助手席に移動させた男のリュックの下に隠していたスマホに手を伸ばすと、時刻は午前六時を過ぎていた。窓越しにガジュマルを確認すると、予想通りではあったものの、やはり男は戻って来ていない——一体どうしたものか。人生初の車中泊を終え、疲労困憊な茉莉の頭に浮かんだのは、先日会った種山教授の顔だった。そういえば教授は植物男のことも知っていたし、もしかしたら何か知っているかも。ここから大学までは約一時間。一度家で軽く寝て、気持ちと身なりを整えて大学に行けば、ちょうどいい時間になるはず。茉莉は寝不足で上手く回らない頭を働かせ、ひとまず種山教授に会いに行くことを決めた。
それにしても種山教授にこの状況をどう説明したらいいのか。茉莉は自宅に向かって車を走らせながら、種山教授に何を話すか考え始めた。教授は「植物のプロ」であって、「奇妙な植物のプロ」ではない。植物男がガジュマルの気根に飲み込まれて中に入ったなんて言っても、まったく意味がわからないだろう。しかもあの男は自ら入って行ったのだから、さらに意味がわからない。茉莉はひとまず、状況を整理することにした。
この世界には、あのガジュマルのように、奇妙な生き方を選択している植物がいる。植物男の左胸には彼がタネと呼ぶ植物が埋まっていて、彼を絞め殺そうとしている。そのタネの生き方を知るために、男はタネと似た生き方をするガジュマルの中に入った。そして中に入ったあの男は今、この場所にいない。なんだか頭が痛くなってきた。
あの男は本当にあのガジュマルの中にいるのだろうか。そんな根本的な問いが茉莉の脳裏をよぎる。本当は大胆不敵な詐欺師かなにかで、ひっそりガジュマルの裏から抜け出しているのでは? そんな考えが頭に浮かんだが、もしそんな器用なことができる男なら、あの場面でもうちょっとマシなことが言えるはずだ。それにあの男が何者でも茉莉は最後まで付き合うと決めたのだから、今の自分にできることをやろうと再び気持ちを固めなおす。さて、研究室で種山教授に何を話そう。茉莉は同じ問いに戻り、考えを巡らせながら、車を走らせ自宅に戻った。
問いに対する明確な答えが見つからないまま自宅で風呂と着替えを済まし、二時間ほどの仮眠をとってから茉莉が理学部にある植物研究室に向かうと、そこには種山教授はおろか、人の気配すらなかった。電気すらついていない研究室に、茉莉の気持ちは急激にしぼむ。せめてもの抵抗で何かないかと視線をさまよわせると、帰宅の部分に合わせられた教授のネームプレートを見つけ、さらに気持ちが落ちた。教授を呼び出す術はないし、もう帰るかと茉莉が背中を丸めて研究室を後にしようとした時、「帰宅」の部分に集中している研究室内の学生の在不在を表すマグネットが付いたプレートの中にひとつだけ、先日植物男と訪れた顕微鏡室の部分に合わせられたマグネットを見つけた。顕微鏡室は、プレートがぶら下がっている部屋の二つ隣。「研究室に行けば誰かしらはいるもの」という植物男の言葉は本当だったようで、顕微鏡室に行くと部屋に灯る明かりが見え、茉莉は丸めた背中を伸ばした。
「失礼します」
茉莉がそろりと顕微鏡室の扉を開けると、部屋の右奥で黙々とパソコン作業をする背中が茉莉の目に飛び込んできた。身動きのとりやすそうなジャージに刈り上げたショートヘア。中性的な出で立ちをしていたが、茉莉は「女の子だ」と直感的に思った。すみません、と茉莉が声をかけると、作業に夢中だった背中はようやくこちらを向いた。彼女が振り向いた時、丸眼鏡の奥にある鋭い視線と一度だけ目が合う。しかし茉莉と彼女の目が合ったのはその一瞬だけで、ひとまずの視線はこちらに向けられているものの、茉莉と一生合わない彼女の目が、「この場から逃げたい」という彼女の気持ちを雄弁に語っていた。
「あの、種山教授、いますか?」
マグネットを見て不在なことはわかっていたが、茉莉はひとまず彼女に質問をした。
「種山先生は、不在です」
あ、良い声。茉莉は言葉の内容よりもまず、彼女の声が気になった。落ち着いていて、言葉がはっきりと聞き取れるような通りの良い声。しかし口調はどこか幼く、アンバランスなのに聞き心地が良い。視線と表情は明らかに動揺し、人見知りしているのに。言葉と挙動のちぐはぐさに茉莉は思わず笑みがこぼれ、緊張の糸が解ける。しかし茉莉の笑顔に、部屋の奥の彼女は警戒心を強めたようだった。
「えっと、何時ごろにいらっしゃるとか、わかりますか?」
「今日は土曜日なので、先生はいらっしゃらないと思います」
「あ、今日、土曜日なのか…」
だから通勤ラッシュの時間だったのに帰り道が混んでなかったんだ。彼女の言葉に、茉莉はひとり納得する。それにしても、どうしよう。頼みの綱であった種山教授が不在となると次の案を考えなければならないが、植物どころかガジュマルの認識すらあやしい茉莉には、次の案も何も浮かばない。困った。本当に困った。困った茉莉が彼女に視線を向けると、茉莉以上に困った表情の彼女の顔がこちらを見ていた。去る気配もなくただ黙った訪問者に明らかに困惑し、眉と口角が下がっている。茉莉が彼女と目を合わせようとすると、また彼女は静かに目をそらす。ここまで人見知りの激しい人もなかなか珍しい。茉莉は咄嗟にそう思ったが、つい先ほどまで彼女以上に困惑していた奇妙な男の姿を思い出して、肩の力が抜けた。ひとまず、今の自分にできることから始めよう。
「あの、少しお話を聞いてもらいたいんですけど、いいですか?」
え、帰らないの? そんな声が聞こえてくるくらい驚いた表情の彼女と、ようやくしっかり目が合った。あ、この子、好きかも。彼女と目が合った瞬間、大学に入ってからはついぞ経験していなかった、親しくなる予感のする人と出会ったときの感覚を、茉莉は久しぶりに思い出した。
ひとまずこちらにどうぞ。亀島という名の彼女に勧められ、顕微鏡の前、彼女の隣の丸椅子に腰かけると、顕微鏡の近くに転がるガジュマルの花嚢が茉莉の目に入った。半分に割られたガジュマルの花嚢は、ろ紙が敷かれたシャーレの上に置かれて丁寧に保管されている。
「これ、ガジュマルですか?」
「そうです」明らかに得意分野の話題になってほっとした表情を浮かべる彼女の背中に、緊張して固まっていた彼女の尻尾が小さく左右に揺れ出す気配を茉莉は感じた。
「ガジュマルはイチジクの仲間なんですけど、大学周辺では、ガジュマル以外にも、アコウやハマイヌビワ、オオバイヌビワ、ギランイヌビワやイヌビワなどのイチジクの仲間が観察できます」
そう言いながら亀島はいろんなイチジクの花嚢が入ったシャーレを取り出し、茉莉に見せてくれた。ガジュマルの花嚢はマーブルチョコレートくらいの大きさだったが、オオバイヌビワの花嚢は全体に斑点がついた消しゴムサイズのかぼちゃのような形だったり、イヌビワは小さな水風船のような縦長の楕円形だったり。イチジクの仲間の花嚢は種類によって大きさや形が異なっていたが、すべて花嚢の中に花がある点だけは共通しているのが不思議だと茉莉は思った。
「種類ごとに大きさや形が違っていて面白いですね」
「花嚢の大きさや形だけではなく、枝へのつき方も違って面白いんですよ」
そういって亀島は机からパソコンを取り、いろいろなイチジクの仲間の写真を見せてくれた。樹の幹に花嚢がついているものや枝先に密集しているもの、葉の中にひっそりと隠れるように花嚢をつけるもの。花嚢の付け方だけでこんなに植物全体の雰囲気が変わるのかと茉莉は驚いた。そしてなにより、これらの違いがよくわかるこの写真たちがとても美しく、綺麗だと茉莉は思った。
「花嚢のつき方の違いもそうですけど、この写真、どれも素敵です。植物ごとに雰囲気が違うことがよくわかるし、とても綺麗」
茉莉が見せてもらった写真を通して見た植物の見え方がおそらく、亀島や種山教授、そして植物男の見ている世界なのだろう。自分の目にはすべて同じに見える植物たちが、写真を通して初めて別の生き物に見えるような、とても奇妙な感覚を茉莉は味わった。
「…ありがとうございます」
この写真、全部自分が撮ったものなので。亀島の控えめな反応に反して、彼女の背中に見えていた尻尾が、先ほどよりも大きく左右に振れているのが茉莉の目に見えたような気がした。
「あ、ガジュマル!」
亀島にお茶とお菓子を貰い、亀島の撮った植物の写真を見ながら楽しくおしゃべりしていたら、茉莉は植物男のことをすっかり忘れた。ガジュマルの花嚢を食べるコウモリの動画を見てようやく、植物男のことを思い出した。すっかり目が合うようになった亀島が茉莉を見て、落ち着いた声で聞き返す。
「ガジュマルがどうかしたんですか?」
そういえば、さっきもガジュマルの花嚢が気になっていましたね。茉莉と同い年だと分かっても敬語が外れない亀島の言葉を聞きながら、茉莉は貰ったチョコパイを食べ、首をひねる。さて、これからどうしたものか。現在、亀島の背中の尻尾は地面を擦るようにリズミカルに揺れている。もはや尻尾の動きまで見えるようになった大型犬のような彼女には、素直にすべてを話してしまうのが良い気がしたし、彼女ならきちんと話を聞いてくれる気がした。それにしても、何から話せばいいのか。茉莉が悩んでいる間、亀島は力むことも、急かすこともなく、ただ静かに茉莉の言葉を待っていた。やはり植物と深く交わる人は、どこか独特の静けさをもっていると茉莉は思った。
「亀島さん。私、最近、変な人と出会ったの」
「え、あ、はい」
ガジュマルの話が来ると思っていたのに、予想外の角度から、苦手な話題の前振りが飛んできたことにひるんだ亀島の尻尾がぴたりと止まるのがわかった。
「その人、夜にじっと、ひとりでガジュマルを見ていて。しかも初対面の私になんて言ったと思う? 「これは気根です」って、ガジュマルの気根の説明を始めたんだよ?」
「それは、変わった人ですね」ガジュマルという言葉に、亀島の尻尾が少し横に振れる。
「でも、話し始めたらなんか、面白い人で」
優しいのに残酷で。でもどこか温かくて。それなのにすべてを諦めたような大人びた顔をしたりして。でも、時々どこか子どもっぽくて可愛くて。でもやっぱりアホで。褒める言葉と貶す言葉が交互に出てきてしまう自分の心が最終的にどちらに転ぶのか。それはまだ茉莉にもわからないままだ。ちぐはぐな茉莉の言葉を、亀島は静かに聞いている。
「まあ、そんな人がね、ガジュマルに惹かれて、ちょっと危ない状況になっちゃって」
そこまで言うと、ああ、なるほどと、まるで当然のことのように、亀島が次の言葉を続けた。
「茉莉さんは、その人を助けたいんですね」
亀島の落ち着いた声がすとんと茉莉の耳に入る。ああ、そうだ。私はただ、あの人を助けたいんだ。はじめて茉莉は、自分の気持ちが、亀島の言葉を通して素直に自分の心の中に入ってきたような気がした。
「…….うん、そう。私はただ、あの人を助けたいだけなの」
自分があの男を好きだとか、あの男が私を好きかどうかとか、あの男の言動が腹立たしいとかそうでないとか、そんなことはどうでもいい。私はただ、あの男を助けたい。あの男の心を軽くしたい。ただそれだけなのだ。それさえできれば、それ以上は何も求めていないし、何も望んでいないのだと、亀島の言葉で茉莉はようやく気づいた。
「亀島さん、手伝ってくれる?」
茉莉の言葉を最後まできちんと聞き取った亀島は茉莉としっかり目を合わせ、落ち着いた声でただ一言、「自分に出来ることがあれば、喜んで」と言った。
そこからは茉莉自身も驚くほど、スムーズに亀島に現在の状況を説明することができた。助けたい人が昨日の夜から音沙汰がないこと。その人は、昨日の夜、自らの意志でガジュマルの気根に手を伸ばし、中に入っていったこと。その人が入っていったガジュマルのように、普通の植物とは異なる生き方を選択している植物がいること。かなり突飛な話にもかかわらず、亀島はすんなりとそれらの話を受け入れた。あまりにもすんなりと受け入れるので、茉莉が「どうして疑わないの?」と聞く始末で、その言葉に返ってきた言葉は、とても亀島らしいものだった。
「自分、生き物の写真を撮るのが好きなんですけど」
昔、友人と二人で夜の山に入った時、ひっそりと奇妙な動きをしている植物を見かけたことがあって。
「だから、茉莉さんの言っていること、なんとなくわかります」
植物と深く交わっていれば自ずと、他の人よりそういう経験を得る機会は増える、ということなのだろう。「信じる」という言葉ではなく、「わかる」という言葉に、近すぎず、けれど離れない彼女なりの優しさを茉莉は感じた。やっぱり私はこの人が好きだと、茉莉は亀島に対する好意を確信に変えた。
「つかぬことをお伺いしますが、その変な人って、もしかして植物男さんのことですか?」
「えっ、亀島さん、あの人のこと知ってるの?」
「はい。一昨日、研究室で作業をしていらっしゃっていたので」
「え! なにをしていたかとか、わかる?」
「細かいことはわからないですが、そのイチジクの仲間の花嚢の観察をしていたのは植物男さんです。標本室に入って調べものをしていたようなので、その時に植物男さんが何をしていたかがわかれば、もう少しガジュマルと植物男さんについて何かわかるかもしれません。自分はそれを調べます。茉莉さんは、茉莉さんにできることをしてください」
「うん、ありがとう」
その言葉を最後に、夕方ここに再び集合することだけ決めて、茉莉は大学を後にした。
亀島と別れた茉莉が向かったのは、いつものガジュマルのある公園だった。
「なにもないじゃない」
昨日の夜と同様、茉莉はガジュマルの気根に手を伸ばして触れる。もちろん、ガジュマルが茉莉に絡みつく気配もなければ、植物男を助けるヒントもなく、昼間の公園にはいつも通りの静けさが広がっていた。昨日の昼と同じように、茉莉は再びベンチに腰掛ける。昨日の今頃はここで暢気にお昼寝していたのに。そんなことを考えながら、茉莉は再びガジュマルを見た。そもそも、植物男を助けるために自分ができることは何なのだろう。植物男はガジュマルの中に入り、それから戻ってきていない。すなわち、出られなくなっている、ということだ。植物男がガジュマルの中で出口がわからず道に迷っているだけなら、茉莉は外から出口の場所を示すだけでよい。しかし茉莉には、あの入り方が安全で、中にいる男がただ道に迷っているだけとは到底思えなかった。もし、あの入り方が安全な方法であったなら、そもそもあの男は茉莉を頼っていないだろうし、おそらくこのような状況にはなっていない。あの入り方と同じ方法で、気根の隙間から男が外に出て来られるとも思えなかった。あのときの植物男が茉莉に求めていたのはおそらく、新しい出口の開拓だろう。しかし、出口どころか入口すらまったくわからない。もう少し、ガジュマル内の状況がわかれば。少しはヒントを残しておいてよ、まったく。頭の中で植物男に悪態をつきながら、現実逃避も兼ねて茉莉はあたりを見まわす。すると、昨日は中に入れなかった伊波美術館の建物が見えた。あ、今日は扉が開いている。公園からでもエントランスが少し見え、昨日は開かれていなかった重そうな扉が開き、中に座っている女性の姿が見えた。何かの手掛かりがあればという一縷の望みをかけて、茉莉は伊波美術館に足を向けた。
茉莉が入った美術館には、当たり前のことながら、絵画ばかりが並んでいた。なんか、絵がたくさんある。エントランスで微笑んでいたマダムにお金を支払い、右奥にあった入口を抜けると、そこには一定の間隔で絵画が飾られる空間が広がっていた。ひとつ、またひとつと壁を抜けても、その先でまた当然のように別の絵画が飾られた空間が続いていく。美術館がお金を払って絵を見る場所だと知っていても、美術館という建物にあまり馴染みがない茉莉には、そのような当たり前がどこか新鮮だった。展示作品には沖縄をテーマにした作品が多かったが、アート作品の鑑賞に慣れていない茉莉には、目の前の作品のどこを見ればいいのかよくわからない。けれど時々、自分の身体ごとすべてが作品の世界に引き込まれるような感覚を味わう瞬間があり、この没入感が美術館の魅力なのかもしれないと茉莉は思った。
似たような空間の連続と作品への没入感でそろそろ自分の居場所がわからなくなってきた頃、自分の身長よりも大きい一枚の絵が茉莉の目に飛びこんできた。
その絵に描かれていたのは、一本のガジュマルの樹だった。ガジュマル全体を支えている太い幹と根。幹から伸びる複数の枝は、地面に向かって真っすぐに伸びた新たな気根と複雑に絡み合い、新たな支柱としてガジュマルを支えている。そしてなにより、ガジュマルの樹に絡みつく他のつる植物や、枝と枝の間で生きているオオタニワタリ、力強い根の上で軽やかに生い茂るガジュマルの葉の緑の鮮やかさを通して、他の生き物の居場所を提供しながらもその場所で全力で生きる、生命力あふれるガジュマルの姿が描かれていた。今にもキジムナーが枝の隙間から飛び出してきそう。茉莉はその絵の前で、本物のガジュマルを見ているような錯覚に陥り、今までで一番の没入感と作品に浸る心地よさを味わい、しばらくその絵の前に立ち尽くしていた。
すべての絵画を見終えた茉莉が再びエントランスに戻ると、先ほど見たガジュマルのポストカードが販売されていることに気づいた。あの絵の前に立った時の昂りを思い出し、ポストカードを手に取ってエントランスの女性に渡すと、女性から声をかけられた。
「この絵、いいですよね」
「はい、とても。まるでキジムナーが住んでいそう」
絵を見たときの高揚感を残したまま茉莉がうっかり口を滑らせると、茉莉から画面にバーコードが表示されたスマホを見せられた女性は、茉莉の言葉に戸惑うこともなく、バーコードを読み込みながら会話を続けた。
「実は私、子どもの頃にキジムナーの家で遊んだことがあるんです。この美術館の隣にある公園のガジュマルなんですけどね」
女性からレシートを受け取った茉莉の動きがびっくりして止まっても、このあたりに住んでいた人たちの間ではよく聞く話なんですと、女性は話を続ける。
「子どもの頃にキジムナーに何かをあげると、そのお礼にキジムナーがお家に招待してくれるって。私はキジムナーの髪の色と同じ、赤色の絵の具をあげて中に入ったわ。それからしばらく、夕日を描く度にどうしようって困っていたっけ」
予想外の角度からの思わぬ情報に動揺を隠せないまま、茉莉はようやく、目の前の女性に聞いておかなければならないことを聞いた。
「あの、その、キジムナーの家って、中がどうなっていたかとか、覚えていますか?」
「それがみんな、家の中のことは全く覚えていないの」
ほんと、不思議よね。そういって笑った女性からポストカードを受け取る。絵画の世界から抜け出せないままでいるようなふわふわとした気持ちのまま、茉莉は美術館を後にしたのだった。
茉莉は再び公園に戻り、エントランスの女性から聞いた言葉を消化できないまま、ベンチに座って目の前のガジュマルを見る。あのガジュマルが、キジムナーの家。そして、キジムナーに贈り物をすれば、キジムナーの家であるガジュマルに招かれ、あの中に入れる。唐突に訪れた、求めていた問題の答えに茉莉は困惑する。しかし、すべての問題が解決したわけではなかった。今の茉莉には、あのガジュマルに住むキジムナーの姿は見えない。そのため、キジムナーに贈り物を渡すこともできない。どうすればキジムナーに会うことができる? あともう少しなのに! 茉莉が途方に暮れていると、右手に持っていた茉莉のスマホから通知を知らせる音がタイミングよく鳴った。茉莉が通知を確認すると、それは姉の季紗からの連絡で、今日の夜の便で帰ることと、国際通りのシーサーを背景に撮られた季紗と拓海の写真が添えられていた。その写真を見た茉莉はあることを思い出し、大急ぎで自分の車に向かって走りだした。
「おばあちゃん」
「あら、まつりちゃん」
茉莉が大急ぎで向かったのは、茉莉の祖母の家だった。
「昨日話してたシーサーの箸置き、まだある?」
「あるよ」
「ちょっと、見せてほしいんだけど」
突然の訪問に加え、どこか切羽詰まった様子の茉莉に、祖母はひとまず落ちつくよう促した。祖母の言葉で茉莉は深呼吸をくり返したが、逸る気持ちは抑えられない。そのような茉莉の心境を察したのか、祖母は言葉を変えた。
「ね、茉莉ちゃん、お昼ご飯食べた?」
「そういえばまだ食べてないかも」
時刻は十五時を過ぎていたが、朝から動きっぱなしで、自宅に戻ったときに家にあった姉との宴会の残りを少し食べただけだった。
「じゃあおばあちゃん、今からシーサーの箸置き探すから、冷蔵庫にあるのを食べながら、ちょっと座って待っててくれる?」
「……うん」
染み入るような祖母の優しさに気持ちがほどけ、茉莉はようやく、空腹を思い出した。
茉莉が冷蔵庫で見つけたオムライスを温めて食べ、お湯を注いで作った春雨スープをすすっていると、タンスの中を探っていた祖母がシーサーの箸置きを見つけた。祖母から手渡された箸置きをよく見てみると、シーサーの口が開いている。やっぱり。茉莉はシーサーの口元を見て、ほっと胸をなでおろす。引っ張り出した荷物を整理し終えた祖母がいつもの座椅子に座り、茉莉はオムライスと春雨スープを食べ終え、ごちそうさまをして、取り出された箸置きにスプーンを置く。座りの良い位置に落ちついた祖母が空になった皿とシーサーの箸置きを見て、茉莉に声をかけた。
「それは口を開けているから、福を呼び込むシーサーだね」
「そうなんだ」祖母の言葉に、茉莉が素直に頷く。
「茉莉ちゃんは、どうしてそのシーサーを探しに来たの?」
「少し、このシーサーで確認したいことがあって」
茉莉は大きく口を開けたシーサーの箸置きを見たあと、祖母の顔を見た。
「口の開いているシーサーはお姉ちゃんのでね、私のは、口が閉じている方だったの」
だからこれは、お姉ちゃんのシーサー。壺屋の焼き物屋さんで二人がひとめぼれした、やちむんシーサーの箸置き。季紗は口の開けている方を、茉莉は口が閉じている方を気に入り、互いが互いのシーサーを大切に持っていたのだ。
「でも私のシーサーは昔、キジムナーにあげたの」
父からシーサーの箸置きを買ってもらった日の夜。茉莉は買ったばかりのシーサーを持って、あの公園でキジムナーに会った。そしてガジュマルの下でキジムナーの手にシーサーを置いた瞬間、茉莉の見えていた世界が翻り、ガジュマルでできたキジムナーの家に招待されたことを、茉莉は思い出したのだった。
「おばあちゃん、やっぱり私も、小さい頃にキジムナーに会っていたみたい」
ようやくちゃんと、思い出せた。茉莉は口の閉じたシーサーの不在を通して、自分とキジムナーの繋がりを確認しに来たのだった。祖母は全く状況がわからなかったが、あえて深くは問いかけず、このシーサーを貸してほしいと言う茉莉の願いを快く受け入れた。
「まつりちゃん」
シーサーを持って帰ろうとする茉莉の背中に、祖母が呼びかける。
「口を開けている方は福を呼び込むシーサーで、閉じている方は、呼び込んだ福を守るシーサーなんだよ。だから二つのシーサーは、一緒にいなきゃだめなの」
「うん」
「おばあちゃんには何が何だかよくわからないけど、気をつけてね」
何もわからないのに笑顔で送り出してくれる祖母に、茉莉も笑顔を返す。
「ありがとう、おばあちゃん。行ってくるね!」
そう言って茉莉は祖母の家を後にして、再び大学へ向けて車を走らせたのだった。
予定通り十七時に研究室で亀島と合流した茉莉は、再び顕微鏡の前の丸椅子に座り、亀島と互いの得た情報を交換しあった。植物男と出会った場所のガジュマルにはキジムナーが住んでいて、そのキジムナーの家に招かれた人がいたこと。その人によると、キジムナーにプレゼントをすると、キジムナーの家であるガジュマルの中に入れること。そして、かつて茉莉もキジムナーの家に招かれ、そのときにプレゼントしたのがシーサーの箸置きだったこと。到底信じられないはずの話を、亀島は黙って聞いてくれた。そして茉莉が祖母の家から持ってきたシーサーの箸置きを見せると、亀島が質問を投げてきた。
「どうして茉莉さんがあげたはずのシーサーがここにあるんですか?」
「これは私のじゃなくて、お姉ちゃんのシーサーなの。だから、これがあれば、あの公園からガジュマルに入れるんじゃないかと思って」
亀島は「なるほど」と一言つぶやいた後、茉莉さんの話で気になる点がいくつかあります、と言った。亀島の言い回しに理系っぽさを感じながら、文系の茉莉は小さく構える。
「まずはこれを」
そう言って亀島は茉莉に一枚の紙を渡した。メモ帳からちぎられたようなその紙には、走り書きで「ガジュマルの家、キジムナー、宜野湾」という文字が記されていた。宜野湾とは、茉莉と植物男が待ち合わせをしている公園のある場所だ。
「標本庫の机の上に、このメモが残されていました。あの標本庫に出入りする人の誰の筆跡とも異なるので、恐らく植物男さんが残したメモだと思います」
「亀島さん探偵みたい!」茉莉がキラキラした目で亀島を見ると、亀島は少し照れながら言葉を続ける。
「そのメモが植物男さんの残したものだとしたら、おそらく、植物男さんも茉莉さんと同じ結論に至っていたのだと思います」
「たしかに」
「それなのにどうして植物男さんは、宜野湾のガジュマルから中に入ろうとしなかったのでしょうか?」
「なるほど」確かに亀島の主張は筋が通っていた。
「キジムナーに贈り物をする必要があるってことを知らなかったとか?」
「その可能性は考えられますが、そもそも、茉莉さんはあの場所でキジムナーを一回も見ていないんですよね?」
「子どもの頃には見かけたことがあるけど、この数日間では、一回も見てない」
「昨日、植物男さんが入ったガジュマルでは奇妙な動きをしていたにも関わらず、宜野湾のガジュマルではそのような動きもなかったんですよね。そうなのだとしたら、宜野湾のガジュマルには今もまだ、本当にキジムナーが住んでいるのでしょうか?」
亀島の発言は当然の疑問だった。確かに、昨日見たガジュマルと公園のガジュマルには異なる点がある。植物男はいつも公園でキジムナーの話をしていたが、その言葉が事実かどうかは分からない。しかし昨日の植物男との会話や自分の記憶から、まだあの場所にはキジムナーがいる自信が茉莉にはあった。しかし、その根拠を客観的に示せと言われると、示せるようなものは何もない。
「それは確かに亀島さんの言う通りかも。でもあの人は、昨日入ったガジュマルは、キジムナーを探し求めている段階のガジュマルだって言ってた。だから、もうキジムナーがいる公園のガジュマルとは異なる動きをしていた可能性はあるよ。私にキジムナーが見えないのも、そのせいかも」
だから、挑戦してみる価値はあると思う。茉莉はそうきっぱりと言い切った。
「植物男さんが入ったガジュマルと、宜野湾のガジュマルは繋がっているのかどうかもわからないんですよ?」
「繋がっていても、そうでなくても、出入りの仕方がわかれば一歩前進できるし」
「この入り方が安全かどうかもわからないですし」
「まあ、私も美術館の人も戻ってこられているし、大丈夫じゃない?」
「茉莉さんは意外と大胆ですね」
「ありがとう」
「褒めてないです」
え? 全く意味が分からずに茉莉が首をかしげていると、亀島が笑った。
「自分が気になったことは全部聞きました。あと、自分が茉莉さんのためにできることは、なにかありますか?」
亀島の最後の言葉を通して、彼女のこれまでの質問が彼女なりのエールなのだと茉莉は気付く。私が亀島さんにお願いしたい事。全く逆の立場だけれど、昨日の植物男と自分の状況と似ていると茉莉は思った。このあと、植物男に「手を握ってくれ」と言われ、茉莉は激怒したのだった。あの男と同じことは、したくない。私は亀島に、何を求めるべきなのだろうか。私は一体、彼女にどこまで求めていいのだろう。
「……公園までの送迎を、お願いしてもいい?」
喜んで、といった亀島の言葉に、茉莉の中で何かが小さく引っかかった。しかし原因は分からないまま、茉莉と亀島は研究室を後にして、亀島の車がある駐車場へと向かった。
「あ、」
「どうしました?」
「あ、いや、なんでもない」
先ほどは言葉にならなかった小さな引っかかりの原因が、亀島の車の助手席に乗り込んだ瞬間に茉莉の頭に浮かんだ。
「そうですか。では、公園の場所を教えてもらってもいいですか?」
亀島に促されて茉莉がいつもの公園の場所の情報を送ると、亀島は自分のスマホで位置を設定し、車を走らせ始めた。時刻はもう十九時を回っており、薄暗い街灯しかない大学内の道路に、車のライトが照らされる。
「大学、真っ暗だね」
「そうですね」
そういいながら亀島は北口から大学を出て、突きあたりを右に曲がった。亀島のスマートフォンには目的地まで十五分と記されている。茉莉を気遣ってか、亀島は何もしゃべらなかったので、茉莉は先ほどの気づきを思い出す。先ほど茉莉が気づいたことは、結局自分も植物男と同じことを亀島にしているという、実にシンプルな事だった。
あのとき茉莉は、本当は植物男と似たことを亀島に求めたかった。私に困ったことがあったら助けてくれと言いたかった。でもこの願いの重さを茉莉は理解しており、だからこそ、先ほどはその言葉を口にしなかった。一方的な信頼を亀島に投げることを躊躇ったのだ。でも、たとえ茉莉が「助けて」と口にしなくても、彼女は私が困っていたら助けてくれる。きっと、私じゃなくても助けてくれるだろう。茉莉はそのことに、車に乗った瞬間に気づいたのだった。本当に彼女を巻き込みたくなかったのなら、茉莉は彼女にすべてを話してはいけなかった。彼女に出会い、全てを話してしまった時点で、自分は植物男と同様、図々しくわがままな人間だったと気付いてしまったのだ。
「亀島さん」
「なんですか?」
交差点で右折するための信号待ちをしていた亀島が、茉莉を見た。
「わがままに付き合わせてごめんね」
優しい彼女を巻き込んだ自分は、植物男と同様、図々しくてわがままな人間だ。でも、それが私なのだ。仕方ない。でも、私は自分のわがままを自覚できた。そしてこれから、自分のわがままで亀島に迷惑をかけることも、知っている。
「全部終わったら、一緒にご飯、食べに行こうね」
だから私もいつか、亀島さんのわがままにいっぱい付き合おう。亀島さんが困っていたら、いつでも必ず、全力で彼女を助ける。その日を楽しみに、でも、たとえそんな日が来なくても、結局一緒にいるのが楽しいから一緒にいる。そんな気がした。だから今は、いっぱいわがままを言うんだ。そんなことを茉莉は考えた。
茉莉の言葉に、亀島は茉莉と目を合わせ、いつもの落ち着いた声で、「よろしくお願いします」と言葉を返した。
明日の朝に再び迎えに来てもらう約束をして亀島と別れ、いつもの公園の前で車から下りた茉莉は、入口から街灯に照らされるガジュマルと目が合った。植物男と出会った最初の日以来の、夜のガジュマル。もちろんキジムナーの姿はない。少しの期待を込めて近づき、ガジュマルの気根にも触れてみたが、先日のガジュマルのように絡みつく様子もなかった。
「ねえ、本当にいないの?」
いつも植物男が立っていた場所に立ち、茉莉はガジュマルに声をかける。もちろん、茉莉の期待したような返答はなく、茉莉の耳に届いたのは、秋の風がガジュマルの葉をゆらす音だけだった。茉莉はポケットから口の開いたシーサーの箸置きを取り出し、ぎゅっと握りしめ、心の中でキジムナーに語りかける。今まであなたのことを思い出せなくて、本当にごめん。でも私は、あの人を助けたい。そしてもう一度、あなたにも会いたい。
「会いたいんだよ」
茉莉に小さな異変が起きたのは、その言葉の直後に瞬きをしようと目を閉じた瞬間のことだった。瞼を下ろした勢いで身体にかかっていた重力がすべて足元に移動し、バウンドして身体が浮くような感覚を味わう。しかしそれはほんの一瞬のことで、茉莉の身体にかかるすべての重力が元の位置に戻ると、今度は茉莉の五感が周囲の異変を感じ取った。耳からは突然つんざくようなセミの声が聞こえ、真っ黒だった瞼の向こう側が少しだけ明るくなる。肌には照り付ける太陽の日差しと、じめじめとした風があたり、遠くから微かに海の匂いがした。まるで急に真夏の沖縄に来てしまったような感覚だった。
茉莉が瞼を上げると、目線の先には、先ほどと同じくガジュマルの樹がある。しかしそのガジュマルは街路灯ではなく太陽に照らされており、ガジュマルの根元は白い石垣で囲われていた。状況が飲み込めないまま茉莉があたりを見回すと、遊具も美術館も、公園の向こうにあるはずの道路すらなく、ガジュマルの周辺には石垣に囲まれた赤瓦屋根の家が数件と、背後に白い砂が敷き詰められた道が一本あるだけだった。茉莉の右側には石垣と石垣の切れ目があり、石垣の奥に目隠しの塀であるヒンプンが見え、その奥には小さな民家が見えたが、人の気配はどこにもない。
「……え、ここ、どこ?」
ここがキジムナーの家なのだろうか。茉莉の質問に答えてくれるものはなく、ただ周りに穏やかな空気が流れるだけ。茉莉は途方に暮れそうになったが、ぐっとこらえて気持ちを切り替える。まずはここで、キジムナーを探す。どこかもよくわからない場所で、いるのかどうかもわからない存在を探すことに不安を覚えたが、まあ、来てしまったものは仕方ない。とにかく、キジムナーを探す。たとえキジムナーが見つからなくても、この場所から出口か植物男につながる道が見つかれば、それでいい。
ひとまずこの場所についてもっとよく知りたいと思った茉莉は、目の前の家に入る前に、辺り一帯を散策してみることにした。まずは正面から石垣に添って白い砂の道を進んでみる。すると、徐々に小学校や御嶽、郵便局などの建物が見え始め、さらに奥に進むと、再び別のガジュマルがあり、ガジュマルの周辺に赤瓦の屋根を持つ家を見つけた。どうやらガジュマルの周辺には集落が形成されているようだったが、人の気配だけがどこにもなかった。
どこまでも完璧な景観にも関わらず、人の気配だけがないこの場所に不気味さを覚えながら、茉莉は人がいなくても不思議ではない、別の集落がある道とは反対の道に向かって歩き始めた。自分の背丈の二倍はあるさまざまな植物の集まりでできた壁と、壁と壁の間に広がる無限の青空。手前と奥で異なる空の色を追いかけながら、風で揺れる植物たちの木陰を踏みつつ進んでいると、視界の先に海が見えた。緑のアーチを抜けた先に見える砂浜とコバルトブルーの海に高鳴る鼓動をおさえながら歩みを進めていると、アーチを抜ける直前で、左から急にひやりと冷たい風が吹き抜ける。思わず茉莉は立ち止まり、左側に顔を向けた。
茉莉の視線の先にあったのは、先の見えない植物のトンネルだった。ハート形の葉や楕円型の葉などをもつ、様々な種類の植物たちに覆われ、空が見えないそのトンネルは奥が見えないほど真っ暗で、茉莉はこの場所で、これまで感じた事のない恐怖を覚えた。まるで自分の心の輪郭を、知らない誰かの冷たい手で撫でられるような。そんな禍々しさを、このトンネルは持っていた。だけど恐ろしいのに、思わず入ってしまわずにはいられないような。思わず茉莉はトンネルに向けて一歩、足を踏み出そうとした。しかしその瞬間に不自然なほど強い風が吹き、茉莉の身体を海の方へ押した。茉莉は奇妙な風に首をかしげながらも、その風にしたがい、海に向かって足を進めた。
海岸の先から陸地の輪郭を見て、どうやらここは小さな島になっているようだと結論付けた茉莉は、しばらくコバルトブルーの海の青さに見惚れ、砂浜に座って海の風に身を任せてから再び最初の場所に戻った。海を見て少し気持ちが落ち着いた茉莉がゆったりガジュマルの前に戻ると、再び強い風が石垣と石垣の狭間にある民家に向かって茉莉の背中を押した。やたらと主張の強い風だなと思いながら、「おじゃまします」と口に出し、お辞儀をしてから、茉莉はヒンプンを越えて中に入った。
ヒンプンの先にある赤瓦屋根の民家には、玄関が無かった。玄関の代わりに縁側から出入りするようで、縁側から室内にある畳へ向かって、まるで子どもが駆け抜けたかのような一直線の汚れの跡が残っていた。ここにきてようやく見つけた何者かの気配にほっとしたものの、少しだけ不安に陥りながら、その汚れを辿るようにして部屋の中をのぞく。人気のなさは相変わらずだが、畳の部屋の机の上に、表面に筋が入ったオレンジ色の丸い実や、鋭い針のような葉でつくられた虫かご、堅い緑の葉を組み合わせて作られた風車など、自然のもので作られたおもちゃが乱雑に散らばり、つい先ほどまでここで子どもが遊んでいたかのような気配が残っていた。
「…もしかして、キジムナー?」
もちろん、茉莉の呼びかけに応じる声はない。しかしどこかにいるような気がして、茉莉は部屋に上がってキジムナーを探す。縁側を踏み越え、畳の広間で周囲を見まわし、左隣の板間と奥にある台所をのぞき込む。台所から板間に戻り、畳の部屋の奥にある物置のような部屋も見たが、求める相手の姿はない。しかしそのかわりに、物置のような部屋の中で、何度もとり出されてくたくたになった段ボールをひとつ見つけた。茉莉は物置の中に入って段ボールの中をのぞきこんだが、物置全体が暗くてよく見えない。そこで茉莉は段ボールを持ち上げ、畳の部屋へ持っていくことにした。
畳の部屋へ戻ってきた茉莉が机の横に段ボールを置き、座って中を覗いてみると、そこにはがらくたが箱いっぱいに収まっていた。そして箱の一番上には、赤い絵の具が乗っている。
「もしかして、これ……」
美術館の人が言っていた絵の具? もしかしてここは、本当に。茉莉は思わずひとりごとが出てしまうほど動揺し、息をのむ。咄嗟にあたりを見まわしたが、やはりキジムナーの姿はない。もっとキジムナーに繋がる情報が欲しくて、茉莉は箱の中身を取り出そうとしたが、なんとなく直接触れるのが怖くて、静かに箱を横に倒して箱の中身を床にばらまいた。
箱の中からは、コマやジュースの瓶、キラキラ光るチョコレートの包み紙といった昔のものから、青いたぬきの指人形、壊れたゲーム機といった最近のものまで、子どもが好みそうながらくたばかりだった。そしてその中に、茉莉が失くしたはずの口の閉じたシーサーの箸置きも見つける。箸が置けるよう背中の部分が長く伸びた、やちむんシーサーの箸置き。口がへの字に曲がったシーサーの顔が、こちらをじっと見つめている。茉莉が他のガラクタに触れないよう気をつけながら、恐る恐るシーサーを手に取ると、不思議なことに、子どもの頃の茉莉がキジムナーと過ごした日々の記憶が茉莉の頭に流れ込んできた。
父に連れられてやってきた、ガジュマルのある夕方の公園。ガジュマルの上で茉莉をじっと見つめる赤髪の少年の視線の鋭さに怯え、父の腕にしがみついたときの感触。しかしあまりにも強い眼差しと、美しいコバルトブルーの瞳に惹かれ、目が離せなかった記憶。そしてその日の夜に再び祖母の家にやって来た赤髪の少年とともに、夜の海ややんばるの森、そしてガジュマルが見守るこの家で一緒に遊び、笑いあった時間。茉莉はようやく、キジムナーとの記憶を全て思い出した。
茉莉が唐突によみがえったキジムナーとの記憶を持て余し、身体の力が抜けて手からシーサーを手放した瞬間、再び奇妙なことが起こった。植物のトンネルとヒンプンの前で吹いた強い風が再び茉莉の背中から強く吹き抜け、普通の風では鳴るはずのない、床に散らかった三枚の板が連なるカスタネットのようなものがカツンと音を立てたのだ。外の風はずっと縁側から部屋に向かってゆるやかに吹き抜けていたはずなのに。現在、外からの風は不自然なほどに止まっていた。そして再び、茉莉の背中を押すように、背後から不自然な強い風が吹く。まるでなにかが、風を使って「ここにいるぞ」と主張しているかのようだった。
そして今この家に居るのは、茉莉以外に、たったひとりだけ。
「……ねえ、キジムナー。あなた、ここにいるんでしょう?」
茉莉の言葉に応じるものは何もない。気配だけは感じるのに、どうしても茉莉にはキジムナーが見えなかった。ここまできたのに。おそらく今、そこにいるのに。私はあなたと話がしたいだけなのに!
茉莉の熱意が伝わったのか、再び先ほどの三枚の板が、また少しだけ鳴った。後ずさりした足が板に当たり、思わず、といった音だった。その音を聞いて、茉莉は咄嗟にこれだ、とひらめく。
「もし私の言っていることが聞こえていたら、一度だけ、その音を鳴らして?」
私は、あなたと話がしたいの。茉莉の言葉からしばらく経った後、板と板がぶつかりあう軽やかな音が、一度だけ部屋に響いた。やっぱり。茉莉はキジムナーの存在を確信した。
「はいなら一回、いいえなら二回、その音を鳴らしてくれる?」
茉莉がそう言うと、再び一度、音が鳴った。
「あなたは子どもの頃、私と一緒に遊んだキジムナーなの?」
しばらくの沈黙の後、控えめな高いカン、という音がした。
「ここは、あなたのお家?」
再びカン、という音。
「ひとりで暮らしているの?」
この言葉には何も反応がなく、返事に困っているようだった。
「答えたくなかったり、答えられなかったりしたら何も鳴らさなくてもいい。でも、三回鳴らしてくれると、私は嬉しい」
茉莉がそう言うと、見えないキジムナーはまた、一度だけ音を鳴らした。
「……私にはあなたが見えなくなっても、あなたには私が見えていた?」
茉莉の言葉の後に、寂しげなカンという音だけがぽつりと、静かな部屋に響いた。
キジムナーの感情はとても単純で、単調な音を通してでも、茉莉はキジムナーの鳴らし方の違いだけで彼の感情を理解することができた。
一回の強い音なら、積極的な肯定。一回の弱い音なら、気乗りのしない肯定。横にこするように板を動かして音を鳴らしていたら、少し拗ねたような気持ち。無回答な内容でも「早く次の質問をくれ」と言わんばかりに茉莉に向かって風を吹かせたり、照れているときには庭にあるハイビスカスの葉を揺らしに行ったりと、目には見えなくても自由に振る舞うキジムナーの姿が茉莉の目に浮かぶようだった。そしてキジムナーも、音を通して自分の気持ちを表現することを楽しんでいるようだった。
「公園で見かけたあの男の人こと、わかる?」
茉莉が植物男の話を振ると、短く擦る音が一回返ってきた。不機嫌なイエス。しかし音は軽やかなので、ちょっと拗ねているくらい。
「あの人が今、どこにいるか知っている?」
少し間があったあとに、一度だけ小さな音が鳴った。躊躇っているような音。
「私ね、あの人のところに行きたくて、ここまで来たの」
カツ、と小さな音がした。肯定というよりも、キジムナーの戸惑いを表したような音だと茉莉は思った。しかし茉莉はひるまない。
「私は、あの人を助けたい」
だから、あの人のいる場所を教えてほしい。茉莉の言葉に、板を横に動かす音がした。カンカン、という、初めて茉莉の質問を拒否する音だった。
「どうして?」少し寂しげな音が、三回。
「怒ってる?」淡々とした音が、二回。
「私のことが、心配?」
再び淡々と、一回。まだ、十分に表現しきれていない感じ。なんとなく思いついた言葉を、茉莉は口にした。
「……寂しい?」
茉莉の言葉に、消え入りそうな音が一度だけ、部屋に響いた。キジムナーの答えに対する次の質問が浮かばず、長い沈黙が続く。「寂しい」というキジムナーの気持ちは、茉莉にも少しわかるような気がした。
この場所には沖縄の原風景が残っており、とても美しく綺麗だ。しかしこの場所には、キジムナー以外の何の気配もない。どれだけ美しく、どれだけ綺麗な場所でも、自分一人しかいなければ、どれだけ寂しいことだろう。
キジムナーは自分の寂しさを持て余し、時々子どもを招き入れては、その子どもたちとひと時の楽しさを味わう。しかしそれも一瞬の楽しさでしかなく、茉莉を含めたキジムナーと遊んだ子どもたちはやがて自分の家に戻り、しばらくすると彼を忘れる。そしていつのまにか大人になって、キジムナーの姿まで見えなくなる。それでもキジムナーは大人になれず、今もなお、子どもたちが残したおもちゃを何度もとり出しては自分を慰め、同じ場所で生き続け、そしておそらく、大人になってしまった子どもたちを、いつも心のどこかで待ち続けているのだと、茉莉は思った。
もう二度と戻ってくる事のない相手を待ち続けることほど、苦しく悲しいことはない。そしてキジムナー自身はおそらく、自分でその気持ちに気づいていない。それはどれだけ寂しく、悲しいことだろう。しかし、キジムナーを見ることもできなければ、ずっと一緒にいることもできない茉莉が彼にできることは、何もなかった。
「大丈夫。私はちゃんと戻って来るよ」
今の茉莉がキジムナーにできることは、今の彼の寂しさを少し和らげることだけ。茉莉は口の閉じたシーサーの箸置きを、キジムナーが音を鳴らす板の近くに置いた。
「だから、あの人のいる場所を教えて?」
茉莉の言葉に音での反応はなく、その代わりに、先ほど立ち寄った浜のわき道にあった、真っ暗な場所が茉莉の脳裏によぎった。
「……あの人がいるのは、東の海のわき道にそれた、植物のトンネルの奥?」
自分自身で思いついたのか、キジムナーが教えてくれたのはわからない。しかし静かな板の音が一度、口の閉じたシーサーの隣でわずかに鳴った。
キジムナーが音を鳴らしていた場所に向かって「いってくるね」と声をかけ、茉莉はキジムナーの家を後にした。キジムナーの家を見守っているガジュマルにも一度だけ目を向けて、茉莉は東の海に向かって走り出す。
茉莉が再び植物のトンネルの前にたどり着くと、先ほどと同様、そこには禍々しい雰囲気が漂っていた。足元では緑が濃い針状の植物や、ふわふわとした白い毛が生えたへら型の葉をもつ植物、しなやかで細長い剣のような葉が集まってしなだれる植物など、さまざまな形の違う植物が海を遮っている。視線を上げると、立派な幹にハート形の葉が集まる植物や、樹形全体を盾状の葉が覆う植物、ガジュマルよりも緑が濃い小判型の葉が集まり、好きな方向に伸びる植物が空を隠していた。茉莉は先ほどと同様、植物のトンネルの先に目を凝らしたが、やはり何があるのかはわからない。今度は恐ろしさの奥にある誘惑にしたがって、トンネルの中に入る。
トンネルの中は、外と同様、道に海岸の白い砂が敷かれ、右からは波の音が響いていた。トンネル越しに海の匂いがして、入る前に感じていた恐ろしさはどこにもない。しかし、茉莉が歩みを進めるにつれ、砂の数が減り、波の音と海の匂いが遠のき、植物の数が減りはじめ、入口で感じた恐ろしさが姿を現し始めた。少しずつ周りの音やものが消え去り、消え去ったものがあった場所に霧がかかる。霧の中には何かがあるように見えるけれど、具体的に何があるかと言われると何の名前も挙げられないような。奥に進むほどに面積を増していくその霧の中に飛びこんでしまいたい衝動と、まだ飛び込んではいけないと叫ぶ本能が、茉莉の心の中でせめぎ合っていた。
茉莉はついに、最後のひとつの植物を残してすべてが消え去った場所にたどり着いた。ここから先は、わずかながらに形を残していた道も消え去り、ただ白い霧だけが広がっている。きっとこの先に、昨日のガジュマルと植物男がいるのだろう。ついにここまで来てしまったのか。今からでも引き返せないかと、わずかに頭の隅で考える。しかし、誰よりも茉莉自身が、戻るつもりなどないことをよく知っていた。茉莉は自分の心の中で植物男のいる場所と、目的の場所へたどり着く自分の姿をイメージして、深く息を吐く。すべての息を吐ききった後に大きく息を吸い込み、呼吸を整える。そしてゆっくりと一歩、霧に向かって足を踏み出した。
白い霧の中は、茉莉の予想に反して真っ暗な世界だった。さまざまな黒がせめぎ合うことでなんとか絶妙なバランス保っているような、どこか歪で気持ち悪い世界。そんな世界の中で、茉莉の前にぼんやりと、しかし迷いなく真っすぐと、明るい道が一本だけ伸びている。この道の先に、あの男とガジュマルがいる。太くもなければ細くもない、茉莉一人だけが歩けるような、真っすぐで平坦な道。しかしどこか脆そうで、今にも壊れてしまいそうな道。その道の上を、茉莉は自分の足で進んでいく。
最初は何事もなく順調だったが、徐々に周りの様子がおかしくなってきた。先ほど、キジムナーの家でシーサーの箸置きに触れたときと同じように、自分の幼い頃の記憶が映像となり、真っ暗な世界に映し出され始めたのだ。
それらの映像は、茉莉の印象に残っている記憶を取り出し映しているようだった。幼稚園に向かう道の途中で転んで大泣きした記憶や、テレビの字幕を追いながら言葉と映像が同じものを表すことを不思議に思った記憶、姉よりも先に食べ終われずに悔しい思いをした記憶。それらの記憶の映像は、今の茉莉の心の揺らぎを感知しているようで、今の茉莉がわずかに揺らいだ記憶を使って感情を揺さぶり、動揺させ、茉莉の動きを止めようとしているようだった。
茉莉の心を揺さぶる〝なにか〟は、姉と父に関する記憶を繰り返し茉莉に見せた。家族のことを思って自分の心や言葉を飲み込み、笑顔を作っていた頃の自分。自分の気持ちを真っすぐ父にぶつけ、衝突する姉。姉のことばかり心配する父からかけられた、「お前は大丈夫だろう」という言葉に、なにかの糸が切れた瞬間。確かにこれらは、かつての茉莉にとっての悲しい記憶だった。しかし今の茉莉にはもう、これらは悲しい記憶ではなかった。これらの記憶だって、今の自分を形作る大切なものだ。映像を見ながら素直にそう思えた自分に、何より茉莉自身が一番驚いた。
最終的に茉莉の心を揺さぶろうとしている〝なにか〟は、茉莉に映像を見せるのをやめ、茉莉の前に幼い頃の茉莉を置いた。意味も解らず泣きじゃくり、近づいてきて不安そうに今の茉莉の服と口の閉じたシーサーの箸置きを握る幼い頃の茉莉が、今の茉莉を見つめている。その姿に茉莉は思わず泣きそうになったが、ぐっとこらえ、その子どもの前にしゃがみこんで、優しく彼女を抱きしめる。
「ごめんね」
茉莉は、幼い頃の自分に語りかけた。
「悲しいよね。苦しくてしかたなかったよね。救ってあげられなくてごめん。だけど大丈夫だよ。未来の私は今、前に向かって進んでいる」
今の茉莉の身体をぎゅっと握る幼い頃の自分に、茉莉も抱きしめる力を強くする。
「子どもの頃に描いた理想の自分にはなれなくても、私は、今の私のままで生きていくよ」
茉莉のその言葉を最後に、幼い茉莉の姿は消え去り、茉莉の心を揺さぶる〝なにか〟は、茉莉に干渉することをやめた。そして、どこか不安定だった足場が少しだけ固くなり、ぼんやりとしていた道が確かな輪郭を持ち、この空間全体が少しだけ明るくなった。そして遠目に、昨夜見たガジュマルを見つける。茉莉は少しだけ歩きやすくなった道をしっかり踏みしめながら、ガジュマルへと向かって走り出した。
茉莉のたどり着いた先には、真っ暗な世界にとり出された昨日のガジュマルと植物男の姿があった。植物男は昨日の夜と同じ姿のまま、ガジュマルに絡みつかれた状態で昏々と眠り続けているようだった。男を見つけだした茉莉の心には、ようやく会えた喜びと目覚めない不安、そして男の身勝手な行動に対するわずかな怒りが息の上がった身体の中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、先ほどの映像を見せられたときよりも多彩で複雑な感情が茉莉の心を支配していた。
「なに、してるのよ」
男に言いたいことは山ほどあった。出来れば殴ってやりたいくらいだった。それでもなにより、再びこの男に会えたことを、茉莉の身体が、心が、自分でもどうしようもないほどに喜んでいるのが、茉莉は何より腹立しかった。
しばらく自分の中で現れては消える様々な感情に身を任せ、心が落ち着くのを待ち、茉莉は状況を確認しなおす。目の前には昨日のガジュマルと、それに囚われたままの植物男。植物男の意識はない。つまり、身体はここにあるが、この男の心はまだ、どこかに行ったまま戻ってきていないのだろう。この男の心がどこにあるのかはわからないが、連れ戻し方はもう、知っていた。
「ねえ、起きて」
茉莉はそう言いながら、昨晩と同様、植物男の右手を握り、目を瞑った。
茉莉が再び目を開けると、そこには先ほどの真っ暗な場所とは対照的な、どこまでも白い、無機質な空間が広がっていた。その空間の中心には、真っ白な病院着で立ち尽くす美しい女性と、女性の前でうずくまり、顔を覆う植物男の姿。うずくまる男の背中にはガジュマルのような根を持つ植物が絡みつき、男の身体全体を締め付けている。おそらくこれが植物男の心の中で、おそらくこれが、ここまでの道中で茉莉が見せられたような、この男を苦しめる記憶なのだろう。植物男より先に女性が茉莉に気づき、茉莉に向かって微笑む。その笑顔に茉莉は少し怖気づいたが、気にした様子もないその女性は、茉莉に手招きをした後、その場からすっと消えた。その女性のいた場所に茉莉が立ち、少しためらいながら男の肩に触れると、口の閉じたシーサーの箸置きに触れたときと同様、植物男の記憶が映像として茉莉の頭の中に流れ込んできた。
植物男の目の前で屋上から飛び降り、命を捨てようとした先ほどの女性。その女性を救うためにタネと契約し、自分の身体から蔓を伸ばして彼女の命を救ったものの、人間ではなくなってしまった男。そして命は救ったものの、それから一度も目覚めることなく眠り続ける彼女を見つめる男の寂しげな背中。茉莉はこれらの記憶の映像を見て、自分の考えの間違いに気づいた。ああ、先ほどの白い世界はきっと、植物男が心の中で無意識に求めている世界なんだ。この男はきっと、誰も何も言ってくれない現実に耐えかねて、静かに消えた彼女に責められ、タネに苦しめられる自分をこの場所に作り出したのだ。キジムナーが暮らす沖縄の原風景を模したあの世界とは違う、悲しく冷たい大人のネバーランドを、目の前の男は作り出したのだ。
「どうしてあなたは、そこまで自分を責めるの?」
再び白い世界に戻ってきた茉莉は思わず、そんな言葉を口にした。
「……僕が、殺したんだ」
目の前の男は自分の顔を覆ったままで、声の主が茉莉だとは気づいていないようだった。
「あのときの僕は、彼女の優しさにも、苦しみにも気づけなかった。だから、僕が彼女を殺したも同然だ。僕も彼女と一緒に、死んでしまえばよかったんだ」
最後の言葉に、茉莉は腹が立った。
「それは本当に彼女が望んだこと? あなたは彼女から、直接その言葉を聞いたの?」
「聞いてなんかないけど、そう思っているに決まっている。だって僕がそう思っているんだから」
ああ、この人は私だと、茉莉は思った。今のこの人は、自分の殻に閉じこもって拗ねていたあの頃の私と同じなのだと、茉莉はその言葉でようやく気づいた。
「あなたは彼女じゃないし、彼女もあなたじゃない」
その言葉でようやく植物男は顔を上げ、茉莉を見た。涙でぐちゃぐちゃだったが、初めて目の前の男の人間らしい姿を見たと、茉莉は冷静に思った。
「それに、彼女はまだ生きているのでしょう? 死んでいないのでしょう? だったら、まだやれることはあるはず」
男は何かを言おうとしたが、茉莉は男に口を挟ませる余地を与えなかった。
「それに私は、あなたに生きていて欲しいよ」
茉莉の目からは涙がこぼれたが、気にしなかった。茉莉は袖で静かに涙を拭い、男を見る。
「この場所にいたいなら、ずっとここにいればいい。でも、あなたが彼女を殺したと思っているのならなおのこと、こんなところにいてはいけないと私は思う」
ここにはきっと、なにもない。ここにあるのは、自己満足という名の生ぬるい慰めだけだ。
「私は行くよ。あなたはどうする?」
その言葉を最後に、茉莉は立ち上がる。しゃがみ込んだままの男はしばらく身動きをしなかったが、一度だけ鼻をすすった後、腰を上げ、静かに立ち上がった。
男が立ち上がった瞬間、男の背中に絡みついていた植物がするりと離れ、コロリと一つのタネとなって地面に落ちた。その事実に誰より植物男自身が一番驚いているようだった。転がり落ちた楕円形の黒いタネは、しばらく落ちた衝撃でころころと左右に揺れていたが、やがてその揺れもおさまり、静止した。植物男はただその様子を見つめていたが、少し迷った素振りを見せた後、床に転がっていたタネを拾って、ポケットにしまった。
「……いいの?」
茉莉の言葉に、植物男は静かにうなずく。
「これが、僕の選んだ道です」
植物男がいつもの何を考えているかわからない顔でそう言うと、男の作り出した悲しいネバーランドは消え去り、二人は再び昨日のガジュマルの前に戻ったのだった。
二人が茉莉の来た道を引き返し、道の終わりから一歩、二人で前に踏み出すと、再び植物のトンネルがある場所に戻ってきた。どちらともなく二人が振り返ると、そこに二人の歩いてきた道はもうなく、再び白い霧がかかって何も見えなくなっていた。
「結局、あれはなんだったんですかね」
これはあくまで僕の推測でしかありませんが、と前置きしたうえで、植物男が説明を始めた。
「ガジュマルは取り込んだものの記憶や願望を絡めとり、こちらの世界でコピーして具現化する能力を有しているのだと思います」
茉莉は自分が体験したことを思い出しながら、静かに頷くと、男は言葉を続けた。
「そしてガジュマルは取り込んだものが強い反応を示したものを積極的に具現化し、相手を支配しようとするのだと思います。そして僕は危うく、あのガジュマルに支配されかけていた。茉莉さんとこのタネがいなければ、おそらく取り込まれていたと思います」
「え、タネですか?」
予想外の言葉が飛び出し、茉莉は思わず植物男の左胸を見る。
「はい、そうです」そう言って男は左胸に触れる。
「あの時、僕の中には僕とタネがいました。なので、たとえガジュマルが僕を苦しめる映像を流していても、その映像に対して何の感情も動かないタネがいたことで、少しだけ僕も冷静でいられました。だから茉莉さんが来るまで、僕は僕を見失わずにいられた」
じゃあ、ガジュマルと共存するキジムナーの中にも、いくつかの魂がいるということなのだろうか。茉莉はそんなことが気になったが、言葉にするのはやめておくことにした。
「結局、タネに関する収穫はあったんですか?」
「はい。茉莉さんのおかげで」
「え、私?」
「僕が、僕という人間を認識することができたので、もう大丈夫です」
茉莉には男の言っていることはよくわからなかったが、それを聞くのは野暮な気がした。彼の中でなんとかなったのなら、それで良いか。
「ここまでの道のりで、いろんな植物を見かけたんですけど、どれも名前が全然わからなくて。教えてもらってもいいですか?」
「もちろん、喜んで」
説明を求めた茉莉以上に喜んでいる植物男の隣を歩きながら、二人はキジムナーの家に戻った。二人がキジムナーの家に戻ると、二人の帰宅を喜び、板を鳴らす音が、ガジュマルを囲う石垣の上から何度も何度も鳴り響いた。
「これは三板ですね」
植物男は何事もなかったかのように音の鳴る方に近づき、何もない場所に向かって話しかけた。もちろん言葉による答えはないが、三板という名らしいその板が、一度だけ軽やかに鳴る。
「……え、見えてるの?」
「まあ、はい」
さも当然といったようにそう答えたその男に、茉莉は腹を立てた。
「なんで教えてくれなかったんですか!」
「えっと、なんとなく?」
どうやらキジムナーが見えていたらしい植物男と、三板を打ち鳴らして茉莉に加勢するキジムナーに、「あなたも調子に乗らない!」と怒鳴り、ようやく茉莉の気持ちが少し落ち着いた。なんだこのマイペースな人たちは。まったく!
マイペースという言葉で、ガジュマルの外に待たせているもう一人のマイペースな友人、亀島のことを茉莉は思い出した。私、はやく戻らなきゃ。
茉莉が外の世界に戻ることを植物男に伝えると、男から否定的な言葉が返ってきた。
「もうちょっとゆっくりして行ってもいいんじゃないですか?」
「本当はそうしたいんだけど、外に待たせている人がいるの。だからはやく戻らなきゃ」
「それなら、」何かを言おうとした植物男の言葉を、茉莉は遮った。
「あなたも帰るんですよ? なに自分だけゆっくり植物を見て帰ろうとか考えてるんですか?」
「まだ、なにも言っていませんが」
「違いました?」
返す言葉もなく、植物男は黙り込む。勝った、と思いながら茉莉が優越感に浸っていると、ガジュマルの近くから三板の寂しそうな音が鳴った。茉莉も本当は、もう少しキジムナーと一緒にいたかった。けれど永遠にこの場所に留まることもできなければ、姿を見ることもできない自分や植物男が長居するのは、きっと酷だ。それならばすぐに別れてしまった方がいい。茉莉はキジムナーがいるのであろう三板のある場所にしゃがみ込み、顔を向けた。
「ごめんね」
もっと一緒に遊びたかったよ。でも、ずっと一緒にはいてあげられないから。だから、せめて。茉莉はポケットから口の開いたシーサーの箸置きを取り出し、石垣の上に置いて、最初に立った場所に戻る。植物男もしばらく三板の近くに立っていたが、一度だけガジュマルを見上げた後、再び茉莉の隣に立った。
「ばいばい」
そう言って茉莉は目を瞑り、再び世界が裏返ったような感覚を味わった後、二人は元の世界へと戻った。
茉莉が再び瞼を上げると、ガジュマルが先ほどと変わらない姿で立ち尽くしていた。しかし先ほどまで茉莉を照らしていた夏の沖縄の日差しやガジュマルを囲む石垣はなく、朝特有の白い光と背後から聞こえる車の音、茉莉の視界の片隅で背中を丸めている亀島の姿が目に入った。ああ、戻ってきたんだ。茉莉は隣にいる男の姿を確認し、満足感に浸りながら亀島を見る。しかしどうやら亀島は地面に生えている植物に夢中なようで、戻ってきた背後の茉莉と植物男に気づく様子はない。変わらないマイペースっぷりを発揮する亀島に、茉莉は肩の力抜けた。
「亀島さん」
茉莉が背後から亀島に声をかけると、亀島は一度びくっとしたが、茉莉を見てほっとした表情を浮かべる。
「……すみません、シダを見ていました」
珍しいシダがいて、つい。そういって再び亀島が視線を地面に戻すと、植物男が嬉々としてシダを確認しに行った。二人ともマイペースなんだからと思いながら茉莉も二人に近づき、亀島の隣にしゃがみ込む。すると、シダに夢中だった亀島が急に顔を上げて茉莉を見た。
「おかえりなさい、茉莉さん」
茉莉は一瞬、言葉の意味が理解できず、すべての思考が止まった。そして次に来たのは、大きな喜びだった。
「ただいま!」
亀島は嫌がるだろうと思いながらも、茉莉は亀島に背中から抱きついた。亀島は茉莉の突然の抱擁に驚き、少し怯えていたが、抵抗はせず、大人しく茉莉のされるままにされていた。そんな二人を見守るように、ガジュマルの気根が風で大きく揺れた。
亀島に大学まで送ってもらったあと、どうやら亀島の車の中で今日の昼の飛行機のチケットを取ったらしい植物男が空港まで送ってくれないかと茉莉に頼んできた。亀島が「自分が送ろうか」と提案してくれたが、ここまでくれば最後まで付き合うのが筋だろうと思い、茉莉は植物男の提案を受け入れ、車で空港まで植物男を送り届けることにした。
残り三十分の唐突な別れ。しかしそれがどこかこの男らしいと思いながら、最後の時間を過ごす。車を駐車場に停めて最後まで見送ろうかとも思ったが、それもどこか違う気がして、降車場に車を止め、後部座席に置いた荷物を下ろそうとしていた男に声をかけた。
「植物男さん」
「はい」
「これ、貸しなので」
いつか返しに来てくださいね。茉莉の言葉に、植物男は作業の手を止め、茉莉を見る。
「はい、いつか必ず」
男の言葉に茉莉は思わず笑った。おそらくきっと、この男は返しに来ない。この男はそういう男だ。でも、自分からこの言葉を言えただけでも十分だと茉莉は思った。この男にあげたつもりはなくても、いつの間にか貰ったものはいくつもある。そして自分もきっと、自分の知らないところでいろんな人にあげたり貰ったりしている。人との繋がりとはきっと、そういうものなのだ。
ミラー越しに車を見守る男に手を振って、茉莉は元の道に戻った。少しずつ離れていく男に心の中で静かに「さよなら」を告げ、茉莉は前に向かって車を走らせた。
「さて、と」
男が見えなくなってすぐの空港から三方向に分かれた交差点の信号に引っかかり、茉莉はブレーキを踏む。左は港へ向かう道、右は再び空港へと向かう道、正面はトンネルの先にある那覇市内を抜けて、自宅へと向かう道。時刻は日曜日の午前中のため、信号を待つ車の数は少ない。昨日から動きっぱなしで、茉莉の身体は疲れ果てている。できれば家に戻って、そのまま布団の中で泥のように眠りたい。しかし茉莉にはもうひとり、向き合わなければならない相手がいた。茉莉の父だ。今のチャンスを逃したら、きっとまた、自分は父に何も言えなくなる。そんな気がした。
これまでとこれからの自分のために、私は父に何を伝えなければいけないのだろう。自分は父に、何を伝えたいのだろう。
少しの不安とその中にある小さな楽しみを抱えながら、青に変わった信号に合わせて、茉莉は自分の部屋へと戻るために、正面の道へと車を進めた。
「いただきます」
昼過ぎに自分の部屋へ戻ってきた茉莉が最初にしたことは、腹ごしらえだった。
大学近くのお店で買ってきたゆず塩唐揚げ弁当を片手に部屋に戻り、手を洗った後、ひとまず何も考えずに食べられるだけ食べた。正直あまり食欲はなかったが、お腹が空いて言いたいことが言えなかったら嫌なので、思いっきり唐揚げと米を頬張る。ゆず塩の爽やかさが茉莉の食欲の背中を押し、多いかもと思った白米もすっかりすべてが胃の中に納まった。そして先日から放置されていた食器を洗い、散らかっていた部屋を片付け、胃の中で主張を続けていた唐揚げたちが少し落ち着いてきたところで、ベッドに背をあずけてスマートフォンを手に取る。時刻は午後一時。実家の父も昼食を終え、ひと心地ついたタイミングだろうか。まだもう少し待ってみようか。いつまでも決まらない覚悟を頭の中で弄びながら、茉莉は一つ、ため息を吐く。
父に電話をかける前は、どうしてもやはり、少し緊張する。自分の言葉が奪われてしまわないか。なにより私自身が、自分の言葉を奪ってしまわないか。
自分の主張ばかりで相手を気遣わない、自分の苦しみに気づいてくれない家族に疲れて、茉莉は家を出た。しかし家を出たときの茉莉は、そんな自分の気持ちには無自覚で、そして自分とは全く異なる生き方をする奇妙な男との出会いを通してようやく、茉莉は自分の気持ちと、言葉足らずを自覚した。そして今、かつての自分が父に伝えられなかった言葉を、今の自分が伝えようとしている。
大丈夫、今ならきっと、父に気持ちを伝えられる。父だってきっと、私の話をきちんと聞いてくれるはず。
茉莉は静かに呼吸を整え、スマホの発信ボタンを押した。
「もしもし」
父の声に茉莉は腰が引けそうになったが、先ほどの唐揚げとご飯が重石となって茉莉を支える。
「茉莉だけど。今、大丈夫?」
「大丈夫。どうした?」
いつもの父の、変わらない言葉。だけどもう、茉莉はひるまなかった。
「……どうもしないよ。でも私ね、お父さんのそういう、用件だけ尋ねてくるような言い方がずっと、ずっと苦手だった」
まるで用事がないと連絡をしてはいけないような。まるで、困っている事を解決する以外には自分と関わりたくないかのような、そのような父の言葉選びがずっと、茉莉は苦手だった。
「お父さんは、すごい人だよ。私のこともお姉ちゃんのことも理解して、私たちのために頑張ってくれる、優しいお父さんだよ。頑張ろうとしてくれているから、そんな言い方になるのもわかる。でも私はね、そして、おそらくきっとお姉ちゃんもね、お父さんに頑張って欲しかったんじゃないの。私たちはただ、お父さんに自分の話を聞いてもらいたかっただけなの」
〝お前なら大丈夫だろう〟という父の言葉に茉莉が傷ついたのは、父に心配してもらいたかったからではなかった。当時の茉莉は、父の茉莉を突き放すような言葉に、本人も気づいていないところで、傷ついていた。寄り添って話を聞いてくれるでもなく、一緒に考えてくれるでもなく、何の気なしにそのような言葉を言い放った父に、茉莉のための時間を惜しむような父の言葉に、茉莉は静かに傷ついていたのだ。そしてそれと同時に、どこまでも「茉莉ならできる」と信じてくれる父が、姉や他の人のために一生懸命な父が大好きだった。だからこそ当時の茉莉は、父に何も言えなかったのだ。
「私もお姉ちゃんも、お父さんが大好きだよ。だけど、だからこそ、お父さんに言えない気持ちがあったんだよ」
父はどこまでも〝良い父〟だった。それは誰よりも、茉莉が一番よく知っている。茉莉の一番の理解者は、おそらく父だ。だけどそんな父にだって、茉莉のすべてが理解できていたわけではない。父を大好きな自分が無意識のうちにしまい込んだ気持ちだって、茉莉の大切な気持ちなのだ。実の中で花を咲かせるイチジクは、外からでは本当に咲いているかどうかはわからない。でも、私だけは知っている。辛かったことを乗り越え、実の中でひっそりと花を咲かせるイチジクを。そしてそんなイチジクと同じように、これまで心の奥底に隠されていた、自分の気持ちを。だからもう、私は自分の気持ちを信じられる。自分の気持ちを、自分で大切にできる。
「今までずっと言えなかったけど、きっと、お父さんにそんなつもりはなかったのだと思うのだけれど、私は、お父さんが私の話に興味をもってくれないことが、私をないがしろにするような言葉選びをすることが、ずっと悲しくて、ずっと苦しかったよ」
茉莉の心の中に隠れていた小さな子どもが、ようやく声を上げて泣いた。
「まずはごめん」
茉莉への父の最初の言葉は、謝罪だった。父は、言葉を疎かにしたことを茉莉に謝罪した。
「茉莉には俺の気持ちが、言葉にしなくても伝わっていると思っていた」
「伝わってはいたけれど、信じきれてはいなかったよ」
この言葉を通してようやく、父は茉莉の言葉の意味が理解できたようだった。
「…言葉にすることを疎かにして、本当にすまなかった」
言葉にしなかった父にも非はある。しかし、信じきれていなかったその気持ちを言葉にしようとしなかった茉莉にも非はあった。
「私も、今までちゃんと言えなくてごめん」
茉莉の謝罪を受け入れた後、ようやく父が、自分の気持ちを話し始めた。
「実は昨日、季紗に電話で言われたんだ。お父さんは本当に茉莉のことがわかっているのかって。私は、自分は茉莉のことをわかっていると思っていたけれど、そうじゃないことに気づけた、と。季紗にそう言われても、俺は、茉莉のことも季紗のことも、自分が一番よくわかっていると思っていたんだろうな」
本当にすまない。そう言われてようやく、茉莉の中の泣きじゃくる小さな子どもが、小さく笑った気がした。
「話、聞いてくれてありがとう」
言葉にしなくても伝わることはある。でも、言葉にしないと伝わらないことも、きっとある。言葉にすることを疎かにするのは、ただの甘えだ。たとえ気持ちが伝わったとしても、伝わらなかったとしても、言葉にしたその先でようやくなにかが始められるようになるのかもしれないと、茉莉はそんなことを思った。
「こちらこそ、話してくれてありがとう」
それじゃあ、また。そう言って茉莉は、父との電話を切った。役目を終えたスマホをベッドに放り投げ、天井に向かって大きく伸びをすると、太ももの部分に何か固いものがあることに気づいた。どうやらジーンズの左ポケットの中に何かが入っているらしい。茉莉がポケットに手を入れて中身を確認すると、中に入っていたのは、あちらの世界に置いてきたはずの、口の開いたシーサーの箸置きだった。ジーンズのポケットにひっそりと潜んでいたシーサーを入れたのは、きっと。自分には見えなくなった赤髪の少年がひっそりとポケットにシーサーを忍ばせる姿を想像して、茉莉は肩の力が抜ける。
彼は一体、どういうつもりで私のポケットにこれを入れたのだろう。季紗のおさがりであることが嫌だったのだろうか。自分は一つ持っているから、二つ目はいらないと思っただけかもしれない。それとも、もう彼が見えなくなってしまった私にでも、また会いたいと思ってくれたのだろうか。キジムナーの心は、キジムナーにしかわからない。
人はみな、頭の使い方も、考え方も、表現方法も人それぞれだ。人と人とが完全に混ざりあう日は、おそらく一生こないのだろう。だけどそれでも、一緒にいれば、いつかは何かが生まれるのではないかと、そう思う。そう思いたいだけなのかもしれない。たとえ自分と相手とで考え方が違ったとしても、大切な人には、そう思って欲しい。そう思う心を捨てたくないと茉莉は思った。
「あなたもそう思ってくれたって、そう思ってもいいのかな」
茉莉は口の開いたシーサーの箸置きを握りしめたが、もちろん答えは返ってこない。姿も見えなければ満足に言葉を交わすこともできない自分とキジムナーとでは、一緒にいても永遠にすれ違い続けるだけかもしれない。互いに傷つき、傷つけられるばかりかも。それでもまだ、茉莉はまたキジムナーに会いたかった。そう思う気持ちが、茉莉の心に残っていた。
「また、会いに行くね」
茉莉はあの公園のガジュマルと、ガジュマルに寄りかかって眠るキジムナーの姿を思い浮かべながら、部屋でひとり、静かに目を閉じた。
作品を読んでいただき、ありがとうございました!
ガジュマルの家、楽しんでいただけたでしょうか?
この文章は、自分が大学時代に抱いていた気持ちを文章にしたものです。
もし、自分と同じような気持ちを抱いている人がどこかにいるなら、その人に届くような、その人の心が少しでも軽くなるような文章になっていたらいいなと思いつつ、楽しみながら文章を書いていました。
とても大切な作品なので、もしよければ感想やコメントなどいただけると嬉しいです。
ちなみに、この物語に登場する植物男を主人公にした物語も近々書く予定なので、興味のある方は気長にお待ちいただけると幸いです。
また、noteで毎月ひっそり植物に関するお話を書いていたりするので、そちらものぞいていただけると嬉しいです!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
それではまた!




