前半
ガジュマルの家
沖縄ではイチジクが食べられないと茉莉が知ったのは、大学二年の十月のことだった。
「うちでは生のイチジクは取り扱っていないの、ごめんなさいね」
久しぶりにイチジクが食べたくなって、逃げ水を追いかけながら向かった近所のスーパーで作業をしていたパートのおばさんから返ってきた言葉に、茉莉の動きが止まる。イチジク、沖縄にないんだ。誰かに伝えるほどではないけれど、見て見ぬふりは出来ない小さな悲しみから、スーパーの騒音が一瞬だけ遠のく。しかし音はすぐに戻ってきて、その音で我に返った茉莉は静かに事実を飲み込む。そしてイチジクの所在をたずねたおばさんにお礼を言い、事実と一緒に飲み込めなかった小さな悲しみだけを抱え、暑さでもやもやと揺れるアスファルトの道を見つめながら、ひとり家に戻った。
クーラーの冷気がわずかに残る誰もいない部屋の中で、汗が引くのを待ちながら、茉莉はスマートフォンでイチジクについて調べ始めた。沖縄では品質を維持したまま生産することが難しく、日持ちもしないため、生のイチジクがスーパーに出回ることはないらしい。 茉莉は果物の中でイチジクが一番好きで、毎年必ず食べる。去年は実家へ帰省したときに食べたから、沖縄にないことに気づかなかったのだろう。
イチジクが食べられないなら沖縄に進学するんじゃなかったな。茉莉が沖縄への大学進学を適当に後悔しながらそのままスマートフォンで遊んでいると、一通のメッセージが画面の上に表示された。姉の季紗から送られてきたそのメッセージには、〝父と喧嘩した〟とたった一言。1000km近く離れた場所からわざわざそんな連絡してこないでよ。茉莉はメッセージをスワイプし、上に放り投げたが、さらにもう一通。もちろん姉からだ。
〝来週そっち行くけど、何か買ってきてほしいものある?〟
姉の相変わらずの唐突さにため息をつきながらも、どうせなら新鮮なイチジクをと思い、茉莉は二通目のメッセージをタップして、季紗に送る文章を考え始めた。
姉との話が仕事の愚痴にまで達したころ、姉からの返事が突然止まった。つい三分前までやりとりをしていたのに。止まった通知に時計を確認すると、時刻は一時を回っている。「あぁ、昼休みの時間が終わったんだな」と冷静に考えながらも、姉の連絡を心の左端でぼんやり待ちながら、先ほどまでの姉とのやりとりをふり返る。今回もまた、母に対する姉の態度が原因で、実家の父と口論になったらしい。しかも来週の沖縄旅行は以前から計画していたのに、それを茉莉に連絡していなかったことも怒られたとか。しかもどうやら茉莉の部屋に一泊する気らしく、もちろんそれも、茉莉は先ほどのやりとりの中で知った。季紗の行動は、家族とはいえ、社会人として働き始めて四年目になる大人のやることではなかった。正直、怒られて当然である。
父と季紗の喧嘩のきっかけはいつも些細なことだ。茉莉や母に対する言葉遣いが良くなかったとか、季紗が連絡を忘れて他人に迷惑をかけたり、自分に非があることをきちんと謝らなかったりとか、そんなものである。父はよほどのことがないと怒らないし、怒っているときには必ず原因がある。しかも父が怒るポイントはいつも決まっていて、そこを避ける、または自分が間違ったことを素直に認めて謝れば、喧嘩にはならない。茉莉と季紗の父は理不尽に怒ることはなく、茉莉と季紗を深く愛しているからこそ怒っていた。とても優しい父なのだ。そして、それをわかっているからこそ、季紗は父と衝突し、茉莉は父から静かに離れた。
久しぶりに父と姉のことを考えた茉莉は、最近すっかり忘れていた家族へのわだかまりを思い出し、煮え切らない気持ちになった。出来ればこのまま不貞腐れて眠りたかったが、茉莉も二時からバイトなので、嫌々ながらも準備を始める。おそらく姉はイチジクを買ってくるのを忘れるし、父もいつものように心配いらない私を放置するのだろう。イチジクは漢字で無花果と書く。花の無い果実と表されるその果物は、本当に花がないわけではなく、イチジクの実の中で静かに花を咲かせるらしい。隠れて咲くイチジクの花に気づいてくれる人は、どこにいるのだろう。そんな変わった咲き方をする、イチジクや自分が悪いのだろうか。茉莉はひっそりと咲くイチジクの花に自分を重ねながら、自分しかいない部屋を出て、バイト先のコンビニへと向かった。
バイトが終わった午後八時、茉莉がコンビニの駐車場に停めていた車の中でスマホの通知を確認すると、予想通り、姉からの返事はまだきていなかった。しかし意外なことに、茉莉の父から連絡が入っていた。父からの連絡は実に一ヵ月ぶりで、「姉が来週そっちに行く」ことと、「もうすぐ祖母の誕生日なので、顔を見せに行ってほしい」ことが書かれていた。茉莉の父は沖縄出身で、祖父は茉莉が幼い頃に亡くなったが、祖母は沖縄で生活している。連絡があったのがほんの数分前のことだったので、久しぶりに父の声が聞きたくなり、茉莉がスマホの発信ボタンを押すと、淡々とした父の声がスピーカー越しに聞こえてきた。
「どうした」
父との電話は、いつも同じ言葉から始まる。この言葉を聞くたびに、父にそんなつもりはなくても、どうもしないと連絡してはいけないのかと茉莉は勘繰ってしまう。そして茉莉は無言の抵抗をするように、いつも同じ言葉を返す。
「どうもしないよ。バイト終わりにメッセージ見たから電話しただけ。またお姉ちゃんと喧嘩したらしいじゃん」
「季紗から聞いたのか」
「うん」
「なら、季紗が来週そっちに行くことも知っていたのか」
「うん。まあ、今日の昼に聞いたんだけどね」
「なら、わざわざ連絡しなくてもよかったな」
父の言葉に、茉莉の心が数秒止まる。季紗からは仕事の愚痴などのくだらないメッセージが毎日のように届くが、茉莉と父は共にこまめに連絡するタイプではなく、互いが互いに用事がない限り、積極的に連絡を取ることはない。しかし、だからといって父と茉莉の仲が悪いわけではなく、それが互いの性格というだけだった。だから、先ほどの父の言葉にも悪気がないことはわかっている。それでも茉莉はいつも、父のこういう少し冷たい言葉に、小さく傷つく心を持て余す。ああ、今日は駄目だな。そう思いながら、茉莉は意図的に話題を変えた。
「おばあちゃん、誕生日いつだっけ?」
「今週の金曜だな」
「じゃあ週末に行ってこようかな。おばあちゃん、好きなものとかある?」
「花が、好きだな」
「花?」
「そう。ダリアだったか」
茉莉が小学生の時に行った祖母の家には広い庭があり、たくさんの鉢植えがあったことを茉莉は思い出した。現在、祖母はその家から別の場所に引っ越しているが、そのベランダにも花があったっけ。
「じゃあ花と何かお菓子でも買って行くね」
「頼む」
勢いで連絡したものの、特に話すこともないので電話を切ろうとしたら、珍しく父が会話を続けてきた。
「なにか欲しいものとかあるか? 季紗にもたせる」
「…じゃあイチジク。沖縄のスーパーでは、生のイチジクが買えないんだって」
「そうなのか。茉莉はイチジクが好きだから、買えないのはつらいな」
「つらいってほどじゃないけど。でも今日スーパーで買えないって知って、ちょっと悲しくなった」
「そうか。なんであの果物が好きなのか、俺にはわからんがな」
「物好きって言いたいの?」
「そんなことは一言も言ってないだろう」
「言ったように聞こえた!」
ははっ、ごめんごめんと、父は笑った。
「じゃあ、イチジクは季紗にもたせる。季紗をよろしく」
「わかった」
電話ありがとう、じゃあまた。その言葉を最後に父の電話は切れた。茉莉はスマートフォンを助手席に置いて、目を閉じる。久しぶりに父の親しさに触れ、少しだけ実家が恋しくなったが、それもほんの一瞬のことで、瞼の向こうで横切った車のライトが右から左に二度流れ終わったころには、その気持ちはどこかへと霧散していた。
「お買い上げありがとうございます」
ダリアの花って、牡丹に似ている。脳内で花を花に例える無知を発揮しながら、茉莉は花屋の店員からダリアの花束を受け取った。人の舌に似た形の花びらが茎の中心から外側に広がってボール状になっているものや、花の中心が見えないほど花びらが重なっているものなど、さまざまな形の花がある。でも、どれがダリアなのだろう。
「あの、ダリアはどれですか?」
「これ全部ダリアなんですよ」
ゆっくり頬を緩め、優しい笑顔で答えてくれた花屋の店員の言葉に驚き、茉莉は目を見開く。驚いた茉莉に気分を良くした店員は、これはデコラティブ咲きでこっちはカクタス咲き、ボールにアネモネにコラレット、ピオニーと横文字の嵐を吹かせる。茉莉は嵐に飲み込まれながらもなんとか持ちこたえ、再び花束を見た。形に加えて色もさまざまで、赤や白、オレンジや黄色の花が美しい。それなのに花特有の甘いにおいがしない。それがどこか祖母らしいと茉莉は思った。ダリアが好きなおばあちゃんが好きなお菓子ってなんだろう。茉莉は花束を片手に祖母が喜びそうなお菓子を考えながら、花屋の隣にある食品館に向かって歩き出した。
「おばあちゃん」
結局、祖母が好きそうなお菓子は何も思い浮かばず、自分が食べたかったどらやきを二つ買って、茉莉は祖母の家のインターホンを鳴らした。祖母は介護つき住宅で一人暮らしをしており、茉莉が玄関から声をかけると、部屋の奥から返事が聞こえた。
「まつりちゃん、入っておいで」
祖母のしわがれながらも瑞々しい声に導かれ、茉莉は部屋に入る。昨晩のうちに連絡していたのでスムーズに迎え入れられた祖母の家は、沖縄の中心地である那覇市の外れにある。那覇市は沖縄県の南部に位置していて、茉莉の通う大学は沖縄県中部に位置する西原町にあり、那覇市からは車で三十分ほど。茉莉は車を手に入れた大学二年の春から毎月、この部屋に遊びに来ていた。
祖母の部屋はとても簡素で合理的だ。玄関やトイレ、風呂場やベッド周りなど、必要な場所にだけ手すりがあり、過度な介護の気配はない。しかし、必要な場所にはきちんと必要なものがあり、風呂場とトイレ、ベッドの近くには非常用ボタンがあった。それでも住居者のプライベートはきちんと確保されているようで、この部屋の中にここで生活している祖母以外の人の気配はない。キッチン周りにはナイフやフォーク、割りばしなどが取り出しやすいように置かれ、埃をかぶらないよう上から布がかぶせてある。そのような配慮は部屋のいたるところで見られ、祖母のきちんとした性格が部屋の中から滲み出ていた。この家を訪れるたび、茉莉はいつもわずかに、父のルーツのようなものを感じていた。
「一日遅れたけど、誕生日おめでとう」
「わあ、ありがとうね」
奥の部屋にある座椅子に腰かけていた祖母にダリアの花束を渡すと、祖母は一瞬きょとんとした後、大きく顔をほころばせた。
「ダリアね。おばあちゃんこの花大好きなの!」
「お父さんから、おばあちゃんはこの花が好きだって聞いたから」
「あら」
祖母は一瞬なにかを言いかけたが、結局なにも言わずに口を閉じた。そして「電子レンジの横の棚の、一番下に透明な花瓶が入っているから、それに花を挿してもらえる?」と、茉莉に要件を言いつけた。祖母は基本的に自分のことは自分でできるが、持病を患っており、なにをするにも少し時間がかかる。しかしそれでも以前は自分でやろうとしていたのだが、最近少しずつ茉莉を頼ってくれるようになってきて、茉莉はそれが嬉しかった。
ダリアの花束を透明の花瓶に挿し、祖母の前にある背の低いテーブルの真ん中に置いて、茉莉はいつものように祖母と対角線上の位置に腰かけた。
「ソファーに座ったら?」
テーブルの横、祖母と茉莉の間には二人掛けのソファーがあるのだが、茉莉はいつも壁とテーブルの狭間のこの場所に腰かける。特に意識しての行動ではなかったが、言われてみれば不自然だ。しかしソファーのように視線の高い場所が、茉莉は昔からなんとなく苦手だ。
「うーん、床の方が落ち着くからここでいいや」
「そうなの」
茉莉は祖母に勧められたソファーには座らず、再び床に腰を据えなおす。
「みんなはソファーに座るの?」
「そうね、みんなソファーでくつろぐよ」
茉莉の祖母は生まれも育ちも沖縄だが、あまり沖縄県外の人が想像するような、まったり喋るうちなーんちゅといった雰囲気はない。しかし子どもの数はうちなーんちゅらしく五人もいて、それに比例して孫の数も多いため、この家にはよく茉莉のいとこたちが遊びに来ているらしかった。孫の数と沖縄特有のイントネーションだけが祖母の唯一の沖縄らしいところで、言葉の使い方は茉莉の父と同様、理知的かつ端的だ。そんな祖母が、茉莉は昔から少しだけ苦手だった。
茉莉が冷蔵庫に入っていたサイダーを片手に買ってきたどらやきを食べていると、ようやく祖母もどらやきをひとくちかじった。「おいしい」という祖母の言葉に、茉莉はほっと肩を撫でおろす。
「そういえばさっき、なにを言いかけたの?」
「うん?」
「ダリアの話のとき。私のお父さんのことで、なにか言いたそうだった」
祖母のどらやきを運ぼうとする手が一瞬だけ止まったが、そのあと少し懐かしそうに、そしてどこか寂しそうに、祖母は口元だけで笑った。
「あんたのお父さんが、キジムナーと友だちになったときのことを思い出したの」
「キジムナー?」
「赤髪の子どもの姿をした樹の精霊というか、沖縄の妖怪のこと」
おばあちゃんは見たことないけどね、と祖母はつけ加えた。
「お父さん、見たことあるんだ」
茉莉にとって父がキジムナーを見たという話は、普段の父からは想像できない話だった。祖母は疑っているのか疑っていないのかよくわからない静かなトーンで、「そういってたね」と一言だけ返したあと、幼い父とキジムナーの物語を語り始めた。
祖母は現在、那覇市に住んでいるが、その前は沖縄県の中部にある浦添市と呼ばれる場所に住んでいた。茉莉が「おばあちゃん家」と言われて思い出すのは浦添にあった家で、父は幼少期のほとんどを浦添市で過ごしている。しかし実は、父が小学校低学年の時は八重瀬町と呼ばれる沖縄県南部の自然豊かな町に住んでいたのと、祖母は小さな声で教えてくれた。そして父はその家での最後の夏休みに、キジムナーに出会ったのだという。
「始まりは小学校三年生の、夏休み初日の夜だったっけね。あんたのお父さんが友だちとどこかへ肝試しに行くって夕方から遊びに出かけたんだけど、途中で友だちと喧嘩したらしくて。肝試しの場所にたどり着く前に友だちと別れたらしいの」
真っ暗な中、ひとり無言で歩いているのも心細いので、幼き日の父がぽつぽつと友だちへの不満をつぶやきながら歩いていると、一つの公園にある大きなガジュマルの樹が父の目にとまった。幼き日の父は吸い寄せられるようにその樹に足を向け、横に伸びる枝から地面に向かって真っすぐたれ下る複数のひもが絡まったようなものを、ひとつ握ったらしい。すると次の瞬間、上半身裸の赤髪の少年が、父の真正面に立っていたらしい。父にはそれがキジムナーだとすぐにわかったそうだ。
キジムナーは、じっと父の右手を見ていた。右手には友だちと別れる前に買ったキャラメルの箱が握られており、歩くたびにシャカシャカとキャラメルが箱にあたる音がする。その音を聞きつけてキジムナーはやってきたのかもしれないと父は思った。
「食べる?」
父は心の中ではキジムナーにおびえていたが、その気持ちを隠し、箱からキャラメルを取り出してキジムナーに差し出した。恐る恐る差し出されたキジムナーの手に、父がキャラメルを置くと、キャラメルはしっかりキジムナーの手のひらに乗った。キジムナーは「食べる」という言葉は理解できたようで、そのままキャラメルの乗った手を自分の口に運ぼうとした。
「待って。そのままじゃ食べられないよ」
包みをはがさなきゃ。そう言って父は箱からもう一個キャラメルを取り出し、一枚一枚フィルムを外す動作をキジムナーに見せた。そしてキャラメルを自分の口に運び、口を動かす。
「うまい」
ほら、きみも。父の言葉にしたがって、キジムナーも父の動作を真似た。四方のフィルムを時計回りにはがし、フィルムの端を親指で押さえ、反対の手でキャラメルを持ち上げ、口に運んで咀嚼する。キジムナーの動きは、父の動きと寸分の狂いもなく全く同じ動きだった。キジムナーが父と同じように口を動かした直後、緊張していた表情が解け、キジムナーの顔に満面の笑みが浮かぶ。緩んだ表情のキジムナーと目が合った父が、キジムナーに微笑みかけると、キジムナーもまた、同じように笑った。
そしてその日から、父とキジムナーは友だちになった。
それから父とキジムナーは、夜な夜な二人で遊びまわるようになった。父は家族が寝静まった頃に布団から抜け出し、口笛を吹いてキジムナーを呼ぶ。風にのって家までやってきたキジムナーは、魚がたくさん採れる海岸、星が綺麗に見える展望台の上、ハブやネズミといったさまざまな生物がいる山の中など、父をいろんな場所へと連れていく。そして夜が明け、どこからともなくニワトリの鳴き声が聞こえ始めると、キジムナーは父を家まで送り届けて去っていくらしい。
当時の父は祖母にキジムナーのことを話したが、祖母がキジムナーを見かけることは一度もなかった。祖母がキジムナーの気配を感じるのは、キジムナーのことを語る父の言葉と、寝る前は綺麗だったのに翌朝になると泥だらけな父の服、昼間に泥のように眠る父の姿からだけだったという。
「おばあちゃんはキジムナーを見ていないけど、でも一度だけキジムナーは本当にいるのかもと思ったことがあってね。そう思ったのが、このダリアに関する話があったからなの」
そういった祖母は、視線をテーブルの上のダリアに向けた。
「まつりちゃんは、おばあちゃんが浦添の家でいろんな花を育てていたことを覚えている?」
茉莉がうなずくと、祖母も嬉しそうに目を細めてうなずいた。
「おばあちゃん、昔から花を育てるのが好きでね。八重瀬の家でも花を育てていたの。その中にダリアもあったのだけれど、なぜかひとつだけ急に元気がなくなってね。花が咲く前に蕾が萎れてしまったの」
植物も生き物だ。突然、理由もなく枯れることもある。それは仕方のないことだ。そうだと分かってはいても、花が咲くのを楽しみにしていた当時の祖母はとてもショックを受けた。しかしその翌日、朝の水やりをしようと祖母がベランダに出ると、驚いたことに、その萎れたはずのダリアの蕾が花を咲かせていた。びっくりした祖母が朝食の時に家族にその話をすると、茉莉の父がにこにこしながら祖母にこう言ったのだ。「キジムナーがお花を元気にしてくれたんだよ。お母さん、これで悲しくないね」と。
「あの子の優しさはとても嬉しかった。でもあの時、自然に反することをやってのけて喜ぶあの子に感謝の言葉を述べていいのか、私にはわからなかった」
この世にはどうにもならないことがたくさんある。そのどうにもならないことを解決する手段を探すことも大切だが、それよりも、その出来事を自分なりに解釈し、自分のできる範囲で乗り越える道を探す方が大切なのではないか。祖母は咄嗟にそう思い、なにも言えなくなったのだそうだ。
「卓越した能力を持つことは素晴らしいことよ。でもそれはもしかすると、本人にとっては悲しいことでもあるのかもしれないと思ったわ」
下向きにうなだれ、茶色く変色していた蕾が立ち上がり、小ぶりながらも花を咲かせたダリア。あのダリアが私はただ純粋に怖かったと、祖母は最後につけ加えた。
祖母の反応から感じることがあったのか、それからも父はキジムナーと交流を深めていたようだが、そのことを祖母に語ることはなくなった。泥だらけの服は相変わらずだったが、夏休みが終わるころには昼寝も、キジムナーの気配を感じることもなくなった。祖母は父がキジムナーと円満に別れたと思っていたが、後々、かつて家族で住んでいた八重瀬の家が火事に見舞われたという話を、浦添に引っ越してから祖母は人づてに聞いた。
「そういえば昔、まつりちゃんも赤髪の男の子と友だちになったって言ってたね」
「え、うそ!」
「ほんと。夏休みにみんなで浦添の家に遊びに来たときかな」
「全然覚えてないなあ」
当時のことを思い出そうとする茉莉をよそに、祖母はさらりと話題を変えた。
「そういえば近々、きさちゃんが沖縄に来るってね」
「お姉ちゃん、おばあちゃんに連絡したの?」
「いいや、昨日、あんたのお父さんから電話があった」
相変わらず自由奔放な姉である。
「またお姉ちゃんが沖縄に来たら、一緒に顔を見せに来るね」
「うん。おばあちゃん、楽しみにしてる」
それから祖母との会話でキジムナーが話題にあがることはなかったが、茉莉が祖母と話すたびに目に入るテーブルの上のダリアの花束が、茉莉にキジムナーと父の話を忘れさせてくれなかった。
祖母と別れてもキジムナーが頭から離れなかった茉莉は、祖母の話とマップアプリを頼りに車を走らせ、八重瀬町にある有名なガジュマルを訪ねてみることにした。
「あ、これがガジュマルなんだ」
高校の部活でやっていた陸上以外ではもっぱらインドアな人文学部の茉莉は、沖縄二年目にしてようやく初めてガジュマルを認識した。重量感のある太い幹に、その幹から大きく横に広がる不規則で太い枝。枝と枝の間からは、小判のような形の小さな緑の葉が生い茂る。枝と同じかそれ以上の力強さを持つ根は、角張った岩に食い込んで一体化し、樹木そのものが独特な雰囲気を醸し出す。樹ってじっと見たことなかったけど、なんかすごい。確かにこれなら、キジムナーがいても不思議ではないかも。まったく気配はないけど。いや、特に何かを期待していたわけではないのだけれども。
茉莉は自分に言い訳をしながらガジュマルの周辺を見て回ったが、もちろんキジムナーに出会えるわけもなく、少しだけ肩を落として自分の車に乗り込み自宅へ向かって車を走らせた。ここから自宅まで一時間弱のドライブ。車の窓を少しだけ開けて、海岸沿いの道を軽快に走らせていく。信号もないくねくねとした道が頭の中をかき混ぜたのか、茉莉は昔のことを思い出した。
茉莉は小さい頃から、家族みんなが大好きだった。おっちょこちょいながらもどこか憎めない母、厳しくも優しい父、そして自由奔放な姉。末っ子の茉莉は、家族みんなが喜ぶことをするのが大好きで、家族といるときはいつも笑っていた。確かに茉莉は、いつも楽しく笑っていた。しかしそれは必ずしも、いつも楽しいから笑っていたわけではなかった。茉莉が笑っていたのは、自分が笑えば場が和み、みんなが笑ってくれると知っていたからだった。
茉莉と季紗が高校生となり、季紗が父と衝突するようになっても、茉莉は二人のために笑った。このままでは根本的な解決にはならない。そうは思いながらも、別の振る舞い方が茉莉にはわからなかったからだ。自分が笑って少しでも空気が軽くなるなら、それでいい。自分は緩衝材のようなものだ。少し虚しい気持ちになりながらも、それでも茉莉は笑顔を絶やさなかった。
『茉莉は大丈夫だろう』
そんなときに降りかかってきた父の言葉は、茉莉の心をぽきりと折った。いつものように父と姉が口論し、姉が家から出て行った直後に父が茉莉に放った言葉だった。口論のきっかけは、あまりにも些細でもう覚えていない。しかしその日は、部活の大会を翌日に控えた、茉莉にとって大事な夜だった。
茉莉は、父から姉と同じように自分を心配してもらいたいわけではなかった。父が言うように、おそらく自分は大丈夫なのだろう。でも私が大丈夫なのは、私ががんばっているからなのだ。どうしてお父さんは、そんなことを軽々しく言うの? 父の愛情に甘える姉も、暢気な母も同罪だ。そして、そんなことを考えてしまう自分自身も。いつも自分のことばかりの家族と自分に疲れ、茉莉は静かに家を出た。家族からなにかをされたわけではない。今でもみんなのことは大好きだ。でも茉莉はもう、あの家では息ができなかった。だから茉莉は大学進学を機に、逃げるように沖縄へとやってきたのだった。
茉莉は海沿いの道から左に入り、軽自動車に負荷をかけながら海の見えない坂道を登りはじめた。沖縄というと県外の人には海の印象が強いが、実は沖縄で海に沿って走れる道はあまり多くない。有名な水族館がある北部では高速道路を降りた瞬間にコバルトブルーの海が広がり、沖縄に来た実感と解放感を味わえるが、そこから水族館までの道でも、海沿いの道はわずかだ。中南部ともなると坂道やわき道、どこにも繋がっていない道などの入り組んだ道が多く、意外と海を目標にしないと海沿いの道は走れない。そのことに最初は寂しさを覚えるが、別の楽しさもある。
海がみられない埋め合わせなのか、沖縄の道ではよく植物を見かける。坂道を登りきり、茉莉が道路脇に視線を移すと、茉莉には名前のわからないガジュマルとは異なる雫型の濃い緑の葉っぱが多数ついた樹が一定の間隔で植えられているのが見えた。時々その樹にピンクや黄色のランがぶら下がっている。それ以外にも、沖縄の太陽を持て余さないためか、沖縄ではどこの庭でもなにかしらの植物が育てられており、ゴーヤやパッションフルーツ、ドラゴンフルーツなどが我がもの顔で側溝の上に寝転がっているのをよく見かける。実は海より植物の方が身近なんだよねと思いながら茉莉が右にハンドルを切ると、大きな公園と、その公園の奥にあるガジュマルの樹が目に入った。
あれ、このガジュマル、なんか見たことある。茉莉には植物の違いなど全くわからなかったが、つい先程じっくり観察したばかりだったので、その植物がガジュマルであるとすぐに分かった。でもこのガジュマルは、さっき見たガジュマルとは何かが違った。どこか既視感があるような。茉莉は先ほどの祖母の話を思い出す。車がガジュマルに近づくにつれ、茉莉の心拍数が跳ね上がっていく。
あのガジュマルをじっくり見たい。茉莉は強くそう思ったが、惜しくも信号は青。後ろには車がいる状況で、通り過ぎる以外の選択肢はない。茉莉は惜しむようにガジュマルのある公園の前を、わずかに速度を落として通り過ぎる。公園を通り過ぎたあとも、まだ心臓はばくばくと大きな音を立てていた。やっぱり、どうしてもあの場所に行きたい。そう思った茉莉は、次の交差点で左に曲がり、迂回して再び先ほどの公園へと向かった。
車を停める場所がなかなか見つからず、茉莉が車を停めて再び公園を訪れた頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。時刻は午後七時前。いつのまにか日暮れが早くなった十月の沖縄に、公園で遊ぶ子どもの姿はもうない。茉莉は入口にある三本の車止めを越え、ジャングルジムと砂場を横切り、街灯に照らされたガジュマルの前で立ち止まる。抱き着いても手が届かなさそうなほど太い樹の幹に、うねうねと蛇行する縦しわ。幹の縦しわを追いながら視線を下げると、茉莉の足首ほどの太さでこんもりと盛り上がる根が、地面を這うように四方に広がっていた。生命力あふれるガジュマルに茉莉は恐怖を覚え、ガジュマルから一歩下がる。じゃり、と、スニーカーが地面に擦れる音がやたら大きく聞こえた。やっぱりここ、絶対に来たことある。ガジュマルに覚えた恐怖心と公園周辺の夜の空気が、この場所が初めてではないことを茉莉に告げ、茉莉は先ほどの疑惑を確信に変えた。
自分がこの場所を知っているのは恐らく、父が私をここに連れてきたからだろう。茉莉には全く記憶がないが、幼い茉莉がこのガジュマルをひとりで見つけだしたとは考え難い。つまりこのガジュマルが、祖母の話に登場したガジュマルなのだろう。父がキジムナーと出会った場所。そして祖母の話によると、自分もキジムナーと出会ったかもしれない場所。茉莉にキジムナーとの記憶は全くないが、この迫力のある立派なガジュマルには、キジムナーがいても不思議ではない気がした。
幹と根にばかり目がいっていた茉莉の背後から風が吹き、ガジュマルの枝と枝の間からぶら下がる細長いなにかが茉莉の視界の端で揺れた。それはフリンジのように一本の枝から複数本伸び、不規則に折れ曲がる茶色い針金やひものように見えた。これはなんだろう。茉莉がひものひとつを手に取ると、それは枝のように堅かったが、強く握ると折れてしまいそうだった。ガジュマルの樹からぶら下がるのはこれだけではないようで、中華麵のように細いものから綱引きの綱ほど太いもの、折り畳み傘くらいの太さの枝が三つ編みのようにより合わさっているものが一様に、それぞれ横に伸びた太い枝から、熱した飴を引き伸ばしたように地面に向かってまっすぐ下に伸びていた。これはいったい何? これもガジュマルの一部なの? 茉莉がガジュマルに夢中になっていると、知らない声が茉莉の思考を遮った。
「これはキコンといいます」
上から降ってきた突然の声に、茉莉は思わず横へ逃げた。声の先には、若い男性が一人。なに、この人。その男は、よれよれのシャツにくたびれたジーンズ、履きつぶされた紺のスニーカーという格好で、絵に描いたような癖毛が目を覆わんばかりに伸びきっている。上背があり、ひょろりとした体形だからだろうか。その男は、無駄に背の高い雑草のような印象を茉莉に与えた。自分と同い年にも、二十代後半にも見える謎の男を茉莉は警戒心丸出しで見つめながら、茉莉は再び男の言葉を思い出す。
「……キコン」
茉莉の語彙の範囲外だったため、思い出した勢いで思わずその言葉が口からこぼれた。
「キコンです」
男は、それ以上のことは何も言わなかった。そしてなぜか、茉莉の腰のあたりを見ている。茉莉の腰から下のあたり。ジーンズに白のコンバースを合わせ、ありふれた格好をした、茉莉の足。なんでそんなところを見ているの。夜の沖縄で、観光地でもなければ地元の人すらいない公園で、標準語で話しかけてきたこの男。正直、とても怪しい。茉莉が目を合わせないように気をつけながら男を眺めていると、突然、茉莉の足を見ていた男が顔を上げて茉莉を見た。そして動揺して動けなくっている茉莉を見て初めて、男は自分の不審さに気づいたようだった。
「……あの、私は決してあやしい者ではありません」
もうその言葉そのものがあやしいのだけれど。ようやく自分を客観視できたらしい男の言葉に、茉莉は思わず吹き出す。どうやらナンパや勧誘の類ではないらしい。そうでないのに話しかけてくるという点では逆に危険度が高いわけだが、不思議とこの男に害はない気がした。
「順番が、違いますね」
普通は挨拶が先ですよと茉莉が言うと、男は身体を硬直させ、視線を左右に泳がせる。なんだ、この人。不器用すぎる。なにもかもがちぐはぐな目の前の男に、茉莉は興味が湧いた。
「キコンとはなんですか?」
茉莉の言葉で、男は派手に左右に泳がせていた視線を茉莉に定め直し、ほっとした様子で身体を緩めて説明を始めた。
「キコンとは、空気中に露出する根の総称です。空気中の水分を利用し、シチュー根として成長して木を支える役割があります」
男の言葉は想像以上に硬かった。知らない言葉と聞き慣れない言葉のオンパレードで、とにかく説明が硬い。シチューって言葉しか聞き取れなかった。男のあまりの言葉の硬さに茉莉も同じく硬直していると、固まる茉莉に気づいた男の言葉と声色が少し柔らかくなった。
「キコンは、空気の気に根で気根と書きます。普通、植物の根は土に埋まっていて、土の中にある水分を吸収して成長します。でもこの植物は、空気中の水分を取り込んで成長するんです。また、気根は支柱となり、不安定な場所で木を支える役目もあります」
「へえ、そうなんですね」
茉莉が当たり障りのない返事をすると、男はわずかに目を伏せ、表情を少し曇らせた。その表情の変化を読み取った茉莉は咄嗟に「なにか質問しなきゃ」と思い、興味は無かったものの、茉莉なりに知恵をしぼって男に質問した。
「どうしてこの植物は、わざわざ他の植物と違うことをするんですか?」
茉莉の言葉で、伏せられた男の目が、わずかに茉莉を見た。
「実は、この植物は無意味に違うことをしているのではなく、違うことをする必要があるから気根を伸ばしているんです。つまり、気根を伸ばす植物には、土の中の水を吸収できない理由があるんです」
茉莉が少しだけ首をかしげると、男の口元が綻んだ。なぜそこで喜ぶ。
「気根を伸ばす植物の多くは、海と河川の狭間にある汽水域と呼ばれる場所に根を張り、生活をしています。汽水域は他の場所と比べて、土の中に含まれる塩分濃度が高い。つまり、汽水域の土の中にある根から吸収できるのは、塩分濃度の高い水だけということです。しかし、植物は塩分濃度の高い水を植物体の中に取り込めません。そのため、土の中以外から水を吸収しようと空気中に根を伸ばす。その結果がこの気根というわけなんです」
そう言って男は、目の前に垂れ下がる気根の先をつかんだ。
「じゃあどうして、他の植物は空気中の水分を取り込まないんですか?」
土からだけでなく、空気中からも水を吸収できる方がお得ではないかと茉莉は思った。
「水が入りやすいということは、それと同時に水が出ていきやすい、ということでもあります」
空気中は土の中と比べて乾燥のリスクにさらされやすい。だから多くの植物は気根を伸ばさないのだと、男は言葉を続けた。
「生きる場所を変えられない植物は、生き残るために、生き方を変えるんです」
「へえ、面白い」
よくわからないこの謎のひもに、そんな秘密が隠されていたとは。茉莉の口から、思わず素直な感嘆の声が出た。ぽろっとこぼれた言葉の行方が気になり、男に顔を向けると、初めて男ときちんと目が合った。喜んでいるのに、どこか悲しそう。男の口元に浮かぶ小さな笑みとは裏腹に、その男の目には活力がなく、瞳の奥に宿る深い愁いを茉莉は感じとる。茉莉がじっと男の瞳を見つめていると、なぜか男は少し気まずそうに茉莉から視線を外した。そして、その気まずさを取り繕うように、男は言葉をつけ加える。
「この植物は、ガジュマルといいます」
「……また、順番が違いますね」
気根を持つガジュマル。ガジュマルより、気根という言葉が印象に残るような説明。この男の説明の順番は奇妙だったが、その奇妙さが妙に心地よい。そして車内からこのガジュマルを見かけた時と同じように、このよくわからない男に、茉莉は強く惹かれた。この人ともっと話がしてみたい。たぶん、変な人だけど。
「ガジュマルの説明、ありがとうございました。私は谷川茉莉といいます。もし良ければ、あなたの名前を教えていただけますか?」
茉莉は男の名前を聞いたが、名前を覚えることが出来なかった。「周りの人からは〝植物男〟と呼ばれている」ということと、男が自分の名前を名乗ったあとの「本名はもう、ちょっと遠い」という言葉だけが、茉莉の心に残った。
印象に残らない自己紹介を終えた後、植物男は大変申し訳ないのですけれど、と前置きしてから、「実は最終のバスに乗り遅れてしまったので、よろしければホテルまで送っていただけませんか」と言ってきた。やっぱりこの人、変。そう思いながらも、悪気ない図々しさをもつこの男にほだされる自分を、茉莉は悪くない気分で受け止めた。
茉莉の車でホテルまで向かう道すがら、「もし時間があるなら、これから一週間ほど、自分の行きたい場所に付き合ってくれないか」と頼まれた。この人、初対面の人にそんなこと頼んじゃうんだ。このとき茉莉は、自分の植物男に対する認識が誤っていたことを悟った。うん、この人、かなり変。茉莉は強くそう思いながらも、ついうっかり、「明日、ホテルまで迎えに行きます」と口にしてしまうのだった。
昼前の講義が始まる五分前に茉莉が講義室に入ると、同じ学科の友人が三人固まって座っている場所にひとり座れるスペースを見つけて、茉莉はほっと胸をなでおろした。茉莉が空席に座って隣の友人に声をかけると、友人は「おはよ」と返事をしたが、すぐに他のふたりとの会話に戻った。茉莉はその会話に混ざりたいとも思えず、会話のリズムに合わせて適当に頷きながら、机の右端に置かれた未開封のミルクティのペットボトルを眺めてチャイムが鳴るのを待つ。
今日の講義は、沖縄の昔話について学ぶものだった。しかも、最近やたらと茉莉の周りでよく耳にするキジムナーがテーマらしい。キジムナーは樹齢百年を超える樹木に住んでいる樹の精霊で、夜にしか活動しない。仲良くなるとその相手を裕福にするが、相手はキジムナーとの夜遊びに毎日付き合わなければならない。連日の夜遊びに疲れ果てた相手がキジムナーを裏切り、離れようとすると、キジムナーから手痛い復讐を食らう。キジムナーの復讐に遠慮や手加減はなく、先日までは好意を寄せていた相手にでも、平然と残酷な行為をするらしい。茉莉は昨日の話を思い出しながら講義を聞き、友人が退屈そうにミルクティを開けて一口飲むのを見た。
「キジムナーは、自分が住むガジュマルから遠く離れて生活できません。ガジュマルの家に縛られていると解釈する文献もあります」
家に縛られる。嫌な言葉だと茉莉は思った。
「自分を守ってくれる存在から少し離れ、自分で自分の本当の気持ちに気づけるようになって初めて、人は少し大人になるものだと私は思います。しかし民話に登場するキジムナーは、いつまでも子どもの姿のまま。家から離れられないということは、大人になれない、ということなのかもしれませんね」
友人の退屈さに比例して減っていくミルクティを眺めながら、茉莉はぼんやりとキジムナーの話を聞いていた。
「茉莉も食堂行くでしょ?」
講義終わりの喧騒の中、ミルクティを飲み干した友人が前に座っていた二人と食堂に行く話をしている途中で茉莉に目を移し、問いかけた。
「ごめん。このあとちょっと予定があって」
友人は「そっか」と一言だけつぶやいたあと、じゃあまたねと軽く手をあげて茉莉から離れ、近くのごみ箱に空になったミルクティのペットボトルを投げ捨てた後、すぐに前の二人に合流した。まあ、別にいいんだけど。茉莉は思わず出そうになったため息を少し我慢して、食堂とは反対側にある駐車場に向かって歩き始めた。今から向かうのは先日訪れたガジュマルのある公園で、本日で顔を合わせるのは四度目となる、植物男を迎えに行くためである。
初めて顔を合わせたあの日から、茉莉は三日連続で植物男の用事に付き合わされていた。植物男の用事とは、様々な場所で咲くガジュマルを訪れること。昨日は北部の三カ所、一昨日は北部一カ所と中南部の二カ所、今日は午後からなので、南部のガジュマルを見に行くと言われた。どうやら自分は、どこにいても自分勝手な人に振り回される運命らしい。
植物男との待ち合わせはいつも、あのガジュマルのある公園だった。前に茉莉がホテルまで迎えに行くと提案したら、なぜか断られてしまったからだ。茉莉が待ち合わせ時間に少し遅れて公園に向かうと、男はもうガジュマルの下で待っていた。男はガジュマルの樹の幹の一点を見つめ、何度も頷いている。そして茉莉には聞こえない声の大きさでつぶやき、口元だけの小さな笑みを浮かべ、またいつもの無表情になった。
「こんにちは」
茉莉が声をかけると、植物男は一度だけ茉莉を見て同じ言葉を返した後、再び視線をガジュマルに戻す。
「今日はなにを見ていたんですか?」
「キジムナーの髪ですね」
今日は髪か。茉莉は待ち合わせをするたびに植物男に同じ質問を投げるが、植物男の答えはいつも適当だった。一昨日はキジムナーの足で昨日は顔、次は手なんて言いだすのだろう。
「キジムナーは夜にしか活動しないそうですよ」
「そうなんですね。じゃあ足跡を見ていたことにしてください」
さっきまで樹の幹を見ていたのに、どうやって足跡を見るのよ。茉莉が口を開けたタイミングで植物男が身体ごと茉莉の方を向き、「それでは行きましょうか」と言ったので、茉莉は言い返す機会を逃し、歩き出した男の背中を追いかける。この男が自分勝手であることは間違いない。しかし、自分勝手ながらも茉莉への配慮を忘れているわけではないのが、この男の奇妙な部分だった。会うたびにちんすこうやオレンジジュースをくれたり、目的地に向かう途中で茉莉の歩みが遅れているのに気づいて静かに待っていたり。それに気づいた茉莉が男の方へ小走りで向かうと、実は茉莉を待っていたのではなく、その近くにある植物を見ているだけだったり。やっぱりこの男、本当によくわからない。しかし、自分勝手さと気配りが同居する植物男の距離感は、人といるときにどう振る舞えばいいかわからなくなる茉莉にとって、ほど良い距離感だった。
茉莉は駐車場で待っていた植物男と車に乗り込み、車の中でようやく今日の目的地を知る。ドライバーはもちろん茉莉。植物男は免許すら持っていない。初めて車に乗せたときに、車も免許もないのにどうやってガジュマルを見てまわるつもりだったんだと茉莉が植物男に問うと、男は得意げに、「まあ、こういうのは現地に行けば意外となんとかなるもんです」と、一言。助手席でそんな暢気なことを言うこの男を、適当な男だと茉莉は思った。どうして私はこの男に付き合っているのだろうという今更ながらの疑問を振り払うように、茉莉は車のアクセルを踏んだ。
植物男とのドライブは、いつもとても静かだ。植物男は基本的に何も話さない。事前に話してほしいことすら、茉莉が聞かないと教えてくれない。目的地を確認したあとはお互いほとんどだんまりで、車内で聞こえるのは、マップアプリが道を指し示す音と、少しだけ開いた窓から入ってくる風を切る音だけ。茉莉は、最初は何かを話そうと頑張っていたが、横に座っている植物男の顔を見て、無理に話すのをやめた。窓の外の沖縄の植物を眺める男の表情がとても穏やかだったからだ。ここ数日で分かったことは、この男がふとした瞬間に遠い目をしていること。どこか悲しんでいるような、苦しんでいるような、そんな表情。しかし車に乗っている時と植物を眺めている時だけ、表情が少し柔らかくなる。まるで茉莉には聞こえないらしい何かの音楽のリズムに乗っているかのような、身体に力が入っていない、リラックスした状態。いつもの眉をひそめて何かを我慢しているような苦しい表情も、車の中では鳴りを潜めていた。本当に不思議な人。そんな植物男の隣に無言で座っているのは少し落ち着かなかったが、決して悪い気分ではなかった。
今日のターゲットは、南部の海岸近くにある駐車場から内陸に向けて三十分ほど歩いた場所にあるガジュマルだった。十月とはいえ、沖縄の太陽に照らされながら歩くと背中に汗が滲み、茉莉の体力を奪う。植物男の額にも汗が滲んでいたが、足どりは軽く、むしろ活気に満ちていた。植物男は目的のガジュマルを見つけ、枝先にある葉の一枚に手を伸ばし、愛おしげな眼差しをガジュマルに向けて優しく葉の表面に触れる。その表情は、なに? いつも無表情な男がわずかに頬を染め、恍惚とした表情を浮かべる理由が知りたくて、茉莉もガジュマルの葉に触れる。ガジュマルの葉は想像よりも滑らかで、見た目とのギャップに驚きはしたものの、この植物がなぜ植物男にあの表情をさせるのかはわからなかった。
「……これもちがう」
ガジュマルに触れ、いつもの周囲を徘徊する奇行を終えた後、植物男はようやく口を開いた。
「ここも空振りですか」
「そうみたいです」
植物男はいつも、ガジュマルの近くで何かを探しているようだった。何かに取り憑かれたように気根に手を伸ばし、葉の裏を眺め、地面に転がる実を開く行動をどこの場所でも繰り返す。どこまでも実験的に何かを探し続けるその姿に、茉莉はそこはかとない執念を感じ、あの公園でガジュマルを見た時と同じように、わずかな恐怖心を抱く。それと同時に、そんな男の姿に小さな羨望の眼差しも向けていた。こんな風に誰かに迷惑をかけてまでやりたいことなんて、自分にはひとつもない。自分が相手の顔色ばかり窺って生きてきた間もきっと、この男は自分の好きなことに没頭していたのだろう。そう思うと、今までの自分の生き方が少し馬鹿らしくなってしまうような、投げやりな気持ちになってしまうのだった。それ故に茉莉は思わず、茉莉にしか意味のない言葉を目の前の男に放った。
「あなたは一体、なにを探しているの?」
地面に転がる実を拾っていた植物男が、顔を上げて茉莉を見た。植物男は視線を茉莉から左下のガジュマルの実に固定して、熟考する。長い沈黙のあと、男は再び茉莉を見て、こう言った。
「なにを、探しているのでしょう」
僕が知りたいくらいです。そういってまた、男はいつもの悲しい目をした。そんな目を向けられた茉莉はもう何も言えず、静かに作業に戻った植物男を眺めることしかできなかった。
茉莉が車に忘れていた水筒で一時間ぶりの水分補給をしていると、マップアプリを開いていた植物男が、今日はもう行ける場所がないことを茉莉に告げた。
「また明日、お願いしてもいいですか」
「ごめんなさい。明日は用事があって」
水筒の水を全て飲み干す勢いで茉莉が水を飲んでいるにもかかわらず、植物男は暢気に先ほど拾っていた大豆ほどの大きさの、緑色と赤色の丸い実を十個ほどポケットから取り出し、ジップロックに移し替えていた。
「わかりました。では、明後日はどうでしょう」
「明後日は、午後からなら」
「ありがとうございます」
ではまた、明後日の午後に。植物男はジップロックに入れた実を数え、採集日時と場所を記載してからようやく、車に置いていたペットボトルに口を付けた。
「これからどうします? ホテルまで送りますか?」
今日のガジュマル巡りは終了したが、時刻はまだ午後三時過ぎ。いつものホテルへ植物男を送る時間にはまだ早い。
「今日はホテルではなく、ここに送ってもらってもいいですか?」
そう言って植物男が指し示した場所は茉莉の通う大学だった。茉莉が植物男にそのことを告げると、植物男は「そうなんですね」と言葉を返したが、特に興味はなさそうだった。
「そこで一体なにをするんですか?」
「大学の研究室を訪ねて、顕微鏡を拝借しようかと」
アポイントはとっているのかと茉莉が尋ねると、植物男は当然のごとく「とっていない」と答える。
「まあ、理学部の研究室には、いつでも誰かがいるものです」
そろそろこの男は一度怒られた方がいいのではと思ったが、あえて口には出さず、茉莉は無言で車を発進させる。
「顕微鏡を使って何を見るんですか?」
「これの中身です」植物男はそう言いながら、先ほどの実の入ったジップロックを前に掲げた。
「先ほどガジュマルから採取してきました」
植物男は実をとり出して茉莉に見せようとしたが、茉莉は運転中のため見られなかった。
「それは、ガジュマルの種?」
「赤い実の中には種子が入っているので種ですが、緑の実の中には花が入っているので、種ではありません」
「え、」
「ガジュマルは、この実の中で花を咲かせて種子をつけるんです」
イチジクと一緒だ。茉莉の心の中のひとりごとが聞こえたかのような言葉が、植物男から返って来る。
「ガジュマルはクワ科イチジク属の植物で、イチジクの仲間なんです」
「やっぱり。イチジクの花と咲き方が同じですもんね」
「イチジクの花、ご存知なんですか?」
茉莉の言葉に、植物男の声のトーンが少しだけ上がった。
「実の中に花をつけることだけ。変わった咲き方ですよね」
「そうですね」
いつもなら植物男が返事をして、そのまま無言になって会話が終わるのだが、珍しく植物男が言葉を続けてきた。
「ちなみにイチジクの仲間は送粉の仕方も変わっているのですが、ご存知ですか?」
「そうふん、」
茉莉が理解できなかった言葉を繰り返すと、植物男は「〝粉を送る〟と書いて、送粉です」と言葉をつけ加えた。
「茉莉さんは、なぜ植物が花を咲かせるか知っていますか?」
あ、初めて私の名前を呼んだ。いきなり名前を呼ばれた感慨に浸る暇もなく、茉莉は中学時代の理科の記憶を引っ張り出して植物男の質問に答えた。
「えっと、受粉のため、ですかね」
植物男は茉莉の発言を肯定した上で、「受粉」という言葉しか思い出せなかった茉莉の心を見透かしたように説明を加えていく。
「植物では、花の中にある柱頭という部分に、別の場所で咲いている同じ植物の花粉がつくことで受粉が起こります。受粉に成功すると、柱頭の下にある子房が膨らみ、その中に種ができる。その種が別の場所に運ばれ、芽吹くことで、植物は新たな命を繋ぎます」
茉莉は頭の中で子房が風船のように膨らみ、その中から種が飛び出す姿を想像しながら、大学に向かう道へハンドルを切る。植物男は左手に見えたパチンコ屋の巨大なゴリラのオブジェに一瞬だけ目を走らせたが、何も言わずに言葉を続けた。
「受粉が起こる前段階として、別の場所で咲く植物の花粉が柱頭まで運ばれる過程を〝送粉〟と呼びます。植物は動かないので、風や水のような非生物、昆虫や動物などの生物を利用して送粉を行います。イチジクは昆虫を利用して送粉を行う植物で、送粉を行う生物のことを〝送粉者〟と呼ぶのですが、実の中に花を咲かせるイチジクにも、実は送粉者がいるんです」
「イチジクの花を知っている生き物がきちんといる、ということですか?」
茉莉の言葉に、植物男はゆっくりと頷いた。実の中という奇妙な場所で花を咲かせていても、気づいてくれる生物がいる。そのことに茉莉が純粋に驚き、なにも言えずにいると、イチジクの花は実の中から匂いを出して送粉者を呼び寄せているのだと植物男が教えてくれた。
「でも、イチジクの花粉を運ぶ送粉者は一種類だけなんです」
「え、そうなんですか?」
「イチジク属の仲間——ガジュマルもそのひとつですが、ガジュマルにはガジュマルコバチ、イヌビワと呼ばれるイチジク属の植物にはイヌビワコバチという昆虫だけがやってきて、そのコバチだけが、それぞれのイチジクの仲間の花粉を運びます」
「なんでそのコバチたちは、イチジクの中にわざわざやってくるんですか?」
茉莉の中でコバチという言葉が馴染まず、語尾にクエスチョンマークをつけながら茉莉は植物男に質問した。匂いで引き寄せられるとはいえ、他にもっと魅力的な植物はたくさんあるだろうに。
「それはイチジクコバチに聞かないと分かりませんが、あるイチジクの仲間だけに合わせた生き方をしたイチジクコバチだけが、他の生き方を選択したイチジクコバチより多く生き残れたから、このようになっているだけだと思います」
「ずいぶんドライな考え方ですね」
「生物学において、生物間の関係は割とドライです。イチジクコバチはイチジクの花粉を運ぶ。その代わりに、イチジクは実の中を安全な産卵・生育場所としてイチジクコバチに提供する。イチジクとイチジクコバチそれぞれが自分に利益がある方向に進化した結果、イチジクはイチジクコバチだけを誘うことになり、イチジクコバチは実の中にある花だけを訪れることになった」
「え、イチジクコバチは他の植物のところには行かないんですか?」
「はい」
「なんで?」
なんでと言われても、これもイチジクコバチに聞かないと分かりませんと、植物男はまた同じ言葉を繰り返した。
「ひとまず今わかっていることは、イチジクとイチジクコバチは、一方が滅べばもう一方も滅ぶ、ということだけです」
「ドライな関係から始まったのに、一方が滅べばもう一方も滅ぶような、密な関係を結んでしまうんですね」
とても不思議な世界だと茉莉は思った。
「どちらか一方、または両方が、そのような生き方でしか生き残れなかったからそうなった、とも考えられます。イチジクとイチジクコバチの関係も、初めからこのような関係だったわけではなく、長い時を経て進化した結果、少々いびつともいえるような関係を形成した、とも言えるかもしれません」
しかし、イチジク属の仲間ではそれがありふれた関係なのだから、いびつではないのかもしれませんが。その言葉で植物男はイチジクに関する長い説明を結び、口を閉じた。
片方が滅ぶと、もう片方も滅ぶ。互いが互いに依存した状態で、それぞれの営みが成立している。そのような関係は本当に存在するのだろうか。ならばどうして私は今、親元を離れ、自分を気にする友人もできないまま、ひとりきりで暮らせているのだろう。
「互いに離れられないなんて、本当でしょうか」
茉莉はもう、言葉を止められなかった。
「今は必要とされているように見えても、案外、離れてしまえば別の何かが補っていくものじゃないですか、世界って」
冷たくなった茉莉の言葉にも、植物男は自分のペースを崩さない。
「確かにイチジクの仲間でも、対のイチジクコバチがいなくなると、別のイチジクコバチがその中に入り、独自の進化を遂げ、また新たな一対一対応の関係を結ぶことがあると報告されています」
やっぱり。植物と昆虫の世界にもそういう部分があるのか。いや、自然界という理性があるかどうかわからない世界だからこそかもしれないと茉莉は思った。
「しかし、沖縄のイチジクとイチジクコバチがその例に含まれるかどうかはわかりません。イチジクの仲間の分布は熱帯地域が中心となっており、その分布の端にある沖縄では、新たな関係を結びなおせるほどコバチの種数に余裕があるかどうかは不明です。確証はありませんが、おそらく、沖縄のイチジクとイチジクコバチは、離れたくても離れられません。…たとえどちらかが、離れたがっていたとしても」
「そうなのだとしたら私は、そういう関係がちょっと羨ましいかも」
茉莉のその言葉に、植物男は今までで一番と言えるほど体を茉莉の方に向け、心の動いた顔をしたことに、運転中の茉莉は気づかなかった。
「だって、それだけお互いが必要ってことでしょ? どれだけ苦しくても、どれだけ大変でも、お互いが必要だから離れない。離れられない。互いを求めあった結果、離れられなくなってしまうような関係を結んでしまうのは確かに怖いことだけど、人間なら、相手を思う気持ちがあるから離れないってことじゃないですか。そんな風に思える相手に出会えたことや、そう思えるその人たちの心が、私はとても素敵だと思います。その関係が良いものになるかどうかはまた別問題で、その人たち次第なのかもしれないけど」
人の場合は、ですけどね。植物と昆虫の事情はちょっと、どちらにもなった経験がないのでわかりませんけど。茉莉が少しおどけてそう言うと、植物男は少しだけ笑った。しかしそのあとに一言、まるで鋭いナイフで肉を絶つように、短い言葉を放った。
「人の心は、そんな綺麗な言葉で片づけられるほど簡単なものじゃないです」
離れたい気持ちがとても強いなら、離れられないのはとても悲しいことなのかもしれない。そんな考えが頭をよぎり、茉莉は植物男を見たが、男はもう窓の外に視線を移してしまっていた。高台にある大学へと向かう軽自動車は坂道でアクセル全開となり、エンジンをフル回転させながら悲鳴を上げている。坂道の途中で一瞬だけ海が見えたが、それもすぐに見えなくなった。その一瞬の海の姿を見たかどうかわからない顔でずっと、植物男は窓の外を眺めている。またあの、どこか悲しそうな顔。茉莉はまた何も言えなくなり、イチジクとイチジクコバチ、そして植物男の世界を想像しながら、くねくね曲がる坂道にハンドルを合わせ、黙々と車を走らせた。
茉莉が通いなれた大学東口の信号を右折したのは、今日が初めてだった。茉莉の所属する人文学部の駐車場は東口の信号を左折した先にあり、理系学部ばかりが集まる右折した先には全く用事がなかったからだ。あ、ガジュマル。茉莉は右折した道の先で、気根を伸ばすガジュマルを見つける。通いなれた場所でも知らない部分があり、自分にとって少し特別なガジュマルが、さも当然といった顔をして近くにあったことに苦笑いしながら、茉莉は理学部から一番近い駐車場に車を停めた。
「ちょっとすみません」
車が停まった瞬間、植物男は茉莉の返事も待たずに車を降りた。茉莉が車を停めた駐車場は理学部正面玄関のすぐ近くで、駐車場からも玄関周辺の大きな植物がいくつか見える。その中に、樹の幹にイチジクの実に似た果実がたくさんついた樹木があり、植物男はその実と植物に吸い寄せられるように走っていく。またこの人は、まったく。茉莉は心の中でため息をつきながら、男が忘れていったガジュマルの実の入ったジップロックを掴み、植物男の後を追った。
植物男が玄関からぐるりと理学部を一周して様々な植物を思う存分堪能し終わった頃、二人はひとりの男性と遭遇した。その男性はジーンズにチェックシャツという野外で身動きのとりやすそうな格好で、理学部の裏にある小汚い温室のような建物から出てきた。男性は温室と理学部の間にあるガジュマルの根元に生える植物の蕾に目を止め、その蕾をじっと見ている。白髪まじりのその男性が纏う空気はとても静かで、独特の雰囲気があると茉莉は思った。そしてどことなく、植物男と似ている。茉莉がそう思ったタイミングで植物男はその男性に近づき、「種山教授でしょうか」と男性に声をかけた。植物男が相変わらず耳に馴染まない本名を口にして小さく頭を下げると、種山先生と呼ばれたその人は、穏やかな声で「きみが噂の植物男くんですか」と口にした。植物男がどこからやって来たか茉莉は知らないが、どうやらこの男の噂は沖縄にまで届いているらしい。本当にこの人は何者なのだろう。話の流れに身を任せたまま、茉莉はただ静かに二人の話を聞いていた。
二人の会話の内容から、種山教授は植物研究室の教授で、アポイントもなく突然やってきて「顕微鏡を貸してほしい」と提案する図々しい男を笑顔で受け入れる懐の深い人であることがわかった。
誰かしらがいるなんて嘘じゃない。先ほどの植物男の言葉とは裏腹に、植物研には人の気配がなかった。茉莉と植物男が教授に連れられ訪れた顕微鏡のある部屋だけでなく、植物研のある手前の廊下はすべて閑散としている。しかし、ひとつ隣の別の研究室がある廊下では人の笑い声や行き交う姿がちらほら見られ、この研究室の周辺だけ人の気配がないようだった。それがなんだか植物研らしいと、なにも知らないなりに茉莉はそう思った。
「いないですか。コバチ」
「いないですね」
茉莉が周囲の様子に気を取られている間に、植物男はちゃっかり部屋の奥の顕微鏡の前に陣取り、先ほど採取したガジュマルを観察していた。種山教授は植物男の正面の椅子に座り、腕を組んで植物男と談笑している。手持ち無沙汰な茉莉は、入り口付近のテーブルに少しだけ身体をあずけ、教授と植物男の会話に耳を傾けた。
「まだ若い花嚢だったのでしょうか?」
「そうかもしれませんね。形態だけ確認したらいいんじゃないですか?」
「そうします」
あ、もう教授と打ち解けてる。学生に対しても敬語なその教授は、人の懐に程よい距離感で入るのが得意な人のようだった。肩の力が抜け、三日近く一緒にいる自分といるときよりリラックスした様子の植物男に少しむっとしながら、茉莉が気持ちと時間を持て余していると、種山教授が声をかけてきた。
「彼が見ているガジュマルは、雌雄同株のイチジクの仲間です」
「雌雄同株?」
「彼が見ている実を花嚢と呼ぶのですが、その花嚢の中に雄花と雌花の両方が入っている仲間が雌雄同株です。イチジク属には、雄花と雌花が別の花嚢に入っている雌雄異株もあります」
「そうなんですね」茉莉が素直に感心して頷くと、教授は言葉を続けた。
「イチジク属では、花粉を放出する雄花と二種類の雌花の、三種類の花を咲かせます。ガジュマルはガジュマルコバチのメスが送粉するのですが、ガジュマルではまず二つの雌花が成熟し、花粉をもったガジュマルコバチのメスを匂いで誘います」
最近実習でコバチをイチジクに入れる機会があったんですよ。まあ、これはオオバイヌビワなのですが。そう言いながら教授は自分のスマートフォンを取り出し、茉莉に画面を見せる。顕微鏡をのぞきながら話を聞いていた植物男も、顕微鏡をのぞいていた目を教授のスマホに移した。教授が見せてくれた映像には、あてもなく彷徨うように触覚を動かしていたコバチが、突然なにかを察知し、そこから迷いなく花嚢の入口である小さな穴へと最短距離で向かい、花嚢の中へ身体を押し込んでいく姿が収められていた。コバチは小さな身体を花嚢の奥へと滑らせながら、翅が脱落するのも厭わず、本能だけで身体をねじ込んでいく。たった一分ほどの短い時間で、そのコバチは穴の奥へと消え去り、イチジクの入口に残された翅だけが、そこにコバチがいたことを証明していた。
「ガジュマルの中に誘われたガジュマルコバチは、花嚢にある雌花に産卵管を差し込み、卵を産みます。しかし、ガジュマルには柱頭と子房の長さが異なる二種類の雌花があって、柱頭と子房の距離が短い雌花には産卵できますが、柱頭と子房の距離が長い雌花にはガジュマルコバチの産卵管が子房に届かず、産卵できません。そのかわり、柱頭と子房の距離が長い雌花では、ガジュマルコバチのメスの身体に付いた花粉が柱頭に触れることで受粉が起こり、ガジュマルの種子ができる仕組みになっています」
「花柱の短い雌花がガジュマルコバチのための花で、花柱の長い雌花がガジュマルのための花、ということですか?」
植物男がそう質問すると、教授は「その通りです」と言った。教授はさらに自分のスマートフォンを操作して、コバチが雌花に産卵管を差し込み、産卵している映像まで見せてくれた。
「ガジュマルコバチの産卵後、ガジュマルコバチはガジュマルの中で子房を餌にしながら成長します。ガジュマルコバチでは、まず成長したオスが雌花を飛び出し、メスと交尾します。そしてオスは交尾の後、メスが花嚢の中から脱出できるよう、強靭な顎を使って中から外へと繋がる穴を開けます。一方のメスは、いつの間にかひっそりと成長していた雄花から花粉を集め、オスが開けた穴を通って花嚢を飛び出し、産卵するために新たなガジュマルの花嚢へと向かいます。そしてオスはそのまま、メスは別のガジュマルの中で産卵と送粉を終え、次の命を繋げた後、自分の命を終えます」
「……私、そんなこと全然知りませんでした」
こんな小さな実の中に、そんな壮大な物語が隠されていたなんて。ガジュマルコバチは、子どもの間はガジュマルに養ってもらう。養ってもらったガジュマルコバチは、ガジュマルの花粉を自ら集めて花嚢を飛び出し、次のガジュマルと自分の命を繋ぐ。植物男はそれぞれに離れられない関係を「簡単に片づけられない」と言い、悲しそうな顔をした。確かにそれは、悲しいことかもしれない。嬉しいことではないかもしれない。でも、自分とイチジクの次の命を繋ぐために命をすり減らすイチジクコバチの姿を知ってしまったら、悲しいなんて感情だけでは説明できない、大切なにかがあるんじゃないのと、茉莉は強くそう思わずにはいられなかった。
「生き物たちって、すごいですね」
茉莉の言葉に、教授は「そうですね」と素っ気なく答えた。その言葉とは裏腹に、嬉しそうに口元を緩めた教授に、茉莉は生き物を追いかける少年の面影を見た気がした。
イチジクコバチの映像を見せて満足した教授が去った後も、植物男は無心で顕微鏡をのぞき続けていた。茉莉は教授がいた場所に腰かけ、鞄から本を取り出し、静かに植物男を待つ。室内には少し離れた場所から聞こえてくる学生たちの声と、目の前で何度もピンセットがシャーレにあたる音、頭上からクーラーが風を送る音だけが響く。私とこの男は、近くにいるのに交ざり合わない。だけど一緒にいて、融けていくような。この男と一緒にいると、そんな感覚を茉莉は味わう。何も言わない、自分を見もしないこの男との時間が、とても愛しい。でもこの人はきっと、何も考えていないんだろうな。本の世界を出たり入ったりしながら、茉莉はそんなことを思った。
日が暮れて研究室を追い出された植物男をホテルまで送り届け、車から降りようとするその背中に、茉莉は声をかけた。茉莉にはどうしても男に伝えたいことがあったからだ。
「あなたは離れられない関係を簡単に片づけられないと言ったけれど、やっぱり私は、素敵な関係だと思います。たとえあなたがそうは思えなくても」
普段は自分の気持ちなんて、吐き出す前に飲み込んでしまうのに。自分の中に譲れない気持ちが生まれ、言葉に出来たことに、誰より茉莉が驚いた。
植物男はどう反応したらいいのかわからないようで、自分がどちらの足を下ろすのか忘れてしまったかのようにぎくしゃくとした動きで車を降りた。しかし、車のドアを閉める前に聞こえた小さな感謝の言葉が、茉莉の耳にしっかり届いた。
そしてその日の夜、茉莉はひとつの夢を見た。それは、過去の茉莉の記憶の断片のようだった。その夢の中の茉莉はどうやらまだ小学生で、いつもより少し低い位置から、いつもの公園のガジュマルを見上げている。ガジュマル越しの空は暗く、そばに立てられた街灯だけがガジュマルを照らしていた。街灯が照らす世界だけを見ていた幼い茉莉は首を動かし、ガジュマルの幹と幹の間で目を止める。茉莉の視線の先には、ガジュマルに身体を預け、まるでガジュマルに甘えるように幹を抱きしめて眠る赤髪の少年がいた。夢を見ている今の茉莉は、この後、幼い彼女が彼の名前を呼び、彼が目を覚ますことを知っている。そして、目を覚ました彼が彼女に気づき、彼女に向かって飛びつくことも、そして受け止めきれなかった彼女が地面に倒れ込み、二人で笑いあうことも、今の茉莉は知っていた。ああ、そうだ。私は知っている。私は、キジムナーという生き物を、ずいぶんと前から知っていたのだ。どうして今まで忘れてしまっていたのだろう。忘れたくない、とても大切な記憶だったはずなのに。そして今の夢を見ている茉莉は、夢から覚めると、また自分がキジムナーのことを忘れてしまうことも知っていた。幼い彼女が彼の名前を呼ぼうと息を大きく吸い込んだ瞬間、夢から目覚め、この場所から離れていく感覚が、今の茉莉の身体を支配する。
「ごめんね、また来るから」
その言葉が今の茉莉の言葉なのか、幼い茉莉の言葉なのか、彼女には区別が付かなかった。夢から目覚めた茉莉は、思い出せない夢の断片をぼんやりと掴もうとしながら、静かに一筋の涙を流した。
その日の沖縄は、朝から雨が降っていた。いつもの茉莉なら、こんな日は用事が無ければ昼過ぎまで眠ってしまうのだが、今日の茉莉には起きなければならない理由があった。スマホを片手にタオルケットの中で起き上がるきっかけを探しながら、だらだらと動く気持ちの準備を始める。ああ、出かける準備だけじゃなくて、部屋の掃除もしなきゃいけないんだっけ。雨が部屋の中まで入ってきて、汚れだけ洗い流してくれればいいのに。頭の中で部屋の窓を開け、打ち付ける雨が床の汚れをするりと綺麗に洗い流す都合の良い妄想を繰り広げた後、ようやく茉莉はベッドから抜け出し、現実の身体を動かして、自分の部屋の窓を開けた。
那覇空港にある二つの到着口には、それぞれ一つずつ水槽がある。沖縄島北部にある有名な水族館には遠く及ばないが、空港内で柱のように埋め込まれているその水槽たちは、沖縄に来る家族や友人の到着を待つ人たちが眺めて退屈しない程度には広く、小さな子どもの姉妹が水槽の周りを駆け回っても親が見失わない程度には狭い。水槽の中で自由に泳ぐ魚を追いかける姉と、その姉についていく妹。どこの姉妹もそんなものなのだなと思いながら茉莉がぼんやりと水槽を眺めていると、茉莉の耳に、自分の名前を呼ぶ声が届いた。
「まつり!」
空港内の喧騒をかき分けて響いた、女性にしては少し低い声。その声に茉莉は少しの懐かしさを感じ、思わず目を細めて小さく笑う。
「お姉ちゃん」
茉莉が身体を水槽から到着口へ向けると、そこには姉の季紗と、茉莉の知らない男性がひとり立っていた。男性は茉莉と目が合った瞬間、人当たりの良さそうな柔らかい表情で、茉莉に小さく微笑んだ。茉莉の目が元の大きさに戻る。
「久しぶり! どれくらい会ってなかったっけ?」
隣の男性などいないかのように話し始めた季紗の勢いに押されながらも、茉莉は何とか自分から話題を振った。
「春休みに帰って以来だから、半年くらいかな。……えっと、ごめん、こちらの方は?」
「あれ、言わなかったっけ? たくみくん。私の彼氏」
相変わらずこの姉は。彼氏はいると聞いていたが、彼氏と一緒に来るとは言わなかったではないか。茉莉がそう思っていると、季紗はさらに、「あ、お父さんには内緒ね」と言葉をつけ加えた。言及すべき部分はそこじゃないだろと思いながらも、こういうときの姉には何を言っても無駄だと知っていたので、茉莉は大人しく一つだけ頷いた。相変わらず台風のような姉の勢いと自由奔放さに、少しだけ茉莉の肩の力が抜けた。
「茉莉さん初めまして。笠原拓海といいます。よろしくお願いします」
台風のような季紗とは対照的に、目の前の彼はどこまでも落ち着いた人だと茉莉は思った。拓海は浮かれたオレンジ色のシャツを着ている季紗とは対照的に、淡いブルーの襟付きシャツを身に付けていたが、上のボタンが二つ開けられていて、どこかリラックスした印象を茉莉に与える。ふらふらと彷徨いながらも大事なものは手放さない植物男の強さとはまた少し違った、深く地面に根を張りながらもどこか柔軟さを感じさせるような、そんな強さを茉莉は拓海から感じとった。
「えっと、季紗の妹の茉莉です。こちらこそよろしくお願いします。……じゃあ、おばあちゃん家、行こっか」
半年ぶりの姉と、姉の彼氏と三人。適当な話題などあるのかと思いながらも、まあ、お姉ちゃんだし、なんとかなるかと気を取り直して、茉莉は二人と駐車場へ向かって歩き始めた。
「あら、きさちゃん久しぶり! 大きくなったねえ」
「おばあちゃん!」
「そちらは、きさちゃんの彼氏? 優しそうな人ね!」
「ばあちゃん、冷蔵庫から飲み物とるね」
「ありがとう、まつりちゃん」
突然の孫の彼氏の訪問にも全く動じない祖母にひっそり感心しながら、茉莉はキッチンに向かい、孫やお客さんのために常に用意されているお茶やジュースを冷蔵庫の中から取り出した。茉莉がキッチンから飲み物を持ってリビングに入ると、祖母の隣にあるソファーに座った姉が祖母と言葉を交わし合い、姉の隣でその様子を微動だにせずにこにこと静かに見守る姉の恋人の姿が目に入った。現在は、幼い頃に季紗と茉莉が家族で浦添の家に泊まりに来た時の話をしているようだった。
「あの時、二人が壺屋の焼き物屋さんで見かけたシーサーの箸置きを気に入って買ったのに、最終的に片方は失くして、もう片方はおばあちゃん家に忘れて帰っちゃったのよ」
「なにそれ! 全然覚えてない!」
その場にいる全員に飲み物を配り終え、することがなくなった茉莉はいつもの机の隅に座り、三人の世界を邪魔しないよう、姉が持ってきたひよこ饅頭を食べ始めた。うん。やっぱりひよこは、いつでもおいしい。
「まつりマイペースすぎ」
「えっ」
茉莉が静かにひよこのほのかな甘みを楽しんでいると、ひよこを食べる茉莉に気づいた季紗から言葉が飛んできた。
「ま、そういうとこがいいんだけどね」
そういって鼻でふっと笑った後、季紗はまた祖母との会話に戻ってしまった。別に私は、マイペースだからひよこを食べていたわけではないのだけれど。姉と一緒にいると、よく、こんな小さなズレが生じていたことを茉莉は久しぶりに思い出した。姉の会話のテンポの速さに置いていかれて、自分の言葉が奪われてしまうような感覚。姉が自分の言葉を奪ったわけではない。ただ、自分が言葉を伝えられなかっただけ。伝えられなかった言葉は、どこにもたどり着けず、自分の胸の中にひっそりと残されたままだ。それなのにもう、この言葉は自分のものではないような。これまで伝えられなかった言葉たちは一体、どこへ行くのだろう――
持て余した言葉と気持ちを心の中で弄びながら、特にすることのない茉莉は、昨日の植物男のことや公園のガジュマル、キジムナーのことを考えた。昨日の自分の、飲み込まなかった言葉。今の気持ちを吐き出してみたら、どうなるのだろう。でも今の気持ちは、昨日の言葉のように明確な形をとっていないから、吐き出し方がわからないや。このひよこを食べきったら、今の気持ちがひよこになって、口から飛び出してくれるといいんだけど。そんなことを考えながら、茉莉はひよこを食べ終えた。
「まつりちゃん、なに笑ってるの?」
「ん? ひよこっておいしいなって」
祖母の言葉に、茉莉は偽りのない言葉を返す。
「でしょ。たくみくんが選んだんだよ」
「ありがとうございます、たくみさん」
「喜んでもらえて嬉しいです」
偽りはないものの、今の気持ちを説明することもない、季紗の求めるマイペースな妹のまま、茉莉はみんなの会話に混ざる。当然のことながら、前回茉莉が持ってきたダリアの姿はもうなく、花瓶も几帳面な祖母によって片づけられてしまっている。茉莉の気持ちを乗せたひよこは飛び立たなかったが、祖母の家を出る前に祖母からもらった「この前言い忘れたけど、お誕生日おめでとう」という言葉が茉莉の耳に届いた瞬間、誰かに奪われた気がしていた自分の言葉が、少しだけ戻ってきたような気がした。
祖母に別れを告げて三人が茉莉の車に戻ると、助手席に座った季紗が拓海に「今日はそのままホテルでいい?」と声をかけたことに、茉莉はひどく驚いた。
「え、たくみさんはうちに泊まらないの?」
さすがにそんな非常識なことするわけないでしょ、と季紗は声を荒げた。普段のお姉ちゃんはそういう非常識なことをする人だよと口元まで出かかった言葉を必死で飲み込み、茉莉は季紗の案内で那覇市内にあるホテルへ向かって車を走らせる。
「でもホテルを取ってあるなら、なんでお姉ちゃんはそっちに泊まらないの?」
茉莉の言葉に、季紗は先ほど以上に「なにをとぼけたことを言っているのか」と言った顔で眉間にしわを寄せ、呆れた表情をしている。
「今回の旅の一番の目的が、茉莉と二人でお酒を飲むことだからに決まってるでしょ!」
「え、お姉ちゃん、私の誕生日知ってたんだ」
「当たり前でしょ! 私、茉莉と一緒にお酒飲むの、楽しみにしてたんだから!」
なにそれ。初耳なんだけど。茉莉の言葉に季紗は深いため息をついた。ミラー越しに拓海を見ると、拓海は口元を緩め、微笑ましそうに笑っている。
「これだからこの妹は。もうお酒は飲んだの?」
「……いや、まだ」
茉莉の二十歳の誕生日は九月中旬で、誕生日から一か月以上が経過しており、大学の友人たちから飲み会の誘いも受けていた。しかしなんとなく気乗りせず、茉莉はすべての誘いを断っていた。そんな茉莉を見透かしたように、季紗はまた深いため息をつく。
「というわけで、私はお酒を買って茉莉の家に泊まります」
たくみくん。季紗が拓海の名前を呼ぶと、拓海は小さくうなずいた。二人の信頼関係を垣間見ながら、茉莉は季紗の指示に従い、大通りの信号を左折した。
「意外と綺麗にしてんじゃん」
拓海をホテルまで送り届け、スーパーでビールやチューハイ、沖縄そばなど、明らかに二人では食べきれない酒とつまみを買い込んで茉莉の部屋に入った季紗が開口一番に述べたのがこの言葉だった。
「余計なお世話だなあ」
思わず出てしまった茉莉の言葉を聞いて、季紗はきょとんとした表情を浮かべた。なにその顔。茉莉はそう思ったが、反応するのも面倒だったので、袋をもって部屋の奥へと向かい、机のまわりに酒やつまみの入った袋を置いてキッチンへと向かう。玄関で止まっていた季紗も数秒で我に返り、部屋に上がって机の前に腰かけた。茉莉が二人分のグラスと取り皿を持って部屋に戻ると、季紗は部屋をきょろきょろと見まわしていたが、茉莉が戻ってくるやいなや、床に置いていた梅酒の瓶とイチジクを持ち上げ、「お父さんからのおみやげ」といって、にっと笑った。
「おばあちゃん元気そうでよかった」
父からの梅酒で乾杯した後、季紗が祖母の話を振ってきた。
「ばあちゃんは、いつもあんな感じ」
「よく会いに行ってるの?」
「うーん、まあ、時々?」
「そっか。ありがとね、茉莉」
「…ほんとにどうしたの?」
茉莉の言葉や行動に対して季紗が感謝の言葉を述べるなど、これまでの季紗には決してあり得ない言動だった。
「別に。いつも思ってることを言っただけ」
お酒のおかげかな、なんて季紗は言葉を濁したが、そんなわけがないことを妹はよく知っている。
「たくみさんの影響でしょ」
「違うし!」
そう言って季紗は誤魔化すように梅酒を一口飲んだ。相変わらずわかりやすい姉だと思ったものの、茉莉が何も言わずに黙っていると、季紗がもう一口梅酒を飲んだ後に言葉を続けた。
「確かに、たくみくんの影響もあるけど、茉莉が実家から離れてようやく、少しだけお父さんに素直になれた気がしてて」
そしたら少し、茉莉がどういう気持ちであの場所に居たのか、わかったような気がした。いつもの勢いで話すのではなく、ひとつひとつ言葉の意味を確認しながら丁寧に言葉を置くように話す季紗は、いつもより少しだけ大人びて見えた。
「でも、茉莉も少し雰囲気変わった?」
「どこが?」
「なんか、ちょっと口が悪くなった」
「…ほめてる?」
「ほめてる」
なぜだろうと茉莉は少し考えてみたが、初めてのお酒が頭に回っているのか、なにも思いつかなかった。
「キジムナーが取り憑いたのかも」
よくわからないという風に首をかしげた季紗を置いてけぼりにして、茉莉も一口、梅酒を口にした。それから茉莉と季紗は、大学のことや仕事のこと、幼いころに互いが感じていたことなど、たくさんの話をした。会話が盛り上がるにつれて梅酒が減り、ビール、チューハイがなくなっていく。父から貰った梅酒がなくなり、締めのイチジクを食べ始めたころ、酔っぱらって机にうつぶせた季紗が、キジムナー、と一言つぶやいた。
「茉莉、キジムナーの話、覚えてる?」
「覚えてない」
季紗は茉莉の反応を気にした様子はなく、机にうつぶせたまま言葉を続けた。
「前、おばあちゃん家に泊まりに行ったとき、茉莉が「キジムナーを見た」って言ったの。ガジュマルの下でキジムナーに会って、一緒に遊んだんだって。その話を聞いて、普段は静かなお父さんが大喜びして、「どこで会ったんだ? なにをしてきたんだ?」って。そんな二人の会話に混ざれないのが嫌で、不貞腐れてたら、茉莉が「今日はお姉ちゃんも一緒に行こう」って言ってくれて。でもその日の夜、私はキジムナーに会えなくて。「いないじゃん!」「いるもん! いたもん!! キジムナー、今ここで笑ってるもん!!」って言い合いしたの」
季紗の言葉に、「見たもん!」と姉に主張する幼い日の自分の声とともに、茉莉はようやく、あの公園のガジュマルと、その前で口角を片方だけ上げて、いたずらっぽく笑うキジムナーの姿をはっきりと思い出した。ああ、そうだ。私は昔、あの公園でキジムナーに会っていたんだ。茉莉がキジムナーを思い出した感傷に浸るなか、季紗は酔いの勢いに任せたまま、その頃の気持ちを吐き出していく。
「それで翌朝、お父さんに「キジムナーなんていなかった! 茉莉、嘘ついてた!」って言ったら、お父さん、すごい悲しそうな顔になって」
今度は幼い茉莉に真偽を問い、すがるように茉莉を見た父の顔を茉莉は思い出す。そして、怒っているのに今にも泣きそうな、うるんだ瞳の幼い季紗の顔も思い出した。
「それから茉莉、昨晩はあんなに私と言い合いしてたのに、「わたしの気のせいだったかも」って言って、笑ったの」
あの時の茉莉の顔が私、ずっと忘れられなくて。茉莉も、あの時の父の顔は忘れられなかった。茉莉の言葉を聞いて、少し寂しそうな、でもどこか少しほっとしたような、そんな顔をした父。父にとってキジムナーは、どのような存在だったのだろう。そんなことを考えながら、茉莉は今更ながらの季紗の小さな後悔の話を聞いていた。
「本当は、あの後も見えてたんでしょ」
「……見えてない」
「どうだか」季紗はそう言って鼻で小さく笑い、イチジクを食べた。
「それ以降も茉莉はひとりでいなくなってたし、茉莉の服が汚れてて困るっておばあちゃんが嘆いてたの、私、知ってるんだから」
何も言わない茉莉に、季紗はそれ以上の詮索はしなかった。
「あのときはありがとう」
私、お父さんには感謝してる。ここまで育ててくれて、面倒見てくれて。
「でもやっぱり私は、私のことをわかってくれなかったお父さんが、嫌い」
茉莉は直感的に「ちがう」と思ったが、口には出さなかった。父は、姉のことをわかっていなかったわけではない。どこまでもまっすぐな姉に対して、どうやって気持ちを伝えたらいいのかわからなかっただけなのだ。伝え方がわからないまま、自分の気持ちばかり押し付ける姉の奔放さに戸惑い、父もまた、自分の気持ちを姉に伝わる形で伝えられなかっただけなのだ。どこまでもまっすぐな姉に憧れている部分もあったが、今回はさすがに腹が立った。
「……お姉ちゃんは、わがままだよ」
初めてきちんと言い返してきた茉莉に、季紗は大きく目を見開いた。あ、その表情は初めて見るかも。そしてその表情を見て、茉莉は率直に「間違えた」と思った。しかし自分の言葉に後悔はない。訂正するつもりもなかった。季紗は、自分の言葉を撤回する気配のない茉莉の鋭い視線に顔をあげ、静かに睨む。互いに目はそらさない。目はそらさないが、次の言葉を探す季紗の思考を働かせる音が、茉莉の耳にまで聞こえる気がした。
そんなとき、季紗の鞄に入っていたスマホから、奇妙な音が大音量で流れた。太鼓とサンバを組み合わせたような奇妙な音のアラームが、午前十二時を告げているようだった。季紗が早急に鞄に手を突っ込み音を止めようとしたが、どうやらスマホが鞄の下に隠れているようで、とんちきな音はなかなか止まらない。大慌てでスマホを取り出し、音を止めようとしている季紗の姿を見て、茉莉は思わず笑ってしまった。
「なに、その音」
スマホを発掘した季紗がようやく、とんちきな音を止めて茉莉を見た。
「あの、今、育成ゲームしてて。ログボ、もらい忘れないようにって、たくみくんが」
蒼褪めた顔で茉莉を見る季紗に、茉莉は笑いが止まらない。
「いや、だからって、なんでその音なの。意味わかんない」
大爆笑し始めた茉莉につられて、季紗も一緒に笑い始めた。父の思いとか、姉のわがままとか、なんかもう、全部どうでもいい。茉莉はそんな気がした。
「もう十二時だし、そろそろ寝ようか」
おそらく茉莉と同じ気持ちになった季紗の言葉に茉莉は頷き、先ほどまで宴会を繰り広げていた場所を片付け、季紗のための布団を敷く。姉妹が隣同士で眠るのは、実に中学ぶりだった。よく寝る前に、他愛もない話や大事な話をたくさんしたっけ。真っ暗になった茉莉の部屋で、茉莉の方に寝返りを打った季紗が口を開く。
「うちには戻って来ないの?」
卒業してからってことだけど。真っ暗な中でのちょっと真面目な会話は、中学生でも大学生でも変わらないのだなと思いながら、茉莉は今の気持ちを思いのままに述べた。
「うーん、わかんない」
家族が嫌いなわけではない。でも、どうしても今は、あの家に戻る気にはなれなかった。茉莉の煮え切らない言葉に季紗は何も言わなかったが、最後に一言、つけ加えた。
「茉莉は私をわがままだと言ったけれど、茉莉だってわがままだったよ」
「…それはそうかも」
きっと、父や姉に対して気を遣っていた自分でさえも、気を遣いたい自分として、わがままだったのだ。姉はわがままだし、私もわがまま。でも本当は、お互いにわがままでいいのかも。茉莉は素直に、そんなことを思った。
「茉莉も、わがままでいいんだよ」
その言葉を最後に、隣から静かな寝息が聞こえてきた。
その日の茉莉は、また夢を見た。自分と姉が、父も含めてキジムナーと楽しく遊んでいる夢だった。父にも姉にも、キジムナーが見えているようだった。現実の姉にはキジムナーが見えないのに。そして父にも、今の私にも。そんな風に冷めた感情を持った大人の茉莉が、幸せそうな子どもの茉莉と季紗たちを遠くから眺めている。おそらく幼い頃の茉莉は、こんな未来を思い描いていた。みんなが同じで、それが一番、みんな幸せ。けれど、少しだけ大人になった今の茉莉は、そんな家族の姿を見て、ただ純粋に「違う」と思った。それは、私の記憶じゃない。茉莉は紙の上で動いているだけになったその夢をくしゃくしゃと丸め、部屋のゴミ箱へと放り投げる。そして引き出しから取り出したまっさらな紙に、あの日の自分とキジムナーとの思い出を、思い出のままに描き始めた。
「拓海さんすみません、今日はお付き合いできなくて」
「いいんだよ。どうせ今日の季紗さんは使い物にならないだろうし」
昼前に二日酔いで液状化した姉を拓海のいるホテルまで送り届けると、拓海は昨日と大きく変わらない格好と穏やかな笑顔で二人を迎え、液状化した季紗を受け取った。そういえば、といって、拓海は茉莉の耳元でひっそりとあることを教えてくれた。
「実は季紗さん、僕も茉莉さんの家に泊めようとしてたんだよ」
やっぱり。そう思いながら茉莉がうんざりした顔で拓海を見ると、拓海はいたずらに成功した子どものような顔で茉莉を見て笑った。どうやら姉は、よくできた人を恋人にしたらしい。思わず姉と長い付き合いである妹として、余計な言葉が口をついて出た。
「たくみさん、お姉ちゃんに振り回されて迷惑したりしていませんか?」
茉莉の率直な言葉に、拓海は少し悩んだ後、「うーん、正直、イラっとすることはあるかな」と、さっぱりしたトーンで言った。
「でもそれと同じくらい、彼女だけに救われる部分があったり、好きだと思う瞬間があったりするから、仕方ないんだ」
「仕方ない?」
「うん、仕方ない」
好きになっちゃったんだから、仕方ない。拓海の言葉など全く聞いていない姉は、拓海の首元で唸っている。拓海は唸る季紗の身体を抱きしめ直し、静かに季紗の背中をさすって、愛しそうに笑った。
「まあ、それでも僕なりにボーダーラインみたいなものはあって、それを越えたら怒ると決めているけどね」
離れるのではなく怒ると言った拓海が、本当に姉にはもったいない人だと茉莉は心から思った。この人はきっと、自分と同じく、姉にほだされてしまった人なのだろう。
「…姉のこと、末永く、本当に末永く、よろしくお願いします」
茉莉が深々と頭を下げると、拓海は少しだけ面白そうに笑った。
「こちらこそ」
茉莉と拓海、互いに深くお辞儀をしあい、茉莉は二人と別れた。
季紗と拓海に別れを告げ、茉莉が車に戻ってスマホを確認すると、一時間前に植物男から「今日の集合時間を十五時半に変更してもいいですか」と連絡が入っていたことに気づいた。解散時間はいつもまばらだが、約束の時間だけはきっちりと守る植物男にしては珍しい提案で、茉莉は少し嫌な予感がした。しかし特に断る理由はなかったので、了承の返事を送り、時刻を確認してからスマホを助手席に投げる。時刻は十二時。一度自宅に戻っても良かったが、自宅に戻ると昨日の飲み会の片付けが待っていると思うと、戻る気にはなれない。せっかく那覇まで来たし、国際通りで軽く昼ご飯でも食べてから向かおうかな。茉莉はマップアプリで国際通り付近の駐車場を検索し、アプリの案内にしたがって車を走らせた。
国際通りで昼食を終え、道すがら購入したアイスカフェラテを片手に茉莉がいつもの公園に向かうと、公園には誰もいなかった。いつもなら植物男が見えないキジムナーに声をかけていたり、子どもが遊んでいたりするのに。特にすることもないので、ガジュマル近くにあったベンチに腰掛け、表面に水滴の汗をかいたカフェラテを口に運ぶ。昨日の姉とのやりとりで思い出した、自分とキジムナーとの関わり。どうやら私は、本当にこの公園でキジムナーと会っていたらしい。植物男の言葉もあながち冗談ではないかもしれないとどこか他人事のように考えながら、それでもどこかにキジムナーがいないかと茉莉が公園内を見まわしていると、公園の隅に一本の白い看板が立っていることに気づいた。茉莉の腰の高さほどしかないその看板には、上に赤い矢印が描かれ、黒い文字で「伊波美術館」と記されている。こんなところに美術館があるんだ。時刻はまだ十三時半で、約束の時間まで少し余裕がある。茉莉は軽い好奇心に身を任せ、伊波美術館へ行ってみることにした。
美術館を見た茉莉が最初に思ったことは、背が低い、ということだった。一階分の高さしかない白い建物が横に長く広がっており、建物の正面には建物を支える円柱の柱が複数本ある。その柱がローマの神聖な建物のような、お祭り騒ぎを繰り広げる沖縄の広い墓のような雰囲気を滲ませ、まるで建物全体で祈りを表現しているようだと茉莉は思った。建物の周りにあるフェンスに添って乱雑に停められた年季の入った車と、沖縄の日差しの下で好き勝手に伸びた植物たちが、ここが沖縄であると強く主張している。茉莉は中に入りたいと思ったが、美術館特有の敷居の高い独特な雰囲気を感じ取り、ぴしゃりと閉じられた重たそうな扉が茉莉の小さな欲求をしなしなと萎ませ、知らない建物に入るのがとても苦手だということを茉莉に思い出させた。あ、今は無理かも。飲みかけのカフェラテも持っているし、今日は大人しく誰がいても大丈夫な所に戻ろう。敷居の高すぎる美術館に背を向け、茉莉は静かにいつものガジュマルのある公園に戻った。
特にすることもないので、茉莉は再びベンチに戻り、キジムナーについて思い出せることを整理してみることにした。自分がキジムナーと出会ったのは、えっと。キジムナーについて考えようとしたところで、ぽかぽかとした温かい日差しで茉莉を照らす太陽が茉莉の眠気を誘う。こんな天気のいい日に考え事なんてもったいない。いったん、いったん日向ぼっこをしよう。そういえば昨日、初めてお酒も飲んだし。茉莉はベンチに身体を預け、横になって目を閉じる。考え事をするんだと考えながら、頭の中でキジムナーの姿を想像していたらいつの間にか眠ってしまったようで、一時間後、大荷物を抱えて公園にやってきた植物男に起こされたのだった。
「今日はここにお願いします」
車の中で植物男に見せられたスマホに映し出されていたのは、いつもの公園から車で一時間ほど南下した場所にある、洞窟を売りにしたテーマパークだった。植物男が見せた写真にはテーマパークの駐車場近くに生えているガジュマルが映し出されており、今日も今日とてガジュマルだなと、茉莉は冷静に画面を見て場所を確認し、マップアプリを設定する。
「…道が、混んでいますね」」
「まあ、今は帰宅ラッシュの時間帯なので」
いつものように互いに無言で車を走らせていたら、車が渋滞に捕まった。沖縄には平日の午前七時から八時半までは通勤ラッシュ、午後四時から七時までは帰宅ラッシュがあり、その時間帯は道が混む。そして休日の観光地周辺も混む。沖縄の人は渋滞に敏感なので、混みそうな時間帯の運転は積極的に避けるが、沖縄県外の人は渋滞を軽視する傾向があり、今回もその例に漏れず、那覇市内へ向かう道とテーマパークへ向かう道に分かれる交差点の手前で一キロ近くの渋滞に巻き込まれていた。沖縄で生活する茉莉はこの道で渋滞に巻き込まれることはわかっていたし、心地よく昼寝した後だったのであまり気にしなかったが、珍しく植物男が渋滞を気にしているようで、ひじ掛けに置いた人さし指をしきりに動かしていた。普段の植物男なら、どれだけ時間がかかってもたいして気にせず、窓の外を見ているのに。突然の集合時間の変更や謎の大荷物でやってきたことなど、今日の植物男はどこか少し、いつもと様子が違う。
「今日は寝坊ですか?」
「え?」
「いや、大学生と約束すると、約束の時間に起きて集合時間に間に合わないことがよくあるので」
そういうことかなと。言い訳をするような言い方になり、若干の気まずさを覚えながらも茉莉が言い切ると、植物男は少し悩んだ後、「いいえ」とだけ返事をして、また無言になった。それじゃあ、会話が続かないじゃない。まあ、いつも通りと言われればいつも通りなのだけれど。やっぱり、どこかおかしい。どこか、なにかに緊張しているような。いつもの気の抜けた男とは違う、切羽詰まった空気を茉莉は感じとる。植物男の緊張をほぐしたかったのか、ただ自分が話したかったのか、はたまた渋滞に巻き込まれて時間があっただけなのか。いつものように自分の本心がわからないまま、茉莉は言葉を紡ぎ始めた。
「最近少し、考えていることがあって」
父や祖母に、季紗や拓海。ガジュマルとキジムナーに、植物男。そして、それらの人々を通して浮き彫りになってきた、自分自身という人間のこと。
「あなたはいつも、あの公園でキジムナーの話をしますよね」
本名を呼ぶのも、植物男と呼ぶのも気恥ずかしかったので、茉莉は男の呼び名を二人称で片づけた。
「実は私、幼い頃にあの公園に来たことがあって。その時にキジムナーに会ったことがあるって、最近気づいたんです」
今は何も見えないんですけどね。そう言った茉莉に、植物男は「…そうですか」と、少し遅れて返事をした。隣の男は、キジムナーの存在を信じていないのだろうか。遅れた返事に疑いがよぎる。しかし、それでもいい。茉莉が目の前の男に伝えたいことは、それとは別にあった。
「私には姉がひとりいるんですけど、幼い頃の私にはキジムナーが見えて、姉には見えませんでした。そういった意味では、私と姉は別の人間で。まあ、それは当然のことなんですけど、そうじゃなくて。最近、姉とそういう話をしてようやく、同じ世界で生きていても、必ずしも同じものを見て、同じことを感じているわけではないと気が付いたんです。ずっと一緒にいたのに、そんな当たり前のことにも気づけていなかった」
茉莉はずっと心のどこかで、みんなは自分と同じだと思い込んでいたことに最近ようやく気がついた。見た目や性格は違うけれど、本質的な部分はみんな同じはず。だから、自分が相手の苦しみに気づけるように、いつか相手も、自分の苦しみに気づいてくれる。心のどこかでそう信じていたのだ。しかし、そう信じた茉莉の求める未来は一生訪れず、先に自分に限界が来て、茉莉はこれまでいた世界から逃げ出した。そして逃げ出してやってきた沖縄でようやく、茉莉は自分と自分以外の人との違いに気付いた。茉莉がその違いに気づけたのは、姉や父のいない、これまでとは少し違う世界にひとりで来たからだと、今の茉莉にならわかる。
「自分と違うものと関わるのって、難しいし、少し面倒ですよね」
茉莉が助手席を見ると、よくわからないといった表情で茉莉を見る植物男と目が合った。
「キジムナーという謎の生き物だけじゃなくて、自分と違う考え方や、知らない考えの人に出会うと、たじろいだり、衝突したり、見て見ぬふりをしたり。でも、どこか面白かったり。反応も人それぞれで、面倒くさくて、難しい」
どうやったら自分は人とうまく付き合えるのだろう。自分は今、人と上手く付き合えているのだろうか。茉莉には今もよくわからないままだ。
「でも私は、どんな人とでも、向き合うことを諦めたくない」
諦めたくないと、そう思います。ここまで言い切った茉莉は、少しの物足りなさを感じた。今までで一番本質に近い言葉だが、それでも少しだけ遠いような、そんな感覚。自分の感情を伝える手段として、言葉とはなんと不自由なのだろうと、茉莉は痛感した。
「……僕にはよくわかりません」
やっぱり、伝わらないか。茉莉は自分の言葉足らずに対する歯がゆさと、植物男に気持ちが伝わらなかった悲しさ、でも、初めて自分の言葉足らずを自覚できた喜びを感じた。今の私は確かに言葉足らずだ。だけど今は、これでいい。足りない言葉があることに気づけたなら、これから時間をかけてその言葉を探せばいいだけだ。
「私にもよくわかんない」
そう言って茉莉は、今までで一番朗らかな顔で植物男に笑いかけた。どうしたらいいかわからないといった表情で固まっている植物男を助手席に乗せたまま、車はようやく、大きな交差点の渋滞を抜けた。
渋滞を抜け、十八時過ぎにようやくたどり着いたテーマパークは、既に営業時間が終了していた。五十台は収容できる駐車場にある車は茉莉の車を含めて数台ほどで、閑散とした場所に太陽が沈んだ十月の夜の冷たい風が吹き抜け、少し肌寒い。車のドアを開けた瞬間に吹き込んだ風に茉莉は肩を震わせながら、荷物も持たずに一直線にガジュマルへと向かった植物男の背中を追いかけた。
「…これもガジュマルですか?」
そのガジュマルは茉莉が見てもわかるほど、これまで見たどのガジュマルより生命力に満ちあふれていた。いろんな大きさ、太さの枝を持つそのガジュマルは、空へと向かって枝を伸ばしながら、ガジュマルとは異なる、白い樹の幹にうねうねと不規則に絡みついていた。別の樹の幹に這うように絡みつくガジュマルの枝は、縦・横・斜めと様々な方向に蛇行し、横に太く大きく伸びたガジュマルの枝からぶら下がる気根もまた、最初に触れた別の樹の枝を絡めとろうとしている。触れたもの全てに絡みつき、覆い尽くそうとするガジュマルに、茉莉は強いエネルギーと恐怖を感じた。このガジュマルは、とても怖い。
「そうです」
茉莉の言葉に答えた植物男が手近にぶら下がるガジュマルの気根の先端に触れると、奇妙なことが起きた。男が気根に触れた瞬間、まるで気根が男の指を飲み込もうとするように、男の人さし指に絡みついたのだ。そのような気根の動きを見て、植物男は「やっぱり」と一言つぶやいた。
「なに、それ」
あまりの不気味さに茉莉は顔を手で覆い、ガジュマルから一歩離れる。その間にも、気根たちは植物男の右手を全て飲み込もうとするかのように、植物男の手に絡みついていく。しかし茉莉の反応にも、ガジュマルの反応にも慣れているのか、はたまた興味がないのか、植物男はすべてに対して無関心な表情を保ったまま、絡みつく気根を軽く払い飛ばして、「少し、車で話をしませんか?」と茉莉に提案したのだった。
植物男は後部座席に乗せたままの大きなリュックから水筒とコップを取り出し、温かいお茶が注がれたコップを運転席に座る茉莉に差し出した。次いで自分の分も注ぎ、助手席側のドアを開け、身体を半分ガジュマルに向けたまま助手席に腰かけて、茉莉からもガジュマルが見える状態のまま、植物男は湯気の上がるコップを口元に運んだ。植物男の動きに合わせて茉莉もコップを口元に運ぶと、さんぴん茶の独特な香りとお茶の温かさがいつのまにか冷えていた茉莉の身体に染みわたる。二人でガジュマルを眺めながらしばらく無言の時間を過ごした後、コップから口を離した植物男が、湯気越しにゆっくりと話し始めた。
「茉莉さんは、一般的に、ガジュマルが絞め殺し植物と呼ばれていることをご存知ですか?」
〝絞め殺し〟という言葉の重さに動揺して少し反応が遅れたが、茉莉は静かに首を横に振る。
「ガジュマルを含めたイチジクの仲間の多くは、鳥に種を運ばれ、他の植物の枝や幹の上で芽を出します。そしてその植物の上から、地面に向かって根を下ろす。その姿は、あのガジュマルを見てもわかる通りです」
茉莉が男越しにガジュマルを見る。日が暮れて街路灯に照らされ始めたガジュマルが、ガジュマルとは異なる白い樹皮を持つ樹の幹にぴたっと張り付きながら地面に根を張る姿が見え、そういうことだったのかと茉莉は静かに納得した。
「地面まで達したガジュマルの根は、地面から養分を得ながらさらに下ろす根の数を増やし、それぞれの根を太くして、徐々に元々そこにいた植物の枝や幹を覆っていきます。また、ガジュマルの枝は上にも伸びて元の植物を覆い、元の植物から日光をも奪っていく。こうして成長したガジュマルは最終的に元の植物の居場所を奪い、絞め殺してしまうので、絞め殺し植物と呼ばれています。あそこのガジュマルは、今まさに、オオハマボウという別の植物を絞め殺している最中です」
植物男の話を聞いて、多数のガジュマルの根が絡みついたあの一番太くて白い幹がオオハマボウだったのだと茉莉は気づく。オオハマボウに絡みつくガジュマルの根はまさしく、〝絞め殺す〟という表現がぴったりだった。そう思った瞬間、茉莉はあの植物がとても恐ろしくなり、わずかに唇が震えた。
「ガジュマルは、とても怖い生き物なんですね」
ガジュマルコバチと密な関係を結んだり、別の植物の居場所を奪って成長したり。植物男は、「確かに残酷だと捉えられる部分はあるかもしれません」と、静かに茉莉の言葉を肯定した。
「でも僕は、このようなガジュマルの生き方を強かだと考えます。例えば今、そこのガジュマルが絞め殺しているオオハマボウですが、この植物は主に海沿いで生活する植物で、種は海流に乗って別の場所に運ばれることが明らかになっています。ということは、近くに水辺の無いこの場所で生育しても、オオハマボウにとっては、正直そこまで意味がない」
「植物男さんにモラルというものはないんですか?」
目の前で消えかかっている命に対して、とても残酷なことを言うこの男に思わず茉莉が言い返すと、茉莉以上に熱量を持った植物男の言葉が返ってきた。
「茉莉さんの言うモラルとは、誰に対するモラルなのでしょう? 確かに目の前のオオハマボウがガジュマルに絞め殺されなければ、目の前のオオハマボウは生き長らえる。事象だけを切り取れば確かに、ガジュマルの行いは悪いことで、もし私や他の誰かがガジュマルの絞め殺しを防いだ場合には、私やその人の行いは良いことになるかもしれません。でもそれが本当にオオハマボウにとって良いことかどうかは、私には判断できません。誰にも判断できません。だってオオハマボウは、一言も助けてほしいなどとは言っていない。そもそも、ここに植えて欲しいなどとも言っていません。あのオオハマボウが本当に求めているのは、目の前の個体が生き長らえることでしょうか。もしそうなら、あのオオハマボウそのものを救うよりも、ガジュマルの隙間からのぞいている枝の一本を切って種子散布が可能な海沿いに挿し木してやる方が、きっとあのオオハマボウは喜ぶ」
茉莉にはほとんど何を言っているかわからなかったが、目の前の男が怒っていることだけはわかった。
「それでも、意味がないからと言って、目の前の命が消えていくのを黙って見過ごしてもいいの?」
茉莉の言葉に植物男の次の言葉がわずかに遅れたが、それでも先ほどと熱量を残したまま、男は静かに自分の意見を述べた。
「茉莉さんの言葉は正しい。でも、人はすべての命を救えるわけではない。僕たちは神ではないのだから。でも、だからこそ、命の使い方を考える必要があると僕は思うんです」
どう反応したらいいかわからないまま茉莉はたじろぎ、次の言葉を見つけられないでいると、植物男が「…失礼しました」と小さく述べた後、再び水筒のさんぴん茶を自分のコップに注いで飲み込み、茉莉にも水筒を差し出した。茉莉が植物男の配慮を受け取ると、水筒に入っていたお茶がすべてなくなった。そして植物男はもう一度さんぴん茶を飲んだ後、茉莉にも理解できる言葉で再び話し始めた。
「なんというか、この世はすべてバランスだと思うんです」
「バランス?」
茉莉の言葉に植物男は「はい」と答え、ひとつ頷いた。
「何かが少なすぎると滅びてしまうのは当然のことなんですけど、きっと、何かが多すぎても、その種類は滅びると思うんです。だからその多すぎる部分を、ガジュマルのような別の生き物が利用してバランスを取っている。それだけなんじゃないかと」
「ガジュマルがオオハマボウを絞め殺すことで、オオハマボウの数を調整している、ということですか?」
「僕はそう思います。ガジュマルでは奪い取る行為だけが強調されがちですが、おそらくガジュマルも、他の生き物と同じように、別の生き物に利用され、バランスの調整が行われているのだと思います。例えば先ほど、ガジュマルは鳥に種を運んでもらうと言いましたが、その際にガジュマルは種の入った花嚢を鳥に食べられます。鳥に食べられた花嚢の中で、鳥に消化されなかった種のうち、ガジュマルの生育環境に適した場所に落下できた鳥のフンに含まれる種だけが発芽する。仮に発芽できても、幼い根が生長できる確率なんてたかが知れています。それでもガジュマルはそのわずかな確率のもと、絶妙なバランスで今も生き続けている。なんでもきっと、お互いさまだと思うんです。ただ、人間の場合にはお互いさま、という言葉のボーダーラインの基準や解釈が人によって大きく異なることがあり、動植物の場合には、互いの利益の追求という観点しかない、というだけ」
また、ボーダーラインという言葉。茉莉と植物男のボーダーラインは同じなのだろうか。私と姉、私と父、姉と拓海はどうなのだろう。そして目の前の男と、彼が離れられないと苦しむ、彼の大切な人とのボーダーラインは。茉莉はそんなことが気になった。
「動植物では、互いが互いの利益を追求し続け、つり合いの取れた部分で共存が成立します。残酷な側面をもち、リスキーな生き方を選択しているガジュマルの生き方は確かに恐ろしい。でも、僕はそれが、ガジュマルの強かさだと思うのです」
だからガジュマルの生き方を一方向からだけ見て、怖いなんて簡単な言葉で片づけるな。植物男の怒りが、植物男の言葉を通してようやく理解できたような気がした。茉莉は自分の軽はずみな発言を恥じるとともに、少しだけ言葉を発することが怖くなった。そしてそれと同時に、ガジュマルについて、いや、ガジュマルだけではない多くの物事についてもっと深く知りたいと、ただ純粋にそう思った。
茉莉はゆっくりと時間をかけて、選んだ言葉を口にする。
「私がガジュマルを理解できていなかったことは少しわかったような気がします。でもじゃあ、先ほど、あなたの指に気根が絡みついたのはどうしてですか。それにもまた、何か理由があるの?」
茉莉が言葉を選んでいる間、まったりとお茶を飲んでいた植物男の動きが一瞬止まる。また良くないことを言ってしまったのだろうか。そう思いながら次の言葉を待っていると、植物男から予想だにしない言葉が発せられた。
「実はガジュマルの生き方と、先ほどのガジュマルの気根の動きには、全く関係がありません。無関係というわけではないのですが、まったく系統の異なる話で、今回僕が茉莉さんに聞いてもらいたかった話は、実はこちらの話です」
そう言いながら、植物男は再びガジュマルに目を向ける。到着した時にはまだ少し残っていた昼間の気配はもうなく、茉莉と植物男以外の人の気配も完全に消えていた。
「本来の植物は、ご存知の通り、大きくは動かない生き方を選択しています。しかし実はこの世には、本来の植物とは少し異なる奇妙な生き方を選択している植物がいます。例えば、僕の指に絡みついて僕を飲み込もうとした、あのガジュマルのように。そして僕はずっと、そんな奇妙な生き方を選択しているガジュマルを探していました。そして昨日、ようやくあのガジュマルを見つけた」
植物男の話は容易には信じがたい内容だったが、実際に指に絡みつくガジュマルを見たあとだったので、茉莉は植物男の言葉をそのまま飲み込む。しかし、先ほどの植物男の言葉に引っかかる部分があったので、その思いをそのまま口にした。
「……どうしてあのガジュマルを探していたの?」
その言葉に植物男の動きが再び止まり、男がひとつ、息を吐く。そして半分だけ外に出していた身体をすべて助手席にしまい、茉莉を見た。珍しくしっかり茉莉と目を合わせ、真剣な面持ちの植物男に、茉莉の背筋が伸びる。小さな緊張からまたしても何も言えなくなった茉莉に、植物男は「ちょっと持ってもらえますか」と言って自分のコップを茉莉に渡し、音を立てて助手席のドアを閉めた。
「ちょっと、驚くかもしれませんが」
男はそう言ってから、おもむろによれたシャツのボタン上三つを開け、左胸側のシャツを大きく腕側にはだけさせた。植物男の突然の行動に驚きながらも、好奇心と下心の混じった気持ちで茉莉はちらと植物男の左胸を見る。しかしそこにあったのは、茉莉が期待したような植物男の素肌ではなく、握りこぶしほどの大きさの楕円形の黒い種のようなものが男の身体に埋まった姿だった。その種はガジュマルの根のように植物男の身体に食い込み、深く根付いて、男の左胸に黒い血管のようなものを張り巡らせている。その姿はまさしく、ガジュマルがオオハマボウを絞め殺そうとする姿と瓜二つだった。茉莉が自分の胸元のものを見たのを確認すると、植物男は即座にシャツのボタンを再び一番上まで閉め直した。
「…ガジュマルとそっくり、ですね」
「僕もそう思います」
植物男が再び車のドアを開け、コップを貰おうと茉莉に伸ばしたその手に、茉莉は反射的に怯えて止まった。その反応に気づいた植物男もわずかに動きが止まり、視線を外して少し悲しそうな顔をする。ちがう、そんなつもりじゃなかったのに。そんな顔をさせたかったわけじゃないのに。茉莉の気持ちは言葉にならないまま、視線を茉莉に戻した植物男はいつもの何を考えているかわからない顔に戻り、次の言葉を続けた。
「茉莉さんの推測通り、僕の胸に埋まっているこの植物、僕はタネと呼んでいるのですが、このタネもガジュマルのように絞め殺しを行う植物で、僕の身体に根を張り、僕を絞め殺す機会をいつもうかがっています。しかし僕は、こいつに殺されたくない」
「引っこ抜くのは、ダメですか?」
どうにか気持ちを取り繕おうと茉莉が言葉を挟むと、そんな簡単な話でもないんです、と言って男は少しだけ笑った。
「そして以前、沖縄に奇妙な生き方を選択しているガジュマルがいて、そのガジュマルと共生する生物がいると聞いたことを思い出しました。このタネの生き方とよく似た植物と共生している生物がいると。その生物がガジュマルとどのように共生を成立させているのか。それが知りたくて、僕は沖縄に来ました」
「そのガジュマルと共生している生き物がキジムナー、ということですか?」
茉莉の口から〝キジムナー〟という言葉が出たことに植物男は少し驚いた様子だったが、何かを口にすることはなかった。
「その通りです」
そんな不確かな情報だけで。自分の突飛な発言を肯定され、思わず茉莉はそう口走りそうになる。しかし、この男の纏う今にも消えてしまいそうな雰囲気と、あのガジュマルの行動、そして男の胸元に根付くタネ。これらの情報を合わせて考えると、茉莉の思いは、声になる前に茉莉の喉元で消えた。
「じゃあ、このガジュマルのそばにキジムナーがいるの? 私には見えないですけど」
「このガジュマルの近くに、キジムナーはいません」
「じゃあ、あの公園のガジュマルにはキジムナーがいる?」
あのガジュマルは、このガジュマルのように、気根が絡みつくことはなかった気がするけど。その言葉に、植物男は口をつぐみ、お茶を一口飲んだ。嘘は付けないが、答えたくない質問が来るとひとまず黙るのがこの男の癖らしかった。この男、意外とわかりやすい。
「あの公園のガジュマルについてはいくつか仮説があるのですが、これはあくまで僕の推測でしかないので、まだ何かを述べることはできません」
面倒な男だ。茉莉はそう思ったが、大人しく引き下がる。
「ひとまずこのガジュマルは、おそらく、キジムナーを探し求めている段階のガジュマルなのではないかと思います」
茉莉がよくわからないという顔を植物男に向けると、植物男はさらに説明をつけ加えた。どうやら私もわかりやすいらしい。
「これも私の推測でしかないのですが、キジムナーは自然と人の営みの狭間にあるガジュマルを好み、未発達な段階にあるガジュマルと共生関係を結ぶのではないかと考えています」
「未発達な段階って?」
「それがどういう状態なのか明確に述べることは出来ませんが、僕の中では、今まさしく他の植物を絞め殺そうとしている最中のガジュマルを、未発達な段階のガジュマルであると考えています」
「その未発達な段階にあるガジュマルが、このガジュマル?」
「そうです。先ほども述べたように、動植物の間では互いが互いの利益を追求し続け、つり合いの取れた部分で共存が成立しています。しかしこのガジュマルではまだつり合いがとれておらず、近くにキジムナーもいません。そして僕の中にいるこのタネも未発達なようで、いつも僕に何かを求め、それを提供できない僕をいつも絞め殺そうとする。だから僕は、このタネが求めるものが何なのか知りたい。それがわかれば恐らく、僕とこの植物の間にも共生の道が開けるのではないかと考えています。それなのにこの植物はとても変わり者で、僕に何も教えようとしない」
そういって植物男は、自分の左胸の部分を強く掴んだ。出会った時から常に感じていた植物男の悲しみの源泉は、ここにあるのかもしれないと茉莉は思った。
「奇妙な生き方を選択しているガジュマルは意思をもって行動していると聞きました。ガジュマルは自らキジムナーを選んでいる、と。ならば、未発達なガジュマルに接触できればガジュマルとの意志疎通が可能で、ガジュマルの生き方を通してタネの生き方のヒントを得られるのではないかと考えました」
本当にそうだろうか。自分の身体に根付いている植物とでさえ意思疎通が困難だというのに、どうして別の植物となら可能だと思えるのだろう。茉莉の頭に疑念が浮かんだが、それ以上に、これまでにないほど焦っているような、必死な植物男の姿が、茉莉の言葉を飲み込ませた。
「そこで茉莉さんに一つ、お願いがあるのです」
「え、私?」
そうです、と返事をする植物男に、茉莉はひどく驚いた。これまで生きてきた世界と大きく異なる世界の話をくり広げられ、完全に蚊帳の外だった自分が急に登場したからだ。少し嬉しいような、怖いような。複雑な気持ちを抱えたまま、茉莉は次の言葉を待つ。
「僕はこれから、あのガジュマルの中に入ります。そこで僕があのガジュマルの中に入りきるまで、僕の手を握っていてくれませんか?」
植物男の言葉に、茉莉はすべての思考と動きが止まった。そしてその後、茉莉の心に最初に湧いた感情は、植物男に対するどうしようもない怒りだった。この男、どうしてくれよう。目の前の男の無神経さに、生まれて初めて、茉莉は誰かに対する強い怒りが湧いた。
おそらく私は、時が経てば、この男を特別な意味で好きになる。時が経てば、この傲慢ながらもどこかに弱さを飼いならし、人に甘えるのが上手なこの男に憑りつかれ、恋をするだろう。いや、もしかしたらもう、恋をしているのかもしれない。だからこんなに、この男の無神経な言葉に腹を立てているのかも。どちらにしても私という人間は、徐々にこの男にほだされ、離れられなくなり、この男の求めることはなんでも叶えたくなる。かつて姉や父に対しての自分がそうであったように。なぜならそれが私という人間の性分であり、私という人間の幸せだからだ。困っている人は放っておかない。好きな相手には、どこまでも力になりたい。たとえそれらの行為が、自分という人間の心をすり減らす行為でも。その行為自体に自分の幸福が含まれ、相手もそれで心が楽になるのであれば、それ以上に自分の中ですり減っていく何かがあっても、見て見ぬふりをして相手を甘やかしてしまうのが、私という人間なのだ。そして、その行為によって得られる利益を享受するのが私という人間なのだ。そして、私という人間が本質的に他者に対して寛容で甘いことを本能で嗅ぎ分け、そこに無自覚に甘えてくるような、助けたくなってしまうような魅力と強かさをもっているのが、この目の前の男なのだ。この男は、私という人間を認識し、私という人間だから甘えてきているわけではないのに。私の偽善とも傲慢とも取れる行為を悪気なく利用するのが目の前のような男だと気付いた瞬間、茉莉は己の愚かさと、目の前の男に対する怒りが沸々と湧きあがってきた。
「どうしてあなたは、そんなことを言うの?」
あなたには、大切な人がいるでしょう? これは推測ではなく、ガジュマルとガジュマルコバチの話を聞いた時からの茉莉の確信だった。あなたには離れられない相手がいるのでしょう? あなたには、手を握る行為そのものに大した価値はないかもしれない。でも、そこに合理性さえあれば、どんなことを言ってもいいの? あなたは一度でも、あなたという人間について考えたことがある? そんな言葉をあなたに言われる私の気持ちを考えたことが、それを言われた私という人間がどういう気持ちになるか、考えたことがある? そして、そんな無神経なことを他の女に言ってしまえるような人間と付き合う、あなたの大切な人の気持ちを、少しは考えたことがあるの?
「あなたは、とてもずるい」
私があなたの提案を断ると、あなたが困ることを私が知っていることを、あなたは知らない。たとえ知っていたとしても、自分にも相手にも興味がないから、平気であんな言葉をこの男は投げるのだ。
「自者に対しても、他者に対しても、そこまでくると無知は罪よ」
茉莉の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。どうして私は、この無知で無神経な男に傷つけられなければならないのだろう。
無知な人間ほど、自分は無知でないと自信を持っており、無神経に相手を傷つける。傷つけられてしまうような繊細な自分に問題があるのだろうか。それなのに、そんな相手に救われるような瞬間があるのが、どこまでも腹立たしい。どうして私は、こんなに。流れ出した涙は止まらない。植物男はおろおろと困ったような表情を浮かべていたが、それだけで、それ以上のことは何もしなかった。
そんなときにふと、「ボーダーライン」という言葉が茉莉の頭に浮かんだ。そうか。今この男は、私のボーダーラインを越えたんだ。だったら私、怒らなきゃ。私は、私のために、そして、私という人間をこの男に知らしめるために、私が怒らなきゃ。ようやく茉莉は、自分が目の前の男に対して怒らなければならないことに気が付いた。ボーダーラインを踏み越えた人間に対して、相手に自分を知って欲しいならば、目の前の相手を本当に大切に思うのなら、自分の気持ちを飲み込んで離れるのではなく、その気持ちを相手にぶつけなくちゃいけないんだ。どうやって怒ったらいいのかはわからない。怒ったとしても、目の前の男に伝わるかどうかも分からない。でもそんなことは、怒った後に考えればいいことだ。
これまで茉莉は、姉や父に自分の気持ちを伝えてこなかったわけではなかった。しかし、茉莉の言葉は、これまでまったく姉にも父にも伝わらなかった。それはおそらく、茉莉が茉莉の言葉と常識だけで、相手に意見を伝えようとしていたからだ。おそらく、私とこの男では、同じ言語を使っていても、言葉や行動の意味がまったく違う。植物と昆虫くらい違う。ならば私は、相手に伝わる言葉で、相手の言葉で、この目の前の男を怒らなければいけないのだ。
イチジクの花は、実の中でひっそりと花を咲かせ、静かに花に気づいてくれる相手を待つ。そのようなイチジクの生き方に、茉莉は静かに惹かれていた。自分なりに一生懸命に生きていれば、自分の魅力に気づいてくれる人がきっと現れる。そう思っていた。でも恐らく、イチジクという生き物はそんな気長な性格ではない。だって、イチジクという生き物は、自分の存在を知らしめるように花の中から匂いを放ち、強かに昆虫を誘い、引き寄せているのだから。
茉莉は涙を拭い、コップに入っていたさんぴん茶を飲み干し、一度大きく深呼吸をした。大丈夫、伝えられる。この人にならきっと、私の気持ちが伝わる。そんな気がする。伝わらなかったら、その時はその時だ。言葉にした後もまだ腹の虫がおさまらなければ、物理的に殴ればいい。茉莉の心の内側で咲いていた花をひっくり返すような、花から放たれる匂いの筋を掴み、目の前の男をからめとるような強かさで茉莉は言葉を選び、気持ちを伝え始めた。
「私はあなたのことが好きです。出来る限り、あなたの力になりたいと思っています。でも、あなたにとっては異性の手を握ることに特別な意味はないかもしれませんが、私にとっては、気軽にできることではありません。だから私は、あなたのお願いを聞くことは出来ません。そして、私がどういう人かを考えもせず、そんなことを気軽に言ってきたあなたを、私は今、少し軽蔑しました」
茉莉の言葉に、植物男の顔が青ざめるのがわかった。
「でも、残念なことに、本当にとても残念なことに、私はもうあなたという人間が好きです。そう簡単には嫌いになれません。でも、そんなことを軽々しく言うあなたは嫌いです。大嫌い。……でももう、本当の意味では嫌いになれない。だから、あなたがそう提案した理由を、私に教えてくれませんか?」
事と次第によっては、もう一回怒ります。最後の言葉が効いたのか、植物男は無言でうつむいた。姉の時と同様、植物男が全力で思考を働かせている音が聞こえる。しかし今回の茉莉は、たとえ爆音のアラームが鳴り響いたとしても、このまま目の前の男を許すつもりはなかった。
植物男がまず茉莉に述べたのは、謝罪の言葉だった。
「まずはすみません。自分の都合だけで、茉莉さんの気持ちを考えずに暴走してしまいました。本当にすみません」
「私が知りたいのは、あの提案をした理由です」
「外界との繋がりがあったほうが、戻りやすいと思ったからです」
「言葉には気をつけてくださいね?」
また植物男が無言になり、ローディングする音が聞こえてきた。
「沖縄で信頼できる人は、自分の背中をあずけられると思った人は、茉莉さんしかいないと思ったからです」
ああ、この人は、また。植物男と茉莉の言葉は、どこまでも噛み合わない。自分の気持ちが伝わった喜びと、それでも本質的な部分は伝わっていない悲しみ。植物男の言葉は、どこまでも茉莉の心を傷つける。あなたは私の気持ちに、私の求める形で応えないじゃない。それなのに、どうしてそんなことを言うの。この男に罪はない。なぜならこの男は、茉莉の心を知らないからだ。でも、知らないからといって、そんなことを軽々しく言わないでほしい。目の前の男はどこまでも優しく、どこまでも残酷な男だった。そんなことを言われてしまったら、茉莉にはもう、どうすることもできない。苦しくなるほど胸をぎゅっと掴まれるような思いだった。植物男の優しくて残酷な言葉が、植物のように茉莉の心に根を張る。最初の言葉の方が、男にとって最も親切で適切な言葉だったのではないかという気さえしてきた。この男に心の内を話させると碌なことがない。茉莉は、事実のみを確認する聞き方に変えた。
「まず、あなたにとってガジュマルに入ることは、危険な行為なんですね?」
「そうです」
「そして、ガジュマルから戻るためには、こちらとの繋がりがあることが重要だと考えている」
「そうです」
「そもそもの疑問なんですけど、どうやってガジュマルの中に入るんですか?」
「それは簡単です。あのガジュマルは共生相手を探している。だから、あの気根に飲み込まれれば、中に入ることは可能だと思います」
「その入り方、正しいんですか?」
「正しいかどうかはわかりません。ですが、中に入ることは出来ます」
この男は。心の中で何度言ったかわからないその言葉を、茉莉は再びくり返す。
「中に入ってからどうするんですか?」
「入ってから考えます」
「じゃあ、どうやって出るの?」
「入ってから考えます。入ってしまえば、意外と何とかなるものです」
「あの、」
「それに、僕に何かあったら茉莉さんが助けてくれるので、たぶん大丈夫です」
茉莉は怒りを通り越して呆れた。そして一周回って、目の前の男にまた別の興味が湧いた。
「どうしてそんな出会って間もない相手に、簡単に自分の命を預けられるの?」
植物男はまず、簡単な行為ではないと茉莉の言葉を否定した。
「あなたは僕に、イチジクが好きだと教えてくれました」
だから僕は、あなたを信じます。何度もローディングをくり返し、目を泳がせていた男の目が、ようやく茉莉をしっかり見た。茉莉を見る男は、今まで一番、強い目をしていた。
「というわけで、僕は今からガジュマルの中に入ります」
「え? 根本的な問題はまだ解決してないけど?」
「大丈夫です。大事なことを茉莉さんに伝えられて、物理的に繋がるよりも、深く繋がれた気がするので。だから僕は、ひとまず中に入ります」
この男は、本当にもう。茉莉はそう思ったが、もう、なにも言わなかった。
植物男が気根に手を伸ばすと、男の予想通り、右手から徐々にガジュマルが植物男の身体を蝕み始めた。しかしそのスピードは遅く、植物男と茉莉のひとまずの別れまでには、少し時間がかかるようだった。
「なんか、ちょっと恥ずかしいです」
「こんな時になに言ってるんですか」
それに、それ以外に恥じるところがいっぱいあるだろう。ガジュマルに右肩を蝕まれながらそんな悠長なことを言っている植物男を見て、茉莉は思わず笑った。特に話すこともないのか、男はリュックは車に置いていくこと、リュックの中に入っている寝袋や道具は自由に使っていいこと、ガジュマルの気根の締め付け具合や絡み方の実況中継を挟んだ。気根が身体全体を覆い、もうすぐ消えるといったところでようやく、男は真面目な顔で話し始めた。
「もし本当にどうしようもなくなったら、いつもの公園のガジュマルへ行ってください」
「え、どうして?」
茉莉のその問いに対して、植物男は小さく笑っただけだった。本当にこの男は、大事なことはいつも何も言わない。
「私も最後に、ひとつだけいいですか?」
「はい」
「ガジュマルのこと、〝怖い〟なんて気軽に言って、ごめんなさい」
そう言って茉莉は、植物男が完全にガジュマルの中に消え去る前に、わずかに男の手に触れた。乾燥した男の大きな手の温かさが、茉莉の手を通して伝わる。自分の手から男の顔へとゆっくり視線を移すと、男の目が茉莉を見ていた。自分は今、どんな顔をしているのだろう。そしてこの男には、自分がどう見えているのだろう。言いたいことや怒りたいこと、聞きたいことはたくさんあった。おそらく自分の気持ちは目の前の男には正しく伝わっていないし、おそらく、どれだけ説明しても、正しく伝わることは一生ないだろう。それに、目の前の男に対する感情がどういうものなのか、自分でも未だによくわからないままだ。それでも茉莉は、この男がどうしようもなく好きだった。それだけはどこまでも変わらない事実だった。だからもう、今はそれでいい。
「いってらっしゃい」
こっちでできることはやっておくから、だからあなたも、そっちで頑張ってきて。そんな気持ちを込めて軽く男の手を握った後、茉莉は男の手を離した。茉莉の手を離れ、ガジュマルに覆いつくされた男は、最後に「いってきます」という言葉だけを残し、消えた。植物男の身体が数多の気根に覆いつくされ、完全に姿が見えなくなった後、いつも通りのガジュマルと茉莉だけがその場に残された。
そして夜が明けても、植物男がこの場所に戻ってくることはなかった。




