崩壊の序曲 5/揺らぐ境界
火災報知の赤光が、断続的に薄暗い廊下を染めていた。
フロアG──研究本局の心臓部へと続く通路。
無機質な灰色の壁面。壁を這う非常灯の赤が、血のような光を走らせる。
その中を、神室倫道たちとデルグレーネ一行は、周囲に最大限の警戒を払いながら進んでいた。
先頭を行く柳田颯太が、右手を上げて停止を合図する。
十条五十鈴は、朱色の鞘に収められた剣の柄――専用魔道具霊剣純華に手をかけたまま、静止した
先ほどまで監禁されていた観察室へ続く警備詰所で、彼らの装備を発見していた。
翡翠島から帰還する際に携行していた最低限の装備。
腰に吊るした短銃と短剣、そしてサバイバルキット。
そして幸運にも、彼ら専用の魔道具までもがそのまま保管されていたのだ。
「足音……向こうから来る」
柳田の声に、堂上久重と安倍清十郎が即座に構える。
「音の反響からして……十人。いや、もう少し多いか。軍靴の音に革靴も混じってるな」
目を閉じ、集中して耳を澄ませる久重。
探索魔法を展開しかけていたカタリーナが、驚嘆の息を漏らした。
「凄いわね」
「耳と鼻だけは利くんすよ!」
久重は小声で答え、右手の親指を立てて得意げに笑う。
そんな彼を見て、清十郎がぼそりとつぶやいた。
「まるで犬だな……」
倫道は苦笑しながらも、すぐに表情を引き締め、暗闇の奥に意識を集中させた。
デルグレーネとカタリーナは、沢渡を守るように後方で構えを取る。
「――右側から来る。気をつけて」
デルグレーネが低く告げる。
緊張が極限に達した刹那、鋭い音とともに扉が開いた。
そこから姿を現したのは、白衣を翻しながら歩く痩身の男だった。
「黒崎主任!」
沢渡涼子の声が反射的に飛ぶ。
顔見知りの上司との思いがけぬ再会――その声には、驚きと複雑な感情が混じっている。
――あれが、黒崎悠介。
多くの人間を“材料”に変え、禁忌の実験を繰り返す元凶。
そして、龍士の想い人――“墨田葵/蘭花”の行方を知るかもしれない男。
倫道、五十鈴、デルグレーネ、カタリーナ。
全員の脳裏に、彼の姿が刻まれた。
沢渡の声が響いた瞬間、漆黒の制服に身を包んだ警備兵たちが黒崎を守るように前へ出る。
銃口が一斉にこちらを向いた。
カタリーナが即座に防御魔法を展開する。
だが、銃弾は飛んでこない。
警備兵を率いる山崎剛が、右手を上げて射撃を制止していた。
「山崎さん!」
柳田の叫びが通路に鋭く響く。
「お前たち……なぜここに……」
山崎の表情には明確な憤怒――だが、同時に一抹の哀しみも滲んでいた。
「くっくっく……やれやれ、何度言っても直りませんね、沢渡くん。私は主任ではなく“局長”ですよ」
黒縁の眼鏡を光らせ、白衣を翻して現れた黒崎悠介が、兵をかき分けながら前へ出た。
「す、すみません。癖で……」
沢渡は思わず頭を下げる。
だがその目は恐怖に揺れ、倫道とデルグレーネの影に身を隠した。
「くっくっく、久しく会っていなかったが、相変わらずだね。しかし――なぜ君がここに? そして……」
黒崎は沢渡の前に立ち、戦闘態勢を取る倫道たちへと視線を細めた。
「おや……カオスナイトメア事件の神室倫道、それに安倍、堂上もいるな。くっくっ、君たちの名はよく聞いているよ」
眼鏡の奥から放たれる異様な視線に、倫道たちの背筋が粟立つ。
その横から、沢渡涼子がオドオドと一歩前へ出た。
「黒崎しゅ……いえ、局長。あなたたちが進めている実験――翡翠島やこの本局で行われていることを、私はすべて聞きました!」
「くっくっく、そうか。それで? 道具ばかり研究していた君が、私の研究に興味を持ったのかな? ちょうど優秀な助手を探していてね。興味があるなら参加してみるかね?」
「――馬鹿なことを言わないで!」
沢渡の叫びに、黒崎のみならず倫道たちも一瞬息を呑む。
「あなたは……自分のしていることの意味を、本当に分かっているのですか⁉︎」
「…………」
「私たちは、科学を信じ、人間の可能性を信じて研究を続けています! たとえそれが、他国を攻めるための兵器になったとしても――」
涙が頬を伝い、沢渡は丸眼鏡を外して袖で拭った。
「大日本帝国のため……やがて世界のためになると信じて! それを、人の命を使って実験するなんて――!」
「くっくっく、それも科学の発展のためだよ。大いなる一歩を踏み出すには、多少の犠牲はつきものだ」
「あなた……本気でこの研究を“正義”だと思っているんですか?」
その声音には、怒りと悲しみ、そして失望が混ざっていた。
「沢渡君。相変わらず情熱家だね……だが私は、君のような“甘さ”を捨てた。進歩には犠牲が必要だ」
「人間を……魂ごと“素材”にすることが進歩? 倫理も、誇りも、あなたは全部捨てたのですね!」
沢渡の瞳が怒りに燃える。五十鈴が静かに一歩前へ出て、彼女の肩に手を置いた。
「黒崎……あなたは研究者の皮を被った化け物よ」
五十鈴の冷えた声に、黒崎は愉快そうに肩を揺らす。
「化け物? はて、人の可能性を拡張しようとする者が、なぜ化け物と呼ばれるのかね?」
「だったら聞かせろ。『蘭花』――いや、『墨田葵』という女性はどこにいる?」
倫道の声が、静かな殺気を帯びて空気を裂いた。
その名を聞いた黒崎の目が、ほんの一瞬だけ細くなる。
「墨田葵……何の話だね?」
「お前たちが翡翠島で秘密を知った墨田葵さんを捕らえ、この魔道研究所本局に移送したと笹岡から聞いた!」
「笹岡……ああ、あの案件か。確かにそんな名の女がいたな。くっくっく、スパイのくせに高い魔力を持っていてな。有効活用してやったよ」
「有効活用だと⁉︎」
倫道の怒声が廊下に響く。
焔影刀の柄を掴む手が白くなるほど握りしめられた。
「くっくっく、スパイは捕まれば死刑だ。ただ殺すより、実験に使う方が有意義だろ?」
「ふざけるなッ! どこにいるんだ⁉︎」
「さあな。もう死んでいるかもしれんし……あるいは――」
黒崎の口元に、意味深な笑みが浮かんだ。
倫道の怒りが爆ぜる。
「貴様ァ……!」
「くっくっく、そう怒らないでくれよ。君のような高魔力体をぜひ解析したかったが……まさか自力で拘束を解くとはね。軍規違反だよ。くっくっく、これで君たちは墨田と同じ犯罪者だ」
「お前に言われたくない!」
倫道が一歩踏み出した瞬間、山崎が前に出て手をかざした。
「……山崎隊長、そこを退いてください!」
倫道が叫ぶ。
だが山崎剛は無言のまま、彼らの前に立ちはだかった。
「……下がれ」
その声は低く、どこか苦しげだった。
「くっくっく、そろそろ行きましょう」
黒崎が乾いた笑みを浮かべ、白衣の裾を指先で弄ぶ。
山崎が頷くと、警備兵たちは銃を構えたままゆっくりと動き出す。
「お前たち、そのまま動くなよ。銃には特製の弾を装填している。対魔法士用だ」
「そう、通常弾の数倍の威力だ。くっくっく」
黒崎の言葉に、柳田の怒気が爆発する。
「ふざけるなよ……山崎さん!」
柳田の怒声が響いた。
「あんた、本気でそんなこと言ってんのか⁉︎」
「……柳田、下がれ」
「いいや、下がらねぇ! 山崎さん、何があったんだ? 教えてくれよ!」
「……すべてが終わったら話そう。今は命令に従え」
「ふざけるな! どうしちまったんだよ、山崎さん……それに、御堂司令は――本当に自決したのか⁉︎」
柳田の叫びには、信頼と怒り、そしてかすかな希望が混ざっていた。
しかし山崎は押し黙り、視線を外す。
「くっくっく、自決ではないな。内密の話だが……ここにいる山崎隊長が手を下したと、報告を受けている」
「――――⁉︎」
黒崎の言葉が空気を切り裂いた。
柳田をはじめ、倫道たちは息を呑み、双眸を見開く。
次の瞬間、誰もが言葉を失い、立ち尽くした。
ただ赤い非常灯だけが、沈黙の中で点滅を繰り返していた。




