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青空モーメント

作者: 江渡由太郎

【第1章 コーヒーと赤いドレス】ーーーーーーーー


 目覚まし時計が鳴る三分前に目が覚めた。

 ——嫌な予感がする。

 佐伯梨花はそう思った。理由はない。ただ、胸の奥に、湿ったぞうきんのような予感が貼りついていた。


 朝のニュースでは、猛暑と電車の遅延と円安の話ばかり。そんな中、キッチンのカウンターに手を伸ばし、コーヒーメーカーのスイッチを押した瞬間——

「うそでしょ!」

 紙フィルターを入れ忘れたままお湯を注ぎ、コーヒーは黒い滝のように台に広がった。慌ててマグカップを持ち上げた拍子に、白いシャツの胸元へと、熱くて苦い飛沫が飛んだ。


 急いで着替えを探すも、アイロンがかかった服は皆無。タンスの奥から引っ張り出した淡いブルーのブラウスは、なぜか襟の片方だけ外向きに跳ねている。それでも時間は待ってくれない。


 駅に着けば、案の定、人の波。遅延アナウンスが流れ、汗と香水と柔軟剤の匂いが混ざり合う車内で押しつぶされながら、梨花は会社へと向かった。


 午前九時十二分、デスクに滑り込み、パソコンを立ち上げた瞬間、隣の席の同期・真由がひそひそ声で囁く。

「佐伯さん、課長が呼んでたよ。今、機嫌悪そうだから気をつけて」

 その忠告は五秒後に証明される。

「佐伯くん、この書類、フォーマットが違うね。何度言えばわかる?」

 低く、湿った声に、背筋がぴしりと固まる。


 昼休み、コンビニのサラダとパンを片手に、梨花は心の中で自問した。

——これが私の人生の“最終形”なんだろうか?

 そんなことを考えると、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような気がした。


 帰り道、少しでも気分を立て直そうと、商店街を遠回りして歩く。

 その時だった。

 古びたクリーニング店のショーウィンドウに、鮮やかな真紅のドレスが飾られているのを見つけた。

 艶やかなサテン生地、肩にかかるドレープ、細いウエストライン。まるでスクリーンから抜け出してきたような存在感だった。


「きれい……」

 思わずつぶやくと、店の奥から店主の女性が顔を出した。

「それ、引き取り期限が一年以上過ぎちゃっててね。持ち主も現れないし、もう処分しようかと思ってたんですよ」

「処分……するんですか?」

「そう。よかったら安くしますけど」

 梨花は自分でも信じられなかった。

「じゃあ……私が、買います」


 紙袋に包まれたドレスを抱えて帰る夜道、ふと笑みがこぼれる。

 何もかもうまくいかない一日だったはずなのに、胸の奥にほんの少しだけ、温かい光が灯ったような気がした。




【第2章 処分品の魔法】ーーーーーーーーーーーー


 玄関を開けると、蒸し暑い部屋の空気が肌にまとわりつく。

 靴を脱ぎ、キッチンの椅子に腰を下ろすと、紙袋の中の赤いドレスが静かに横たわっていた。


 ほんの出来心——そう思って買ったはずなのに、仕事帰りの疲れも忘れて、梨花は袋の口を開いた。

 サテンの生地が、部屋の蛍光灯を柔らかく反射する。指先でなぞると、つるりとした感触の奥に、冷たい金属のようなひんやりとした重みがある。

 首元から裾へと流れるドレープは、まるで水のように形を変え、光を吸い込んでいた。


 ——着てみるだけなら、いいよね。

 部屋着のTシャツを脱ぎ、ドレスを肩から滑らせる。

 背中のファスナーを上げた瞬間、少し背筋が伸びた。布が身体にぴたりと沿い、ウエストのくびれを形作る。

 鏡の前に立つと——そこには、朝、台所でコーヒーをぶちまけた冴えない事務員ではなく、映画の中のヒロインのような女が立っていた。


 目が大きく見える。肌の色も心なしか明るい。

 口角を少し上げてみると、鏡の中の彼女は、自信に満ちた微笑みを返した。


 「……誰?」

 思わず声が漏れる。

 けれど、嫌じゃない。むしろ、こんな自分になれるのなら——と思ってしまう。


 スマホを手に取り、鏡越しに一枚だけ写真を撮った。

 フィルターもかけずに画面を見つめると、そこには見慣れないほど輝いた自分がいた。

 ドレスを脱いでハンガーにかけても、その余韻はしばらく胸の奥で温かく揺れていた。


 夜、ベッドに横たわっても、心臓がほんの少しだけ早く打っている。

 赤いドレスはただの処分品。でも、もしかしたら——この服は、私のことをどこかへ連れて行ってくれるんじゃないだろうか。

 そんな根拠のない想像をしながら、梨花は久しぶりに笑顔で眠りについた。




【第3章 パーティーの夜】ーーーーーーーーーーー


 翌週の金曜日。

 昼下がりのオフィスで、同期の真由が椅子ごと近づいてきた。

「ねえ、佐伯さん。お願いがあるんだけど」

 真由は営業部のイベント担当で、今夜は外資系ホテルのパーティーに出席する予定だった。しかし急な発熱で行けなくなったらしい。

「代理で行ってくれない?招待状はあるし、立食形式だから飲み食いだけでも楽しめるよ」

「え、でも私、そんな場違いな……」

「大丈夫大丈夫!むしろ普段と違う自分になれるチャンスじゃん」


 その言葉に、脳裏に赤いドレスがよぎった。

 ——あれを着れば、少しは場に馴染めるかもしれない。

 仕事終わり、紙袋からドレスを取り出し、再び袖を通す。鏡の前の自分は、もう「事務の佐伯梨花」ではなかった。

 髪をゆるく巻き、ベージュのヒールを履く。心臓は緊張と高揚で早鐘を打っていた。


 会場となるホテルのロビーは、高い天井とシャンデリアの輝きに包まれていた。

 受付を済ませ、案内された大理石の階段を一歩一歩降りる。

 その瞬間——

 視線が集まるのを、肌で感じた。

 笑い声がふっと途切れ、遠くからシャンパングラスの軽い音が響く。

 自分の靴音だけが、静かなBGMに重なっていた。


 階下のフロアでは、シャンパンの泡と香水の甘い香りが混ざり合い、人々が優雅に談笑している。

 それでも梨花の心は不思議なほど落ち着いていた。

 赤いドレスが、背中をそっと押してくれるようだった。


 料理のテーブルに向かおうとしたとき、不意に低く穏やかな声が背後からした。

「……こんばんは。素敵なドレスですね」

 振り返ると、長身で、漆黒のスーツを完璧に着こなした男性が立っていた。

 ホテルの柔らかな照明が、彼の横顔を彫刻のように浮かび上がらせる。


「ありがとうございます……」

 声が少し震えてしまう。

「僕は神谷蒼。このホテルを経営している家の息子です。……もしかして、お会いするのは初めてですよね?」

 彼の笑みは、どこか懐かしいようで、しかし初めて見る光だった。

 梨花は、これがただの一夜の出来事では終わらない予感を、胸の奥で感じていた。





【第4章 泡の向こうの会話】ーーーーーーーーーー


 「……あの、佐伯梨花といいます」

 名乗った瞬間、蒼の目がほんのわずかに細められた。

「梨花さん。いい名前ですね。花の中でも、凛としている」

 さらりと口にされ、梨花は言葉を失った。褒められ慣れていない心が、急に熱くなる。


 蒼は手元のトレイから二つのシャンパングラスを取り、ひとつを差し出した。

 グラス越しに指先が触れた瞬間、梨花の胸に小さな電流が走る。

「せっかくですから、この夜に乾杯しましょう」

 軽くグラスを合わせると、澄んだ音が高い天井に響いた。


 泡の立ちのぼるグラスを片手に、二人は会場の隅へ歩いた。

 人のざわめきが遠ざかり、壁際の絵画と小さな観葉植物が静かな背景になる。

「こういうパーティーは、初めてですか?」

「ええ……場違いじゃないかって、ずっと不安で」

「そんなことない。むしろ、あなたみたいな人がいると場が華やぐ」

 彼は真顔でそう言った。冗談めかした響きもなく、まっすぐな瞳で。


 不思議だった。

 普段なら誰かに褒められれば「そんなことありません」と笑って流すのに、今は否定の言葉が出てこない。

 ただ胸の奥で、温かい何かがじんわりと広がっていく。


 「実は……」と蒼が声を落とす。

「僕もこういう場、あまり得意じゃないんです。立場上、顔を出さざるを得ないだけで」

「意外です。すごく自然に見えますけど」

「努力してるんですよ、人にそう見せるために」

 そう言って、彼は少し照れくさそうに笑った。

 梨花はその笑顔を見た瞬間、胸の鼓動がひときわ強くなるのを感じた。


 話題はいつしか好きな映画や、子どものころの思い出に移った。

 梨花が「最近、海外ドラマにハマってて」と言うと、蒼も同じ作品を観ていることが判明し、思わず二人で笑ってしまう。

 その笑いは、周りのざわめきや豪華なシャンデリアの輝きよりもずっと、心を軽くした。


 やがて、会場の奥からピアノの音が流れ始める。

 蒼がふと立ち上がり、手を差し出した。

「少しだけ、踊りませんか」

 梨花は迷った。けれど、赤いドレスの裾が自分の背中を押すように揺れる。

 ——これは、断ってはいけない瞬間だ。

 そう直感して、彼の手を取った。




【第5章 赤いドレスと一曲のワルツ】ーーーーーー


 蒼の手は、思ったよりも温かかった。

 けれど、その温もりは、ただの体温ではなく、不安を溶かしてしまうようなやわらかさを持っていた。


 会場中央、照明が少し落とされ、グランドピアノのそばに小さな空間が生まれる。

 軽やかなワルツの旋律が空気を満たし、周囲のざわめきが遠くに霞んでいく。

 蒼が一歩踏み出し、梨花もそれに合わせる。


 腰にそっと添えられた彼の手。

 指先がかすかにドレスの生地を感じ、胸の奥で鼓動が跳ねる。

 最初は足元ばかり気になって、リズムを取るのもぎこちなかった。

 でも蒼が低くささやく。

「僕を見て。足じゃなくて」

 その声に従い、顔を上げた瞬間、彼の瞳と視線がぶつかった。


 不思議だ。見つめ合うだけで、音楽のテンポが自然と身体に入ってくる。

 少しずつステップが合い、赤いドレスの裾がゆるやかな弧を描いた。

 蒼の肩越しに見えるシャンデリアが、回転するたびに無数の光を散らし、まるで二人だけを照らしているかのようだった。


 「上手ですね」

 「……あなたが上手なんです」

 そんなやりとりの間にも、距離はほんのわずかずつ縮まっていく。

 香水とシャンパンの香りの中、蒼の吐息がかすかに頬をかすめるたび、胸が熱くなる。


 曲が終わりに近づくと、蒼は最後のステップで梨花を軽く回した。

 赤いドレスの裾が花びらのように広がり、ピアノの最後の音と同時に静止する。

 拍手が湧き起こったが、梨花にはそれが遠くの出来事のように感じられた。

 耳に残っているのは、彼の低く穏やかな声だけだった。

「……この夜を忘れないでください」


 梨花は答えられなかった。

 ただ、胸の中で何かが確かに変わり始めているのを感じていた。

 それはまだ名前のない感情。けれど、この先も続きがある予感だけは、強く強く残っていた。





【第6章 ガラスの靴は残らない】ーーーーーーーー


 翌朝。

 目覚まし時計の音で目を覚ました梨花は、天井を見つめたまましばらく動けなかった。

 ——夢じゃなかったよね?

 胸の奥に昨夜の旋律と、蒼の手の温もりが残っている。けれど、見慣れたワンルームの天井と、キッチンの小さな冷蔵庫の音が、その記憶を現実に引き戻した。


 昨日の赤いドレスは、今はクローゼットの奥で静かに吊るされている。

 まるで舞踏会の魔法が解けた後のガラスの靴みたいに。

 梨花はコーヒーを淹れながら、思わず笑ってしまった。

「私、シンデレラか……」

 でも、ガラスの靴は残っていない。蒼の連絡先も、名前以外の情報も何もない。


 会社に着くと、いつものように山積みのメールと書類が待っていた。

 会議室で上司が資料の修正を急かす声。

 まるで昨夜のシャンデリアもワルツも、別世界の出来事だったみたいだ。


 昼休み、スマホを見つめながら梨花はぼんやりする。

 ふと、画面のニュースに見覚えのある顔が映った。

 ——神谷蒼。

 見出しには「若手実業家、環境プロジェクトで国際賞」とある。

 写真の彼は、昨夜と同じ穏やかな笑みを浮かべていた。

 胸が不意に熱くなり、思わず画面をスクロールしてしまう。


 その午後。

 取引先に書類を届けるため、外出した梨花は、ビルのエントランスで足を止めた。

 自動ドアの向こうから現れたのは——蒼。

 驚きで一瞬呼吸を忘れる。

 彼も気づいたようで、目が合うと、あの夜と同じ微笑を浮かべた。

「……梨花さん?」

 心臓の鼓動が一気に速くなった。

 魔法が解けたはずの朝から、まだ一日も経っていないのに——再び始まる気配がした。




【第7章 偶然じゃない偶然】ーーーーーーーーーー


 「やっぱり、梨花さんですよね」

 ビルのエントランスで立ち止まった蒼は、迷いのない足取りで近づいてきた。

 昼下がりの光がガラス越しに差し込み、彼の黒いスーツの輪郭をやわらかく縁取っている。


 「覚えていてくださったんですね」

 やっとのことでそう返すと、蒼は少し笑った。

 「一度ワルツを踊った相手を忘れるなんて、失礼でしょう」

 その言葉に、梨花の頬が熱くなる。


 エントランス横のカフェに誘われ、二人は窓際の席に座った。

 蒼はコーヒーを頼み、梨花はカモミールティーを選ぶ。

 ほんの数メートル先を人々が行き交っているのに、このテーブルだけ別の時間が流れているようだった。


 「昨日は急に声をかけてしまって、驚かせましたよね」

 「いえ……むしろ、夢みたいでした」

 自分で言っておいて恥ずかしくなり、カップに視線を落とす。

 すると蒼は、ふっと真剣な表情になった。

 「夢じゃないですよ。……僕はまた、お会いしたいと思ってます」


 その一言で、胸の奥がきゅっと縮まる。

 「でも、私なんてただの事務員で……」

 「肩書きや立場なんて関係ない。僕は、あなたが笑っている顔が好きなんです」


 紅茶の香りが、急に甘く感じられた。

 外の街路樹が風に揺れ、窓ガラスに柔らかな影を落とす。

 この瞬間、梨花はまだ何も決めていないのに、心の一部が彼に向かって開いていくのを感じた。


 帰り際、蒼は名刺サイズのカードを差し出した。

 そこには、携帯番号とシンプルなイニシャルだけ。

 「今度、僕の好きな場所を案内させてください」

 梨花は頷くしかなかった。


 ビルを出ると、真夏の陽射しがまぶしかった。

 ポケットの中の小さなカードが、やけに重く感じられる。

 ——偶然じゃない偶然。

 その意味を、きっと近いうちに知ることになる。





【第8章 秘密の庭】ーーーーーーーーーーーーーー


 約束の日、蒼から「迎えに行きます」とメッセージが届いたのは午前10時。

 梨花は鏡の前で何度も服を替え、結局シンプルな白いブラウスと薄いブルーのスカートに落ち着いた。

 ——まるでデートみたい。

 そう自分に突っ込みながらも、心臓はずっと小さな早鐘を打っていた。


 待ち合わせ場所に現れた蒼は、ラフなシャツ姿だった。

 スーツの時よりも柔らかな雰囲気で、その笑顔に梨花は思わず見とれてしまう。

 車に乗り込み、街を抜けると、景色はだんだん緑が多くなっていった。


 着いた先は、郊外の古い洋館。

 門をくぐると、広い庭が広がっていた。

 色とりどりのバラ、ラベンダー、ハーブが咲き乱れ、甘くて清々しい香りが風に乗って届く。

 「ここ、僕の知り合いが手入れしている庭なんです。人が少なくて、静かでしょう?」

 蒼は嬉しそうに言った。


 二人で庭を歩きながら、蒼は花の名前や育て方を教えてくれる。

 その話しぶりはビジネスの場で見た冷静な表情とは違い、まるで少年のようだった。

 「こういう場所が好きなんですか?」

 「ええ。仕事のことも、肩書きも、全部忘れられるから」

 その横顔には、少しだけ影があった。


 庭の奥に、小さな温室があった。

 蒼がドアを開けると、そこには珍しい青いバラが一輪だけ咲いていた。

 「……きれい」

 梨花が見とれると、蒼はふっと笑った。

 「青いバラの花言葉、知ってますか? “奇跡”です」

 その言葉が、なぜか胸の奥にそっと落ちていく。


 ベンチに腰掛け、二人はしばらく無言で花を眺めた。

 風がガラス窓を揺らし、葉が擦れ合う音が耳に優しい。

 蒼がぽつりと言った。

 「梨花さんといると、不思議と時間がゆっくりになる」

 その一言で、梨花は自分の中の何かがまた少し変わったのを感じた。


 帰り際、蒼は青いバラの小さな写真立てを手渡した。

 「今日は、これを記念に」

 梨花は受け取りながら、写真の青い花びらを見つめた。

 ——奇跡。

 この言葉が、きっとこれからの何かを予感させている気がした。




【第9章 すれ違う視線】ーーーーーーーーーーーー


 青いバラの写真立ては、梨花の部屋の小さな本棚に飾られていた。

 見るたびに、あの静かな庭と蒼の笑顔が思い出される。

 それなのに——ここ数日、彼からの連絡はなかった。


 「仕事で忙しいだけだよね」

 自分にそう言い聞かせても、心の奥に小さな棘が残る。

 ある夕方、同僚の紗英がふいに言った。

 「そういえば、この前ニュースで見たよ。例の蒼さん、大きなプロジェクトの記者会見に出てた」

 スマホを覗くと、画面には蒼がスーツ姿で笑顔を見せている写真があった。

 ただ、その隣には華やかなドレスの女性——業界で有名な若手デザイナーが写っていた。


 胸の奥がきゅっと締め付けられる。

 記事には「二人は親しい関係」と書かれていた。

 もちろん、噂かもしれない。でも、その場に自分は呼ばれなかったという事実が、妙に寂しかった。


 数日後、偶然そのデザイナーが蒼の会社に出入りしているところを見かけた。

 彼女は蒼の腕に軽く触れ、笑っていた。

 梨花は遠くから見ていることしかできなかった。

 蒼がこちらに気づく前に、その場を離れてしまう。


 ——私はただの一時的な存在なのかもしれない。

 そう思いながら歩く帰り道は、やけに長く感じられた。


 その夜、スマホに蒼からのメッセージが届いた。

 《近いうちに話せますか? 伝えたいことがあります》

 画面を見つめる手が震える。

 その「伝えたいこと」が、別れの言葉かもしれないと考えた瞬間、涙がこぼれそうになった。




【第10章 伝えたいこと】ーーーーーーーーーーーー


 土曜の午後、蒼から指定されたのは、港沿いの静かなカフェだった。

 冬の空気は少し冷たく、海面には鈍い銀色の光が揺れている。

 梨花が店に入ると、窓際の席で蒼が立ち上がった。

 「来てくれて、ありがとうございます」


 彼の表情は真剣だった。

 注文もそこそこに、蒼はまっすぐ梨花を見つめて言った。

 「この前、僕と一緒にいた女性のこと……見ましたか?」

 梨花は一瞬言葉を失う。やっぱり、気づかれていたんだ。

 「ええ。……偶然、見かけました」


 蒼は小さく息をつき、カップを置いた。

 「あの人は、僕の幼なじみです。今度のプロジェクトでデザインを担当してくれることになって、会見にも同席してもらいました」

 梨花は唇を噛む。

 「……記事には“親しい関係”って書いてありました」

 「嘘じゃないです。確かに昔は……好きだったこともあります。でも、それはずっと前の話です」


 蒼の声が少し震えていた。

 「僕が今、大切に思っているのは……梨花さんです」

 胸の奥で何かが崩れて、涙がこぼれそうになる。

 「どうして、そんなふうに……?」

 「あなたは、僕を特別扱いしなかった。肩書きも立場も関係なく、ただの人間として接してくれた。それが、どれだけ救いになったか……」


 蒼は視線を落とし、しばらく黙った。

 「実は、去年の春に父を亡くしました。会社のことで周りから色んな期待を背負わされて、正直、息が詰まりそうで……」

 その時、梨花は初めて蒼の孤独を知った。

 いつも余裕に見えた笑顔の裏に、そんな影が隠れていたなんて。


 梨花はそっと、テーブル越しに彼の手を握った。

 「私でよければ、ずっとそばにいます」

 蒼は少し驚いたように目を見開き、それからふっと微笑んだ。

 「……ありがとう」


 外の海は夕日に染まり、オレンジと金色が混じり合ってきらめいていた。

 その光景は、まるで新しい章の始まりを告げているようだった。




【第11章 嵐の予感】ーーーーーーーーーーーーーー


 蒼と港のカフェで話した翌日、梨花は会社でいつもよりも軽やかな気分だった。

 机の上の青いバラの写真立ても、少し誇らしげに見える。

 ——これからは、不安じゃなくて信じることを選ぼう。

 そう思えていた。


 しかし、その平穏は長く続かなかった。

 昼休み、紗英が慌ただしく駆け寄ってきた。

 「梨花、見た? ネットニュース!」

 スマホの画面には、蒼の会社が進める大型プロジェクトに関する記事。

 そこには「環境基準違反の疑い」という見出しとともに、蒼が記者に囲まれている写真が載っていた。


 心臓がざわつく。

 記事には、「一部関係者の証言によると、蒼が意図的に承認を早めた」という記述まである。

 ——そんなこと、あの人がするはずない。

 そう信じたいのに、胸の奥に冷たい不安が忍び込む。


 午後、蒼からの電話。

 「梨花さん……ごめん。今夜は会えない。ちょっと状況が複雑で」

 その声は、いつもとは違い落ち着きがなく、かすかに疲れていた。

 「大丈夫ですか?」と問うと、短い沈黙の後で「……信じてほしい」とだけ言って電話は切れた。


 夜、家に帰る途中で梨花は人だかりを見つけた。

 そこには蒼と、例のデザイナーが並んで立っていた。

 記者たちがカメラを向け、フラッシュが眩しく光る。

 彼女が蒼の耳元に何かを囁くと、蒼は苦笑いを浮かべて小さく頷いた。


 ——あの人は、何を抱えているんだろう。

 信じたい気持ちと、不安がせめぎ合う。

 その夜、青いバラの写真立てを見つめながら、梨花は眠れぬまま朝を迎えた。




【第12章 青いバラの約束】ーーーーーーーーーーー


 数日後、ニュース番組が大きく報じた。

 ——蒼の会社を揺るがしていた「環境基準違反疑惑」は、内部書類の改ざんによるものであり、蒼は関与していなかった。

 真犯人はプロジェクトの下請け会社の幹部で、蒼はそれを知った時から証拠を集め、法的手続きを進めていたという。


 その夜、梨花のスマホにメッセージが届く。

 《港の庭園で待っています》


 庭園に着くと、あの日と同じように青いバラが咲いていた。

 蒼は花壇の前で立ち上がり、少しだけ疲れたけれど晴れやかな笑顔を見せた。

 「心配かけましたね」

 「……信じてたつもりなのに、少し揺らいじゃいました」

 正直に告げると、蒼は優しく首を振った。

 「揺らいで当然です。大事なのは、それでも僕のところに来てくれたこと」


 蒼はポケットから、小さな箱を取り出した。

 中には、銀色の指輪。中央には小さな青い宝石がはめ込まれている。

 「この庭で初めて話したとき、あなたが青いバラを見て“奇跡みたい”って言ったでしょう? 僕にとって、あなたと出会えたことが奇跡なんです」

 梨花は息を呑んだ。

 「……そんな、大げさですよ」

 「いいえ。本気です。これから先も、隣にいてくれませんか?」


 涙があふれ、景色が滲む。

 「はい。……喜んで」

 指輪が薬指にはまった瞬間、胸の奥にあった不安が静かに溶けていった。


 庭園の青いバラは夜風に揺れ、月明かりを受けて淡く輝いている。

 それはまるで、二人の新しい未来を祝福しているようだった。



--完--



#ラブコメ

#恋愛ラブコメ



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