23話 勧誘
——暖かい。
最初に感じたのは、ぬくもりだった。
なんというか、安心感のある温かさだ。
まるで、付かず離れずの距離から暖かく見守ってくれるような、そんな優しさを感じる。
うっすらと目を開けると、そこは寮の天井だった。いつの間にか、自室に戻っていたのだろうか。
遠くの方から、誰かが会話している声が聞こえる。
これは……男の人と、女の人……?
もう少しだけ、寝ていたい。
あと、もう少しだけ……
そこまで考えて、ルイははたと我に返った。
いやまて、ここが自室であるなら、どうして人がいる……?
ガバッと起き上がる。
そして、目が合った。
「あ、起きた」
最初に声を上げたのは、黒髪の少女だった。
ルイは自分の体をペタペタと触った。服を脱がされ、汚れが綺麗に拭き取られている。
「えと、その、あの、ここはどこで、ボクはどうして——」
一瞬にして、混乱状態に陥る。
脳は許容限界値を超えてオーバーヒート。頭から蒸気が吹き出した。
「落ち着いて。お湯を飲むといいわ」
少女に諭され、ルイは口をつぐんだ。
しばらくして、冷静さを取り戻すと、彼女は話を切り出した。
「思い出せる? 君が倒れるまでのこと」
頭を抑えて、これまでの記憶を整理する。
確か、ハンスの訓練に付き合わされて、魔力切れになった後……雨に濡れて……
「ボク、訓練場の前で、意識を失ってました……」
少女が頷く。
「本当は医務室に運んであげたかったのだけれど、この時間だともうやっていなくて」
魔力時計を見ると、短針が夕暮れ過ぎをさしていた。
「ここは俺の部屋だ。ああ、別に迷惑とか、気にしなくていいからな」
そう説明するのは、金髪の青年だった。
ルイはベッドから降りて、床に跪いた。
息を吸い込み、同時にぶつける勢いで床に頭を擦り付ける。
「ご迷惑おかけしましたッ!! この御恩は一生忘れません……!!」
「やることをやったまでよ。そこまでのことじゃないわ」
いや、しかし。
そうはいえど、受けた恩は受けた恩。
母が言っていた。
——人によくしてもらったら、そのことを忘れてはいけないよ、と。
人情を以て人を繋ぎ、情けを受ければ忠節を返す。
平民であるからこそ忘れてはならない、人付き合いの基本である。
青年と少女は、意外も意外といった表情を浮かべて、顔を見合わせた。
「俺、この学院で初めてまともな人間に会った気がする」
「奇遇ね、私もよ」
ともかく、閑話休題。
互いに名前も知らないのも居心地悪いから、と少女が自分を指さした。
「私はエルフィ・イリネー、それで、こっちがアルト・アストレアよ」
青年の方が「どうも」と控えめに言う。
イリネー家に、アストレア家……
「お貴族様、だったんですね……」
ゴクリと生唾を飲み込む。
まさか、これを弱みに考えるのも悍ましいことをされてしまうのではないか、煮られるなり焼かれるなりしてしまうのではないか。
——オホホー、平民風情は私の秘薬の一部になってしまえばいいのよー! と大釜をかき混ぜる魔女の姿が脳裏をよぎった。
ルイの貴族へのイメージは滅茶苦茶であった。
決して粗相などできまいと、息巻くのも束の間。
しかし、それに逆らうことはできなかった。
ぐう、と腹から音が鳴る。
直後、自分が空腹状態であったことを思い出した。
恥ずかしさと居た堪れなさが、同時に湧き上がってくる。
「腹が減ってるなら、食うか?」
「え?」
アルトがパンを差し出した。
いつも彼が朝食に食べている、極上の逸品である。
「いいんですか……?」
「念の為、食堂から多めにもらっておいたんだ。おかわりもあるぞ」
ちょっと、涙が出そうだった。
=====
少年がモリモリとパンを頬張る。
しきりに美味しい美味しいと言っているあたり、本気の空腹だったみたいだ。
……先刻、エルフィが彼を連れてきた時はさすがに驚いた。
彼女自身もずぶ濡れになっていたものだから、思わず自分も傘を放り投げて一緒に濡れた方がいいかと思ったくらいだ。
医師じゃないため詳しいことはわからないが、症状を見るに魔力切れによる気絶、と判断した。
いくら訓練するにしたって、魔力切れになるまでする奴はそうそういない。
何かがある、と裏を読むことはできるが、ひとまず彼の回復が先決だ。
「ごちそう、様でした……」
パンを食べ終わった彼は、どこか感動に打ちひしがれているような表情をしていた。
さすがに大袈裟だと思う。
「申し遅れました、ボクはルイ・ベルナールって言います。本当に今回はご迷惑おかけしてしまって、なんとお礼を申し上げたらいいことか……」
「構うことではないわ。それより、君はどうしてあんなところで倒れていたの?」
ルイは「それは……」と口ごもると答えずらそうに言った。
「その、魔法の特訓をしてて……集中してたら、魔力切れに気づかなかった、みたいな感じです」
嘘だな。
会話下手の俺でもわかる。彼は今嘘を言っている。
何か言いたくない事情があるのか、あるいは、言えないのか。
あまり人の事情に首を突っ込むのも良くないかと思案していたところ、ルイが口を開いた。
「そ、そんなことよりお礼です! ボク、こんなによくしてもらったの初めてで、お礼したいんです!」
俺とエルフィは顔を見合わせた。
「そう言われても、ねえ……」
「俺も、特別なことをしたつもりはないしな」
「でも、このままだと示しがつかないんです! なんでもしますから!」
俺は唸った。
「気持ちだけで十分なんだが……」
いや、待て。
——今、なんでもって……
瞬間、エルフィが即座に移動し、ルイに向かって自分の髪を指さした。
「君、黒髪について、どう思う……?」
「どうって……確かに、黒の魔女は悪逆の使徒ですけど、黒髪は別に世界に一人しかいないわけでもないし、そもそも魂の生まれ変わりは学術的に根拠が乏しいので……特には、なんとも思わないです」
エルフィはパッとこちらを向いた。
俺も、頷きを以て返す。
これは、条件に当てはまる。
「ルイ、君を、勧誘させてくれない?」
「勧誘、ですか……?」
「今度の緊急試験、私たちの三人目の仲間に加わってほしいの」
エルフィが言うと、果たしてルイは、顔を俯けた。
「……ごめんなさい、それだけは、できません」
がっくし。
エルフィは肩をおとした。
「君にも、先約がいたのね。じゃあ、その人が誰が教えてくれる?」
「それも、できません……」
ルイは本当に、それは心の底から申し訳なさそうに言った。
「それも? 別に試験に支障が出るわけでもないし、それくらいは教えてくれてもいいんじゃない?」
「言わないように、言われてるんです」
エルフィはムッとした表情を浮かべた。
「君、なんでもするって言ったじゃない」
グサリ。
「恩を返したいというのは、言葉だけだったのかしら」
グサリグサリ。
容赦のない言葉のナイフがルイを襲う。
目に見えて萎れていくのがわかった。
「ぼ、ボクを信じてください。本当に、誠実に恩返しをしたいと思ってるんです」
すると、エルフィは「ふーん」と目を細めた。
「じゃあ、さっき嘘をついたのは君なりの誠実だったというわけね」
「ど、どうしてそれを——ッ!?」
慌てて口を塞いだところで、時すでに遅し。
憐れな少年はすでに、ニヤついた笑みを浮かべる魔女の手中に落ちていた。
「やっぱり、嘘だったのね。残念、君となら仲良くなれると思ったのに」
「う、ぐぅ……」
「せっかく雨のなかを運んできたというのに、これでは骨折り損のなんとやらね」
「うぅ……」
ルイはついに折れた。
「わかりました、全部話しますから……」
「よろしい」
エルフィは満足げに座り直した。恐ろしい子……
「この話は、他言無用でお願いします」
そうことわりを入れると、ルイは口を開いた。
「——ことの発端は、フィグラルツ……アリア・フィグラルツ侯爵令嬢です」
瞬間、時が止まった。
正確には、俺のではなく、彼女の。
口元に浮かんでいたはずの笑みは凍りつき、目元にはわずかに動揺の色が浮かんでいる。
「——え?」
普段冷静さを欠かない彼女が見せた、初めての揺らぎ。
黒髪の少女の唇が、かすかに震えた。