15話 入学式
アルト・アストレアの朝は、けたたましい目覚まし時計の音と共に始まる。
室内に備え付けられている『魔力時計』は、地脈の魔力の流れを読み取り、一秒のズレも許さない優れもの。
慌ただしい日々を送るルドリンクの学生にとって必須アイテムである。
目覚ましを止めると、そのまま服を着替え、朝食に取り掛かる。
純白の皿に、極上の小麦粉から作られた最上級のパンを乗せる。
こんがりとした茶色い焦げ目。ほのかに香る香ばしい匂い。
なんと、これが毎日無料。贅沢の極みである。
ルドリンク魔剣学院は一体どれだけの金を儲けているのか気になるところだ。
パンのお供にはバターを。
これまた極上の乳牛から作ったもので、昨日食堂からくすねて来た。
ナイフで切り込みを入れたところに、たっぷりと塗り込む。
そして、それに齧り付く。
瞬間、口内を駆け抜けるふんわりとした食感。
滑らかなバターの風味が追随すれば、舌の上で幸福のパレードが始まる。
「幸せだ……」
そうして朝食を終えれば、鍛錬の時間を持つようにしている。
……と言いたいところなのだが、
今日ばかりはそうともいかない。
入学式当日、エルフィとあらかじめ約束していたことがあった。
「——よければ、一緒に入学式に行ってくれない? せっかくだし、二人で参加してみたいの」
と言っていたのを覚えている。
確か、集合場所はセンターホール前だったか……
遅れるわけにもいかないし、今から行くか。
勇者ハインリヒ像の前に陣取る。
エルフィはまだ来ていないようだ。
しかし、一つ問題がある。
……エルフィが来たら、俺は一体何を話の種にすれば良いんだろうか。
今日は天気がいいですねーとか、太陽燦々ですねーとか、普通の人は話すのだろうか。
なにぶん、孤独に生きてきた俺だ。
会話の勝手がわからない。誰か教えてくれないか。
そうして頭を悩ませていると、彼女は姿を見せた。
「お久しぶりね、アルト」
エルフィは、当然だが制服に身を包んでいた。
魔術師であることを示す、ローブを模した黒の制服は、ますます彼女の神秘的な容姿を引き立てていて、非常に似合っている。
というか、こうしてみるとエルフィの容姿はかなり優れている。
もし彼女が黒髪でなかったら、百人が百人二度見をして振り返ることだろう。
「久しぶりだな。じゃあ、行くか」
「……ねえ、もう少し込み入った挨拶とか、してもいいものだと思うのだけれど」
ご不満なのか、エルフィは眉を寄せていた。
「なら、話すことがあるのか?」
「……ないわね」
ほらみたことか。
「人と再会する時って、結構気まずいものなのね」
「同感だ」
俺たちはこうして、また一つ学びを得た。
魔法学院の入学式は、大抵ド派手にやるという。
花吹雪が宙を舞い、小人の楽隊の演奏と共に、小精霊がファンファーレを贈る。
こんなに派手にするのには何か意図があるのだろうか。あるいは、ただの学長の趣味か……
少し奇抜すぎないかと言おうとしたが、エルフィは結構興味津々そうに見ていたのでやめた。
しかし、なんだか背中がむず痒い。
さっきから、ずっと視線を向けられている。
正確には俺ではなく、隣の彼女に。
「あれって、黒髪——」「なんでここに……?」「どうして入学が認められてるんだ」
こんな時にもなって噂話か。
つくづく呆れる嫌われ具合である。
「ごめんなさい、アルト」
そんな俺の様子に気づいてか、エルフィが項垂れた。
「気にするな。俺が通路側に行こう」
焼石に水かもしれないが、せめて視線の届きづらい位置にいた方が気が楽だろう。
その瞬間、いっそう強い視線を感じた。
他の有象無象のものとは一線を画す、もはや殺気にも近い視線。
「アルト?」
「……いや、なんでもない」
今のは、一体なんだったのだろうか。
後ろを振り返っても、その主が正体を現すことはなかった。
やがて時計の短針が予定の時刻を指すと、鐘が鳴り響いた。
「——皆様、ご機嫌よう。まずは入学、おめでとうございます」
壇上に立っていたのは、男の学生だった。
高身長の引き締まった体、油断のない目線、ブレのない立ち姿。
「私はニコラス・フィールド。あなた方を、歓迎します」
一目で分かった。彼は強い。
観衆たちも、ざわめいている様子。
「あの剣士、何者だ」
「知らないの? 現代の英雄、ニコラス・フィールドの名前くらいは聞いたことあるでしょう?」
「ええ、と……」
「ないならないと言いなさい……」
じとっとした目を向けられた。無知ですみませんでしたね。
「魔物の総討伐数は万を超え、伝説級の災害を二度食い止めた。そして、百年に一度の異能『魔眼』。彼についての噂は色々あるけど、どれも彼の輝かしい功績を讃えるものね」
世のため人のため力を尽くす、まさしく英雄の器として生まれた男ということか。俺とは無縁の存在だな。
しかし、間違いなく実力は本物。今まで出会ってきた剣士の中でも、トップレベルのオーラを感じる。
ふと、彼と目があった気がした。
……気のせいか?
ニコラスは軽く挨拶をすると、壇上から降りた。
どうやら彼は、新入生のためのサービスとして起用されたらしい。
そこからもセレモニーは続いたが、学生たちは彼の話で持ちきりだった。
「やっと終わった……」
エルフィは退屈そうに伸びをした。
学長の話が二十分を超えたあたりから明らかに眠そうにしていた。気持ちはわかる。
この後は、クラス分けの発表がある。
もう一波乱、乗り越える準備をしておかないといけないな。
それはそれとして、今は別件の対応をしなくてはならないが……
「エルフィ」
「分かってるわ」
明らかに、敵意のある視線を向けられている。
入学式が始まる前に向けられた、あれと同じものだ。今はますます、その敵意が増している。
「こんなものを向けられるなんて、何か恨みを買うようなことでもしたのか?」
「心当たりしかないわね。でも、大体検討はついてる」
そう言うと、心底嫌そうな顔を浮かべた。お気持ちは察するところだ。
「どうする?」
「放っておいても仕方がないわ。人のいないところに行きましょう」
そして、俺たちは席を立った。