抱きしめて、傍にいて
── ん~、あれ? もしかして寝てた……?
バッ! と勢いよく起き上がって時間を確認すると、瀧川くんが仕事へ行ってから2時間程経過していた。どうやら寝落ちしちゃってたらしい。
「……あ、やば」
今日、倉本さんに送らなきゃいけないデータがあるんだった。なのにパソコンを家に置いてくるという大失態を犯してる私。なんで持ってこなかったのよ、あんな大切な物を。取りに行く? いや、でもなあ……あんなことあった後だし。
「いや、でも日中だし? 土日だから車通りも人通りも多いし、大丈夫だよね?」
ちょっと怖いけど瀧川くんに迷惑かけるわけにもいかないし、正直瀧川くんが帰ってくるまで待ってられないしなぁ。仕方ない、一旦アパートに戻って、倉本さんにデータ送ってからちゃんとパソコン持ってこよ。
── アパートに着いて、玄関先でピタリと動きが止まる私。
少し震える手にぎゅっと力を入れて、深呼吸をしながら気持ちを落ち着かせる。大丈夫、大丈夫……いざとなったらフライパンで殴り飛ばしてやるんだから! とか物騒なことを考えながら玄関ドアの鍵を開けて中に入った。
「えーーっと」
パソコンを開いて、しばらくキーボードをカタカタ打ちながらパソコンとの睨めっこが続いた。
「これでよし、終わった~」
完全に気が緩んでる時だった──。ガチャッと玄関ドアが開く音がして、人が入ってきた気配がする。緊張で一気に体が強張り、心拍数が急激に上昇して息苦しい。バクバクする心臓の鼓動しか聞こえない。そして、ドアを開けて部屋に入ってきたのは、まさかの人物で──。
「美波」
「……な、なんで……文哉……」
少し見ない間に何かが変わったような気がする。虚ろな目に独特な雰囲気で、落ちるとこまで落ちたって感じの容貌。こんなにも落ちぶれた文哉を私は見たことがなかった。容姿には人一倍気を遣うタイプだったのに。
「やっぱ俺、美波じゃなきゃ無理だ。なあ、俺んとこに戻ってきてくれよ、な? お前が俺を見捨てられるわけがねぇだろ? 幼なじみだもんなぁ、俺達」
は? なによそれ。幼なじみだからなに? 私が文哉を見捨てられないって? もうとっくに見限ったし見捨てたわ。文哉がどうなったかとか今の今まで全く気にしてなかったし、どうでも良すぎて一切考えることもなかったわ。
どうせヤクザの女にちょっかい出して、散々な目に遭ったから一旦私のところ戻ろう……って魂胆でしょ? ナメるのも大概にして、もういい加減にしてよ。
「なに言ってんのよ。散々浮気しといて今更なに? どの面下げてこの家に来たわけ? それにどうやって鍵開けてきたの……って……まさか昨日のも文哉の仕業?」
「は? 昨日ってなんだよ。知らねえよ」
この感じ、多分嘘はついてない……本当に知らないんだと思う。じゃあ、一体どうやって鍵を開けて中に入ってきたわけ? 合鍵は別れを告げると決めた日、事前に取り返しておいたから文哉が持ってるはずがないけど……まあ、この人が“普通”だったらの話か。
「どうやって入ってきたわけ?」
「ああ、お前合鍵取ってったろ。こういう時の為に予め作っといたんだよ」
「最低」
「まぁまぁ、そんな怒んなよ。なあ、より戻そうぜ? もう浮気なんてしないからさ。お前だけなんだよ、本気で愛してんのは。後は遊びっていうか出来心ってやつで」
そんな言葉、誰が信じると思うの? だいたい、あんたの遊びに私がどれだけ苦しんできたか分かってる? ふざけるのも大概にしてよ。
「今すぐ出ていかないと警察呼ぶわよ」
「あ?」
「早く鍵を置いて出てって。もう二度私の目の前に現れないで。私はもう、あなたのことなんてどうでもいいの。なんの感情もない、同情すらも」
私がビクビク怯えるとでも思った? はいはいって何でも言うこと聞くとでも思った? 私、そんな女じゃないの。どうでもいいと思った奴がこの先どうなろうが知ったこっちゃないのよ。悪いけど私って思ったより薄情な女だったみたいだわ、まあそうさせたのはあなたでしょうけどね。
怯みもしなければ哀れみの目も向けない私に苛立ってる様子の文哉。どんだけかまってちゃんなのよ。つくづくクズね、これはもう救いようがないわ。不快でしかない。
「お前30までに子供ほしいって昔言ってたよな」
逃げなきゃ! そう思った時にはもう遅かった──。
「いたっ! 離して!!」
床に押し倒されて、服を捲り上げられる。必死に抵抗してもやっぱ男の力には敵わないんだと知って、こんな奴に負けるのが死ぬほど悔しかった。
「子供作ろうぜ、俺達の子なら絶対可愛いよな」
「嫌っ!! 触んないで!!」
「ようやくお前を抱けるかと思うと、すげえ興奮する。つーか、お前だって浮気してたんだろ? お互い様じゃん。な? 仲直りしようぜ」
は? 私が浮気? なんのこと言ってるの? 私は浮気なんかしてない、あんたと一緒にしないで。
「……っ!!」
こんな奴にこれから抱かれると思うと恐怖なんかよりも、悔しくて情けなくて苦しい。こういう時、結局は泣くことしかないんだなって思い知った。涙が滲んで溢れ出す。
ベタベタ触られて気持ち悪い、ただただ不快でしかない。
「なんだお前、キスマだらけじゃん。ハッ、よろしくヤってんのかよ。まぁこの際どーでもいい。美波って乳でけぇよな、最高」
「嫌っ!! 触んないでっ!!」
「もう挿れちまうか」
「ゃ……いや、嫌!! それだけはやめてっ!!」
お願いだから瀧川くんの感覚を、瀧川くんのカタチを消さないで──。
ズボンを脱がされないよう必死に抵抗した。
「クソ!! 大人しくしろよ!!」
「嫌っ!!」
言うことを聞かない私に嫌気が差したのか、文哉は握り拳を振り上げて私を殴ろうとした……その時──。バンッ!! と騒々しい音と共にドアが壊れそうな勢い……というか、容赦なくドアを破壊して入ってきのは、私が今一番会いたかった人だった。
「篠宮さん!!」
「……た、瀧川くんっ……!」
この状況を見て血相を変えた瀧川くんは、私の上に乗ってる文哉を荒々しく掴んで投げ捨てると、上着を脱いで私に掛けながら優しく抱きしめてくれた。瀧川くんの香りに包まれて、一気に緊張の糸が解れて力が抜けていく。
「くっ……お、お前っ……」
「俺、言いましたよね。篠宮さんにはもう二度近づくなって」
「お、お前になんの権限がっ」
「貴方みたいな人でも、篠宮さんが一度は想いを寄せた人ですからね。情けをかけたつもりだったんですけど、どうやらその必要はなかったみたいだ。誰のものに気安く触れたのか、その身をもって悔いるといいですよ」
私を優しく包み込みがら、淡々とそう言い放った瀧川くんがどんな表情をしているのか私には分からないけど……もう、文哉がどうなろうがどうだっていい。
「み、美波!! 助けてくれよ!! 俺達幼なじみだろ!?」
私は瀧川くんの背中をギュッと握った。
── お願い、もっと抱きしめて、私の傍にいて。
「篠宮さん、ごめん。この人処分してくるから俺の家に戻っててくれる? 数人護衛は付けるから安心して? その中に女性もいるから」
「瀧川くん、我儘なのは分かってるし、都合がいいのも分かってるけど、お願い……抱きしめて、傍にいて。離さないで、私のこと」
「……うん、分かった」
瀧川くんの合図で文哉は瀧川組の人達に連れていかれた。
『美波!! 俺、お前のこと本気で好きだったから!!』そう叫んだ文哉の声が耳にへばりつて離れない。本気で好きだったならどうして浮気なんてしたの? なんで私だけを見てくれなかったの?
「篠宮さん。君はどうしたい?」
「え?」
「あの人をどうしてほしい?」
そう言いながら離れて私に背を向けた瀧川くん。
なんで、どうしてその判断を私に委ねようとしてくるの? 瀧川くんは、私を試そうとしてる? でも、私が言えないってきっと瀧川くんは分かってるはず。私に判断を委ねようとしてくれてるのは、瀧川くんの優しさなのかな。
「篠宮さんが命令してくれないと俺……殺すよ、あの人のこと」
酷く冷めた声で、人を殺めることに対してなんの罪悪感も感情もないって雰囲気の瀧川くんに、『ああ、この人は根っからのヤクザなんだ』と思わざるを得ない。
「殺して……ほしくはない。でも、もう二度と会いたくない」
「そっか、分かった」
瀧川くんの大きな背中がとても小さく見える。これはきっと、気のせいなんかじゃない。私だって今、瀧川くんと同じことを思って、感じてる。『“生きてきた世界、生きている世界”がまるで違うんだ……』と。でも、そんなこと関係ない。
「あの、瀧川くんっ」
「ごめん、篠宮さん。最初から分かってたんだ、分かってたのに君への感情を抑えきれなかったのは俺の過ちだよ。俺みたいな穢れた人間が想いを寄せて、触れていいような人じゃないんだ、篠宮さんは。君は特別なんだよ、篠宮さんはとても綺麗で美しい。穢れを知らない君を俺はきっと穢してしまう。いや、もう穢してしまったんだ……この薄汚れた手で君を……」
微かに震えている瀧川くんの体──。私はゆっくり歩み寄って瀧川くんの目の前に立った。瀧川くんはうつ向いて、血が滲むほど強く手を握り、その拳を震わせている。私はその手をそっと掬って、瀧川くんの大きな手を全て包み込むことはできないけど、優しく包み込んだ。これで少しでも瀧川くんの気持ちが楽になってくれると嬉しいな。私は瀧川くんの手に救われたから──。
「私はこの手が優しいことも、あたたかいことも、ちゃんと知ってるよ? だから、そんなこと言わないで。私を抱いたこと、後悔なんてしないで。後悔なんてしたら……絶対に許さないんだから」
全身を絆すようなセックスしてきたくせに、死ぬほど愛を注いできたくせに──。今更後悔なんてしないでよ、瀧川くんのバカ。
「いいの? 私が他の男のものになっても」
「嫌だ」
「いいの? 私が他の男に愛を囁いても」
「無理」
「いいの? 私が他の男に抱かれても」
「殺す」
「いいの? 私が他の男を抱いても」
「死ぬ」
うつ向いてた顔を上げて、チラッと私を見てきた瀧川くんは『この人、本当にヤクザなの?』と疑いたくなるほど、しょんぼりした子犬みたいな顔をしていた。
「だったらそんなこと言わないで。私から離れないで、傍にいてよ」
「……やっぱ篠宮さんには敵わないな。もう知らない、後悔しても離してあげられないからね。絶対に君を逃がしたりはしないから、一生」
そんなこと言って、少し不安そうに瞳を揺らしてる瀧川くん。
「瀧川くんから逃げ切れる自信なんてないよ、職場一緒だし」
「ハハッ。まあ、確かにね。……ねえ、篠宮さん」
「ん?」
「俺を強く抱きしめてよ、絞め殺しちゃうほど強く。殺しちゃってもいいから」
そう言って優しく微笑む瀧川くんはちょっと異常なのかもしれない……と思いつつ、私は力いっぱい瀧川くんを抱きしめた。
「篠宮さんってさ、本当に可愛いね。これ全力?」
「これ以上は無理、力入らない」
「ククッ、弱っ」
「もう!!」
ニコニコしてる瀧川くんをムスッとして見上げると、嬉しそうに微笑んで私の頭を撫でてくる。
「帰ろうか」
「うん」
── 瀧川くん家へ戻って、私達はまた何度も何度も体を重ねた。
「篠宮さん、まだ足りない。いい?」
「ちょっ、瀧川くん……もう無理だってば!」
「可愛いなぁ。本当に最高だよ、篠宮さん。もっと、もっと君を愛してあげる。致死量の愛を注ぎたい、君のナカに──」
── 瀧川くんは正真正銘の絶倫だった。




