3話 旅立ち
樹海の奥へ、獣道を辿りながら進む。
やがて洞穴が見えたところで、俺は足を止めた。
腐臭がする。
放置された血肉の、腐った臭いだ。
反吐が出そうだ。
白い毛並みの熊は、数にしておよそ三十の大所帯。
獲物を遊びで狩り、命を弄び、本能のまま暴虐を尽くす。まさしく野蛮にして粗野。
故に彼の魔獣の名は——ブルート・ベアー。
俺は土足で、その領域に踏み込んだ。
同時に、無数の視線がこちらへと向けられる。
双方に敵意があることは、目を合わせた時点で確定する。
『ガルルルルルゥ……』
威嚇はしてくる。
しかし、攻撃を仕掛けてはこない。
仕掛ければ相応の被害を受ける相手であると理解しているのだ。
「意外と、勘が働くもんだな」
だが、無意味だ。
俺がこの領域に入った時点で、双方の生存はあり得ない。
無造作に距離を詰め、剣を振り上げる。
俺は一番手前のブルート・ベアーの首に向かって、それを振り下ろした。
ザン、と、魔獣の首が地面に落ちる。
血が滴り、巨体が倒れ伏した。
——それが、開戦の合図だった。
『ガアアアアアアアアアッ!』
ブルート・ベアーの群れが吠え、迫ってくる。
仲間をやられたことへの怒りか、鬼気迫る勢いだ。
しかし、周りが見えていない。
まずは開幕の一撃を、ブルート・ベアーが先行する。
振り上げられた腕を——半身になって避ける。
そのまま剣を突き刺し、振り切った。
中身の臓物がぐちゃぐちゃになって機能を停止する。
絶命する熊の屍を盾に、姿を隠す。
ブルート・ベアーは敵を見失い、困惑した。そこに、隙が生まれる。
「——フッ!」
跳躍し、身を捻りながら斬撃を繰り出す。
二体目の首が飛んだ。
着地し、踏み込みの体勢へ。
大柄で小回りがきかないことを活かし、一気に懐に入り込む。
『——!?』
咄嗟に身を引こうとしたところで遅い。
すでに標的は、俺の間合いに入っている。
振り抜かれた剣が、鮮血を飛ばした。
これで、三体目。
——直後、背後に影が落ちる。
囲まれた、と脳が判断した瞬間には体が動いていた。
身を捻り、回転斬りの構えへ。
攻撃をさせるよりも早く、反撃に出る。
剣が軌道を描き、一体、二体、三体と胴の間を駆け抜け細切れにしていく。
やがてブルート・ベアーは、悲鳴を上げる間もなく肉塊に成り下がった。
——剣を振った。この身に積み上げてきた技を以て。
——戦場を駆け抜けた。かつて鍛え上げてきた脚と共に。
躊躇いはなく、迷いもなく、ただあるのは最善の一手を選び続ける意思のみ。
あの人に教えられた剣術が、今俺を誇り高き剣士にさせていた。
血が飛び散る。牙が砕ける。毛皮が剥がれる。
瞬く間に倒れていく仲間を見て、残党が恐怖を抱くのに時間は掛からなかった。
局面は進み、勝敗は決する。
敵が選んだのは——逃走だった。
しかし、
「逃がすかよ」
呪いは大元をたたなければ消えない。
この魔獣ども内どれが大元か分からない限り、実行されるのは有無を言わさぬ皆殺しだ。
ブルート・ベアーは強固な筋肉を持つ。
そこから実現される走りの速さは、一般人には到底及ばぬもの。
しかし、足りない。
それでは、一人の剣士を相手にすることも許されない。
剣線が走る。
斬る、斬る、斬る。
全ての敵が沈黙するまで、ただひたすらに斬る。
『グ、ルルゥ……』
ブルート・ベアーは怯んだ。
その剣士に、逃げ道を押さえられたから。
その時、彼は自分の命運が尽きたことを悟った。
「お前で、最後だ」
俺は両の手で柄を持ち上げた。
そして熊の脳天に、刀身を突き立てる。
ドサ、と巨体が伏した。
これにて、終。
俺は血みどろの戦場を見渡して、辟易とした。
=====
「……爺さん、全部片付けてきたよ」
『言われんでも分かる。お前の姿を見ればな』
拠点に帰ってきた俺は、返り血でドロドロに汚れていた。
なりふりは構わなかった。その結果だ。
「呪いは、解けたか?」
『おかげさまでな。随分と良くなった。しかし……』
爺さんは眉を下げた。
『これで、冬を越せることはなくなってしまった』
何か、確信するところがあったのだろう。
精霊力を使い果たし、呪いも受けてしまったのだから、無理はない。
何者も、限りある命の定めからは逃れられない。
この樹人はついぞ春を目にすることなく、生命を終えるのだ。
「湯加減はどうだ、爺さん」
クレーメの湯を木の幹にかける。
『なかなか良い。苦しゅうないぞ』
ただの延命処置。
しかし爺さんは、調子づいた風に声色を良くした。
樽を片付けて、俺はテントの下に腰を下ろす。
『どうしたアルト、いつもの釣りには行かなくて良いのか?』
「瀕死の樹人がいるっていうのに、そんな呑気なことしてられるかよ」
預かり知らぬところで死んでもらっては困るのだ。
文字通り、寝覚が悪くなってしまう。
『どうせすぐ死ぬんじゃ、放っておいたところで変わらんだろう』
「ふざけたことを言うな。俺が助けてやってるんだ、限界まで生きやがれ」
そう言うと『老人をもう少し労わらんか』と小言を言われた。
お前は人じゃないだろう。
しばらくして、爺さんは唐突に話を切り出した。
『……ところで、お前はあの手紙をまだ持っておるか』
「手紙? ……ああ、家族からのやつか」
持っているには、持っている。
例の殺人寒波に巻き込まれて一部浸水してしまったが、かろうじて原型はとどめたままだ。
『アルト、あえて言わせてもらおう。あの手紙に従いなさい』
「なんだよ、急に……あの話は、あれで終わりだっただろ」
後悔のない選択。
つまり、家族との絶縁が俺にとって後悔のない選択だ。
『……思い出したんじゃ、大切なことをな』
——一つ、昔話をしよう。
そう言って、不意に爺さんは隣の大木に目をやった。
『この隣の木には、昔ワシと同じ精霊が宿っていた』
見ると、それはなんの変哲もない、ただの木だ。
今は抜け殻のように沈黙している。
「それが、何か関係あるのかよ」
『精霊は寿命が尽きれば、こんな風に抜け殻となって中身の魂は消える……彼女とは、喧嘩別れだった』
爺さんは遠い昔を思い出すように、目を細めた。
『今でも後悔している。どうしてたった一人の友が逝く前に、言葉の一つもかけてやらなかったんだとな。失ってから気づいたものじゃ』
「…………」
変に神妙な空気になってしまった。
こういう手合いの話は苦手なのだ。
『アルトは、最後に家族と何を話した?』
「さあ、覚えてないな。でも、どうせロクなことじゃない」
『そうか。なら、それは後悔の種じゃ』
何を根拠に、と思った。
でも、その言葉にはどこか根拠のない説得力があった。
『ワシはあの時、失うとは何か知った。じゃが——お前はまだ、失うとはどういうことかを知らない。ゆえに、失うことの後悔を知らない』
「そうかよ……」
『今から家族と面と向かえとは言わん。ただ、家族と最後に交わした言葉を思い出せないなんて——そんな悲しいことはないじゃろう』
何か言い返してやりたかった。
しかし、どうにもうまく言葉が出てこなかった。
それもこれも、爺さんが変なことを言うせいだ。
『お前は良い子じゃ。口は悪いくせして、困っている奴がいたらどうしても見過ごせない』
余計なことを言うな。
『そんな優しいお前に、悲しい思いはしてほしくない』
「…………」
手紙を取り出す。
まだ、間に合う。間に合いはする。
延命処置も同然なその場しのぎ。だが、条件をこなせば家族のままにしてもらえる。
「まあ、考えておくよ」
『ああ、それでいい』
爺さんは満足げに頷いた。
それから四日後、爺さんの容体が急変した。
急激に生命力が縮小し、生きているか死んでいるかも分からない状態になった。
『アルト……冬が明けるまで、あとどれくらいだ……』
「少なくとも、一ヶ月はかかるだろうな」
『そうか……』
「もう、そんなに短いのか?」
爺さんは何も言わず、ただ目線を下げた。
『アルト、冬が明けて花が咲いたら、どうかワシの代わりにマルガの花を愛でてくれ』
「……俺がやっても、意味ないだろ」
『それでいいんじゃ』
「ああ、分かった、分かったよ」
それくらいは、叶えてやれる。
そしてさらに三日後。
爺さんは、ついに沈黙した。
「爺さん……?」
声をかけても、返事がない。
ただ抜け殻のように、大樹がそこに生えているだけだ。
爺さんは、ただの木に成った。
あまりにも呆気ない最期だった。
——ようやく、うるさい奴がいなくなったと思った。
これで、平和な孤独の生活に戻れる。
一人で飯を食い、一人で鍛錬を積み、一人で魚でも釣る。
そうやって、誰とも関わらず生を謳歌する。
最高だ。
「…………」
……しかし、そうしようとすればするほど、違和感が込み上げてきた。
いつもの煩い声がない。
それだけで拍子抜けした感じになってしまう。
寂しいわけではない。悲しいとも違う。
ただ、何かが人生から抜け落ちた。まるでポッカリと空いた空白のように、何かがなくなってしまったという感覚がある。
一日が過ぎ、二日が過ぎ、三日が過ぎた。
それでも、一度芽生えた違和感が消えることはない。
そうして、俺は気づいた。
——ああ、これが”失う”ということか。
まあ、何というか……
「良い気分じゃ、ないな」
これをもう一度味わったら、俺は悲しんでしまうのだろうか。
悲しみのあまり、泣いて喚いてしまうのだろうか。
きっと、そんなことはないと思った。
でも、それが失うことを受け入れる理由にもならないと理解した。
もう少しだけ、時間が欲しかった。
俺には、考えるだけの時間が必要だった。
=====
雪が溶けて川に流れ、やがて大地に花が咲く。
厳しい冬を越え、未開の地に暖かい季節が訪れた。
「爺さん、春が来たよ……」
抜け殻の木に話しかける。
虫が飛んで、樹液に吸い付いていた。
「ほら、マルガの花だ」
俺は手折ってきたオレンジ色の花を木の横に添えた。
弔いには少し物足りないかもしれないが、そこは許していただきたい。
さて、目的も終えた。
もう俺がここに残る理由はない。
俺は、この樹海を出ることを決めた。
本当はこのままずっと引きこもり生活を続けていたかった。
失うのがどうとか関係なく、外の世界に行くことのデメリットの方が大きい気がしてならなかった。
しかし、あの爺さんが言ったのだ。
三百年生きてきた大樹の精霊の、ありがたい遺言なのだ。
一度くらい、騙されてみたっていいだろう。
それが、俺の出した結論だ。
「——持ち物は、これでいいか……」
もしものために残しておいた、一袋分の小銭。それと、訓練用の木剣を一本。あとは、魔石をいくらか。
持ち物は以上。軽装備もいいところである。
俺は森の最奥に向かって礼をした。
「お世話になりました」
これで、孤独の生活とはお別れ。
きちんと決別をしなければならない。
俺は後ろ髪をひかれながら、決して振り向くまいと確固たる意思で森を後にした。
果たしてこの先に待ち受けているものは、災難か、災禍か……嫌な想像しか湧いてこないな。
しかし、こんなにも春の日差しが暖かいのだ。
今日のような門出の日くらいは、楽観的で能天気に行ってやろうじゃなかと、そう思った。
しばらく一日三話投稿していこうと思います