25話 あの日
しばらくして、路地裏には俺たち三人だけとなった。
瞬間、地面に膝をつく音が鳴った。
——終わった、と。
そうふ抜けた声を漏らすのは、ルイだった。
「……馬鹿、なんですか……? あなたは大馬鹿なんですか、イリネー侯爵令嬢!?」
「何が? 私は至ってまともよ」
ふるふるとルイは頭を振る。
「無理だ……勝てるわけがない……っ、あなたは今、必ず負ける勝負を挑んだんですよ!?」
その顔を二文字で表すのなら、「絶望」以外にはないだろう。
「四人の上級貴族と、三十人以上の取り巻き……いくらあなたが凄い魔法使いであっても、多勢に無勢が過ぎます!」
数が多い方が勝つ。
白兵戦の基本だ。
量は質をも凌駕する。
しかも、向こうの頭はAクラスの魔法剣士。量だけでなく、質も一級品ときた。
普通なら、どちらに軍配が上がるかなんて分かり切ったこと。
もしこの勝負で賭け事をするのなら、一〇〇対〇で賭けが成り立たないだろう。
しかし、それは「普通」の場合である。
そして、彼女は「普通」ではない。
「それなら、君の力を貸してもらおうかしら」
「……へ?」
エルフィはルイの方を向き直った。
「君が私たちの編成に加われば、私たちの戦力は一増えて、向こうの戦力は一減る。合わせて二の戦力差が埋められるなんて、とても効率的ね……!」
「やっぱり、ボク、向こうの方に行き——ひえ!?」
言葉を言い切るよりも先に、首根っこを掴まれるルイ。
可哀想に。彼女の魔の手から逃れることはできないのである。
「うわあああああ! いやだあああああ! 連れて行かないでえええええ!」
行き場のない絶叫が、学園都市の中に消えていった。
=====
——ずっと、前のこと。
——彼女が家を旅立つよりも、ずっと前のこと。
エルフィは覚えている。
疎ましい目で見てくる兄弟の視線も、表面では愛想良くしてくれていたメイドの陰口も、鮮明に覚えている。
けれど、最も記憶に苛烈に残っているのは、あの日のことだった。
初めての武闘大会だった。
あらゆる貴族の家が、自分の子の実力を見せびらかすために開かれた、新星のための大会。
そこでエルフィは圧倒的な実力を見せつけ、決勝戦にまで登り詰めた。
決して手加減はしなかった。それが相手への侮辱だと知っていたから。
やがて、迎えた決勝戦。
誰もが固唾を呑んで見守る中。
エルフィは、相手を完膚なきまでに叩きのめした。
何度も立ち上がって襲いかかってくる敵に対して、その度に魔術を振るった。
炎で焼き、雷で貫き、水で押し流す。
まだ六歳にも満たない子供が地面に伏して動けなくなるまで、圧倒的な絶望を刻みつけ続けた。
「——勝者、エルフィ・イリネー」
ついに勝利が確実なものになった時、エルフィに向けられたのは歓声ではなく、蔑む視線だった。
「やりすぎだ」「子供だというのに」「黒髪だ」「黒の魔女の生まれ変わりだ」
あらゆる侮蔑の声が聞こえてきた。
エルフィは分かっていた。
どうせこんなことになることを、知っていた。
でも、もしかしたら、なんて期待も、ないわけじゃなかった。
杖を握りしめて、ふと気を抜けばこぼれ落ちそうになる涙を堪える彼女を、憐れもうとする人間は一人もいなかった。
試合が終わって闘技場を歩いていると、泣き声が聞こえてきた。
それは柱の裏、ちょうど誰からも見えない死角から聞こえてくるものだった。
「ひっ、ぐう……っ!」
裏を覗き込むと、赤い頭髪が見えた。
あまりにも泣くのに集中しているのか、自分がそばに立ってもまるで気づく気配がない。
「アリア・フィグラルツ……」
「っ、誰!?」
名前を呼ぶとようやく気づいたようで、飛び跳ねるように後ずさった。
「イリネーのところの……何よ、何しにきたのよ! 敗者のアタシを、煽りに来たっていうの……っうぅ……!」
自分を見るや否や、たちまち号泣を再開する。
まるで土砂降りの雨みたいに、涙の粒がポタポタと地面に垂れた。
「どうして、泣いているの?」
エルフィには分からなかった。
たかだか、数ある大会の中の一つ。
決闘でもなければ、本気でもない。
単なる遊興。それだけのことでしかない。
しかし、目の前の少女は泣いている。
本気で、心底悔しそうに、泣いている。
「アンタには、負けられなかった……っ、黒髪のアンタだけには負けちゃだめだって、お母様が言ってた……でも、負けちゃった……ッ!!」
「…………」
「アンタのせいよ……アンタのせいでアタシ、またお母様に怒られる……っ」
初めて向けられた、侮蔑以外の感情だった。
蔑むわけでもない、非難するでもない。
言葉の表面では自分を責めていても、その内面にある本心はもっと別のところにある。
感じたことのない、向けられたことのない激情に晒され、エルフィは当惑した。
「ご、ごめんなさい……」
「謝るな……っ! アタシを憐れむな……っ! ……こっちに、くるな」
いやだ。
そう思った。
くるなと拒否されようが、近づく。そうするべきだと思った。
懐のハンカチを広げて、彼女の目元を拭う。
「……え?」
「泣いていいよ。好きなだけ」
そう言うと、彼女は思い出したかのように引っ込めていた涙を溢れさせた。
さんさんと泣いた。
身体中の水分がどこか行って、干からびてしまうのではないかと心配になるほど泣いていた。
やがて涙が止まると、彼女は気まずそうにどこか後ろめたさそうな表情を浮かべた。
「アリア……」
水浸しになった布を見せる。
「流石に泣き過ぎだわ。私のハンカチが使い物にならなくなっちゃった」
「わ、悪かったわね! こんな泣き虫で!」
アリアの目元は真っ赤に腫れていた。
「……それで、何の用よ。話しかけたなら、何か用があるんでしょ」
ムスッと、しかし堂々と問われる。
エルフィは「あ」と声を漏らし、目を泳がせた。
「その、あなたのことが気になった、から……」
「気になった……?」
みんな、そうだった。
自分に向けてくるのは、蔑みか、憎しみか——恐怖。
どうせ勝てないからいいや。
気に食わないけど、しょうがないや。
事前に自分を戦いぶりを見ていた相手は、みんなそういった諦念を抱いていた。
でも、
「あなただけは、勝とうとしていた」
本気で、勝ちに来ていた。
何度地面に叩きつけられても、最後までその瞳の熱が冷めることはなかった。
「バカね。最初から負けるつもりで勝負を挑む奴が、どこにいるのよ」
腕を組んで、フンと鼻を鳴らしながら言い張るアリア。
「もしそんなやつがいたとしたら、そいつは戦士じゃないわ」
やっぱり、違う。
この子は、他とどこか違う。
だから、もっと知りたいと思った。
「その、アリア……」
「な、何よ、急に気持ち悪いわね」
これから言おうとすることを考えて、エルフィはもじもじと手をこねた。
「私、今まで人と仲良くしたことがなくて……メイドはよくしてくれるけど、裏では陰口とかされるし、兄弟も、同じで……だから、あなたみたいな人は初めてで……つ、つまり、どういうことかというと——」
ぎゅっとローブの裾を握りしめ、頭を下げる。
「私の、友達になってください……!」
一世一代の告白だった。
あわよくば、もしかするかもしれないと思った。
しかし——
「無理ね。アンタとは、友達になんかなりたくない」
「そ、そうよね。変なこと言って、ごめんなさ——」
「でも」
と、アリアはこう言った。
「好敵手にならなってあげる」
好敵手。
家族でも友達でもない、全く別の関係。
しかしどうしてか、ストンと胸に落ちるような、心地よい響きがその言葉にはあった。
「今日は負けたけど、いつか必ず、アンタのこと倒して見せるから」
宣言する。
堂々と、臆することなく、真っ直ぐに。
その時彼女が見せた、くもり一つない瞳。
エルフィはそれが嫌いじゃなかった。
=====
——例の件から一日後。
センターホール併設の会議室にて。
アルト、エルフィ、ルイの三人は集まっていた。
「……エルフィ?」
どこか上の空な彼女を見て、アルトは珍しいと思った。
「ごめんなさい、考え事をしていたわ」
軽く息を吐き、二人の方に向き直る。
さて、と机に手をつきエルフィは言った。
「——これより、第一回緊急試験会議を始めるわ」