6話 黒の魔術師
黒の魔術師——エルフィ・イリネー。
並の魔術師なら五秒で、一人前の魔術師でも二十秒で沈黙させられる。
三十秒耐えられたら実質勝ちのようなもの、とすら言われた強者の中の強者。
魔術の名門イリネー家に生まれた鬼才は、その卓越した力から”黒の魔女の生まれ変わり”と呼ばれるようになった。
その黒髪は恐怖の象徴で、忌み子の証明だ。
その彼女が、今目の前に居る。
「その、大丈夫か……?」
言ってから俺は頭を抱えた。
何で俺は黒の魔術師の心配をしているんだ。
彼女は水を滴らせながらこちらを見た。
「心配、してくれるの?」
「っ」
俺は言葉に詰まった。
透き通るような声に、曇りのない碧眼。真っ白な肌に、どこかあどけない顔つき。
それらが、間違いなく彼女が本物の黒の魔術師であることを実感させた。
少女は振り返り、魔獣の死骸を見る。
「カニバル・フラワー……瀕死の獲物を泳がせて、助けに来た仲間を捕食する狡猾な魔物ね」
よくみると、彼女の足元には蔓のようなものが巻き付いていた。あれに拘束されていたのだろう。
やがて少女は振り向いて言った。
「ありがとう。君は、私の命の恩人よ」
手を差し伸べられる。
——攻撃される。と思ったが、しばらく経っても魔法が放たれない。
それが握手を求めているのだということに数秒の時間がかかった。
握ると、暖かい人の温もりを感じた。
「…………」
「……あの、離してくれないか?」
あまりにも長い間手をつかんでくるので、気まずくなってきた。
「私、感動してるの。嫌がらずに手を握ってくれる人、初めて会ったから」
見ると、ニマニマとした笑みを浮かべていた。
「そ、そうか……」
恐る恐る、手を離す。
「アンタは、その、どうして魔物に捕まっていたんだ」
「仲間に裏切られたの。背中をひと突きされて、川に落ちたと思ったらこんなことになっていたわ」
自嘲するように言った。
「それは……悪いことを聞いたな」
「いいの、こういうことには慣れてるから」
そうして、少女は水浸しのローブをしぼった。
素肌が見えそうになったので、目をそらす。
「それでは、俺はこれで——」
「ねえ、待って」
去ろうとしたところを、阻止された。
「君、剣士よね」
腰元の剣に視線が向けられる。
「剣士なら、後衛がいた方が都合がいいと思うのだけれど」
「いや、特に後衛が必要には感じないな」
「そう、じゃあ言い方を変えるわ」
すると、彼女はこう言った。
「私には前衛がいた方が都合がいいの」
「……残念ながら、共闘の申し出なら断らせていただく」
俺はキッパリと言った。
大体、黒の魔術師ほどの実力者なら、前衛などいなくても問題ないはずだ。魔法一つで敵が弾け飛ぶ。
やがてごまかしが効かないと悟ったのか、黒の魔術師は去ろうとした俺の服を掴んだ。
「君に、お願いしたいことがあるの」
お願い。
その言葉に、俺は足を止めた。
「どうか、私を助けてほしい」
そう言って、彼女は地面に頭を擦り付けた。
「ちょ、ちょっと——」
「私の試験課題をクリアするために、手を貸してほしい」
すると、羊皮紙を差し出された。
試験課題が書かれている紙だ。
『受験者一名以上を仲間に加え、試験課題をクリアさせる』——と、そこには書かれていた。
つまり、彼女は受験者の誰かを仲間に加えることが試験課題になる。
「……仲間なら、適当に見繕えばいいだろう」
「すでに試みたわ。君で二十人目よ」
そうだ。あたりまえだ。
彼女を仲間にしようだなんて人間はこの会場には居ない。
黒の魔術師の悪名は、それほどの影響力がある。
「お願い、私、どうしても学院に行きたいの。どうか、私の仲間になってほしい」
衝撃だった。
それは情けを懇願する下民のようですらあった。
決して、冷徹な黒の魔術師が見せていいような姿ではなかった。
本気、ということなのだろうか。
脳内で、『お前は良い子じゃ。口は悪いくせして、困っている奴がいたらどうしても見過ごせない』と大樹の爺さんがニヤニヤとした表情を浮かべる。
まさか、彼女に手を貸すというのか?
あり得ない。俺にだって選択の自由がある。何より、彼女からは面倒ごとの匂いがする。
しかし、その少女は生まれた一瞬の隙を見逃さなかった。
——手を掴まれた。
彼女は息がかかってしまいそうな距離まで詰め寄って、俺と目を合わせた。
「お願い、もう、君しかいないの」
艶やかな黒髪が肌に触れて、くすぐったかった。
その碧眼に、吸い込まれそうになる。
目を離したいのに、離せない。
俺は、幻惑の魔女に魅了でもされてしまったのだろうか。
彼女は俺の手を握って、まっすぐに見つめてきた。
ゴクリと喉を鳴らす。
やがて俺は、音を上げた。
「分かった。分かったから……手を離してくれ」
「——私の名前はエルフィ。よろしくお願いするわ」
「……ええと、剣士のアルトだ」
俺たちは手を握り締め合った。
二人の間に立てられた、協力関係の証だ。
——想定と違う。
気づいたらこんなことになっていた。
俺はついぞ、自分の意思を貫き通すことができなかったのだ。
……俺は悪くない。
責めるなら俺の性分を責めてほしいものだ。
いや、過ぎたことを悔やむのは止めよう。
それに、誰かと協力関係を結ぶこと自体は悪い行動ではない。
おそらく自分一人だけでは、湖を見つけるだけの知識が足りない。
そして、この少女にはその知識がある。
利用価値は、十分だ。
「ふーん、君の試験課題は『湖を探して帰還する』、ね……」
エルフィはいつの間にか俺の試験課題の用紙をくすねていた。
懐に羊皮紙がないことを確認しながら、彼女の手癖の悪さを悟る。
「これなら、まずはここがどこかを確認するべきね」
「出来るのか? そんなこと」
「私に任せて。協力してもらっているんだもの、成果で報いてみせるわ」
そう言うと、彼女は木の股に手をかけた。
そして一気に登る——と見せかけて登らない。いや、登れない。
よじ登ろうとしても腕先がフルフルと震えるだけで、一向に進む気配がない。
「あの、手伝った方がいいか?」
「……お願いしてもいいかしら」
エルフィは気恥ずかしげにそっぽを向いた。
「アルト、ここがどこか分かったわ!」
木の上からエルフィの顔が覗く。
どうやら情報がつかめたらしい。
「——今から降りるけど、準備出来た?」
「あ、ああ……」
根元に立って、両腕を広げる。
それを確認して、エルフィはひょいと飛び降りた。
ボス、と寸分違わず両腕に体が収まる。
「ナイスキャッチ」
満悦な顔を浮かべる彼女の体躯は、羽でも抱いているのかと思うほど軽かった。
「それで、ここはどこだったんだ?」
腕から下ろすと、襟元を整えながらエルフィは答えた。
「簡潔に言えば、私たちは『号哭の谷』に飛ばされたと考えるのが合理的ね。白銀の塔が南東方角に見えたから、間違いないはずよ」
「号哭の谷……」
聞いたことがあるような、ないような……
「世界でも指折りの危険地帯、とでも言えばいいかしら。特に気を付けるべきは盗賊ね。ここ、今は裏取引の巣窟になってるの」
なるほど。鬱蒼とした場所なのに、やけに人気が多いと感じたわけだ。
しかしこの少女、非常に博識だ。今もこうやって状況分析をして見せているし、少なくとも俺とは比べ物にもならないくらいの教養を兼ね備えている。
流石は同年代最上位の魔術師というべきか。
「そうなると、私たちが目指すべきは”神秘の滝”ね」
「神秘の滝?」
「号哭の谷にあるただ一つの湖。その幻想的な風景が書物に記録されているわ」
エルフィが言うには、その湖は森の中でも相当奥までいかないと見れないらしい。
それから、”神秘の滝”は昼下がりの景色が一番綺麗といういらない情報まで教えてくれた。
ともかく、試験終了時間を鑑みても、早めに条件をクリアしておいた方がいい。
こうして俺は、なし崩し的に黒の魔術師を仲間に加え、川を辿り湖まで歩くことにした。
号哭の谷を最奥に向かって進むと、そこには鬱蒼とした密林が広がっていた。
視界が悪く、油断していると足元をツルに掬われる。
それで、肝心のエルフィはというと……
「——見て、アルト。このエリタケ草、傘にできそうだと思わない?」
どこから拾って来たのか、通常の何倍もあるエリタケ草を見せつけてきた。
「…………」
しかしたかだか葉っぱに雨を受け止められる訳もなく、実用性も皆無。つまりどういうことかというと、これは冗談である。
ぴくりとも笑わない俺を見て、エルフィはそっぽを向いてポイとそれを捨てた。
「——見て見て、アルト。ウキヨ蔓よ。図鑑でしか見たことなかったの」
今度は一体どこからちぎって来たのか、蔓を体に巻き付けながら見せつけて来た。
「アルトも、すごいと思わない?」
「はあ、自分には学がないので、どうにも……」
「何よ、反応が薄いわね」
期待通りの反応ができなくてすみませんでしたね。
「じゃあ、この先っぽを握ってみて」
「握ると、どうなるんだ?」
聞くと、有無を言わせない表情で先端を差し出してきた。
仕方ないので握ってみると、種らしきものが勢いよく飛び出してきた。
「……痛い」
額を抑えると、エルフィは満足そうに笑っていた。これについては期待通りの反応ができたらしい。
それ以降の道中も、エルフィはずっとこんな感じでちょっかいをかけてきた。
おかしい、想像していたのと違う。
黒の魔術師は、もっと冷徹で残酷で他人を寄せ付けないような人間ではなかったのか。
噂通りの人物であったのなら、背後を突然襲撃されてもおかしくないと考えていたのだが……
思わぬ事態に調子が狂いそうになる。
果たしてこれが良いことなのか、悪いことなのか、俺には分からなかった。
やがて日が暮れ始めた頃、俺は異変を察知した。
「——止まれ」
「どうしたの、アルト? 今から髭が七色に光る男爵バッタを見せてあげようと思っていたのだけれど」
そんなことをしている場合ではない。
「人の気配だ」
エルフィの手元から、無駄に色鮮やかなバッタが逃げ出した。
そっと気配を気取られないように、向こう側を覗き込む。
そこには、怪しげな格好をした男が一人。
そして、その横には一人の子供が縄で繋がれている。
「あれって……」
「奴隷商、か」