1話 手紙
君たちは、絶望を知っているか。
風に舞うローブ、色を失った瞳、真っ白な肌に——黒い頭髪。
一目見て、勝てないと悟った。
俺は、目前の少女に勝つ術を持っていない。
半径約十〇Mの闘技場。対峙するは一人の魔術師と、一人の矮小な剣士。
場外に突き落とされたら一点、ダウンで三点。
合計五点を先取した方が勝利する。
観客は歓声を上げ、勝負の行方を賭け事にしていた。
勝者はただ一人。あらゆる貴族の名家が集い、家の誇りを賭けて争う新世代のための武闘大会。
そこで俺は、越えられない壁を知った。
空中に描かれるのは、六色の魔法陣。
炎が哮り、水が繁吹き、岩が隆起し、風が吹き荒れる。
氷が凍てつき、雷が轟き、その間から彼女は無慈悲にも俺を見下ろしていた。
勝てない。勝てるわけがない。
こんな剣一つで、どうやってこれに勝てというのだ。
馬鹿馬鹿しいと思った。
俺は決して、こんな思いをするために剣を振ってきたのではない。
膝をついて抵抗を諦める。
気を失う直前、最後に見たのは、天変地異が迫ってくる光景だった。
後に、その少女はこんな異名を持つこととなる。
——『黒の魔術師』
彼女が、最恐の魔術師であることの証だ。
意識を取り戻した時、怪我で動けない俺を待っていたのは、父の平手打ちだった。
——出来損ないが。
そう吐き捨てて、父は俺に背を向けた。
アストレア家。
剣の名家にして、貴族階位第三位の伯爵家。
俺に運が悪いことがあったとするなら、それはこんな剣の名家に生まれてしまったということ。
そして、当の俺に剣の才能がなかったということだ。
ロングソードも、クレイモアも、レイピアも、何を持たせてもダメ。しかも、ただ出鱈目に不出来なのではない。
人ならば当たり前のように踏み入れられる、最初の一歩が、どうしても踏み出せなかった。
つまり、物覚えが「悪い」のではなく、それどころか物覚えが「出来なかった」
武闘大会、初戦敗退。
この功績を以て俺は家の名に泥を塗り、父に見限られた。
故に、もう一度問おう。
——君たちは、絶望を知っているか。
俺は知っている。
六年前、父の掌の痛さを知った時から、一度として忘れたことはない。
=====
どうせ住むなら、人の居ない場所がいいと思った。
家族でもない、同期でもない、他の誰でもない。
面倒な人間と関わらないで生きられる場所がいいと思った。
そうしてたどり着いたのがここ、人類未到の土地。樹海の最奥。
「——いい朝だ」
アルト・アストレアの朝は、小鳥のさえずりと共に始まる。
豊かに茂った芝の上で目を覚ますと同時に、朝食を作り始める。
昨日仕込んでおいた魚の干物を焚き火で焼き、その片手間で果物にナイフを入れる。
ラペビーの葉を細かく切り刻み、次にジャコットの実を六切りに。最後にカルフォンをすりつぶしたものを付け合わせる。
すると焼き魚の香ばしい匂いが漂ってくるので、間も無く串を刺して口元まで持ってくる。
そして、齧り付いた。
瞬間、じんとした熱と共に黄金の露にも等しい油が体内へと流れ込んでくる。
弾力のある身が口の中で弾み、至福の感覚が身体を満たした。
やがて、やや肉の味がしつこくなってきたところで、フルーツに手を伸ばす。
新鮮な自然の恵が瑞々しく弾けて、潤いが血流を駆け抜けた。
ラペビーの葉は、小気味良い食感が特徴である反面青臭さがあり、ジャコットの実の甘さがそれを補うことで完璧な調和を体現している。
これぞ、まさしく静と動、剛と柔なり。
「幸せだ……」
そんな小さな幸福を噛み締めた後には、必ず鍛錬の時間を持つようにしている。
武人たるもの、己を律し修行に身を費やすことを忘れてはならない。
剣の素振りに始まり、岩斬り五十回。それを終えたら、周辺を走り込み筋肉を慣らす。
無論、その間に片づけをすることも忘れない。
『——キシャアアアアア!?』
自分の体躯の五倍はあるジャイアント・ワームが悲鳴を上げて倒れる。
出会い頭に胴体を叩き切られるというのも気の毒ではあるが、こうでもしなければこちらの寝床が破壊されてしまうので、そこは容赦していただきたい。
以上、日課終わり。
それから日が落ちるまではあっという間で、川釣りに興じていれば間も無く星が空を埋め尽くした。
=====
大物が一匹に、小魚が三匹。
戦果としてはなかなかだろう。
バケツを片手に帰路につく。
最近は焼いてばっかりだったから、たまには煮て食ってみるのもありだろうか。
森での生活は食べるものが一辺倒になってしまうのが難点だ。
そんなことを考えるのも束の間、拠点の方から声が聞こえてきた。
『——アルト! アルト! 助けてくれ——!』
……呆れた。
あの爺さん、またいじめられてるらしい。
急いで駆けつけると案の定、老いた木が熊の魔獣に囲まれていじめられていた。
そう——木だ。
さらに言えば、大木だ。
茶色の幹の真ん中には、おちゃめな顔がこちらを見ている。
幹を魔獣に爪研ぎ代わりにガリガリと削られている。
爺さんは涙目だ。
『アルトおお! 助けてくれえええ!』
目を離すとすぐにこれだ。
この老いぼれの樹人はもう少し自衛手段を持つべきだろう。
俺は木剣を引き抜いた。
いくらか転がしてやると、魔獣たちはそそくさと逃げていった。
『アルトおおおお! 感謝するぞおおおお!』
「分かった! 分かったからその腕を伸ばしてくるな!」
全くもって鬱陶しい。
樹人。
一般的にはそう呼ばれている、森の精霊だ。
この樹人と出会ったのは今から一年前、ちょうど俺がこの樹海に来たばかりの頃だ。
今でも覚えている。こいつが魔物にたかられていたところを俺が助けたのだ。
「ひー」とも「ぴー」ともいえない声で泣き喚いていたから、仕方なく魔物を追い払ってやったら懐かれた。
『——お願いじゃ! ワシを一人にしないでくれ!』
と、必死になって懇願されたのも記憶に新しい。
トレントはその容姿から魔物と勘違いされがちだが、実際には違う。
温厚な性格の、れっきとした下級精霊だ。
だから、そばにいたところで特に実害はない。
「ちょっと待ってろ、今香水を作ってやるから」
樹人の生命力を補うためには、花を煎じた香水を与える必要がある。
クレーメの花弁を湯に浸して、ゆっくりとかき混ぜる。
その後完成した香水を樽に移して、トレントの根にかけてやる。
『はあああああ、生き返るううううう……』
最後までかけると、トレントは満足そうな顔で余韻に浸っていた。
同時に、みるみると傷跡が癒えていく。
精霊力によって治療されている証拠だ。これでしばらくは大丈夫だろう。
一段落したところで、トレントは枝先を揺らしてこちらを見た。
これはあれだ。
”おしゃべり”モードだ。
『——それで、この前の話の続きをしてくれんか?』
樽を片付ける手を止める。
「……別に、あの話はあれで終わりだよ」
目を逸らして座り込んだ。
「俺は出来損ないだった。だから、家から逃げ出した。それから六年、あの家とは連絡もとってない」
『その六年間は、何をしとったのか?』
「……語るほどのことじゃない。師匠と各地を放浪していた。それだけだ」
ここにくるまで、途方もないくらい長かったようにも、瞬きをするより短かったようにも感じる。
家族は、俺が家出をしたと知ってどう思ったのだろうか。
……いや、今更気にすることでもないか。
「というか爺さん、俺に気安く話しかけないでくれるか。俺は一人で孤独を楽しむためにここにいるんだ」
決して、老ぼれの樹人の長話に付き合うためではない。
すると、爺さんはフッと鼻で笑った。
『そう言うくせに、ワシが困った時は助けてくれるのよなあ』
「この剣でお前の体を半分にしてやろうか?」
凄んで言うと、爺さんは「おお怖い怖い」とわざとらしく言った。
「いいか、俺がお前の面倒を見てやってるのは、お前に知らないところで勝手に死なれると寝覚めが悪いからだ。勘違いするなよ」
こう言っても、奴は理解しようとしないだろうが。
ともかく、俺は話しかけられたくないので、その日はさっさと飯を食ってさっさと床に就くことにした。
これで眠りにつけば、明日がやってくる。
明日がやってくれば、また飯を食って鍛錬に励み、それが終われば明日の明日がやってくる。
俺の日常は、孤独——一体の樹人を除いて——と鍛錬の最中に過ぎて行く。
以上が至高の生活。俺が導き出した人生の最適解だ。
と、ここまではいい。
ことの発端は唐突に、まさに青天の霹靂の如く舞い込んできた。
——あくる朝。
俺は目を覚まして、瞠目した。
『アルト……その……』
枝先がクネクネとしている。
まるで、何か言い出しずらそうな、気まずそうな感じで。
「爺さん、昨日、俺に話しかけるなって言ったよな……」
頭を抑えながら、樹木を横目で見やった。
『頭の方に、変なのが居るんじゃが……』
「……変なの?」
見上げると、トレントの頭部には、確かに変なのがいた。
羽の一部が青く塗られている。人間によって飼い慣らされている鳥だ。
まじかで見ると、その脚に何かの文書が括り付けられていた。
「……伝書鳩、ってやつだな」
この一年間、一度として送られることのなかった文通。
遠路はるばる、俺の魔力を追跡してきたらしい。
——『アストレアより』
文章の見出しには、そう書かれていた。
横には、アストレア家の家紋が刷られている。
『誰からの手紙じゃ?』
「家族……みたいだ」
嘘みたいな話である。
家を飛び出して六年間何も音沙汰無しだったというのに、何を今更報せる必要があるというのか。
一体何の連絡だ?
近況報告……なんてことは絶対にあり得ないし。
今更養育費を返せと言われても、出せるものは何もないぞ……
しかし、なかなか中身を読む気にならない。
わざわざ伝書鳩なんか使うくらいのことだ。絶対にロクなことが書かれていない。
『わかるぞ。こういうのって、気まずくなるやつじゃろう?』
「爺さん、人から手紙もらったことがあるのか?」
『ないぞ』
ないなら共感するなよ。
俺は鬱々とした気持ちが湧き上がってくるのを抑えながら、薄目で手紙を読んだ。
手紙にはこう書いてあった。
『——真愛なるアルト兄さん、いかがお過ごしでしょうか。六年前に貴方が失踪してから、特に騒ぎが起きるでもなく、我がアストレア家は普通の暮らしをしています。
どうせ、最弱の貴方が何をしていようがこちらに損害はありませんが、一年前ほどから父上が貴方の存在を目障りとおっしゃられ始めました。
辺境の地だかどこかをほっつき歩いて不埒な様を晒している人間が、誇り高きアストレア家の名簿に残るのはどうしても許せないとのことです——』
「……つきましては、ルドリンク魔剣士学院へと入学し、一年以内に成果を出さなければ一族から破門とすることが決まりましたので、ここに報告させていただきます。ルクト・アストレアより……」
手紙を読み終わるのと同時に、伝書鳩が飛び立っていった。
この時、俺はこう思った。
——なんだ、そんなことか、と。
「じゃあ、破門でいいじゃん」
というか、今までそうされていなかったことの方が驚きだ。
家はとっくに俺と縁を切っていたものだと思っていた。
くだらな、と一言。
俺は手紙をポイと投げ捨てた。
『なんじゃなんじゃ、ワシにも見せてくれ!』
トレントが短い腕を伸ばして手紙を読み始めた。
人の手紙を勝手に読むとは、こいつにはデリカシーというものがないのか。
まあ、別に構わないが。
しばらくすると、爺さんは表情を変えた。
どうやら内容を読み終えたらしい。
『……アルト、この魔剣学院とはなんじゃ?』
「ルドリンク魔剣学院。国の中でもトップの魔術と剣術を学べる学院だ」
大抵、名門の貴族はこの学院の入学を目指す。
そう説明すると、爺さんは「はえー」と興味深そうに唸った。
『アルトはこの学院には行かないのか?』
「魔剣学院に行くなんてごめんだ。あそこは貴族の名家だとか魔術の名門とかがわんさか集まってる。権力、策謀、格差社会。面倒ごとのオンパレードだ」
何より、俺の孤独な人生を害そうというのが許せない。
だから、俺は家族とよりを戻そうなんてことはしない。
『しかし、それでは家族との縁が切れてしまうのではないか?』
「良いんだよ、それで。どうせ向こうもそのつもりだ」
『まあ、確かに最後に決めるのはお前の自由じゃな』
まさしく、そうだとも。
『しかし若人よ、よく考えることじゃ。後悔の無い選択をな』
「ああ、そうかよ」
余計なお世話だ。
どうせ家族と縁は切る。それがちょっと遅くなっただけだ。
『——それと、人からもらった手紙は大切に保管しておきなさい』
「……」
俺は差し出された手紙を無言で受け取った。
こいつは、たまにまともなことを言うからタチが悪い。